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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
世界ケンカ旅行(東アフリカ編)最終回
ナイロビ以後の経路を簡単に振り返って、本旅行記の締めくくりとしたい。

重い腰を上げて、ナイロビから出る決心をした早朝、ホテルをチェックアウトして、長距離バスに乗り込む。
所要時間は約7時間、港町モンバサに到着したのは、夕刻であった。
長距離バスを降りた瞬間から、各種客引きが群がり、少しでも旅行者からカネをふんだくろうという油断もスキもない連中に取り囲まれる。 ただし、治安はナイロビよりもいいということは聞いていたので、安心して通りを歩くことができた。
ハイドロホテルにチェックインして、日が沈む前の街路を歩いた。 高原都市であるナイロビとは違い、気温と湿度はぐっと高くなる。
ここはムスリムが多く、黒装束に包まれて顔を隠している女性も歩いていた。モスクもあって、多国籍の雰囲気に溢れている。
ナイロビがスマートな近代都市という風情で、少なくとも中心部にいる現地人はそれなりの身なりをしているのに対して、モンバサの雑多な人種が入り混じる風景はエキゾチックであった。 

翌日、これといった観光もしないでタンザニアの首都であるダーエスサラームに向かった。

早朝にモンバサを立ち10時間、途上、タンザニアの入国審査を経て長距離バスはダーエスサラームに到着した。 バスターミナルから出た頃はすでに夕刻に差し掛かっていた。
ここもモンバサと同様の港町で、ムスリムもインド人も多い。 黒人も合わせると、ある意味、世界最悪の人種構成である。
これでマトモなわけがない。
しかも、モンバサよりも人々は荒んでいるような雰囲気で、絵に描いたような途上国の都市であった。
ナイロビで強盗に遭った教訓から、人通りが多かろうが日が昇っていようが、まったく油断はできない。 常に周囲を警戒して、客引きが手を伸ばしてきたら体に触らせないように注意した。
私はバスターミナルから20分ほど歩いてメインストリートであるサモラ・アベニュー近くの安宿街に向かった。
安宿をいくつか訪れるが、満室で断られて、ジャンボ・インに辿りついた。シングル8ドル程度であった。 翌日、海岸の方まで歩いて風景を楽しんだ。 観光都市として発展する余地はそれなりにある。


そろそろ、ナイロビが恋しくなってきた。  
私はダーエスサラームから長距離バスで9時間、田舎町のモシに辿りついた。
タンザニアと言えば、キリマンジャロ登山が有名である。 そして、ふもとの町であるモシは登山客のみならず、一般の観光客も訪れていた。

他方、バスの中にいる頃から体に異変が生じていた。
腹痛がして、バスが小休止する度にトイレに行くが、下痢が酷くなる。
四苦八苦しながら粗相はないように我慢してきたが、モシに到着した時は、自分でコントロールするのが難しいほど便が水のようになっていた。

バスターミナルから500メートルほど離れたYMCAにチェックインするが、この施設がすばらしく清潔で、窓からは雪を頂いたキリマンジャロを一望できる。1泊5ドル、ユースとしては平均的だが、朝食付きでコストパフォーマンスは高い。

気が緩んでしまい、到着した夜には強行軍の疲労が一気に噴出した。 熱が出て寝込んでしまったのである。 下痢と発熱のダブルパンチで、士気は最低となった。 
熱は翌朝には冷めたものの、体がフラフラで相変わらず下痢が治らない。 食欲もない。 携帯していた胃腸関係の錠剤を飲み続けた。

消化が正常に戻り、動ける体になるまでに1週間を要した。
体の調子が戻ると、移動しようとする活力が湧き出てくる。

YMCAに1週間ほど滞在したあと、私はアルーシャを経由してナイロビに2週間ぶりに戻った。

再び、ナイロビでの沈没の日々が始まる。 
これがアフリカ旅行の総仕上げとなった。

(世界ケンカ旅行 完結)
世界ケンカ旅行(東アフリカ編)5
翌日、情報収集も兼ねて日本大使館に報告に向かった。

領事部は航空会社も入居しているオフィースビルの上層階にあった。 エレベーターで上がって入り口から入ると、犯罪への注意喚起が掲示板に張り出してあるのがすぐにわかった。 読んでみれば、かなりの日本人が被害を受けていることがわかる。
自分の被害も報告しようと考えていたが、これだけ被害報告があるのなら不要だろうという今更感が出てきた。 そして、もうひとつの懸念もあった。 それは、反撃によって強盗犯人の1人がケガをしている可能性もあることである。 事例としては模範的ではないので 、公的に報告することは直前で取りやめることにした。

