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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
編者あとがき
K氏との付き合いは、おもにプノンペン時代だけなのですが、当時、キャピトルレストランで連日、聞かされていた断片的な話が、ジグソーパズルを完成させていくように全体像が見えてくる、、、、そんな印象です。

次回は、この自叙伝に触発されて綴る、筆者の短期集中連載を始めますので乞うご期待。
尊師の履歴書(最終回)
(時代の変革)

時は過ぎ去って・・・・・・1985年5月にタイのバンコクから飛行機で香港に飛び立ち、中国を3か月ほど旅行して後に、香港から日本を経由して85年8月にニューヨークに戻り・・・・・・1986年12月に、2度目の南米の旅を終えて後に、ニューヨークに戻り、そこで次の旅費を稼いでから・・・・・・1987年12月にタイのバンコクに戻ってきたのであった。

バンコクは1985年5月以来であったので2年半ぶり。

泊まったのは常宿のジュライ・ホテルであったが、こっちはビックリ仰天。

1985年当時のジュライ・ホテルでは外国人が泊まれたのは5階だけで、日本人は数人程度。 今回では、それが1階にある受付の係りの女性が「満室なので今日は部屋をとれない」 と伝えてから予約用のノートを出して「もし、ジュライに泊まりたかったなら、ここに姓名を書いて予約してください。明日には部屋が取れると思います」 と言われたのであった。 
そのノートには私より先に5名ほどの日本人の名前が記されていた。

ジュライの建物は6階建であったが、ホテルとして利用されていたのは3~5階だけ。 各階にシングル・ルーム(ダブル・ベッド) とツイン・ルームがあったが合計で37部屋くらいか(もしかして32部屋であったかもしれない)。
総収容客数は覚えていないが100人前後であっただろうか。 ジュライ・ホテルは合計で8年間以上利用させてもらったが、私の記憶はそのようなものであり、あやふやである。
各階のシングル・ルームの殆どを日本人が締めていたが、ツインの部屋もふくめて合計で80人前後か。 でも、部屋の数や泊まっていた日本人を数えたことがなかったので定かでない。

ジュライ・ホテルの日本人泊り客が、2年半の間に、数人から100人近くに増えてしまっていたのだが・・・・・・私としては日本から個人旅行者がバンコクのジュライに大挙として押し寄せてきた感じであった。 

でも、理由を考える必要がなかった。
1985年9月22日にプラザ合意によってドル安が誘導され、その事によって日本や西欧諸国の貿易黒字国の通貨が高くなったのであった。 加えて飛行機運賃はドル建てであったので、日本人にとっては割安になっていた。

そのことによって日本でも、世界中でも個人旅行やバックパッカーが一般化し、大衆化したのだ。 

その時期の米ドルと日本円の為替レートを下に列記しておこう。

1985年09月22日・・・・・・1ドル235円(プラザ合意)
1985年09月23日・・・・・・1ドル215円(翌日)
1985年12月30日・・・・・・1ドル201円
1986年12月15日・・・・・・1ドル163円
1987年07月01日・・・・・・1ドル147円
1987年12月15日・・・・・・1ドル127円。

1985年05月・・・・・・・・・・・1ドル:27~8バーツ:250円。
1987年12月・・・・・・・・・・・1ドル:25バーツ(確かではない):127円。

それらの数字は大凡であるが、1985年は1バーツが約9円であったものが、1987年には約5円と半分近くもタイ・バーツは切り下がっていた。 肝心の物価のほうであるが、2年前とそれほど変わっていなかったであろう。

さて、1987年当時の冷気茶室の値段である。

当時の日本人が利用していたのは日本人から「エレベーター」 とよばれた「四遠冷気茶室」(四園冷気茶室かも) が中心になっていたが、娼婦は数十人ほどいただろうか。 15~25歳くらいまで居たが18歳前後が中心。 1985年当時で、私や私の知っている日本人が冷気茶室を利用していたのは『お汁粉屋』だけであり・・・・・・たぶんであるが、他の旅行者もそこだけを利用していたと思われるが・・・・・・いつ頃、日本人が「エレベーター」に集まりはじめたのかは、私には定かでない。

ショートの遊び代は70バーツ(350円)、100バーツと分かれていた。 でも、日本人からすると、どういう理由で区分けされているのかは判別できなかった。 遊び仲間の話によると「クラスは女の子が自ら決める」 ということであった。 日本人から見て容姿は同じであったということになる。 そのためか、否かは別にして殆どの日本人は70バーツの女の子を買っていたのだが、でも、安いからでは決してなかったであろう。

冷気茶室・エレベーターにいる女の子らの出身地はすべてタイの北部のチェンマイ県・パヤオ県・チェンライ県の田舎部。 それが、「家庭が貧しいから」という理由だけではなかった。
1980年代初期にタイの最北部のパヤオ県・チェンライ県にも道路が整備され、田舎部まで電気が通じるようになった。 その意味は、それまではタイの都市部や町にだけ電気が通じていたのであって、都市や町や幹線道路から離れた農村部では、電気も水道設備も整っていないところが多かったのだ。

