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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
プノンペン 1999年頃、ある日の生活費
今から20年前に比べて、カンボジアの物価はだいたい2~3倍くらいになりましたな。 当時のプノンペン生活を偲んで、昔の家計簿を復刻してみました、、、、、(以下、1ドル≒120円≒4200リエルで計算)

・宿代600円 

5ドル(600円) @キャピトル3ゲストハウス

・食費740円

(朝食) ハムサンドイッチ 2500リエル(71円) ホットレモンティー 500リエル(14円) @キャピトルレストラン

(昼食) 冷やしそーめん 4000リエル(114円) @つうちゃん食堂

(夜食) トンカツ定食 8000リエル(223円) @つうちゃん食堂

(その他) 
アイスミルクコーヒー 1000リエル(29円) @キャピトルレストラン
氷あずき×2杯 1000リエル(29円) @S村、 
串カツ 1ドル(120円)、 缶コーラ 1ドル(120円) @マティーニナイトクラブ

飲料水×ボトル1 500リエル(14円)

・交通費123円 

(S村を往復)
往路 バイタク 1000リエル(29円) キャピトル前から日本橋まで、 リアカー 300リエル(9円) 日本橋から村まで。 
復路 バイタク 1000リエル(29円) 村から70番まで。

(マティーニを往復)
往路 バイタク 1000リエル(29円) キャピトル前から店まで
復路 バイタク 1000リエル(29円) 店からキャピトル前まで

・遊興費1400円

2万リエル(571円) @S村、 
8000リエル(229円) @ツールコック
5ドル(600円) @ライライ


合計2868円

当時は、遊ばなかったら、1日10ドルで生活できたわけだ、、、、まあ、今ではこんな生活は無理だろうね、、、

昔のプノンペン(秘蔵映像)
1996年12月撮影のもので、前回紹介した、射撃場のビデオと同時期のものです。

映像はまず、モニボン通りを渡るところから始まり、そのまま、キャピトルレストランまで直進、店内に入ったところで終わります。
簡単なルートは次のような感じ。

capires.png



当時は、比較的自由に舗道が歩けたことがわかりますな(現在は舗道スペースが駐車場代わりとなっていて、歩行の障害となっている)。 また、現在ではプノンペン市内交通の要のひとつとなっている「ツクツク」がいないのに注目(ツクツクが登場したのは2003~4年頃と記憶しているが、、、)。

プノンペンの軍営射撃場(秘蔵映像)
1996年12月の映像を公開します。

当時、プノンペン観光のウリのひとつは、郊外での実弾射撃でした。 交渉すれば、1回あたり5ドル(弾代別)でライフルを撃てたので、筆者も随分と通いました。 そこで撮ったものです。


ちなみに、射手は若き日の私です。
昔買ったカンボジアの古札は今いくら?
その昔、キャピトルレストランに座っていると、行商が様々な雑貨や土産物を売って歩いておりましたな。

だいたいが、駅弁売りスタイルで商品を運んでいたわけですが、カンボジアの古札をパッケージにして土産物として売っていたので記念で購入したことがあります。 

それがこれ。
cambomoney.jpg
どれも、1960年代後半から70年代前半あたりに使用されていたリエル札

紙幣10枚をまとめて1ドルで買いました。 確か、言い値は10ドルだったものを値切ったらすぐに1ドルになったんで仕方なく買ったような記憶がありますな、、、、

これ、コインや紙幣の専門サイトで調べてみると、コレクター間での取引価格は、だいたい、写真にあるものはすべて1枚2ドル程度。
ということは、まあ、紙切れ同然のものを高値掴みさせられたというよりは、それなりに価値のあるものを安く手に入れたということになりますか、、、
プノンペン 思い出の場所 1995~2002 #9
最終回 スウァイ・パ

svaypak.png

直訳すると、「マンゴ園(Svay Pak)」  となるこの地名は、プノンペンの日本橋辺りから11キロほど北にあるベトナム人部落を指します。 ネットで検索すると分かりますが、ここはカンボジアで悪名高い児童売春の拠点として知られています。 ただし、2003年頃からは当局の規制で置屋は潰されて、現在はただの集落でしかありません。

いろいろと記事や個人ブログを見ているとわかりますが、かなり事実と違った認識をされているし、問題点がずれている批判も散見されます。 今回の投稿はそういった俗論を糺す意味もありますな。

まず、この村が国際NGO等に批判されるようになってからも延々と続いていた背景に、カンボジアの汚職体質があることを見逃してはなりません。 カンボジアの警察はヤクザと同じで、置屋の一件一件から上納金を徴収しておりました。 
筆者は置屋を回って、みかじめ料を集めている警官を目撃したことがありますし、 散発的に行われた摘発も、賄賂集めの手段になっていました。 まさに、地元警察の重要な資金源だったことがうかがえます。

