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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
世界ケンカ旅行(香港編)
目的のゲストハウスはB棟の6階にあった。
ぎゅうぎゅう詰めのエレベーターから降りて、インド人客引きの後をついていくと、鉄格子の扉で2重にガードされた部屋の入り口前に到着した。
雑居ビルの廊下は狭く、迷路のように入り組んでいたので、慣れないうちは方向感がなくなってしまうほど特殊な構造であった。
客引きは合鍵で鉄格子ドアを開け、私を中に招き入れた。

ゲストハウスは全部で5部屋あり、そのうち3部屋がドミトリーで、一つの部屋には2段式パイプベッドが8人分詰め込んであった。残りは共用のリビングと台所、そしてシャワールーム兼トイレである。
室内は暗く、窓からは隣接するビルしか見えない。直射日光がまったく入ってこないため、非常に陰湿な雰囲気であった。
室内のメンテナンスは不備だらけで、壁紙は所々剥がれているし、まったく整頓されていない。

ドミトリーに置かれた荷物から察するとすでに5~6人の客がいるようである。

「1泊60香港ドルだけど、いいか?」
一通り説明が終わると、客引きは私に確認した。

中共のドミトリーに比べれば3倍以上の値段であったが、これは仕方がないので、承諾した。

客引きはリビングの電話を使って、誰かに報告した。

しばらくすると、大家と見られるシナ人のおばさんがやってきて、すぐさま60ドルを徴収した。客引きはすでに他の客を見つけに出ていた。

私は指定されたパイプベッドの下段に腰を下ろして荷を解いた。



世界ケンカ旅行(香港編)
香港を訪れる旅行者の滞在先はおおむね高級ホテルか中級ホテルに限られていた。その比較的高額な宿泊料が悩みの種だが、一応は貧乏旅行者のための選択肢も残されていた。

チョンキン(重慶)マンションがそれである。

私は埠頭から歩いてそこを目指した。歩いて5分ほどでほどなくビルの前まで到着。

チョンキンマンションは九龍半島の目抜き通りであるネイザンロードに位置し、観光には絶好の場所にあったが、独特の雰囲気があった。

それは、20階建てのいわゆる雑居ビルで、住居やプチホテル、レストランや雑貨店が中にひしめき合っている。
中にいる人は、同じ英国植民地のつながりでインド・パキスタン系が圧倒的に多く、一階には香辛料の臭いが漂っている。

「ホテル探してるの?」
私がビルの入り口で躊躇していると、インド人ぽい青年が声をかけてきた。辺りは通行人でいっぱいであった。

「紹介するからいっしょに来なよ」
青年は続けて言った。手にゲストハウスの名刺を持っていた。

少し胡散臭かったが、考えた末、とりあえず青年について行くことにした。

1階エレベーターの前には10人程がすでに並んでいた。我々2人は上から台が降りて来るのを待った。











世界ケンカ旅行(香港編)
香港側の国境からは、半島の南端まで走っている鉄道を利用して、そのまま中心部に行くことが出来る。
私は入管に隣接する鉄道駅に入った。

九龍までの切符を買うために自動販売機の前で説明書きを読むだけで、ちょっとした感動を覚える。

ついさっきまでいた空間と、明らかに半世紀は進歩した空間に移動している自分に驚いたのである。それはタイムマシンに乗って過去からやってきたような錯覚でもあった。
そして、中共の主張してきた社会主義が完全なまでに失敗であったと実体験であらためて確信したのである。

私は切符を手にして、折り返し運行で待っていた列車に乗り込んだ。
列車は、かなり新しい車体で、日本のものより車内デザインは斬新であった。やがて列車はスタートする。

都心に近づくにつれて、田園風景の中に30階建てくらいの高層アパート群が割拠してくる。まさに、香港の風景であった。

列車は30分ほどで九龍駅に到着した。

半島側は啓徳空港が都心のど真中にあるために、20階を越える高層ビルが建てられないという。そのせいか、九龍駅の周辺は比較的広々とした空間であった。

私は荷物を背負ったまま、地図を見ながら埠頭まで歩いた。香港名物の2階建バスが道路狭しと走っている。

いよいよフェリー埠頭が見えてきた。

「これはすごい!」
思わず唸った。

私は半島先端から望むセントラルの高層ビル群に度肝を抜かれた。

昨日までいた中共とは「天と地の差」であった。





世界ケンカ旅行(香港編)
列車は経済特区であるシンセンの南端に到着した。

中共側の駅から香港との国境まで歩いて10分程度である。少し汗ばむ春の陽気の中、私はバックパックと布団のような解放軍のコートを背負い、中共最後の土地を噛み締めるように歩いた。もうこれで最後かと思った。
後に10回以上も訪れるとは、この時は考えもしなかったのである。

