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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
尊師の履歴書40
(解説 「モーテル」 2)

6畳ほどの客室に、1人なり仲間ら4人ほどで女の子がやってくるのを待っていると、超ミニスカートにハイヒールで統一させている20歳前後でスタイルの良い女の子がぞろぞろと入ってくる。

お見合いであり「顔見世」 のために、彼女らは部屋の壁を背にして順番に並んでゆく・・・・・・5人、10人、15人、20人と。因みに、この時点で、女の子にとって客を好まなかったなら、その場を立ち去ることが出来たので、拒否権があった。

客であるこっちは椅子なりベッドに腰をかけてそれを眺めている。 俯いている子もいる。 愛想を振り巻いている子もいる。 単にこっちの顔を見ている子もいる。 恥ずかしそうに見ている子もいる。 横眼でちらちらと伺っている子もいる。

目の前にズラーッと若い女の子が自分を取り囲む感じで20人も居並ぶと壮観であるが、1人の場合なら見られている立場。 確かに、綺麗どころの中での選り取り見取りとなるが、目移りもする。 それだけでなく委縮してしまうこともある。 遊びに来たのであり、色々な表情の女がいるが、その心理を探ることになる・・・・・・。

気に入った女の子がいなかったなら、係りの男性に「次」と声を掛ければ、彼女らは引き下がり、直ぐに同じことが展開される。 それでも気に入った女の子を見つけることが出来なかったなら、代わりの女の子らを呼んでもらえる。
これが限度であったが、気に入った女の子が見つからなかったなら、その場を去ることも出来た。 それは1980年代であったが、近くにあるモーテルを訪れ、それを梯子しながら気に入った女を見つけることになる。 とことんまで買い手市場であった。 その意味は、タイの北部の田舎のほうでは、会社も工場もないので、若い女の子にとって、ましてや無学ではこれといった仕事がなかったのだ。

一目惚れで好みの子を選んで、時に勇気を振り絞って1人に指をさして指名する。 指名された女の子は客である男のそばに寄り添って、手を絡めてくる。 モーテルでは、「顔見世」 をした部屋でプレーを行うことはまずなく、手を絡ませてきた女の子に案内されて、他の部屋に廊下を歩いて移ることになる。

男の気持ちとして20メートルほどのデートとなる。
この時にウキウキ、ルンルンしてくる場合もあれば、そのようにならない場合がある。 後者は、相手が娼婦であり「起つか、否か」の不安・心配ほどではないが、そういう物が渦巻いている。 この己の心境で、この後のベッドプレーの内容の大凡の判断が可能となるが・・・・・・私の場合では心がウキウキしてくる前者は稀であった。 その両者の場合のセックスの出来具合の内容を述べる必要もなかろう。

モーテルといっても娼家同然であるので、部屋にある木製の開き窓はいつも閉じられ、厚めのカーテンが引かれている。 昼間でも部屋を暗くしておくためであるが、電燈のスイッチは外についているのが普通である。 日本人にとって不思議であるが、一つの節電であり、従業員が消すことが出来るからである。 因みにタイの安宿である旅社の殆どの電燈のスイッチは部屋の外につけてある。 三合吉旅社・楽宮旅社・ジュライもそうであった。

彼女は電燈のスイッチを入れてからドアを開け部屋に入ると、まずはクーラーのスイッチを入れ、テレビのスイッチを入れてチャンネルを捻ると、しばらくして画面には無修正のポルノ・ビデオが映し出される。

それを観ていると、先ほどのモーテルの従業員がやってきて、料金は先払いであり、(1979年では)所定のショートの80バーツ(900円) ほどを払うことになる。 それを受け取った係りの者は直ぐにその場を去っていく。 その後姿を追っていた私の視線には、それを待ち受けていた女がドアを閉め、内鍵をカチャリと音を立てる。

これでようやく、二人だけの密室と相成る。

モーテルにいた女で、フェラチオをしない女と、それを無条件でしてくれる女がいた。 店としては「内にはフェラチオをする女がいる」 というのを最大の売りものとしていた。 それを思うと、また、これまで述べきた内容を考え合わせると、フェラチオは店側の強要であったろう。
両方の娼婦は、それはフェラチオをしない女の子でも、施してくれる女の子でも、ほとんどキスをさせなかった。 「ペニスを舐めるが、キスをさせない」 というのは日本人にとって不自然な気もするが、娼婦としての「体は売っても、心は売らない」 心意気からか? それとも、タイ人の娼婦の慣習からなのか?