ただし、底なしの汚職体質は、公務員の安月給が根底にあることも忘れてはいけません。 なんせ、ヒラ警官の月給が当時20ドル程度(!)で、ほとんどの警官はバイタクなどの副業をしていたのが実状。 生活のために、賄賂でシノいでいかなければ生活できなかったということ。 カンボジアのすべての矛盾の背景にはやはり「貧困」の二文字が絡んでいるということか。

この村が早くから子供売春を行っていたことは確かで、私が95年に初訪問した際にも、バイタクからの誘いがあり、現地に行って10歳前後の子供がいたのを確認しております。 もちろん、私はそういう趣向はないので興味本位で訪れただけですが、観光客の中には実際に買っていた人もいたはず。 

96年までは、プノンペン市街のど真ん中に置屋通りがいくつかあって、好事家は敢えて郊外まで足を伸ばす必要性がなかったんですが、97年になると、中心地に堂々と置屋が居並ぶような光景はなくなりました。 当局にとってさすがに、それはマズかったのでしょう。
このあたりから、郊外の村に足繁く通う好事家が増えてきたわけです。

勘違いされていることも多いのですが、明らかな子供が置屋の前面に立って客引きしているようなことはありませんでした。 しかし、欧米人からすると、ベトナム人は子柄で幼く見えるので、彼らの基準でみると全員が子供に見えたことは間違いない。
子供を性的対象とするのはカンボジアでも犯罪行為との意識が強かったので、そういう趣向を持つ客は、やり手婆を通じてコソコソと事に及んでいたはず。 極めてアンダーグラウンドな行為で、大っぴらに外に見える形で売買春は行われていませんでした。

国際NGO「国境なき医師団」 直営のクリニックが村に常駐するようになったのが95年、以来、コンドームを無料配布したり、衛生指導したりしていたことはあまり知られておりません。 ネットで調べてもそのような記述は出てこない。

さて、その売春村はどのようなものだったのか? 

村全体としては、100軒ほどの小さい集落に過ぎません。 置屋の数は通りに面して15~20軒程度。 1軒あたり、5~7人いたとして、同時期に100人前後の娘が働いていたと推定できますが、よくわかりません。 ただ、ネットで200人とか書かれているのは明らかに過大評価し過ぎ。 アジア各国にあるような色街と比較しても、規模的には小さい方で、悪名だけが先行した形でしょう。

特筆すべきは、ベトナム人特有の明るさと逞しさに満ちた女の子たちで、色街特有の陰惨さや影の部分は表面上は微塵も感じられない。 この点、他国の赤線地帯と雰囲気が決定的に違うところでしたな。

遊び代の方は、一見さんの外国人は、言い値で10ドル、値切って5ドルが普通でした。 常連外国人は1万リエル(2.5~3ドル相当)、現地人は8千リエルが相場。

村の商売が活発になるのは日が沈んだあとですが、日本人の長期滞在者の中で夜に通っていたのは少数派。 なぜなら、足が限られているというのはもちろん、夜間には要所でカツアゲ警官の検問があって、何かと面倒になることが分かっていたからです。 

村へ行くには、バイタクなら片道2000リエル(要交渉)~1ドル、ウドン行きの乗り合いバスがセントラルマーケットから出ていて、片道1500リエル。 あるいは、日本橋からリアカー付バイク(写真参照) に乗り込むという方法がありました。 こちらは300リエル。 
ちなみに、当時、ツクツクはまだありません。
riaka.jpg

典型的なパターンは、昼の2時頃に現地に到着して、村の目抜き通り奥にあるカフェで一服。 
ここは、由美かおる似のおばさんがやっていて、コップ一杯500リエルの氷あずきがウリでした。 ということで、人呼んで「あずき茶屋」。 
で、大体、ここで3時間くらいブラブラして、日が暮れる前に大半が帰っていきます。

svaypak2.png
98年頃に集落の入り口に立てられた看板。 体のいい目印となった。

村の悪名が一般に届き始めたのは、インターネットが普及してきた98年頃か? 99年あたりになると、海外風俗系のウエブサイトに紹介されるようになり、ネットでは「幻の国」 という隠語で呼ばれたりもしましたが、まあ、カンボジアであることは一目瞭然。