国境は人々で溢れ返り、露天商で賑わっていた。

私は中共側で出国手続き、続いて、香港側で入国手続きをした。香港の入国審査官は黒基調の英国式の制服に身を包み、見るからにスマートな格好であった。

自分のパスポートに入国スタンプが押してあるのを確認する。期限は1週間。

近くの両替ブースで、余った外貨券を香港ドルに両替して、いよいよ旅行開始である。










世界ケンカ旅行(香港編)
その昔、例えば、アキラや裕次郎が活躍した日活活劇映画なんかでは、

「へっへっへ、借金のカタに娘を香港に売り飛ばしちまうぜ、、」

なんていうセリフは金子信雄あたりの常套句だった。この当時の香港は、少なくとも大衆文化の中では、国際麻薬シンジケートや、売春組織の総元締め的犯罪の巣窟としての位置づけである。

その極めつけとして「燃えよドラゴン」の大ヒットで、香港のイメージは定着する。映画では、ブルースリー扮する国際捜査官が潜入捜査で麻薬密造組織を壊滅するという設定だが、ここでは新たにカンフーの要素が加わった。

さて、流言飛語のたぐいとして、ある時期から、都市伝説風にまことしやかに流布していた「香港で行方不明になった日本人女性」の話がある。

香港のブティックで試着室に入った日本人女性がそのままいなくなったというストーリーで、いわく、試着室の奥は回転ドアになっていて、拉致されたとか、中東の売春組織に売られたとかの尾ひれが付くのが普通であった。

これなども、日本人に定着していた「香港に売り飛ばせ」的イメージが根底にあるため、それなりに真実味を持って受け入れられていたのである。
(実際には、この時代、北朝鮮工作員が日本人を拉致していたわけで、当時の日本人の想像を絶する事態が知らない間に起こっていたのは悲劇である)

そして1980年代、特に円高後に日本人が大挙して押しかけるようになると、香港の「都市伝説」も語られなくなっていった。

いったい現代の香港はどんな所なのだろうか?

私は広州から国境まで行く列車に揺られながら、驚きの連続だった中共旅行の締めくくりとして、田園風景を眺めていた。








世界ケンカ旅行(香港編)
1970年代頃までの日本における香港に対するイメージは、ある種の偏見に満ちていたと言えるだろう。

ひとつは、冷戦時代の日本で左翼思想礼賛の風潮が広まる中、社会主義の優越性を広めるプロパガンダの材料として使われた香港である。
つまり、資本主義の権化である香港の一面、例えば「数えるほどしかいない大富豪と大多数の貧民」の格差をことさら強調してみせることによって、資本主義の問題点を暴く側面である。
そして、中共の実態を覆い隠すため、あるいは対比させて中共礼賛の小道具として香港のイメージダウンが行われてきたのだ。

もうひとつ、映画やテレビドラマが行ってきた印象操作の影響も非常に大きかったのである。

世界ケンカ旅行(中共編)
シナの旅も終わりに近づいていた。

私は最後の訪問地である広州の駅前広場にいた。この国の雑踏の凄まじさはどこも同じだが、比較的暖かいためか、人の流れの中に他の都市とは違った開放感のようなものがあった。

何となく都市の動きもゆっくりしているように錯覚してしまう。大都市のシンボルでもある満員路線バスにしても、ギュウギュウ詰めではなく、人民の「おしくら饅頭」はない。

ただ、上海というトンデモ都市を最初に経験してカルチャーショックを受けているから、自分自身がこの国に慣れているだけなのかも知れない。逆にいうと、香港から入国する旅行者にとっては、最初の都市がこの広州である。

経済面では、さすが広州は香港に近いだけあって、物資が豊富なのが一目瞭然であった。人々の服装も他の都市人民とは違って我々に近い。


路線バスに乗って、駅前からかなり離れたホテルのドミトリーに宿をとり、この街の名物という近くのマーケットを覗いてみた。

さながら動物園の様相であったが、とりわけ、訳のわからない昆虫から、ヒルかウジかわからないような害虫まで展示即売されているのには驚く。
さすが南の暖かい地方だけあって、良く言えばバラエティーに富むということだろう。


さて、すでに私の心中は中共に在らず、、、市内観光もそこそこに、ホテルに帰ると、地球の歩き方「香港編」を熟読しながら観光プランを練る時間が過ぎていた。










世界ケンカ旅行(中共編)
ハルピンは一時期、ロシアの支配下にあっただけに、ロシア正教の聖堂が現存しているのが特徴である。例の玉ねぎのような屋根をしたあれのことだ。

