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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
世界ケンカ旅行(中南米編)最終回
私は最寄の警察署を探して飛び込んだ。 一階のフロアーには5~6人の制服を着た警官が詰めていた。
珍しい東洋人が入ってくるなり、何やら深刻に話しているということで、皆が一斉に注目してきた。

私は兎にも角にも、カネを盗まれたので電話を使わせてくれと懇願した。 
盗難事件がかなりあるので対応に慣れているのだろうか、以心伝心で話は伝わって、すぐに電話の受話器を渡された。
TCとは別に携帯していた緊急連絡先の番号を確かめて、コレクトコールで北米にあるセンターに連絡を入れる。 ほどなく連絡は繋がった。

再発行の手続きはあっけなかった。
私はサンチャゴ市内のバンカメ提携銀行を紹介され、そこにパーチェス・アグリーメントを持ち込めば、即日、再発行されるとの説明を受けた。
警察からの盗難証明書のようなものは一切、不要だという。

私は警察署を出て、その足で再びバス停車場に戻った。
近くの両替屋で当面に必要なペソを仕入れたあと、その日の夕刻にサンチャゴ行きの夜行バスに乗り込んだ。

風光明媚な港町であるプエルモント滞在はわずか12時間であった。


サンチャゴに戻った翌日、その日のうちに、ビジネス街に赴いた。
電話で指定された銀行に入って、為替のセクションで尋ねると、応対した中年女性の係は私の顔を見るなり、笑顔になった。 
私は経緯を簡潔に話した。

「すでに連絡を受けてますので、すぐに再発行できます」
女性は、英語で話した。
私は再発行のための書類を受け取り、必要な情報を書き込んでいった。

思った以上に手続きがスムーズなので内心驚いた。 正直、中南米でこの種の手続きは時間が無駄にかかり、非効率の典型例のような展開になると覚悟していたのである。 しかも、対応した女性は顧客の対応に慣れている。
逆に穿った見方をすると、そういう盗難があまりにも多いので、単に手馴れているだけ、、、、とも言える。

ほどなく手続きは終了して、私は再発行されたTC3千ドル分を懐に収めた。

「これからどこに行かれるのですか?」
帰り際に女性は私に訊いた。

「すぐにアルゼンチンに向かいます。おかげで助かりました」
私は再発行が済んだという安堵の気持ちから、思わず笑顔になった。

「日本人の方はブラジルに行かれることが多いですよ」
女性は続けた。

やはり、盗難でTC再発行のために駆け込む日本人は結構な数に上るのだろう。 彼女の言い方から類推できる。

「そうです。 私も最終的にはブラジルまで足を伸ばしてから帰国するつもりですよ」
私は言った。

中南米の旅はサンチャゴで折り返し地点に到達した。

その後、南米の旅は3週間ほど続くことになるが、最後の訪問地となるブラジルのリオから帰国の途につくまでの間、今回の事件を教訓に緊張を緩めることはなかったのである。

私は銀行から出て、サンチャゴのビジネス街を闊歩した。

(中南米編 完)
世界ケンカ旅行(中南米編)11
私はチリ南部にあるプエルトモント行きの夜行バスに乗っていた。 

朝、目を覚ますと、正面にバスの運転手が立っていて、私に何やら話しかけていた。 周辺を見渡すと、大型バスには私しか乗っていなかった。

朦朧とした意識の中、自分に何が起こったかを振り返ってみる。 夜行バスなので、深夜のいつのまにか眠りついて、終点であるプエルトモントのバス停車場で運転手に起こされたのである。 状況がやっと認識できた。

私が飛び起きてバスから降りる準備をしようとしたとき、身体の異変に気がついた。

穿いていたジーパンのベルトが外れていて、外から見えないように隠していたマネーベルトが外に露出していた。 いったい何が起こったかわからないまま、そのマネーベルトを整えようとしたとき、中に自分のパスポートしか入っていなかったのである。

これは変だと思った。
なぜなら、私はパスポートはすぐに取り出せるようにシャツのポケットに入れていたからである。マネーベルトにパスポートがあるはずがなかった。

意識がはっきりとするにつれて、マネーベルトに隠していた米ドルのキャッシュとTCがごっそり消えていることに気がついた。

「やられた!」
ここで、初めて盗難に遭ったことを認識するのである。

次に、私は足元に置いていたバックパックを持ち上げて調べた。 幸い、こちらは手が付けられていないようである。
運転手に急かされてバスから降りると、あまりのショックでしばし呆然としてしまった。