書籍で言うと、前回紹介した「PIP」 もそうですが、それに先んじて98年に発行された「怪しいアジアの怪しい人々」 が与えた影響はかなり大きい。 これが曰く付きの本で、著作内ではプノンペンの長期滞在者を面白おかしく紹介している内容ですが、もちろん登場人物にはすべて実在のモデルがいて、多少は誇張されているものの、分かる人には誰をモデルにしているのかすぐに分かる、、、、ということで、本人の許可なくモデルにされて、中にはカンカンに怒っていた人もいました。 

従前は、あちこちで黒沢氏を見かけたものの、上掲本が世に出てからは、キャピトル界隈で彼を見ることもなくなりました。 反感を買っていることを知って、旅行者の集まるエリアを避けていたのでしょう。 

ayasiiajia.jpg


99年にもなると、プノンペンの長期滞在者に質的変化が起こりました。

以前までは、長期滞在者と言えば、基本的にバックパッカー上がりが主力だったんですが、この頃になると、ネットや本を通じて「どうやらカンボジアが凄いらしい、、、」 というのを聞きつけた好事家が集まりだした、、、、女遊びだけを目的に来た人々です。 この中には真性のロリコンもいたでしょう。 

2000年には、「プノンペンあやしい掲示板」 というサイトが有名になり、この少し前、プノンペンにやって来た井上氏がサイト管理者だと仲間から聞いたのは、しばらく経ってから。 

井上氏は、彼のサイトを見て頼ってきた日本人のガイドをしたりしておりましたが、遂にはキャピトルと村を直通で結ぶミニバンを使ったシャトルサービスを始めてみんなを驚かします。 我々は「井上バス」 と呼んでいましたが、片道1ドルで運行開始、欧米人にはよく使われておりました。 (この頃の交換レートは1ドル4000リエル弱で、上述のように他交通機関を使った方が安かったので、日本人はほとんど乗らなかった)

しかし、しばらくすると、村を縄張りとするバイタク連中から妨害を受けて、石を投げられるなど身の危険を感じるほどにエスカレートし、雇った運転手が辞めてしまうなど、事業はすぐに頓挫。 自らドライバーをするなど、孤軍奮闘しますが、サービスは休止します。

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正直、当時の私は海外風俗関連の目立った情報サイトに反感を持っていて、作者である井上氏は人柄は良さそうなんだが、どうにも気に食わなかった、、、、古くからの日本人滞在者は皆、同様に思っていたはずです。 
実際、プノンペンの日本人長期滞在者の中には、得体の知れない連中も紛れ込んできて、ホテルでの盗難事件が頻発したり、児童買春で逮捕者が出たり、あるいは、村で盗撮して、投稿サイトで晒すような事例が相次ぎました。 
 
結果的にその片棒を担いでいるのが、井上氏を始めとする風俗サイト作成者であるという認識がどこかにあった。

さて、当局が狙っていたのか、通報があったのか、事件の端緒は想像するしかありませんが、結局、彼のサイトは日本警察の目に留まることとなり(当時、「プノンペン」で検索すると、第1ページ上部に挙がるほど目立っていた)、未成年者の猥褻画像の掲載を放置した容疑で逮捕勾留。 
執行猶予付きの判決を受けることに、、、、初の国外犯適用でした。 

余談ですが、私は彼の裁判が横浜地裁で行われることを知り、(児童ポルノを専門分野とする弁護士が手弁当で彼の弁護人となっていて、随時、弁護士の私設ウエブサイトで裁判情報が公開されていた) 当時、横浜に住んでいた私は、地裁を訪れて判決公判を傍聴しておりました。
プノンペン 思い出の場所 1995~2002 #8
第8回 マンハッタンクラブ

manhattan.png

場所は、カルメット病院からモニボン通りを挟んで、東に200メートルほどのところ。 ホリデーホテルに併設されていたので、日本人は、「ホリデー」 と呼んでいました。 いつ頃オープンしたのはわかりませんが、96年頃には、すでにプノンペン有数の本格ディスコとして広く知られていたはず。 夜の10時頃から賑わっていたので、欧米外国人は「マティーニ」 や「シャーキーバー」 で遊んだあとに行くのが定番コース。 朝までやっていたので、ここで夜明かしもできました。

ここの女性客は9割方がフリーなんですが、一応、当時のカンボジアでは高級ディスコということで、泊まりの相場は5-60ドル。 比較的高い。 薬物の売人が店内を跋扈していて、ペケを1錠1ドルで捌いていました。もちろん、私は買ったことはありません。
ちなみに、ガンジャに関しては96年あたりまでは、ロシアンマーケットで茶の葉っぱと変わらない値段で堂々と売っていたようで、1キロ3ドル(!)という破格値。 ただし、愛好家によると、質は悪いとのこと。