タイの最北部にもインフラ整備が整ったことによって、住民はこぞって日本メーカーでタイ製のオートバイやテレビなどの電化製品を買い求めるために若い娘たちは・・・・・・「自分が進んで、あるいは親に売られる感じで」・・・・・・高給である娼婦を「お金を稼げる仕事」として選んだのである。 学校に通った子は少なく、出ても小学校だけであり、都市に出てお手伝いなり、店や食堂の小間使いになるしかなかったのだが、給料が安いのでテレビやオートバイなんてとても買えないので、娼婦を選んだのだ。

その多くが親孝行や家族のため「自ら進んで」 娼婦になったのだが、家にテレビがある子は稀であったろう。 そういう彼女らは、日本人からすると初心で世間知らずの面があったが、決して自分が遊ぶための小遣い欲しさで娼婦になったのではなかった。 そういうことも手伝って、利発的な女の子も、中には「級長さんタイプ」のような美人で聡明な女の子もいた・・・・・・エレベーターには数十人の娼婦がいて、18歳前後が中心であったが、そういう「タイプ」の女の子を何人も見つけることができ、それなりに粒が揃っていた。 対して、ズベ公タイプは見かけなかった。 田舎ではそういうタイプの子は育ってこないのだ。

田舎にいるころは処女であった子が大半であったろうが、親に売られるなり、自ら進んで娼婦になった。 その勤め先が冷気茶室という名の娼家であったが、お水系を感じさせる女の子は皆無であった。 年頃の娘であり、純情な子ばかりとは言えなかったが、多くが純朴で従順であった。 そういう子らを、好きに選んで400円で抱けるのだ。

1987年当時やそれ以後にジュライ・ホテルや楽宮旅社に日本人が合計で120人くらい滞在していたであろうか。
その中でお茶屋愛好会の連中が昼食後に4人ほどで連れだって冷気茶室・エレベーターに出かけることになる。 総人数は日によって異なるが15~25人ほどか。 もちろん、旅行者なのでメンバーが入れ替わりもするが、滞在の長いメンバーなら月単位が普通であった。でも、それらの人数は大凡である。

そういう手合いのグループがエレベーターの数部屋ほどを、昼過ぎから占領し、帰るのは閉店前の夕方ごろ・・・・・それが連日続くのであったが・・・・・・その後にエレベーターだけでなく他の冷気茶室も利用された・・・・・・1992年頃にタイでエイズ問題が起こると・・・・・・その後は冷気茶室も女を置いているモーテルも衰退の一途であったが、それと並行してそこを訪れる日本人も撃滅していったのであった。

プラザ合意後(1985年) にタイは、日本を主に欧米の外国企業の進出によって高度経済成長期にはいる。 
物が売れ、お金が回りだしたのだが、それより少し以前にタイは売春業が盛んになりはじめたのだが、景気が良くなってそれが加速化・・・・・・1992年にエイズ問題によって売春業が一気に衰退期にはいる。 

同年の1992年に『5月革命』 と呼ばれた民主化運動を機にして、タイは高度経済成長が加速化。 その恩恵によって、娼婦にならざるを得なかった若い女性の労働力が、工場などに吸収されていったのである。
また、その事がタイの経済を発展させた要因の一つにもなったであろう。 というのも、1990年ごろのタイでは「年頃の女性の1割近くが娼婦である」 という統計が出ていた。 それが、エイズ問題で、娼婦の数が5分の1以下に撃滅したのであった。 その1990年頃のタイの北部のパヤオ県の田舎部では、年頃の女の子の半分とまではいかなくとも、3割近くが娼婦になっていたのではなかろうか。

日本企業が製造したテレビやオートバイを買うために。そのオートバイは兄が乗るのが普通であったろう。 私は実際に1984年にパヤオの田舎を訪れて、その実情を見聞きしたので、決して適当に記しているのではない。 ただ、その割合は大凡であり、定かでないが3割の半分でも、3分の1にしても凄い割合である。

因みに、現在である2012年での日本の年間の自殺者は3万人を超えている。 その死亡率は約3パーセントとなり、学校の40人のクラスでは「一人が自殺する」ということになる。未遂はその何倍にもなるのは確かであるが、その辺りは定かでない。
 さて、日本では売春が禁止されているが、その方面の仕事に携わる女性はどのくらいの割合に達しているのであろうか。 3パーセントを大きく割っていると思われるが・・・・・・。


(あとがき)

私は世界各地で女遊びをした。
25歳から52歳までで、海外に滞在していたのは約20年間。 仕事をしていたのはシンガポールが1年とニューヨークが4年間。
そのニューヨークで娼婦遊びを3度しただけであったが、挿入できたのは1度だけで、射精もできた。その相手は韓国人娘であった。

シンガポール・バンコク・マニラ・ナイロビ・・・・・・中南米諸国にある数多くの色町・ブラジルのサンパウロ・・・・・・カンボジアのプノンペンなどの色町に滞在していた総期間は16~17年間。

仕事をしていたシンガポールの1年間を除いて、他の色町では仕事を全くしていなかったので、連日の如く(週に5~7回) 女を買っていた。 その約17年間で、それらを考慮して「千人斬りを果たしたと思わる」 と述べているのであるが、じっさいのところ定かでない。 遊んだ回数となると、少なくとも4千回に達していると思われる。 因みに人数と回数は少なめに計算している。でも、期間は間違っていない。