まず最初に被害の全体を確認しておく必要がある。 気を落ち着かせて、ゆっくりできるカフェかレストランが近くにないか探した。
バス停車場なので、周囲を見渡すとそれはほどなく見つかった。
幸運にも、胸ポケットに入れていた食事程度は可能な小額ペソは盗られていない。 私はバックパックを背負って半分ほど放心状態で近くのレストランに入った。

私はマネーベルトを二つ身に着けていたが、二つとも物色されていて、中身は全部盗られていた。 現金は米ドルキャッシュが500ドルくらい、TCが3千ドル。
バックパックは無傷で、米ドルやTCは盗られていない。中米の大半の国ではドルのキャッシュしか使用しなかったので、当初よりも所持金額がかなり減っていた。そのせいで、キャッシュの被害額はそれほどでもない。
犯人がパスポートに手を付けなかったので、旅行自体の継続にはあまり影響がなさそうである。

さて、犯人が誰かは明白であった。

バスで隣に座っていた50代くらいの中年の紳士がくれたジュースに仕込まれた睡眠薬によって、私は熟睡してしまった。 その間に物色されたのである。

こういう旅行中に、知らない現地人から勧められた飲料や食べ物に睡眠薬が仕込んであることはバックパッカーの常識として知ってはいた。 おそらく、チリに入る以前であれば、かなり警戒していたはずである。 ところが、チリの治安がいいことにすっかり油断してしまい、つい受け入れてしまった。
もうひとつ、犯人の手口が巧妙であったことも挙げられる。 
犯人はいきなりジュースを勧めてきたのではなく、休憩時のドライブインで食事を奢ってくれたりするなど、私との信頼感を醸成させる努力を事前に充分に行ったうえで、自然に睡眠薬入りジュースを勧めてきたのだ。

いずれにせよ、盗られた現金に関しては諦める他はないが、TCの再発行手続きは早速始める必要があった。
世界ケンカ旅行(中南米編)10
パラールはチリを南北に貫くパン・アメリカンハイウエイ沿いにある、2キロ四方くらいの小さな町で、サンチャゴから距離にして350キロ南方、長距離バスで6時間ほどであった。
サンチャゴからだと、直接この町に停まるバスは出ていない。 私はパラールの北にあるリナレスという町でローカルバスに乗り換えてようやく辿りついた。

田舎町というのがぴったりの風情で、3階建て以上の家屋がまったく見当たらない。 本当に寂しくて、気分が滅入る町であった。
ローカルバスは町の中心部にある停車場に到着したが、とりあえず、宿を取らなければならないにもかかわらず、近隣にホテルがまったくない。
商店が連なる繁華街を探してしばらく歩いていくと、ホテル・ブレシアという、北米の田舎で見かけるモーテルのような平屋のホテルを発見して入ってみた。 1泊20ドルくらいで、サンチャゴに比べると高いが、選択肢が他にないので仕方なくチェックインした。

パラールに到着して宿を取った頃はすでに夕刻で、実際の行動は翌日となった。 さっそく、ホテルの従業員から情報収集である。
私はシュミットからもらった新聞記事のコピーをレセプションの中年男性に見せて尋ねてみた。

「ドイツ人の住んでいるコロニアに行ってみたいんだけど、ここの近くにあるのか?」

すると、彼は急に表情を固くした。

「ああ、あんたもヴィヤ(村)に行きたいのかね? ここに来る日本人はみんな行くけど、なんにもないよ」
訝しげな顔で私を見た。

やはり、書籍の影響で、ここに来る日本人は結構いるらしい。 ホテルのオヤジは、日本人の扱いに慣れている様子で、すぐに電話をかけてタクシー会社に連絡してくれた。

「で、明日の何時がいい?」

トントン拍子に話が進むので少したじろぐが、少し考えて返答した。
「じゃあ、朝の9時でお願いします」



翌日、黄色いキャブがホテルの正面に到着した。 まず、私は値段を確認した。
無精ひげを生やした若いドライバーはドア越しに指を3本立てた。

「トレス・ミル?(3000)」
私は確認した。 この時点のレートで、3千ペソは約10米ドルであるから、相場の範囲内である。 すると、ドライバーは首を横に振った。

「ノーノー! トレンタ・ミル!」

このドライバーは3万ペソ、だいたい100米ドルを要求していたのである。これは法外な値段であった。

私は、手振りであっちへ行けと指図して、ホテルに入ろうとした。すると、ドライバーは急に値段を下げて、50ドルでどうかと言い値を変えてきた。
こういうタクシーの値段交渉は万国共通である。 私は相場よりプラス10ドルくらいを上限にして30ドルで再オファーした。 こちらにも選択肢がないので、あまり強気には出ることができない。
ドライバーは私に乗るように促した。 私は、値段を念のためにメモ紙に書いてドライバーに手渡した。
彼はそれを見て頷いた。