いってみれば、この街の観光スポットはこのようなロシア風の建物しかない。

私は公安でビザ延長の手続きをすると、さっそくホテルの部屋で中共地図を広げて、今後の予定を計画した。
正直、もう、この国の都市を積極的に訪れたいという欲求はなく、あとは香港に抜ける過程にすぎない。強いて言えばチベットに行ってみたという衝動もあったが、これが大変で、当時はバスを乗り継いで数日かけるのが普通だった。さすがにそのような気力はない

さて、今後は、ここから南下がてら各都市を周遊したのち、最後は広州でこの国ともオサラバであった。



世界ケンカ旅行(中共編)
ハルピン中心部から路線バスで20分程度、郊外に少し出ると731部隊跡に到着する。

「跡」というのは、要するに昭和20年のソ連軍侵攻に伴い、関東軍が撤収する際に施設の大部分を破壊したので、主たる建物は何も残っていないということである。

確かに、隊舎と思われる建物やボイラー施設の残骸が残っていただけで、訪問者が期待するような「実験棟」「監獄等」は存在していない。

展示物も貧弱で、化学実験で使うビーカーの類が展示されているが、「本物」かどうかは怪しいところである。
正直、中共によくある「プロパガンダ」以外に意味が見出せないトンデモ博物館のひとつであろう。

731部隊跡を訪れた理由はこうだ。

関東軍の細菌戦部隊に関しては、帝銀事件関連の記述や戦記などから存在自体は知っていたが、具体的には森村誠一の「悪魔の飽食」で知った。(一般的にはこの著書で初めて存在を知った日本人が大半だったはずである

当初は、私自身も、内容について妄信していたが、シリーズ続編で使用されていた写真の核心部分が偽物(他書籍からの流用)だったことが発覚して、信憑性が疑われるに至った。
(その後の評価においては、このシリーズのノンフィクションとしての信憑性にはかなり疑問があることで定着している)

まずもって、部隊跡にある博物館、というか、展示室は、「悪魔の飽食」に沿った内容にあわせて作ってあるようにしか見えない。よく考えてみれば、731部隊は撤収時に建物は破壊され、書類はすべて焚書処分となり、わずかな医学資料が研究者から持ち出されたものの、戦後、アメリカの手に渡っているから、中共が独自に持ちうる資料などないのである。

本末転倒ではあるが、日本での反響を見て、「悪魔の飽食」を読みながら慌てて作ったとしか思えない展示内容であった。

ともあれ、同じような人体実験はソ連や中共も行っているはずである。

ただ、日本が敗れたから、発覚しただけであろう。




世界ケンカ旅行(中共編)
現在、中共が「東北部」と呼称している地域を満州という。

北京から列車で北上すると、すぐに荒涼とした大地となり、大陸を実感させる風景が続く。長城を超えると、そこは漢民族の土地ではなく、満人の土地である。

近代史上、ここで日本とロシアが極東の覇権を争う死闘を繰り返し、結局は中共の領土に編入されてしまうという運命を辿った。
もし、満州国が存続していたら、ここは有数の工業地帯として栄えていただろう。

満州を疾走する夜行列車の旅は、他の地域と違った感情を想起させる。実質的に1930年代と人民の生活レベルは変わらず、いや、むしろ日本が政策に関与していた頃よりも貧相な人々を車中に見るにつけ、自分が大陸浪人にでもなった気分を味わえる。ふと、隣に開拓団の日本人とか、満軍・関東軍の兵士がいても不思議ではない、そんな錯覚がよぎる。良くも悪くも(というか、不幸でしかないが)半世紀間、まったく進歩がない社会が実在することを確認するのである。


列車は極寒の街ハルピンに到着した。あちらこちらで肉まん売りの湯気が立っている駅構内を歩く。

息を吸うだけで何やら胸が痛くなってくる。これが初めて体験する零下20度の世界であったが、駅構内は人民が密集しているので、寒さはさほど気にならない。

私は駅前のホテルで宿を取り、さっそく市内郊外にある731部隊跡に行く経路を確認した。

世界ケンカ旅行(中共編)
老人の机には、教科書の他に、中国関連の書籍が山積みになっているが、全部日本語である。

「こちらに来て、ガックリしましたよ」
老人は恥ずかしそうに言った。理由など尋ねる必要もない。聞かなくてもわかる。

この国に初めて来た日本人で、普通の神経の持ち主ならば皆が同じ感想であろう。問題は、公式招待された場合などは文字通り「熱烈歓迎」で、大名旅行に酔いしれてシナ人の本質が見えなくなる日本人も多いことである。この接待の上手さはシナ人独特のものである。