私は海外で娼婦遊びをはじめた当初に「訪れた旅先地の国の全てで、娼婦と遊びたい、遊ぶ」 と決めていたが・・・・・・「千人斬りを果たそう」 とは思いもしなかった。

実は、それを思いついた時期があった。
1990年8月(41歳) から1995年10月までバンコクのジュライ・ホテルにホテルに泊まりつづけていた。 今となっては、時期は定かでないが1994年頃であっただろうか・・・・・・・それまで遊んだ女を、指折り数えはじめたのであった。 でも、資料を残していなかった・・・・・・それどころか、それまでの旅の記録を付けている資料はゼロであったので、カウントしても大凡になる・・・・・・今となっては、その人数は覚えていないが、900人近くになっていたであろうか・・・・・・ということで「千人斬りでも果たそう」 という気持ちになったのであった。
でも、それに対して、励むことは無かった。 それも当然で、連日の如くに、一人なり友達を連れ添って娼家に通っているのであり、数を増やそうと思っても、無理であった。 因みに、その当時の私が、新規の女と遊ぶのは、月当たりにして、数人から多くても、10人ほどであったろう。

1995年10月末にジュライ・ホテルが閉館になったので、居場所をパタヤのニュースター・ホテルに移ったのだが、そこでも連日の如く、郊外にある色町の娼家に通いはじめたのだが、1996年7月まで居たので約8カ月いたことになる。 持ち金が少なくなったので、旅費を稼ぐために帰国せざるを得なかったのだ。

7月に帰国して、日本で約16年ぶりに働いたのだが、往復チケットの都合で1年間働いた後に、タイ経由でカンボジアのプノンペンに向かったのであった。

そのプノンペンで遊びはじめたのだが、約3年後の2000年5月の旅費が切れたので、仕方なく帰国・・・・・・実家に戻ると、片親である母が私のために残してくれていた「預金通帳」を、母からでなく、兄からもらって、お金が入ったので・・・・・・とんぼ返りでプノンペンに戻ったのであった。

翌年の2001年(52歳)に体調を崩したので、旅費は残っていたが、治療するために、帰国したのであった。(完)
尊師の履歴書47
(再度アフリカへ)

その私は仕事をする為、1983年4月17日に空路で、日本を経由してニューヨークへ向かうために、大阪空港(伊丹) に向かったのであった。

病院で病気をチェックすると完治していた。

それで、バンコクに戻ろうとしたのだが、JALのチケットはディスカウントであったので、路線の変更が出来なかったので、仕事をする為にニューヨークへ向かったのであった。

ニューヨークで、再度病気のチェックをすると「完治している」 と判断されたので、無性にアフリカに訪れたくなったので、空路でニューヨークからスペインのマドリッドに飛んだのであった。

マドリッド に1泊しただけで見学もせずに早朝、列車で地中海に面しているタンジールに向かい・・・・・地中海を船で渡りアフリカのモロッコに着いて後に、その国を陸路で旅をし・・・・・・陸路で隣国アルジェリアに入り、首都アルジェで・・・・・・サハラ砂漠の横断のための準備に取り掛かったのであった。

6月のある日に急遽、「真っ白な尿が1度だけであったが、出たので病気に罹った!」 と思い「この体でアフリカを陸路で旅行することは無理」 と判断し、急遽・・・・・空路でニューヨークに戻ることに決め・・・・・・アルジェからパリ経由でニューヨークまでのノーマルチケットを買い求めたのだが、パリからニューヨークまでの予約が取れなかったので、翌日のフライトの予約だけでパリに飛んだのであった。

ということで、パリにストップ・オーバーができ、また無料でホテルに泊まれたのだが、そのパリを見学しなかったのであった。
それも、アルジェではノーマルチケットしか買えなかったので、それを750ドルくらいで買い求めたのだ。

ニューヨークでは日に100ドル(2万4千円) も稼げるから「それが一番安上がり」 と計算したのだ。 
実は、後に少し後悔したのだが。 

そのように、簡単に飛行機で飛びまわれたのは、ニューヨークで荒稼ぎができたからであるが、加えて、1万ドル強の預金の「年利が15%」 もあり、その利息でチケット代が事足りたからである。 
まさに「成金趣味」 であったが、ブラジルに半年滞在していたときに、はっきりと自覚していた。 

というより、1974年で25歳のときに、仕事であったが、初めて訪れた外国シンガポールでそれを自覚していた。

尊師の履歴書46
(ジュライホテルで娼婦と同棲生活)

夜行便のバスでバンコクに戻ったのだが、南バスターミナルに到着したのは夜明け前。

周りは真っ暗であったが、市バスは走っていたので、それに乗車してチャイナ・タウンにある常宿の三合吉旅社に着くと、まだ朝が明けていなくて1階にある出入り口は閉まっていた。