さて、初っ端から散々なナイロビだが、実は、アフリカ旅行で最も懸念していたのは、治安ではなく、健康問題であった。
渡航する前は伝染病の予防ばかり念頭にあり、これに気を取られていたせいで治安対策が置き去りになっていたという側面もある。
黄熱病の予防注射は日本で行い、黄色い証明書の発行を受けた。 これは黄熱病自体を予防するというよりも、証明書の提示を入管で求められる可能性があったので、それの対策であった。 現実には、マラリアや赤痢への感染が懸念されたが、日本で抗マラリア剤を入手するのは困難だったために、このナイロビで入手することにした。

ダウンタウンのドラッグストアーに行くと、各種抗マラリア剤が安価で売っていた。
私はファンシダールとクロロキンを購入して、さっそく服用を開始した。 さらに、個人用のモスキートネットも安価なものを入手して、ホテルなどに不備があった場合に備えた。 赤痢などの経口感染によって起こりうる病気については、すべて外食に頼る以上、生水や生ものを避ける以外にこれといった防衛手段はなく、ある程度は諦めるしかなかった。

もうひとつ、ナイロビでの重要な作業は、これから訪れる国のビザ取得である。
ここでタンザニアのビザを準備するのだが、事務所は歩いて行ける便利な場所にあり、問題なく取得できた(ちなみに、近隣のブルンジとルワンダはフツ族とツチ族の抗争が続いており、両派による恒常的な政情不安が払拭されないままであった。 実際、この2ヶ月後に悪名高い大虐殺が発生することになる)。

ナイロビでの滞在はこれからのアフリカ旅行全般の準備という意味合いが強かったが、あまりにも気候が過ごしやすく、気がつけば2週間ほど滞在していた。

世界ケンカ旅行(東アフリカ編)4
午前と午後で集団スリと路上首絞め強盗に遭うという散々な1日であったが、理由はいろいろ考えられる。

事前に入手した情報が少なすぎたということが大きい。 私が使用していたロンリープラネットのガイドには「夜間には強盗が多発」との記述はあったが、昼間の治安については触れていなかった。 欧米の旅行ガイドブックだけではなく、世界中のマスコミ全般に言えることではあるが、アフリカの記述がネガティブ情報に関しては及び腰になる印象は否めない。 
これは、日本でいうなら、中国や朝鮮半島に対する過去の歴史に起因する贖罪意識が強烈であるがゆえに、中国人や朝鮮人の悪い面を正当に評価できないマスコミに良く似ている。 つまり、欧米列強がアフリカを植民地として分割したり、奴隷の供給地であった歴史が存在するが故に、贖罪意識からネガティブ情報を伝えようとしない一面がある。
実態のブラックアフリカはまさに暗黒大陸、土人の大地そのものである。 アフリカ人は、文明国家の人々とまったく違う。 こういう一面が正確に伝わっていないから、誤解が生じるのであろう。

その日の夜、会う旅行者に対しては自らの経験を話して、必ず注意を促した。
驚いたことに、当日ドミトリーにいた日本人のうち、1人が同様の首絞め強盗の被害に遭っているという。 しかも、ダウンタウンではなくて、閑静な官庁街の大通りで首絞め強盗に襲われたというから、この街の治安は狂っていた。
彼の話によると、日本大使館もあるケニヤッタ・アベニューという大通りを歩いていると、広い舗道をゆっくりと歩いていた現地人の男たちを追い越した途端、その5人が突然後ろから襲ってきたのだという。 彼は走って逃げて難を逃れた。

話を総合すると、ナイロビの強盗はナイフ・拳銃のような武器をちらつかせて脅すのではなく、集団で不意を衝いて後方から羽交い絞めにし、カバンを引ったくるか、財布などの携帯品を物色するのが手口のようだ。
真昼間でそんな状況なのだから夜間は推して知るべしで、ダウンタウンのディスコなどに遊びに行く際は、必ずタクシーを使うという。

ただ、確かに犯行自体は凶悪だが、同じ路上強盗でも中南米のホールドアップとは一味違って、犯行グループの間抜けさも感じられる。 多人数で一斉に襲い掛かるわりには、詰めが甘く周到さもない。

ここに黒人の資質があるのかも知れない。
世界ケンカ旅行(東アフリカ編)3
ナイロビの中心部は概ね1キロ四方に収まるコンパクトな都市設計となっていた。
この1キロ四方のエリア内には、各種政府機関や行政機関、各国の大使館、そして一流ホテル、銀行、航空会社を含む商業施設が集中しており、これらのどこにも気軽に歩いて行けるという便利さである。 中心部の概ね東半分がダウンタウン、西半分が官庁ビジネス地区になっているが、雰囲気はまったく違う。 
官庁街で両替を済ませて、その足でダウンタウンへ入ると情景の変化に少し戸惑う。