私を乗せたキャブは、パラールを出て、国道を少し南下し、山手の農道に通じる脇道に左折した。
潅木が茂るくねくねした農道を20分ほど入ると、地元民が「バイエルン村」と呼んでいるドイツ人共同体の入り口に到着した。

そこからは何の変哲もない農場が前面に広がっているだけであった。 もちろん、UFOの秘密基地を思わせるような施設は何ひとつ存在しない。

「どれくらい待っていたらいいんだ? 」
しばらく考えていると、ドライバーが促してきた。

私は、
「そうだな、、このままパラールに帰ってくれ」
と返答した。 
車から降りて見るものなどない。

多少の期待と不安が入り混じったナチス秘密基地「エスタンジア」の正体は、普通の農場だった。

世界ケンカ旅行(中南米編)9
二日後、ガイドを約束した日、同じレストランで再度シュミットに会った。
彼は小脇にカバンを抱えて、少し遅れて姿を現した。 私の向かいの席に座ると、資料を次々と取り出してテーブルに並べた。

「あんたが言っていた、エスタンシアってのは、コロニアのことじゃないか?」
彼は私に切り出した。

「コロニア」などという単語は落合信彦の本には一度も出てこない。

「コロニア? 英語で言うとコロニー(植民地)か?」
私は質問した。

「そうそう。 友達や教授たちに聞いて回ったら、あんたの言っていたパラールのナチス残党コミューン(共同生活体)に当たる場所は確かにあるらしい」

「本当か?」

「ただし、ナチスの再興とかじゃなくて、別の意味で問題になっている」

「ほう?」
私は首を傾げた。

シュミットは続けた。
「ピノチェト軍事政権での反体制派弾圧のことは知ってるか?」

「あまり知らないなあ、、コロニアと関係あるのか?」

「関係あるらしい。 軍事政権時代に逮捕した反体制派をコロニアに幽閉して拷問したとする、政府の調査報告が最近あったんだよ」
シュミットはそれらしき書類や新聞コピーのいくつかを私に見せてくれた。 該当する部分には赤い下線が引いてあった。
私はそれを手に取って目を通したが、スペイン語なので細部はよくわからない。

彼の話によると、概容はこうだ。

1973年に軍事クーデターで政権を奪取したピノチェト大統領の下、政府は反体制派を非合法に拘束した。 彼らは、国内にいくつかあった極秘収容所に分散されて自白を強要され、一説では数万人レベルの国民がそのまま処刑されたという。
その中のひとつが、「コロニア・ディグニダド(尊厳ある植民地の意)」と呼ばれた集団農場で、このドイツ系移民による排他的共同体を隠れ蓑にして、独裁体制維持のための非合法活動が組織的に行われていたというのである。

ソ連崩壊によりチリの赤化に現実味がなくなると、民主化は急速に進んだ。 1990年、ピノチェト大統領は辞任して、国軍最高司令官の地位に退く。 しかし、それでも隠然たる権力は保持したままで、当時に至るのである。

「つまり、ピノチェトがまだ権力にいる限り、かつての反体制左派に対する大粛清は問題にならないということだね?」
私は書類を置いて言った。

「ピノチェトが法廷で裁かれるようなことは今のところないだろうが、国際社会では問題になっているな」
彼は言った。

私はしばらく考えた。 そして彼に告げた。
「いや、本当に助かったよ。 今日、君と調べようと思っていたことを、全部やってもらった」

現役の大学生と出会って幸運であった。 彼の探究心には頭が下がる。

私は続けた。
「もう、帰ってもらってもいいよ。 約束の20ドル、プラス、調査費として別途30ドル支払おう」

「ありがとう。 ところで、本当に行くつもりなのか? ちょっと微妙な場所だぜ?」
シュミットは訝しげな視線を投げかけてくる。

「まあな、どうせ南の地方を旅行して回るし、、、とりあえず、現地を外から眺めるだけでもね」
こうお茶を濁すと、彼は興味津々の表情である。

「俺も興味があるから、いっしょに行ってもいいかい?  交通費だけ払ってくれればいいよ」
彼は言った。

コロニアが、そういういわく付きの施設だとすれば、むしろ、ナチスの秘密基地よりも危険な匂いがする。
会ったばかりの学生を信用して、思わぬトバッチリを受ける可能性を考えると、現地には1人で赴いた方が身動きが取りやすいと思った。