そこにあるベルを押せば2階にある旅社の受付に寝ている従業員が起きて、ドアを開けてくれることになっているのだが、それに少し気が引けた。
12月の末であったが、この時期のタイは乾季で年中で最も涼しくて過ごしやすい季節であるが、地球的な規模で寒波が訪れているのか、薄着なので今朝は滅茶苦茶に寒い。

頭の中に「ジュライ・ホテル」 という名前は浮かばなかったが、三合吉旅社から北に200メートルほど離れている「日本人が集まっている宿の受付は24時間オープンしている」 ということが浮かんだので、直ぐに向かって1階にある受付を訪れると、やはり開いていた。

エアコンなしのシングル・ルームの値段を聞くと80バーツ(約千円) で三合吉旅社と同じでなので、チェックインして530号室に入ったのであった。

常宿の三合吉旅社は道路に面していない部屋は静かであったが、隣の建物が邪魔をして日当たりがなく、風通しも悪いので湿っぽかった。  対して、道路に面している部屋は道路に面しているので日中は車の往来の音で凄くうるさいのだが、部屋は日当たりも風通しも良く乾燥しているので過ごしやすかった。  ということで、いつも2階の道路に面している部屋を利用していた。

対して、ジュライの530号室は道路の面していないので静かであり、風通しも良いので過ごしやすい。 ジュライは他にも三合吉旅社より良い面が多くあった。  当時のジュライは外国人が泊まれたのは5階だけであったが、日本人旅行者は数人ほど泊まっていた。 因みに、100メートルほど離れたところに楽宮旅社があり、そこには日本人が15人ほど泊まっていたであろうか。

昼間はジュライに泊まっている日本人と話を交わしていたのだが、夜の10時を過ぎると三合吉旅社と同じような部屋に入って寝るだけ。  5畳ほどの部屋に2畳ほどの水しか出ないシャワー室が付いている。  部屋の調度品は南国のことで高い天井に大きな扇風機が付いていて、頑丈な木製のダブル・ベッドとテーブルと椅子と小さな箪笥が備わっていた。

最初の日は分らなくて後にわかったのだが、ジュライの5階には5人ほどの娼婦がお金を出し合って一部屋借りて泊まっていた。

因みに、ダブル・ベッドが一つだけなので二人くらいは磨かれたコンクリの床で直に寝ていたことであろう。  三合吉旅社は客に娼婦を紹介する場合は従業員が行なっていて・・・・・・娼婦から遊び代金の3割を手数料として取っていた。 このジュライはそうでなく、40代のおばさんが「やり手婆」 として存在していて、娼婦から遊び代金の3割を手数料として取っていた。

三合吉旅社とジュライには、宿に5人ほどの娼婦が一部屋を借りて泊まっていた。 三合吉旅社は外部から娼婦を呼んでもらうことが出来た。 でも、このジュライではそれが出来なかった。 
因みに1990年代では、この近辺の道路や公園のいたる所に街娼が昼間から立っていたが、この1982年当時では、街娼は存在していなかった。 

夜の11時過ぎであっただろうか。

そのやり手婆が一人の女を連れて私の部屋を訪れてきたのであった。

肝心の女の容姿であるが、年のころは24歳くらいであり、娼婦としては若くはない。 やや小柄で、ずんぐりむっくりの体型であったが、マスクはお世辞にも美人とは言いがたい。 ということで、今一つであったが、肝心の値段を聞くとオール・ナイトは300バーツ(約3300円)で三合吉旅社と同じ・・・・・・・値段を聞いた勢いというか、そのまま承諾したのであった。

女代の300バーツの方であるが、彼女は当時のタイの娼婦と同じように無学なので足し算は二桁までしかできず、掛け算・割り算は全く出来なかったので、また、預金の習慣がないので、彼女ほうから・・・・・・・「毎日300バーツもらっても、私はお金の管理ができなくて困るので、私の必要な時に・・・・・・例として、実家から月に1~2度ほど要求してくる『仕送り金』 の際に、私に渡してほしい」・・・・・・と願い出たので、私はそれを承諾したのであった。

食事の多くは、二人が共に近くの飯屋で取ったのだが、その際に私が払いもした。 彼女は小遣いが必要なので、私の小銭入れを渡し、朝になると私は「合計で100バーツ」 になるようにお金を足していた。 
そういう彼女は「日に20バーツ以上使う」 ことは稀であった。 1箱7バーツくらいのタバコを吸ったのだが、それ以外ではこれといって必要がなかったからである。
時に、彼女は衣服や金の指輪やネックレスなどを所望した。 私の頭の中に1カ月の代金は「30日×400バーツ」があったので、それに見合った額で、彼女の要望を満たさせていた。
その中には、彼女の日々の食事代、月に1~2度くらいの実家への仕送り代金など、彼女に掛かるお金の全てを計算していた。 因みにそれが1万バーツだと400ドルで11万円になるので、タイ人にとってちょっとした金額である。 たぶん、彼女はそれなりに満足していたであろう。

その時の私の月当たりの出費額は調度1千ドル(28万円)であった。

というより、1千ドルになるようにしていた。  その金額は、ブラジルで遊んでいたときと同じであったが、それを基準にしていたともいえた。  因みに、周りの日本人は月当たりの出費は5百ドル前後であったろう。 
ということで、私はお大尽様であったが、私にとってニューヨークで月に3千ドル稼いでいたので順当であった。