ナイロビは東アフリカの代表的都市ということで、もちろん、日本人宿もある。 ダウンタウンの真ん中にあるイクバルホテルがそうで、ドミトリーが4ドル程度であった。
私は一路、このホテルを目指して歩いた。

イクバルホテルは人通りの激しい交通の要衝にあった。
チェックインして広いドミトリーに入ると、昼間なのに部屋の住人の半数以上が雑談していた。 私のように、これから旅行を開始する者、そして、すでに旅行を終えて帰りのフライトを待つだけの人、それぞれの旅行者が情報交換やバカ話に興じていた。 私は挨拶もほどほどに食事のためにすぐに外出してしまったので、集団スリの話をする機会はまだなかった。

ホテルを出て所用を済ませたあと、ダウンタウンを歩いて適当なレストランを見つけて中に入った。
カランガと呼ばれる、じゃがいもとニンジン、そして牛肉の角煮をケチャップをベースに煮込んだ料理が日本人の口に合う。 これとライスをセットにして食べるのが以後、習慣になるほど気に入った。

食事が終わり、ホテルに戻るために雑踏のダウンタウンを歩いていた。
昼下がりの繁華街ということで、舗道には老若男女がひしめき合って歩いていた。

その時、突然、喉に圧迫を感じた。

何者かが後ろから私を羽交い絞めにしているのである。 
それとほぼ同時に、私の両腕を左右から掴む黒い手が見えた。

私は真昼間の雑踏の中にいるということで、首絞め強盗にはまったく無警戒、その瞬間は何が起こったのかまったくわからなかった。

人間というものは、予期せず発生したことに対しては一瞬、体が硬直してしまうものである。思考が追いついて、実際の行動に移行するまでには、少なくとも数秒はかかる。
ただ、私の場合、この2年前に米国に滞在していた頃に傭兵学校で徒手格闘の訓練を行ったことがあった。その中で、背後からの首絞めを前提とした組み手を重点的に繰り返した経験が役に立った。 危機に際して、私の身体は思考より先に、反射神経のレベルで動いてくれたのだ。

「ドリャアアアアアアアアア」
気合一発、無意識に大声を発した。 周辺の通行人が一斉にこちらを振り向いた。

ところが、この気合が思わぬ効果を発揮してくれたらしく、私を捕らえた強盗たちは一瞬気後れしたのか、動きが止まったように感じた。

私は体を左右に振って、後ろに密着して首を絞めている奴の脇腹に肘打ちを5、6発ほど連打した。 相手は肘打ちを避けるために、私の背中から少し距離を置く。 この姿勢からの肘打ちはそれ自体には効果はないが、相手を嫌がらせるには充分であった。

私は姿勢を屈めて相手の懐に入る格好となった。 その瞬間、ちょうど柔道の一本背負いに近い態勢のまま、巻き投げを打った。

2人は同時に宙に浮いた。 直後、相手は地面に肩から背中の部分を強く打ちつけた。 その衝撃は、相手の体を通じて間接的に私にも伝わってきた。

地面はコンクリートの舗道だったから、後頭部を強く打てば、2人分の体重が載っているだけに死亡することもあり得る危険な技である。 しかし、そんなことを考えて手加減する余裕などなかった。 私は持ちうるパワーを全力で使い、相手を地面に叩きつけた。

首を絞めていた腕が緩くなり、私は抜け出した。 相手は私よりも一回り大柄な現地人の男であった。 一瞬、奴の歪んだ表情が視界に入った。 
男を投げた際、私のメガネは地面に落ちたももの、レンズは割れていなかった。 すぐさまメガネを掛け直して、私は周辺を見渡した。
首を絞めていた男以外にも、他に最低2人は仲間がいるはずだが、周辺には通行人しかいない。 逃げていった形跡もないので、おそらく、通行人に混じって素知らぬ顔をして近くにいるはずである。

私はその場から全力で走って逃げた。 地面に倒れた男がその後どうなったかは知らないが、激しく体を打ちつけているはずである。
驚くべきは、そのような路上強盗が起こったにも関わらず、雑踏を行き来する人々は無関心で、中にはニヤニヤと嘲笑している男女もいたのである。
世界ケンカ旅行(東アフリカ編)2
空港を出発した大型バスは、途中、停留所で客を拾いながら市内に向かって進んでいた。
粗末なバラック小屋が並ぶ貧民街のような風景を横目に,バスはさらに進む。 近代的な空港とのギャップが印象付けられる。
市内に近づくにつれて、バスは乗客で溢れていった。 市内中心部の近代的なビルが見えてきた頃には、車内はすし詰め状態であった。