「そうだな、、、、物見遊山で現地に行くだけだから、通訳はいらないよ」

「そうか、、」
彼は少し不満そうだった。

私は資料と引き換えに報酬の50ドルを手渡して、シュミットと別れた。
世界ケンカ旅行(中南米編)8
チリ大学のキャンパスは、広い敷地に各学部が点在しているのではなく、市街地に建てられた校舎にすべての施設が集約されているので、手狭な感じを受ける。 
どんな大学なのか様子を見るために正面入り口から入ろうとしたら、警備員に止められて用件を聞かれた。 説明しようと思ったが面倒なので、そこから入るのは諦めた。

結局、大学前にあった地下鉄駅の入り口周辺をうろうろして、英語を話せる学生を探すことにした。

サンチャゴの旅行地図をわざとらしく広げて、いかにも旅行者然とした振る舞いで、「アブラス イングレス?(英語できる?)」と人の良さそうな学生に聞いて回る。
なかなか込み入った話ができるほどの英語力の持ち主はいなかったが、5人目くらいに流暢な英語の使い手に遭遇した。

「君、英語うまいね?」
私は言った。

「ああ、俺はアメリカ人だから当然だよ。ここで勉強しているんだ」
学生はニヤリと笑った。

「スペイン語は達者かい?」

「問題ないよ」

「俺は日本から来た旅行者なんだけど、いろいろと助けてくれないか? もちろん、少ないがガイド料は払うよ」

彼は快く引き受けてくれた。 私は打ち合わせを別の日に約束して、一旦は彼と別れた。

私と大学生は翌日、大学近くの古風なレストランで会った。

にわかガイドとして手伝ってくれることになった米国人、名前をシュミットと言う。 
名前からわかる通り、ドイツ系だが、チリ大学で南米史を研究しているそうだ。 聞いてみると、米国では珍しい言語マニアで、スペイン語の他に、ポルトガル語、フランス語、イタリア語が話せるという。 つまり、ラテン系の言語が得意らしい。 ちなみに、ドイツ語はよくわからないとのことであった。

「俺は貧乏旅行者でね、、ガイド料はあまり出せないんだ、、」
私はこう切り出すと続けた。
「仕事は簡単な通訳。 時間は12時から18時、昼飯と交通費はこちらが出す。 これで20ドルでどうだ?」

「おいおい、最低100ドルは欲しいね」
シュミットは馬鹿にするなという表情で笑った。

「残念だなあ、、予算がないんだ。まあ、ここのコーヒー代は俺が出すけど、君とはこれで最後だな、、」

私の表情に交渉する意思がないことを見て取ったシュミットはあわてて前言を引っ込めた。

「わかったよ、まあ、通訳としては安いが、おもしろそうだ。協力しよう」

私は右手を差し出して握手を求めた。 彼も一瞬遅れて握手に応じた。

「で、あんたはどこに行きたいんだ? サンチャゴなんて観光するところなんかないぜ?」

「いや、観光というより、調べたいことがあるんでね、、、図書館とか旅行会社についてきてほしい」

「調べる?」

「君は、エスタンジアという言葉を聞いたことあるか?」
私は訊いてみた。

「エスタンジア? エスタンシアだな。 スペイン入植者の牧場のことだ」

「さすが、歴史専攻だな。 ところで、これにナチス残党の共同体の意味はあるのか?」

「そんなの聞いたことはないな、、、」
シュミットは首を捻って考えた。

彼は続けた。

「というか、チリはドイツ系移民が固まって住んでいるところが多いんだよ。 そんな牧場じゃないのか?」

「いやね、サンチャゴの南にパラールと言う小さな町があるんだが、その近くにナチス残党の秘密基地があって、UFOとかの秘密兵器を製造してるなんて聞いたことあるか?」
私はチリの地図をテーブル全面に広げて、パラールの町を指差した。