筆者は、このディスコを経営していた、ビクター・チャオ氏と、ひょんなきっかけで面識がありました。 氏は台湾系米国人実業家。

彼は無類の銃器マニアで、ディスコの警備員に揃いの黒Tシャツを着せて、ガンベルトを腰に巻かせて、拳銃を持たせていました。
ロシア人を雇い、親衛隊のように使っていたんですが、彼らは時々、キャピレスにジープに乗って食事に来ておりました。 変な白人軍団が拳銃を腰に下げて飯を食っている異様さは何とも言えませんでした。 さすが、当時のカンボジアは何でもありのデタラメ国家。

で、趣味が講じて、私設の射撃場を作ります。 これは軍がやっていた観光客に馴染みの射場とは別の場所にありました。

1997年も押し詰まった頃、プノンペンの地元英字紙に新しい射撃場がオープンするという記事が載っていて、それを読んだ私は、オープン当日、さっそく遊び仲間と連れだって訪れることにしました。

ポチェントン空港をさらに西に進み、軍射撃場をさらに超えたところの広大な敷地に「マークスマン・クラブ」 はありました。 
入り口のランドマーク代わりに、スクラップの戦車が展示してあるのが目立ちました。

中に入ると、チャオ氏自らが案内役をしていて、レンタルできる銃について説明しておりましたが、まあ、少し会話すれば彼がマニアだというのはすぐにわかります。 輸入したと思われる各種の拳銃・短機関銃、小銃が30丁ほどあり、フルオート射撃も可能でした。 ローカルルールは非常に甘く、弾の料金が高い以外はまったく申し分ない射場でした。 都合、10回ほど、ここに通ったでしょうか。
しかし、これって、軍利権と明らかに利益相反しますから、当局にかなりの賄賂を払っているはず。 

一方、ディスコの方では、トラブルが絶えませんでした。

銃撃事件が起きたり、日本人がフンセンの親族に刺されたりと、悪の巣窟のようなイメージが付いてまわり、遂には2003年、チャオ氏は武器不法所持などの容疑で逮捕されることになります。

もちろん、腐敗に染まったこの国で、こんな容疑は額面通りには受け取れません。 

政府のトップレベルに人脈があったはずの彼に何があったんでしょうか?
プノンペン 思い出の場所 1995~2002 #7
第7回 マティーニ

martini.jpg

90年代後半、プノンペン在住の外国人男性なら知らない者はいない、、、それほど有名なナイトクラブでした。 当時のプノンペンには外人向けの酒を飲める店は数件しか存在しなかったのですから、当然ではありました。

元々の場所は、現在のインターコンチネンタルホテルの東隣で、今は再開発されており、昔の面影はまったくありません。 店自体に高級感はまったくなく、むしろ闇市感漂う雰囲気で、戦地にある兵士向けの遊興施設と表現した方がぴったりでした。

値段も安くて、1ドルの缶コーラ・缶ビールをちびちび飲んでいても大丈夫。 店は、10人くらいしか踊れない室内ディスコと、オープンエアの空間に置かれたテーブルが15卓ほどだったか? テーブルエリアでは、最初は生バンドが演奏していましたが、いつの間にやら、巨大なプロジェクタが設置されて、映画を流すようになりました。 夜8時から10時頃が最も賑わった時間。

この店のウリは、何と言っても、2~30人はいた女の子。 ただし店の専属ではありません。 フリーが大半ですが、置屋のママさんの指示で来ている娘もいました。 また、素人も稀にいましたが、もちろん、外国人と懇意になりたいという目的があり、娼婦の予備軍的存在。 
フリーの年齢層は比較的高く、40代以上のおばさんも着飾って客を漁っていましたが、欧米駐在員の中には60代の高齢者もいるので、それなりに稼ぎはあったのでしょう。

もちろん、女性はタダで入店できるし、何も注文する必要はありません。 男性は店に入るとウエイトレスが注文取りに来ますが、なんせ、単価が1ドル2ドルの世界、日本の感覚だとタダみたいなもの。

一見さんは、店内に入るやいなや、次々と女の子から声を掛けられます。 それはもう鬱陶しいくらいに、、、、何回か通うようになって、顔を覚えられ、「こいつは見込みなし」 と思われるようになったら、そういう煩わしさからは開放されます。

相場はオールナイトで10ドルでしたが、まあ、言い値は20ドルあたりか? いずれにせよ、交渉で決まります。 高給を貰っていた駐在員にしてみれば、ほとんど誤差の範囲でしょう。

2004年の中頃に店舗が少し離れた場所に移転。 しかし、以後はもう、全盛期の賑わいはありませんでした。 

時は経て、近年、再度の移転を経たのち、ひっそりと閉店したとのこと。
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