その二人の生活は、どちらかというと質素であった。  というのも、周りの日本人と、私の暮らしぶり・・・・・・例えば、食事の内容や娯楽費などは、殆ど変らなかったからである。
彼女も、衣装などに対して贅沢を好みはしなかった。 それは、実家への仕送りを中心に考えていたからである。 その私の心境は「女代を少しは減らしたかったのだが、口に出せなかった」 のでそのように成ってしまったのだ。 因みに、女は女で「金額」 をそれなりに計算していたのだが、「私がそれを値切ると、女は私から立ち去る」 という態度は示さなかったが「腹にある」 ということを、私は熟知していた。

正直なところ、タイでの月当たり1千ドルの出費はかなりの額であり、予定よりかなりオーバー。  それは確かであるが、2月末に入ればエヴェレストへのトレッキングに向かうためにタイを出国する予定・・・・・・それは彼女と一緒に過ごすのは2カ月弱なので「それはそれで好い」 と自分を納得させたのであった。


私は11月30日にニューヨークを出る際に、「春になったら、エヴェレストへのトレッキングに向かうためにタイを出てネパールに向かう」 と決めていたのだが、その時期は2月末であった。 
タイに12月9日に入国した際も、彼女と一緒に暮らしはじめた12月末の際も、一度延長したタイの観光ビザの滞在期限が切れる2月23日になっても、タイに留まっていたのだが、その決心は揺らぐことが無かった。

タイのビザを更新するためにマレーシアのペナンに出かけて、バンコクに戻った2月末になっても、私はネパールを向かわなかった。 
理由があったのだが、彼女に惚れていた訳でもなく「私の体調が思わしくなかった」 からである。 

ということで、私はネパール行を諦め、彼女がタイの正月であるソンクラーン祭(4月12~14日)をパヤオ県にある実家で迎えるために4月11日ごろバスでバンコクを出発するまでの3カ月半ほどを彼女と共にジュライで過ごしたのであった。

尊師の履歴書45
(第5回目の旅行)

1982年7月にブラジルを空路で飛び立ちニューヨークに戻って、次の「アジアを経由して2度目のアフリカの旅行」 のために旅費を稼ぎ始めたのであった。

1979年に初めてネパールを訪れ、エヴェレストのトレッキングを行なった際に、次にネパールに訪れる時期は・・・・・・・「エヴェレストへのトレッキングのときに通りかかるラムジュラ・バンジャン峠のシャクナゲの群生が花を咲かす春」 と決めていたのだが、その際には「カラパタールから満月に浮かび上がるエヴェレストを仰ぎ見る」 という計画を立てていた。
 
それで、次の旅行はそれを実現する気でいた。 ネパールを2月頃に訪れるのがベストであったが、その為にはニューヨークを今年の12月中に旅立つのが理想と思えた。 というのも、ネパールを訪れる前に、韓国やタイを訪れて女遊びを3カ月ほどしたいからである。  ということで、次の旅行までには4カ月ほどあった。

目標の旅費は1万ドルに加えて予備費が4千ドル。  前回の旅行の際に1万3千ドルほど預金を残しておいたのが、15%の利息が付いて1万5千ドルになり、ニューヨークに戻った際に3千ドル強残っていたので持ち金は1万8千ドルであったので、次の旅費はそれで十分であったが、旅立つ際に少なくとも1万ドルの預金残高があるのが理想なので、4カ月間で6千ドルほど残したかった。

それが、色々な理由が重なって月収は3000ドル(×268≒80万円!) 、預金は2700ドルになり、4カ月過ぎた11月末には1万ドルほどになっていて、目標を大きく超えていた。

ネパールを2月頃に訪れるのがベストであったが・・・・・・「ニューヨークで休みも取らず4カ月近くも働き詰であったので、その疲れを癒すために韓国・タイを訪れて女遊びを堪能してからネパールに向かう」 というのが好ましかったので・・・・・・予定通り、旅行の準備が整った11月30日にニューヨークを出たのであった。

旅費は予定通り1万4千ドル(約390万円)で、旅行の予定期間は2年ほど。

ニューヨークからソウル経由でバンコクに向かうチケットはブラジルのサンパウロで、サンパウロ→ニューヨーク→ソウル→バンコクの片道チケットを1千ドルで買っていた。  そのために、そのチケットでは日本に立ち寄ることが出来なかった。


ニューヨークを発ちソウルに着いたのは1982年11月30日。
韓国を出国したのは12月9日であったので10日間滞在していたことになる。 お金に余裕があったので「韓国にあるどこかの温泉で温泉芸者と共に1週間ほどのんびりと過ごそう」 と思っていた。 それが、韓国には「温泉」 があっても「湯治」 が専門で「温泉芸者としっぽりとすごす」 という文化がなかったので、出来なかったのであった。

ソウルに着いたのは夜であった。
その翌日に温泉に向かったのだが、選んだのは日本海外側で、北朝鮮の国境に近い、東海岸の江原道にある韓国第一の景勝地として知られる韓国一の名山:雪岳山の山麓にある五色温泉、(もしくは束草のちかくにある尺山温泉) であった。