いよいよ、目的地近くに差し掛かる。
私の席が後方に位置していたため、バスが停留所に停まった時点で直ぐに降車できるように前方の出入り口付近に予め移動しておく必要がある。 私は座席から立ち上がった。

バス前方に向かおうと一歩進んだ時、異変が起こった。

私の座席周辺で立っていた乗客たち、数にして5~6人の現地人が一斉に私を取り囲んできたのである。 
私はバックパックを左手に持ち、右手で進行方向を探りながら前に進もうとするが、前方に立っている3人ほどが、体重をかけて私を押し返してくる。
最初は、車内が混雑して身動きが取れないのかと考えたが、現地人との押し合いを続けるうち、自分の周りに密着している乗客は意図的に私を取り囲んで動けないように妨害しているような気がしてきた。

そうこうするうち、後ろから、横から、黒い手が4~5本、スッと伸びてきて、私のズボンや上着のポケットをまさぐり始めた。

「スリだ!」
瞬間そう思った。
知らない間に、集団スリグループに取り囲まれていたのである。

「ウォリャアアアアア」
私は自分の恐怖心を紛らわす意味も含めて、複式呼吸で気合を入れた。 

同時に、肘を左右に振って進路を開け、摺り足で一歩ずつ前に進んだ。
周囲から伸びてきた手は私のポケットに指を突っ込んで中にあるものを掴み出そうとしているのが感覚でわかる。
私はそれに構わず、タックルの要領で体を左右に振りながら、ようやくの思いで出口正面まで辿りついた。

ほどなくバスは停車して、私は逃げるように降りた。
被害を確認するために、衣服を手で触って調べてみた。 幸いにも、ナイフとかで切られてはいなかったが、ポケットに入れていたものは、すべて無くなっていた。

空港で両替した現地通貨であるケニアシリングも盗られた。

バスを降りて冷静になったところであらためて考えた。

最低でも確実に6人はいたはずである。
彼らは一般乗客のフリをしてバスに乗り込み、私をマークして周辺に立っていたのである。 集団スリとしては単純で荒っぽい手口であるが、ナイフでバックパックやズボンを切られなかったのが救いだった。

入国ほどなくして、ナイロビという街の洗礼を受けた一件であった。












世界ケンカ旅行(東アフリカ編)1
1994年 2月 ナイロビ

貧乏旅行を是とするバックパッカーのスタイルは以下に分類することができるだろう。 

まず、ひとつのエリア、例えば東南アジアを徹底的に周遊するとか、インドをくまなく歩き回るとか、地域を限定するタイプ。 そして、その対極にあるのが、とにかく片っ端から独立国を訪問して、100カ国踏破を目指すとか、地球上の独立国すべてを訪問するとか、国の数を追及していくタイプである。 ただし、後者の場合は、趣味として旅行を楽しむというよりは、人生が旅行を軸に展開していくということになる。

私の場合は、旅行自体が好きと言うのではなく、何らかのテーマを見つけて旅行の口実にするタイプだったので、もとより、プラックアフリカを旅する動機というものがない。 しかし、とりあえず若い間に行っておかないと生涯訪れることはないとわかっていたので、重い腰を上げることにした。

航空券はバンコクのカオサン通りにあるチケット屋で購入。 最も安いエジプト航空は、3ヶ月オープンで7万円程度。
エジプト航空のバンコク発カイロ経由便は、乗り換え時にカイロでのホテル1泊付で、外出も可能だったが、ホテルには日が沈んでからの到着だったので、観光に出ることはなかった。 
翌日、カイロを出発。 ナイロビへの空路は所要時間5時間程度で、バンコク・カイロ間に比してそれほど長くは感じなかった。

丸1日をかけて、私はナイロビに到着する。

ケニアの首都であるナイロビは、東アフリカの玄関口とも言える都市で、日本からのアフリカ観光と言えば、まず最初に訪問するのがここである。
ナイロビは海抜1700メートルの高地にあり、年中温暖である。着陸後、タラップを降りると心地よい風が気持ちいい。 初代大統領の名を冠したジョモ・ケニヤッタ空港は、市内から17キロ東南にある。 空港は小さいながらも想像したより近代的で、地域の発展を象徴するような設備であった。

行列に並んでビザを空港で取って入国、次に現地通貨を入手しなければならないが、ここでの両替は市内への交通費に充当する10ドル分だけである。 
空港での銀行レートが市中レートより悪いのはこういう国では普通だからだ。

私は空港を出ると、すぐ近くにあるバス発着場に向かった。
ほどなくして、市内に向かうバスが到着、料金を払って出発を待つ。

始発の時点での乗客は私を含めて数人であった。

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