モーテルで娼婦にフェラチオのサービスをしてもらうためには、受付の係りの者に「ソン・ヤン(2種類)」 ということを伝える必要があった。 理由は、ショートの場合は1時間以内であったが「上の口で一発、下の口で一発抜ける女」と「フェラチオをしない女」 の両方がいた」 からである。
さて、両者の各値段であるが、同じであった。 店からすると、フェラチオをしない女の子は「美人で初心だから」 となるらしかったが、我々日本人にとって代わり映えしなかった。

付け加えるなら、1992年頃にタイではエイズ問題が起こって、女を置いているモーテル(ナメナメ・ハウス) では、コンドーム着用が義務付けられ、殆どどころか、全てと言えるほどの女がフェラチオをしなくなってしまったのであった。

それも当然の成り行きであったろう。

私は、その以前にコンドームを着用し、フェラチオを受けないようにしていたが。 その事によって、冷気茶室やナメナメ・ハウスは撃滅し、また、そこに通う日本人旅行者も撃滅・・・・・・でも、日本人旅行者には「女を置いているモーテル」 の通称である「ナメナメ・ハウス」 の名だけは残って、日本人にそのように呼ばれつづけたのであった。

ナメナメ・ハウスは有名であったが、そのようになったのは、プラザ合意が1985年9月に決まった後に円高になって、1986年にバックパックが大衆化されて、多くの日本人旅行者がタイに訪れるようになった以後のことであったのではなかろうか・・・・・・その意味は1986年以前では、日本人のバックパッカー(個人で自由に長期の旅をする者) の人数は少なかったのだ。

その例として、1986年までは、ジュライ・ホテルと楽宮旅社に泊まっている合計の日本人旅行者は30~40人ほどか。 それが1987年12月では120人ほどになって、約3倍に膨れ上がったのだ。
尊師の履歴書39
(解説 「モーテル」 1)

モーテルは英語であるが、広辞苑で引くと「自動車旅行者の宿泊所」。 日本では「自動車で乗り入れられるラブホテル」と記されている。

バンコクにあるモーテルは一般の人にとってどのように位置づけられているのであろうか。  私にはわからないが、たぶん、両方で使われているが、主にラブホテルとして用いられているのであろう。

日本人から「きんこう」 と呼ばれていた、女を数十人ほど置いているモーテルがあった場所はウィス・キャサット通り(実際はウォラチャック通りだが、以後もウィス・キャサット通りと記す)。  王宮から東北に2キロほど、楽宮旅社・ジュライがあるチャイナ・タウンから西北に1.5キロほど離れていて、市内バスで、乗り換えなしで行けたが15分ほどか。

ウィス・キャサット通りはタイ中央銀行やT.A.T(ツーリスト・インフォメーション)がありバンコクの官庁街の一角を占めていて、長さは2キロ未満。 その短い区間や周辺に18軒ほどのモーテルがあり、16軒ほどが娼婦を置いていた。

そのように女を置いているモーテルが数多くあるのは「特別な地域」 だけであり、その一つがウィス・キャサット通り周辺であり、他ではアジア・ホテルの北側の裏通りに4軒、バンコクのトルコ街として有名なニュー・ペップリー通り沿いの路地に2軒が並んでいたが・・・・・・それ以外の場所に、その手のモーテルが有ったのか、否かは、私にはわからなかったが、たぶん無かったであろう・・・・・・ただ、女を置いていないモーテル(ナンバーホテル) はバンコクに「ラブホテル」 として数多く存在した。

その意味は「モーテル=娼家」ではない。
前述したモーテル(ナメナメ・ハウス) は普通のモーテルに女を置いていたことになる。 モーテルの看板に「49」 とナンバーだけのところもあれば、名前が付けられていて、その上にタイ語で「??????」と記述して「roong-raeem-(ロングレム)」 と発音する「宿屋」の意味が付けられている処もあって・・・・・一般の「宿泊所」であり、泊まるだけでも良かった。 
モーテルなので駐車場が備わっていて車で乗り付けてもよく、また、車で行かなくても泊まれた。 宿泊費はタイの一般の宿(旅社)の設備相応の代金であったが・・・・・・私の常宿の三合吉旅社やジュライ・ホテルの部屋の広さ(5畳ほどの部屋と付随している2畳シャワー室) と木製のダブル・ベッドは変わらなかったが、クーラーとテレビが付いていたので5割増しくらいであった。 宿泊は休憩と泊まりがあったが、宿泊費だけであって女代は含まれていない。

前述のように取れもするが、2キロ未満の区間に十数軒もの何十人も女を置いているモーテルが必要とは思えないので、娼家を作るために「モーテルとして偽装している」 と考えるのが妥当であろう。 その通りで、バンコクで「ウィス・キャサット通り」 の意味の中には「高級女郎屋街」 が含まれていた。 
さて、その顧客層であるが、遊び代は安娼家の2倍もしていたので、一般のタイ系の労働者が訪れることはまず無く・・・・・・周辺は官庁街で西端には「タイ中央銀行」があるのだが、勤めている従業員の多くは中国系なのだが・・・・・・。