「よくわからんが、それを調べたいのか?」
彼は呆れたような表情で言った。

「調べて、実際に行ってみたいんだよ」
私は答えた。
世界ケンカ旅行(中南米編)7
コロンビアのボゴタに空路到着して以降、エクアドルのキト、ペルーのリマにそれぞれ3泊ずつ滞在、陸路でさらに南下した。
踏破の末、私はチリの首都であるサンチャゴまで辿り着いた。 日本のほぼ裏側まで来たわけだ。

チリは今回の旅のハイライトとなる国である。
細長い独特の国土をしたこの国は、明らかにこれまで通過してきた中南米の国々とは趣が違っていた。 それまでは支配者であるスペインの影響が色濃く残る中で、土着民文化との融合が見て取れた。 ところが、チリに入った途端、欧州の田舎のような雰囲気が突然強くなる。 見かける人々のほとんどが白人系で、混血や原住民の割合は極端に低い。 家屋もどことなく欧州のものに似ている。 それと同時に、これまでの中南米では必然的に強いられた緊張感が薄れていくのが肌で感じられたのである。

この頃、すでにピノチェト政権から民主政権に移行していたが、良くも悪くも強力な軍事独裁政権が永らく続いていたせいで、良好な治安が維持されていた。 この地域では左翼ゲリラ・反政府勢力などが徹底的に押さえ込まれてきたことにより、地方でも安心して生活できたのである。 これが、ともすれば政治的に不安定な他の中南米諸国と違うところであろう。

サンチャゴ市内の要所には、軍事政権時代の名残か、第二次大戦中のドイツ軍のようなヘルメットを被る衛兵が配置されていた。これは旅行者にかなりの安心感をもたらした。 
ここは500万人規模の大都会であるが、観光名所は中心地の2キロ四方以内に集中している。 一見して、スペインのどこかの地方都市じゃないかと思うくらいで、ビジネス街を闊歩する通行人は白人系ばかり。 インデオ、黒人など、マイノリティーはほとんど見かけない。 ペルー以北で普通だった、「チーノ!チーノ!」と侮蔑の言葉を向けられることもなく、むしろ、東洋人には無関心にさえ見えた。

私はレジデンシャル・ロンドレスという安ホテルに滞在していた。
トイレシャワー共同で1泊5ドル、6畳ほどの部屋にはベッドが1つ置いてあるだけの質素なものであった。 しかし、チリ市内を動くには最高の場所で、宿の近くに地下鉄駅があり、官庁街、ビジネス街にも歩いて行く事ができた。 チリ大学が数ブロック先にあったことは、その後、現地人と知り合う大きなきっかけとなった。

ここにはブラックマーケットがあるようで、公園なんかを歩いていると、両替屋が近づいてきて、「チェンジマネー?」と声を掛けてくる。 聞いて見ると、公定レートよりもせいぜい、10%くらい多いだけで、長期滞在ならともかく、短期滞在ではあまり差も出ないので話に応じたことはない。 ちなみに、ここでは銀行でTCを米ドルに変えてから、そこらの両替屋で現地通貨ペソに交換するのが便利であった。

このような環境の中、私はチリ国内のある場所に関する情報を収集していた。
私がチリにやってきた目的は観光以外にも別にあったわけだが、それについては旅行記を離れて、別途説明しなければならない。

ここに一冊の書籍がある。

落合信彦著「20世紀最後の真実」と題されたハードカバーで、1980年に発行された。 私は高校時代、落合信彦氏の大ファンで発売された著作はすべて購読していた。
この本の内容は、一言でいうと、ナチス残党が南米に脱出して再興の目的を秘めつつ、秘密裏に共同体を形成している、、、というもの。
物語は作者一行が実際に南米チリに取材に赴いた場面から始まる。 「エスタンジア」と呼ばれていたドイツ人移民の共同体を訪問したところ、現地警察に妨害されてあえなく取材は中止となった、、、、、と、緊迫した書き出しで本編が進んでいく構成となっている。

私はかねてより、実際にこのナチス残党の共同体である「エスタンジア」に行ってみたいと思っていた。 そして、こうやって実際にチリの首都であるサンチャゴまでたどり着いたのである。
最初は、地元の旅行会社に行って情報収集を試みたが、これは失敗した。 英語が話せる人がまったくいないのである。 簡単な旅行英語ならなんとかなりそうだが、込み入った話は無理だった。