ソウルから高速バスで向かったのだが、直行便はなく、韓国の北東部の江原道の日本海に面している江陵であったが、東海岸側では最大の都市で観光都市。 夕方に着いたために50キロほど離れている「五色温泉」や「束草」方面に向かうバスはなくなっていた。
それで江陵で1泊することにしたのだが、泊まった安宿(ヨインスク) はなんと、ピュアな女郎屋(とは言っても、潜り)。
50歳前くらいのお上さんが一人で取り仕切り、5人くらい女の子がいて、各自が部屋を持っていた。 泊まるだけでも良かったのだが、もちろん、お上さんの日本語での「日韓友好親善」 の申し込みに対して、快く引き受けたのであった。 そのオール・ナイトの料金は6千円ほどであっただろうか。
選んだ女の子は宿の前の路地に一人で出て客引きをしていた女の子だが・・・・・・20歳くらいか、筋肉質でやや小柄で普通の顔であった。それが、彼女が占有している6畳ほどの部屋に入ってから、相手をそれなりに観察すると、「ちょっと足りない女の子」という感じであった。


韓国に10日間滞在した後に空路でタイの首都バンコクに飛んだのであった。

バンコクは3年ぶりであったが、チャイナ・タウンにある常宿の三合吉旅社に投宿。 まだ余り知られていない、バンコクから南に700キロほど離れているタイランド湾に浮かぶサムイ島に出掛ける事にしたのであった。

前回のタイ旅行では、タイ北部のチェンライにある旅社で巡り合った美人で下半身の具合の良い女を連れて・・・・・・その心境は「新婚旅行の予行演習」 ということでタイの南部にある海のリゾート地プーケットを訪れたのであった。 
予定は2週間であったが、11日目でトラぶってしまって12日目で彼女は実家へと帰ってしまったのだが、その距離は約1300キロ。

トラぶった理由の一つは・・・・・・「彼女にとって、私は外国人であり言葉が全く通じない・・・・・・加えて、彼女はタイの北部の人間であったが、プーケットはタイ最南部なので・・・・・・同じタイ人でも『彼女にとって現地人とは言葉が全く通じないので、話し相手が全くいないので、孤独であった』」 というものであった。
もう一つは、彼女の買い物のおねだりに対して、こっちは冷ややかな態度を示したからであるが、これが最大であったろう。

ということで、今回のサムイ島への旅行は・・・・・・「女は現地調達する」ということに決めて、一人で出かけたのであった。

サムイ島は初めて訪れたのだが、南北に17キロ、東西に14キロ、一周が50~60キロほどの島内にはいくつもの美しいビーチがあり、サムイ島の唯一の町ナトン・タウンの港のある海岸通りには娼家が1軒あって、少なくとも娼婦が5人ほどいた。
でも、名前が知られているビーチを訪れると、島内のビーチの全てに対して、感じとしては外国人を相手にしている娼婦は存在していない様子であった。 その当時では、サムイ島を訪れる外国人観光客は月に何十人程度と少なかったので、たぶん、その手の女は存在していなかったであろう。

ということで、ナトン・タウンにある旅社に泊まって、夕方にその近くにある娼家を訪れて、25歳くらいの女を旅社の自分の部屋に連れ込んだのであった。 そして、その女に「ビーチで一緒に過ごそう(1週間ほど買い切る)」 と誘ったのだが、断られ・・・・・・加えて「娼家の他の女も駄目」 と断れてしまったので・・・・・・韓国での「温泉で云々」 と同じく、このタイでも「ビーチで女と共にのんびり過ごそう」 という願いは達成できなかったのであった。

それで、サムイ島に1泊、もしくは2泊しただけで、バンコクにバスで戻ったのであった。
尊師の履歴書44
(ある出来事)

1月22日にブラジルにやってきて3ヶ月半くらい過ぎ去った頃で、4月の中頃であっただろうか。

それより少し以前に、日本人旅行者の溜り場『ペンション鶴』 が閉鎖されたことによって、私は遊び仲間らと共に『ペンション荒木』 に移っていた。 そこに泊まっていた日本人は12人ほどか。

その『ペンション荒木』 に泊まっていた日本人旅行者の一人から、サントス(サンパウロから南に75キロほど離れているブラジル最大の港町) にある船員相手のボワッチェ(安キャバレー) にいる娼婦を紹介してもらったのであった。

その彼の触れ込みは「女は日本人と同棲したがっている」 というもの。 その彼の話では、娼婦であったが「紐(ひも)という立場」 でないので、無料でなく有料ということであった。

彼女は酒場で屯するフリーの娼婦であったが、サントスの外国人相手のボワッチェのオール・ナイトの相場はドルに換算して20ドル。それが、夜中の仕事で、遅くなると10ドルにまでダンピングするのが普通。

さて「娼婦と同棲する一泊?」 のお値段であるが10ドル。 でも、それはあくまでも、女の望みであったろう。 そういう彼女は、夜になるとボワッチェに客を取りに行くことになる。 女としては安定した収入が欲しかったのだ。