タイに「売春禁止法」に類する法律がある。
でも、感じとしては無きに等しい。  ただ、当局の取り締まりがあって、時に娼家(女を置いているモーテルを含む) の娼婦が逮捕されることもあれば、オーナーが賄賂を支払らわさせる場合もある。 それは日本と同じだが、タイはもっと、もっとはるかに緩い。 時の政権によって厳しくなることも、緩くなる時もあったので異なるが、無きに等しいときもある。  私が1977年に訪れた時は軍事政権であったので厳しかったが、1979年のときは民政であったので無きに等しかった。

タイに風俗営業に関しての法律が有るか、否かは、私には分からない。 ただ、バンコクで外国人観光客目当ての歓楽街となっているパッポン通りや現地人相手の冷気茶室では・・・・・・(風俗営業に類する営業許可を得ている為と思われるが)・・・・・・「仏教の陰暦での特別の日」などでは法律で・・・・・・(「日本の仏教で、法事のさいには精進料理を食べる」という感じで)・・・・・・店が閉じられる。

対して、娼婦を置いているモーテルは24時間営業をしていて、年を通して閉館をすることは無い。 ただ、警察の手入れがあったときに、モーテルとしては営業をつづけているが、売春業は何日かの営業停止を食らうこともある。 それらを思い合せれば「女を置いているモーテル」 は風俗営業に類するのではなく、ホテル業の許可を得ているだけで、潜りとして娼家をやっているのであろう。営業時間はモーテルによって異なったが、24時間制を取っているところと、夜中の1~2時を過ぎると、モーテルの門を閉めてしまうところもあったが、後者が大半であった。

タイの地方の各都市や町にある一般の人が利用している安娼家の部屋はおおむね「2畳」 にも満たない狭苦しくて小汚く、クーラーが入っていなくて、卓上扇風機が置いてあるだけ・・・・・・事後処理するためには、部屋にトイレ付のシャワー室がないので、わざわざ、部屋の外にでて、共同用を用いるのが普通である。 1979年当時の値段はタイの各地でも、各娼家でも異なったが、バンコクの冷気茶室が40バーツくらいであったが、それに近かったであろう。

タイ人の娼家の娼婦は「口はご飯をたべるもの」 と言って、殆どの女が「フェラチオ」を拒む。 それどころか娼家にいる娼婦はまず、キスをさせない。
それらを娼婦に求めるならバンコクでも地方都市でも「トルコ風呂」 に行かなければならなかった。  タイのトルコ風呂は日本の「トルコ風呂」 の名前を用い、方式も取り入れていたのだが、日本が「ソープランド」 に名前を切り替えても、タイでは律儀にそのまま用いている。
さて、値段が気になるところだが、娼家より設備費が掛かり、サービスが濃厚なので、値段は「冷気茶室」の2倍どころか、安いところでも3倍以上で、超高級となると何十倍にもなるが、その様にクラスによって大きく異なる。

コスプレというのがある。
コスチューム・プレーの略であるが、ある店では全員が女子大生を装っていて青・赤などの原色のエナメル革製(実際はビニロン樹脂製) でパンツが見えるほどの超ミニスカートにハイヒールという艶姿に統一させていた。
タイ人はスタイルが抜群であり、ヒップが恰好よくてミニスカートから出ている足が実に長くて美しい。 その粒揃いが部屋の片隅で壁を背にして20人ほどズラーと肩を並べて並んでいるので、初めての場合なら目を見張るほどの美しさに、うれしさより、驚きであった。
中には、高級キャバレーを装っていたのであろうが(安物の化繊の生地であったが) ドレスにハイヒール姿で統一させている店も、聞いた話であるが、テニス・ルックの店もあったそうだ。 でも、私が1982年に訪れたときには「ウィス・キャサット界隈で聞いていた場所にも、周辺にもテニス・ルックの女を置いているモーテルは存在していなかたので、その有無は定かでない。

失礼だが、旅行者の「話」 は当てにならない。
尊師の履歴書38
(解説 「冷気茶室」 2)

1人で来た場合であるが・・・・・・係りの者に馴染みの女の子を指名してもよく、また、部屋にやって来た数人の中で1人だけを選ぶことになる。 その場合はお茶を注文しなくてよいので、それを断れば、その代金を払う必要がない。
女の子は部屋に入ると、部屋の出入り口の引き戸を締めるのだが、持っていた長い釘を取り出して引き戸に鍵を掛ける。 お茶を頼んでいれば、彼女はベッドに上がってお茶を飲む用意をする。 頼んでいなければ、お互いに服を脱いで云々・・・・・・という運びになる。