コミュニケーションが成立しないのでは話にならない。
次に、偶然にもチリ大学近辺のホテルに宿泊していたので、ある程度、英語ができる学生と知り合いになって、協力してもらおうと考えた。
世界ケンカ旅行(中南米編)6
私はボゴタ旧市街の中心部、ボリバルプラザ近くのユースホステルに滞在していた。

直前までいたコスタリカのサンホゼ市の中心部では、北米からの観光客で賑わっていたが、この街ではそんなリラックスした観光客は1人も見かけない。 雑踏は人で溢れていたが、やはり市街地にはのんびりした雰囲気はなく、人々が忙しく歩いていた。 標高2千メートル以上の高地にあるために気候は過ごしやすく、歩いていても気分はいいが、治安問題のために気を抜ける余裕はまったくなかった。

中南米というのはスペインの殖民政策の影響で碁盤の舛目状に規則正しく設計された都市が多いが、私が道を歩いている際は、きっちりと1ブロック毎に後ろを振り向いて尾行されていないか確認していた。 これはメキシコに入って以来の癖になっていた。
服装にも気を使っていて、アジアを旅行する際は、身軽なスリッパで横丁を闊歩するのがバックパッカー共通のスタイルだが、ここでは常に全力疾走ができるように、しっかりしたシューズを履いていたのである。 ポケットには常に10ドル分程度の現地通貨を小額紙幣で束にして準備しておき、強盗に襲われた際にはそれを献上して逃れようと思っていた。

ここでは、街角で東洋人が歩いていること自体が珍しいことで、中南米で共通しているのは、暇な現地人から頻繁にちょっかいを受けることである。 しかも、現地人が私のことを最初から日本人と認識していることはなく、原則として東洋人は一律にシナ人と認知されてしまう。
日本のことはスペイン語でハポン、日本人(男)はハポネスであるが、中米でそのように呼ばれたことは皆無で、必ずチーノ(シナ人)と呼ばれた。 しかし、路地裏で遊ぶ子供たちが指を私に向けて「チーノ!チーノ!」と叫ぶ様子は、侮蔑の象徴にしか聞こえない。 

ある時、私がボゴタの繁華街を歩いていると、商店の店先で番をしていた中年女性が私を見つけるや、「チーノ!」 と叫んで私を呼び止めた。
女は手招きして私を呼びつけると、左手の人差し指をこめ髪に突き立てて何やら叫んでいる。 言葉がよくわからないが、どうやら、拳銃を頭に突きつけているポーズをして、「強盗に気をつけろ」 と注意喚起してくれているらしい。
私は「グラシアス!」と礼を言って、その場を立ち去ったが、もしかしたら、単にバカにされていたのかも知れない。 一般的に中南米の教育レベルは低く、いい年をした大人でも子供みたいな素振りで「チーノ!チーノ!」とからかうオッサンやオバサンはどこにでもいたのである。

ボゴタは治安に問題がある以外、これと言った不満はなく、特に食事はすばらしかった。 日本人の口に合う味で、メキシコ以南では初めて満足のいくものであった。 それでも、特に見るものがないのですぐに飽きてしまう。

私は3泊しただけでエクアドルに南下することにした。

郊外のバスターミナルからは、国境の街であるイピアレスまでの長距離便が出ていたのでこれに乗るが、所用時間は20時間ほどかかり、車中泊となる。
ボゴタのバスターミナルは予想以上に近代的で、車両も比較的新しく、快適な道中が期待できそうであった。 料金は1等バスで20ドルくらい、非常に安い。

夕方ボゴタを経って、山岳地帯の峠道をクネクネと進むうちに日が暮れていった。
少し眠気を催したとき、大型バスのボディーがガツンと大きな音を立てた。
異常な音に眠気は覚めたが、鈍い音が連続して起こり、大きなフロントガラスが突然割れて、正面の5分の1くらいのガラスがひび割れてしまったのである。
一瞬、木の枝がボディーを引っ掻いたのだと思ったが、窓から覗き込むと、道路の両脇から男たちが石を投げつけているのがわかった。
ドライバーはフロントガラスが割れると、アクセルを踏み込んで脱出を図った。

なぜバスが攻撃されたのか理由はわからないが、悪質な嫌がらせか、あるいは山賊が強盗を企てていたのかも知れない。
いずれにせよ、ドライバーの機転によって、乗客は難を逃れたのであるが、フロントガラスが割れたまま、終着である国境の町イピアレスまで車両を点検することはなかった。
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