肝心の容姿であるが「サントスで会えばばわかる」 ということであった。 

因みに、その当時で「1人か2人ほどの日本人がサントスで娼婦と同棲している」 という話を聞いていた。 でも、その日本人を私は知らなかったが。
たぶん、殆どの男は「女の紐になりたい」 という気持ちがあるだろう。

彼女とは「それ」 ではなく、その真似事に過ぎなかったが、心を揺さぶられたので承諾。 ということで、2人は夜の11時過ぎにサンパウロにあるペンションを出て、地下鉄やバスを乗り継いでサントスに向かったのであった。

ボワッチェで落ち合うことになっていたのだが、夜の1時過ぎに着くと、友達が付き合っている女と一緒に、その彼女がいた。

さて、その容姿であるが25~6歳か。 ピュアな黒人であったが、160センチを軽く越す長身で、ヒョロッとしてやせ細った体型。 それが美人にほど遠く、どちらかというと(大)ブスの口であったが・・・・・・「気立てが優しい」というのにもほど遠く、気性の激しさが顔に素直に出ていた。

好みではなかったが、紹介された相手であり、男女ともお互いに「一先ず味見」 ということで・・・・・・・その女とその友達の女と我々2人の4人は揃って、彼女ら2人が一緒に借りているアパートに向かったのであった。
彼女ら二人は別々の部屋を持っていたのだが、私は紹介された女の部屋に入ったのは当然の事。  因みに、別の部屋に入った友達が付き合っている娼婦は若くて、かわいくて、ひ弱さを感じさせる女の子であった。

料理は上手ではなかったが、33歳になろうとしている独身男にとってはうれしい限りであった。

ということで、その後では週に1度くらい付きあっていたので、月にして5度くらいか。 そのように成ったのは、彼女は他のボワッチェで仕事をしていたのだが、ディスコ・ドイスミルに深夜の2時半過ぎごろに顔を出す回数がそれだけであったので、彼女が顔を出せば、必ず私は彼女の部屋に同行するようにしていた。
尊師の履歴書43
(第4回目の旅行)

中南米旅行用の旅費が作れてアメリカを出国したのは1981年7月15日。 

ルートは次のようになる。

ニューヨークから空路でメキシコの首都ニューメキシコに到着。 以後は陸路で中米のグアテマラ、エル・サルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカを周る。

メキシコは物価が日本と同じくらいに高かったので女遊びをしたくても、その気にならなかった。

グアテマラでは古都アンティグアでスペイン語を習うために24日間、次の国であるエル・サルバドルの西海岸で太平洋に面している港町アカフトラに10日間ほどで合計34日間滞在。
アンティグアでは15回ほど、アカフトラでは連日女と遊んでいたのだが、人数では15人ほどか。
アカフトラからコスタリカの首都サン・ホセへはトラックをヒッチして向かったのであったが、通過していくニカラグア・ホンジュラスでは女遊びをしなかった。

プエルト・リモンに向かう前に首都サン・ホセや太平洋に面している港町プンタレナスで女遊びを連日していたのだが、今となっては・・・・・・1人だけを除いて人数も回数も内容も忘れてしまっている・・・・・・それでは話にならないのだが、20人ほどで回数も同じくらいか。

9月29日にコスタリカから空路で南米のコロンビアのメデジンに到着。 以後は陸路で南米のエクアドル、ペルー、チリを南下。

1982年1月6日にチリのバルパライソを出てから翌日にアルゼンチンに入国。

南部のパタゴニア地方にあるエル・カラファテでペリトモレノ氷河を見学して後に、今度は南米大陸を一路北上。 北米のナイアガラの滝に次いでアルゼンチンとブラジルの国境にあるイグアスの滝を見学。  これで、世界三大瀑布の内で二つを見学することが出来たので・・・・・・残すは、前回のアフリカ旅行で訪れることが出来なかったビクトリアの滝と決意(因みに、1985年に達成)。

1982年1月22日にブラジルに入国。

翌日にサンパウロに着いて東洋人街にある日本人旅行者の溜り場『ペンション鶴』 に投宿。  その頃は2月に開催されるリオのカーニバルが控えていたので『ペンション鶴』 を中心に、他のホテルなどに日本人旅行者が20人くらい集まっていたであろうか。
それ以後から好き者仲間と共にサンパウロ・サントス・リオデジャネイロにあるボワッチェ(安キャバレー・ディスコ) に屯している娼婦と連夜の如くオール・ナイトで遊びまくったのであった。

ブラジルでは主にサンパウロに滞在していたのだが、延長したビザの滞在期限が切れるまでの半年間滞在して1982年7月20日に飛行機で出国して、翌日ニューヨークに到着。

中南米の旅行は陸路で各国にある外国人船員相手の娼婦がいる港を訪れながら南下してゆくので日本人バック・パッカー達から・・・・・・「女の旅」とか「港町めぐりの旅」と呼ばれていた。
1970年代後半に、すでにその「港町めぐりの旅」 のルートが確立されていたのだが、それは日本人旅行者だけのものであった。 そのルートの一つが先述した内容である。