複数でやって来た場合であるが(因みに現地人でなく、我々日本人の場合であるが)・・・・・・部屋にやってきた数人から10人くらいの女の子たちの中から直ぐに選ぶことになる。 その場で女の子を指名した場合なら、そのカップルは揃って他の部屋に入ることになり、残った者は部屋に居残る。

全員が直ぐに選べることは稀で・・・・・・選べなかった場合は、概ね、客の人数より少し多い目の女の子が部屋の中に入り、客が座り込んでいるベッドの上にあがりこんでくる。 その中でお茶を飲む用意をする者・・・・・・横の男の気をそそるためにマッサージなどをして何らかの仕草を取る者もいる・・・・・・お茶を飲む用意ができると、客である男はそれを啜ることになる。

客が女の子を気に入ったなら他の部屋に移動する。 気に入った女の子が表れなかったなら、選ぶ必要もない。 ただ、全員がそうであると店に対して気まずいので、また、次に来づらいので「礼儀・作法」 として少なくとも1人だけは女の子を誘うことになる。 因みに、それらは我々日本人のやり方であり、現地人のやり方は定かでない。

さて、密室でもある2畳にも満たない部屋にダブル・ベッドが設けられ、枕が2個置かれている所に上がった男女は、この後どのように展開してゆくのであろうか。

ウェートレスである彼女らは、おおむね、部屋に入るなり服をどんどん脱いでゆき素っ裸になってベッドの横になる。 
男はそれを見ているだけでも良い。 女の子に下半身を起たせてもらってもよいが、それを女陰に挿入してもよいが、中で射精をしても良い。

事を終えたなら、先に述べた水の入っているビンと痰壺を用い、女の子の手によって、あるいは男が自分で汚れた下半身を洗うことになる。 女の子にチップをあげる必要はなかったが、女の子に10バーツほどチップをあげれば喜ばれることになる。 また、後々のことを考えれば、その方が得策であろう。

客としての義務はただ一つ。 帰り際にお茶代と女の子の接待のサービス料を払うことになる。 1979年の料金は忘れてしまっているが、楽宮旅社のショートが50バーツとするなら、それより安くて40バーツ(440円)程度であっただろうか。 でも定かでない。

1人で来た場合では、事が終えると帰ることになる。 複数できた場合なら全員が終わるまで一つの冷房が効いた部屋で待っていても良かった。 実は日本人旅行者にとっては、これが味噌でもあった。

タイは常夏の国であるがバンコクの日中は灼熱。
「昼食が済んだあと馴染みの冷気茶室に4人ほどでやって来て夕方前で涼しくなり始めた6時前に帰る」 ということが出来たのである。 
楽宮旅社やジュライ・ホテルでクーラーが備わっていない部屋に泊まっている旅行者が・・・・・・お茶代の20バーツ(210円) は割り勘にしていたのだが、その代金で「クーラーが効いた部屋のダブル・ベッドに仲間らと共に座るなり、横になって3~4時間ほどだべっている」ということが許されたのだ。 
たぶん、日本人はしょっちゅう来るから、上客ということで許されたのであろう。

それだけではない。 催してきたなら数十人ほどいる18歳前後の女の子を選り取り見取りで遊ぶことも出来たし、タイ・マッサージを受けられもしたのだが、たったの440円+お茶代50円+チップ50~100円ほどで。


日本人が通ったという事での最盛期は、プラザ合意があった1985年9月の1年後からタイでエイズ問題が起こった1992年くらいまでか。 
その間に「日本人の溜り場」 は日本人から呼ばれた「エレベーター(四遠冷気茶室)」「マッケ(漢字名は忘れた)」「年増園(新三羊新興茶室)」という風に「開発」されて「移り変わり」をみせた。

日本人から「エレベーター」 と呼ばれていた冷気茶室には連日で楽宮旅社・ジュライから15~25人くらいがやって来て遊んでいた・・・・・・それも1987~88年頃までの絶頂期では途切れる日もなく。

全員が個人旅行者であったが、バンコクに滞在していれば連日の如くエレベーターに足を運んでいた。
1週間ほどで姿を消す者も居たが人数は少なく、月単位、それも2カ月、3カ月ほど通い詰めていた者が大半であった。 でも、90日以上となると、タイの観光ビザを1度延長したビザが切れるので、一旦マレーシアにビザの更新のために出る必要があったので、ゼロではなかったが、ごく僅かであったろう。 私はその中の1人であったが、他の人を思い出すことが出来ないからである。

半年以上もジュライ・ホテルに泊まりつづけている者も何人かいたのだが、それは1990年代初期で、1991年以後であったような気がする。
日本でバブルが弾けて、40歳を過ぎたおっさん連中が、余生ほどではないが、新天地を求めてきたのだが、超が付くほどに有名であったジュライ・ホテルなので、そこに、あるいは、その周辺に住みついたのだ。

月単位で楽宮旅社・ジュライに泊まっていて、冷気茶室に通っていた者のほとんどはリピーター組。 「夏に日本で仕事をし、冬になると暖かいタイにやって来て2~3カ月過ごす」という渡り鳥であったが、メンバーの総合計は1977年前後から始まっていたので100人くらいか、もっと存在していたのであろうか。

渡り鳥であり季節によってバンコクに滞在している人数は異なったが、最も人数が多い冬では25人ほどか。 その全てが冷気茶室やモーテルを利用していた訳ではなかったが、多くが利用していたのは確かであった。

渡り鳥組の中で、冷気茶室にもモーテルにも顔を出さなかった者もいた。 その中で、娼婦遊びをする者も、しない者もいたが、数えたことがなかったので、記さないでおこう。
尊師の履歴書37
(解説 「冷気茶室」 1)

さて、ここで「冷気茶室」 と呼ばれていた娼家について記述してゆこう。

楽宮旅社やジュライ・ホテルはチャイナ・タウンの中にあるが、そこはヤワラー地区と呼ばれている。 そのメイン通りはヤワラー通りであるが、その周辺の1980年代では13軒ほどの冷気茶室があった。 
楽宮旅社からでは、近いところで南西に400メートル、遠いところでは南西に1000メートルほど離れていた。

多くは木造2階建ての2階に設けられていた。 1軒だけであったが、鍋物料理屋で200人ほど入れる大きなファミリー・レストランの奥に「冷気茶室」 が併設されていた。 それもバンコクにあるトルコ風呂と同じガラス張りの部屋に数十人の娼婦が座っていた。 チャイナ・タウンに合ったのだが、中国人は好き者として知られているが、それにしても!

冷気茶室は名前のとおり、冷房の効いた喫茶店で、ドア付の個室形式になっていた。  開店時間は朝の11時ごろから夕方までで、夜には営業をしていなかった(1軒を除いて)。  部屋の広さはダブル・ベッドより少しひろいだけなので、2畳にも満たなくて狭かったが、壁はデコラ製(合板の化粧版)であった。 広い部屋を合板で幾つも仕切っていたのだが、部屋数は各店で異なった。 小さいところは25部屋くらいで、大店であると数十くらいであっただろうか。

2畳ほどの部屋のコンクリの床に、造りつけの木造のダブル・ベッドが誂えられてあり、ビニロン樹脂張りの硬いマットが敷かれていて、そこに硬いビニロン樹脂張りの小さな枕が2つ置かれている。  そこで、ことに及ぶ場合は、男女は裸で寝転ぶのだが、1軒を除いてシーツが敷かれていなかった。

60センチ幅ほどのコンクリの床が設けられている。 その片隅には粗末な机が置かれていて、陶器製の分厚くて小さな電気コンロがあり、その上にはアルミ製の小さなヤカンが置いてある。  他に安っぽい鉄製の色づけされたお盆が置いてあり、そこには中国スタイルの茶器が揃えられている・・・・・・茶色をした小さな急須、古風ともいえる青磁の染付の小さな湯飲み茶碗が数個ほど並んでいる。

床には他に、中国人が用いる痰壺が置かれていた。 日本には痰壺なるものはないが、洗面器の役割をしていたが、平らでなく、壺型をしていたのだが・・・・・・女の子にサービスを受けた後に、彼女が持ってきたビンに入っている水で男の下半身の事後処理のときの汚水を溜めるためである。

タイの安娼家には必ずといって、部屋の外に共同用の「性行為の事前と事後処理のための水しか出ないシャワー室」 が設けられている。 でも、冷気茶室にはそれが無かった。 両方を経験した者にとっては、冷気茶室は事後処理を大量の水で出来ないことに、不便を覚えた。 というのも、それを終えた後では「女の下半身の匂い」 がこっちの下半身にまとわりついているからであった。

タイでは大便の際に水で処理するが、性行為の事後も水で処理するので、まず、紙を使用しない。
ただ、冷気茶室の場合では女の子の多くがトイレット・ペーパーを持参してくる。 性行為後にワギナから精液が漏れ出てこないために、それを女陰に当て、パンティーを穿くのである。 その時に、彼女らは事後処理をしないのだが、冷気茶室にある共同トイレの水道をつかってワギナを洗浄していたらしい。 それも指を挿入して、ごしごしと。
因みに、その当時ではエイズの「エ」の字もなかった良き時代であった。