日本から、もしくは、アメリカからメキシコに入国した者で「中南米を陸路で周る」 という人は・・・・・・・メキシコ以後での中米では南下することになる。

中米の最南端の国はコスタリカの南の隣国パナマであるが、南米のコロンビアと陸路で繋がっている。  でも、道路が通じていないので一般のバック・パッカーは、パナマからでなくチケット代が安いコスタリカの首都サン・ホセから空路でコロンビアのメデジンに向かうのが一般であった。

南米でも太平洋岸に沿って南下してゆくことになる。 インカ帝国の遺跡があるので南米一の観光国ペルーまでは、前述したルートを取るが一般である。 ペルーから南下してブラジルやアルゼンチンに向かう者は各自でルートが異なりもしたが・・・・・・私の取ったルーとさほど変わりはしなかった。
というより、女遊びをしようが、しまいが、メキシコから入って陸路で中南米を巡ろうとしたなら、どうしても「私のとったルート」 になってしまうことになる。 異なるのは南米のペルー以南で、内陸国であるボリビア・パラグアイに加えて、ウルグアイを訪れるくらいである。

その中南米のルートはパン・アメリカン・ハイウェー(高速ではなく、普通の整備された道路) を南下してゆくのにほぼ等しかったが、それ故に道は整備されていたので中南米の全域を陸路で旅をしようと思うと、どうしてもそのルートを取ってしまう面もあった。
因みに、その当時の日本人のバック・パッカーで、南米の東側にあるベネズエラやギアナなどや、カリブ海、西インド諸島にある島国を訪れる者は極めて稀であったろう。 
私は1990年までニューヨークを基地として世界各地を回っていたのだが、それらの国を旅行した日本人に出会ったことがなかった。旅行の情報がなかったのと、コスト・パフォーマンスを考え合わせると魅力を感じなかったのであろう。

私は「女の旅」 を中南米の各国にある色町を訪れてゆくことになったのであったが、港町だけでなく・・・・・・内陸にある日本人旅行者の溜り場になっている都市を訪れもした。
それらの都市の全てに女が屯しているバーがあり、そこで女を捕まえ、ホテルに連れ込んでオール・ナイトで遊ぶのが普通。 それも連日ではないがそれに近かった。

それが出来たのも、一重にニューヨークで約1年間働いて旅費として溜め込んだお金が2万ドル強で、日本円に換算して500万円強に達したお蔭・・・・・・(私の場合であったが)週6日制で日給にすると60ドル・・・・・・対してバーやキャバレーいる娼婦のオール・ナイトの遊び代金は安いところで10ドル、高くても20ドルであったから連日でも気楽に遊べたのであった。  買わないのは、気にいった女が見つからないなり、気に入っても起つ自信がなかった場合くらいであった。

日本で日給が8千円で、バーやキャバレーいる女給(ホステス) とのオール・ナイトの遊び代金が1千~2千円 (有り得ない) であったなら、連夜の如くに飲み屋に出かけてホステスを連れ出し、安ホテルなり、女の部屋で一夜を明かす者が多く出てくるであろう。 増してや、自分のように旅行者という24時間の全てを自由に使え、独身の立場なら。

日本より2~3倍、人によっては4~5倍(日に3万強) も稼げるニューヨークでウェーター・料理人・キッチンヘルパーとして働いてせっせと旅費を貯め、物価の安い中南米・東南アジア・アフリカのナイロビで女遊びをすると、それが簡単に、誰でも実現できたのである。  別に女遊びをする必要はないが、したくても出来ない場合は・・・・・・下半身が弱いというか、自信がないだけの事であるが、それを思い知らされることになる。

私は酒やタバコを嗜まなかったが、ニューヨークでの日本人の溜り場所となっていた「ペンション・アンドワイン」 の120ドルの家賃を除いての出費は、月当り20ドルくらい。
ニューヨークの物価は日本の2倍強。 週6日制の給料とチップをあわせて月給が45万円弱で、生活費+小遣いが5千円くらいとなるので、ドケチを通りこしていたが、旅先地で女遊びをしたいが一心。

女遊びは別にして、その銭ゲバぶりは私だけでなく、当時もその前後でもニューヨークの日本レストランで働いて旅費を工面していた日本人バック・パッカーの全てがそうであった。 その総人数は年次によって異なったが30~50人ほどか。


中米では・・・・・・2カ月半滞在していたのだが、4カ所の色町で2カ月弱ほど滞在して、連日の如く女遊びをしていたのだが、30人強で数十回ほどか。

南米では・・・・・・ペルーの首都リマに2ヶ月ほど滞在していたのだが港町カヤオにあるバーに連日の如く通って遊んでいた。
チリの最大の港町バルパライソに約1カ月滞在していたのだが、ここでも連日の如くバーに通って女遊びをしていた。

合計で3カ月になるが25人ほどで70回ほどか。 複数であったが、同じ女と何度も遊んだことを示している。

ブラジルには半年間滞在していたのだが、サンパウロを中心としてリオ・デ・ジャネイロや港町サントスで連日の如くボワッチェ(安キャバレー・ディスコ) に通って女遊びをしていた。 

合計では40人ほどで140回ほどか。 複数であったが、同じ女と何度も遊んだことを示している。
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