表通りから冷気茶室が入っている建物の階段を上がって2階なり、3階に上がって冷房が効いている冷気茶室の廊下に出るとそこには係りの人がいて、部屋に通される。 係りの者はそれが済むとその場を立ち去る。 客は部屋にベッドがあるので、履物を脱いでベッドに上がって座り込むなり、横になる。

しばらくすると、先ほどの係りの人が紙に包まれて小分にされているウーロン茶を持ってきてくれ、電気コンロのスイッチを入れて、その場を立ち去る。 その当時の茶代は20バーツで日本円にして220円であるが、後払い。

ダブル・ベッドが備え付けられているのだが、1人で来ても数人で来ても同じ部屋に案内されるのが普通である。 お茶代は20バーツであるが、一人頭ではなく、複数の場合でも同じ値段であったので、我々は割り勘にしていた。  看板は「冷気茶室」であり、また、タイでは「売春禁止法」に類する法律があり、冷気茶室は決して娼家ではないので、お茶を飲むだけで帰ることも出来る、でも、それでは商売上。

 ・・・・・・しばらくすると、先ほどの係りの者がやってくるのだが、茶の給仕をするウェートレスを数人ほど引き連れてやってくる。  因みに、客は馴染みの女の子がいれば、茶室に入った時点で指名ができる。
女の子の年頃は15~18~20歳くらいが中心。 マッサージをしてくれるおばさんもいるが、係りの者に伝えると、部屋にやって来てそれを施してくれる。
顧客は周りのチャイナ・タウンに住んでいる既婚なり、今は独り身の中国系のおっさん連中が中心であったが、女の趣味がそういう「タイの北部の色白の若くて初心な子」ということになるのだろう。 もちろん、タイ人も利用できたが、その姿を見かけたことは無かった。

冷気茶室にいるウェートレスの人数は各店によって異なったが、小さい店は25人、大店は数十人程度か。

客は選り取り見取りとなる。 対して、係り物が部屋に引き連れてきた女の子は・・・・・・客である男性が気に入らなければ顔合わせの時にその場を立ち去ることが出来る。 つまり拒否権があった。 
それは(私の知っている限りであるが) 冷気茶室だけでなく、タイにある娼家の殆どがそのシステムを取り入れていた。 ただ、高級であるトルコ風呂は例外であった。 ガラス張りの部屋に並んで座っていて、部屋の外にいる客から問答無用で指名されるから、従うしかないのだ。

尊師の履歴書36
(楽宮旅社余談)

楽宮旅社は・・・・・・「谷恒生(1945~2003)が書いた『バンコク楽宮ホテル』(1981年初版) という小説があるのだが、舞台が楽宮旅社となった」・・・・・・・ということによって「超!」 がつくほど有名であるが、1980年前後に「楽宮旅社」が有名なので舞台にした」 というのが正しいのであろうか。

もし、彼がその著書を発行していなかったなら「楽宮旅社」は「超がつくほど有名」 になることもなく、また、楽宮旅社に泊まった日本人の実際の数も相当な割合で少なくなっていたであろう。 
付け加えるなら、日本人は「有名な観光地なり、有名な日本人の溜り場に集まる傾向が強いであろう。 私も、実際のところ、その一人であるが、気持ちとしては「そうではない」 と思いもしている。

因みに、私はジュライ・ホテルに泊まっているときに、誰かから『バンコク楽宮ホテル』を借りて読んだのだが、その内容の全てを忘れ去ってしまっている。 
感想も忘れているが、内容に対して「こんなこと、楽宮旅社ではありえない」 と思ったので・・・・・・「彼は旅行者じゃない。作家であり、小説家なのだ」 と判断したのだ・・・・・・その意味は、この後の私の旅行のための資料にもならないし・・・・・・・谷恒生の、また、小説の登場人物の旅行者としての心境も読み取れないので、私にとって「関係のない人」に過ぎなかった。

谷恒生は『カルカッタ大真珠(パラゴン)ホテル』(1984年初版) を出版している。 

実は、その中に「私が1977~1979年まで、つまり、この第2回目の旅行で・・・・・・『私のヒマラヤやタンザニアで入院したときの出来事』を元にしたとしか思えない」 ストーリーが登場する。 

それは、私が見つけたのではなく、友達が知らせてくれたのであった。 それも、2人に。

という事で、その著書をその人から借りて読んだのであったが、確かに私としか思えなかった。  それは別にして、作家に対しても、小説に対しても、色々と考えさせられたのであった。

私は楽宮旅社を利用した多くの日本旅行者を知り、友達がいる。
でも、「谷恒生を見た」と私に打ち明けてくれた人に誰も合っていないし、私も合っていない。

実は、そうとは言えない節がある。 
というのは、私は谷恒生の容貌を知らないので、また、旅行者同士では、自分の名前を語ることは滅多にないので、合っていた可能性が大いにあるのだ。

では、「何故、旅行者同士では名前を教え合わないか」 であるが、聞いてしまったなら「覚えなくてはならない」 という責任が生じるので、お互いに避けようとするのであろう。 
因みに、私は人の名前を覚えるのは苦手なので、よほどのことが無い限り、名前を訊ねないし、自分の名も口にしない。 娼婦に対しては、特にそうである。

旅行者であり、合っても、直ぐに別れる立場であり、また、旅先で出会う旅行者の数があまりに多いので、覚えきれないからであろう。  私にとって、そもそも、覚える必要が無いからである。

そういうことも手伝って、出あった時に、必要な旅の情報を交換するけれども、過去に旅した内容を語ることは稀であった。  古い情報では役に立たないからである。  また、お互いに、必要がないからであるが、語りはじめたなら、長くなるからである。

確かにそうであったが、長期の旅行者は面倒くさがり屋が多いのだが、お互いに自慢し合うことを避けている面があったのであろう。 

それは、「1990年代の旅行者まで」 という但し書きが付くが。谷恒生や私の事より、それを言いたかったのだ。
旅の写真を少しほど、、、
今回は、ラヨーンからサッタヒープの海岸線を巡ってきました。

beach1.png
サッタヒープからの一枚。 正面に見えるはパタヤのコンドミニアム群。

beach2.png
こういうコテージ形式の宿が流行りで、5千円くらいから泊まれる。 パタヤの喧噪を嫌った白人とか、現地人観光客で賑わっているが、まだまだ、人は少ない方。
尊師の履歴書35
(バンコク安宿事情に変化)

今回の旅行は日本を1977年7月に出発し、タイのバンコクに8月末にたどり着き、9月末に空路でビルマの首都ラングーン経由でネパールのカトマンドゥに向かったのであった。
そして、今回の旅先地のアフリカからインドなどを経由してバンコクに1979年7月に戻ってきたので、バンコクは1年10カ月ぶりであった。

久しぶりの感じであったが、それくらいでは数百万人の人口を抱かえている大都市バンコクの景観が変わるはずもなかった。  でも、私としても、日本人バックパッカーにとっては大きく様変わりをしていた。

バンコクの中央駅(ホアランポーン駅) の近くにあったバックパッカーの溜り場で安宿であったタイソングリートが閉鎖されていた。

それの代わりとして、中央駅の西側に位置しているチャイナ・タウンにある最も宿泊費が安い楽宮旅社が、日本人旅行者だけの溜り場(現地人も泊まっていた) として開発されていた。

泊まっている人数までは覚えていないが10~15人程度か。 その近くにあるジュライ・ホテル(羅斗圏大旅社)があるのだが、まだ日本人の溜り場とはなっていなかったであろう。

約2年前に私がバンコクに滞在していたときに、日本人旅行者から「楽宮旅社やジュライ・ホテル」 の名前を聴いたことが無かったから、そのように思えた。 そのために、その内容は定かでない。

約2年前に滞在していたときで、タイソングリート・南洋旅社・ペプシ(明星旅社)に泊まっていたバックパーカーの中で、女好きのほとんどが泊まっている宿で娼婦を買っていた。
移動した楽宮旅社に滞在している日本人旅行者もそれは同じであった。 
娼婦の年齢の多くは15~18歳くらいで20歳以上は稀であったろう。 昼間は冷気茶室と呼ばれている娼家で働き、夜は楽宮旅社で仕事をしていた。

楽宮旅社に泊まっている者の中で、同じチャイナ・タウンにある日本人旅行者から『お汁粉屋』と呼ばれていた『冷気茶室』と呼ばれている娼家に通っている者がいた。
約2年前に滞在していたときには、そういう話を聞いたことがなかったので、たぶん、1978年頃に誰かが見つけて、日本人が通いはじめたのであろう。  1979年頃に冷気茶室で遊んでいた日本の人の数は少なかったであろう。

中にはT.A.T(タイ中央観光案内所)があるウィス・キャサット通りに18軒ほどあるモーテルの中の一つで、漢字の日本語読みで「きんこうりょしゃ」 と呼ばれていたところに女郎買いに出かけていた(因みに、その旅社があるのはウォラチャック通り)。

これも約2年前にバンコクに滞在している時には、そういう話を聞いたことがなかったので、たぶん、1978年ごろに日本人の誰かが見つけたのであろう。 
当時では通っている日本人の数は少なかったのであろう。 モーテルでは尺八演奏を施す娼婦がいたので、後に日本から「ナメナメ・ハウス」 と呼ばれるようになった有名な娼家である。

私はチャイナ・タウンにある楽宮旅社でなく、常宿の三合吉旅社に投宿。

そこに3人の日本人が泊まっていて、彼らから楽宮旅社・お汁粉屋(冷気茶室)・きんこう旅社(モーテル) について教えてもらっただけでなく、連れて行ってもらったので、そういうことを知ったのであった。

そういう私は楽宮旅社に移ることは無かった。 
そうではあったが、日本人の話し相手を求めて訪れはした。 また、三合吉旅社で娼婦と遊び、彼らに『お汁粉屋』や『きんこう』に連れて行ってもらった後に、1人で何度もそれらに通っていた。 

ナイロビからバンコクに戻ってきた時点では、タイでどのように過ごそうという計画は立てていなかった。
旅行の計画なり行程は持ち金によって決まると言っても過言でないが、その額が4千ドル弱(約80万円)も残っていたので相当に余裕があった。

考えていたことは、この後に帰国して日本でアメリカのビザを取得して後に、「どのような経路でアメリカに入国するか」 ということぐらいであった。 バンコクに着いて後に、ここではチケットが日本の半額以下で手に入るので、そのルートを決めたのであった。

帰国するために空路でバンコク⇔マニラ⇔成田間の往復。

空路で東京→マニラ→バンコク。  バンコクからシンガポールまで陸路。  シンガポールから空路でジャカルタ(インドネシア)→ヌーメア(ニューカレドニア)→シドニー(オーストラリア)→オークランド(ニュージーランド)→サンフアンシスコ(USA)→ロスアンゼルス。 そこからグレーハンド・バスで北アメリカ大陸を横断してニューヨークに至る。 シンガポールからの航空会社はフランスのUTAであったが、エール・フランスに吸収されて無くなっている。 
そのチケット代は700ドル台で16万円ほどか。

フィリピンも2カ月滞在していた。

バンコクからの飛行機の中で白人と仲良くなったのでマニラに着くと、彼の知っていたキアポにある外国人専用のゲストハウスに、部屋は別々であったが泊まったのであった。
泊まっていたのは我々2人だけであったが、その当時でフィリピンを旅行する者はそれほど少なかったのだ。それが翌日に私は風邪をひいてしまってダウン。

1週間後に風邪が治ったのであった。
白人の方はマニラに着くや当日から、連夜でアメリカ大使館の近くにある「マビニ」 と呼ばれている白人を中心とした外国人専用の歓楽街に足を運んでいて、昼過ぎに帰ってくるのが常であった。

私は酒を飲めない口であり、また、代金が高いのでその気に成れなかった。  また、「このゲストハウスでは女を買えない」ということで、チャイナ・タウンにある『TOUKYOU・HOTEL』という曰くつきのホテルに泊まったのであった。

ホテルの看板を見て匂ったので選んだのだが、案の定、何十人もの娼婦を置いていた。  因みに、日本人旅行者専用の置屋ではなく、顧客の中心は現地人の、それも中国系のフィリピンであったろう。

結局、タイのその当時の観光ビザの滞在期限は1カ月で、1度マレーシアのペナンにビザの更新に出向いたので、合計で2カ月いた。
その時にバンコクからマニラ経由で東京までの往復エアーチケットを買い求め、フィリピンで観光ビザの滞在期限の2カ月いて1979年11月に帰国したのであった。

タイで2カ月、フィリピンで2カ月と合計で4カ月滞在していたのだが、そのような結果になったのは一目瞭然。
30歳になっていたが、持ち金が4千ドル近くも残っていて、両方とも物価が安く、安価で良質の娼婦が手に入るので、過ごしやすいからであった。

それでは、持ち金が4千ドル近くあっても、両国で2千ドル以上も使ってしまいそうなので、日本からアメリカまでのエアーチケットに加えて、日本から東南アジア、オセアニアなどを経由してアメリカのニューヨークまでの4カ月間ほどの旅費が足らなくなってしまう。

もちろん、それらを計算していたので「時価総額で120万円ほどの株を売りとばして、その旅費に当てる」  と目論んでいた。別に、その額であり資産といえるほどではなかったが、30歳の私の全ての持ち金であった。
それらが私の性格を全て表しているとも言えるであろう。 

私にとって、セックスとはそれほど気持ちが良いので、それに多くのエネルギーを注ぎ込んで仕舞うのだ。
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