この人も、日本では比較的インテリのシナ人ばかりと交流していた故に「来てビックリ」となったのだろう。


さて、雑談も一段落付いた頃、所用を済ませた木内さんが寮に戻ってきた。


その日、北京中心地では他にすることもなく、ホテルへの帰り道ではワンフーチンにある北京ダックの専門店で少し早い夕食を取る事になった。

料理はそれなりにおいしかったが、客に見えるように壁に並んでいた、というよりも展示されているファンタとコカコーラの瓶が妙な安っぽさを醸し出していた。やはりこの国は遅れている。


「明日、北京を出ると言ってましたね」
木内さんが言った。

「ええ、北の方に行きます」
北京は3日程度で十分であった。もう少し彼と話したいとも思ったが、旅行者は先を急がねばならない。私は満州地方で在留期間の延長をして南に向かう予定であった。

特に、ハルピンではぜひ見学したい場所もあった。

「ハルピンで氷祭りがありますが、どうですか?間に合いますか?」
木内さんは日本でいう札幌雪祭りにあたる恒例のイベントの名を挙げたが、私の目的は違っていた。










世界ケンカ旅行(中共編)
話を要約するとこうだ。

欧米からの留学生には大麻に耽って授業に出なくなる者が多いという。
それというのも、不良ウイグル人のネットワークによって街角で大麻を入手することができるからだ。しかも、格安で上質という。
もうひとつ、やはりここは漢字文化圏ということで、欧米人は日常会話はすぐに上達するものの、文章読解に関しては絶望感を抱くらしい。漢字が嫌いになれば語学の上達は頭打ちになるから、嫌気がさす留学生も多いのだそうだ。
このあたりは、初学者でも華字新聞とかの大意は何となくつかめてしまう日本人とは違う。

結果として、最初は真面目に授業に出てくるものの、しばらくして1人2人と抜けていく。1ヶ月もすればクラスは半数程度に減っているのだ。遂には大麻を吸って過ごす毎日が続くことになる。

ところで、日本人も偉そうなことは言えないだろう。

特に、日中友好団体の橋渡しで勉強しに来た、いわゆる「中国好き」のじいさんがいい例である。

もとより、語学を本格的にやるには遅すぎる年齢であるがゆえに、授業には到底ついていけず、嫌気がさして課程半ばでドロップアウト。しかも、夢に描いていた李白や杜甫の国が、実態は文化とは無縁の野蛮人の闊歩する、さながら動物園、人間の本性を剥き出しにした闘争社会に放り込まれてしまい、満足にバスにも乗れず学生寮でこもっている老人のことである。

まさに、この部屋の老人がそうであった。



世界ケンカ旅行(中共編)
私は木内さんが留学する予定だった北京語言学院を訪問することになった。

北京語言学院は中共で最も外国人留学生を受け入れている専門大学で北京中心部である紫禁城の北方に位置した。
このエリアには北京大学や清華大学もあり、さながら学園地区の様相であった。

ホテルからはギュウギュウ詰めバスに揺られて30分ほど、そして、ようやく到着したバス亭から歩いて10分、広い敷地内は外界とコンクリート塀で仕切られていた。

4階建て校舎はたくさんあるが、雰囲気は「学び舎」というよりも、薄汚い集合アパート群といった印象であった。
「ここにあるのは全部学生寮ですよ」
木内さんは説明してくれた。
我々は正門ではなく、通用門から入る学生寮への近道を歩いてきたとのことである。どうりで、生活感が漂っているはずである。

私は木内さんが入寮する予定の建物を見学した。

寮の部屋は2人用で、薄汚いコンクリート剥き出しの床と壁、特に外人向けに高級感を出しているということもなく現地人の生活環境と変わりない。
狭い部屋には木製ベッドと勉強机、そして書籍棚が2人分置いてあるだけである。

木内さんと訪れた部屋は彼の友人が現に住んでいる部屋であった。木内さんの友人と言っても、こちらで知り合った日本人で、同じく語言学院の学生であった。

1人は私と年齢の近い20代の若者、もう1人のルームメイトは60代の男性老人であった。

私は簡単に、自分が旅行者であることを告げて自己紹介した。
木内さんが大学事務所で所用を済ませるために部屋を離れている間、私は彼らから留学生生活の話を聞くことになった。


さて、普通なら、中共に留学するとなると、相当な覚悟を持って語学勉強に励んでいるかと思ってしまうが、留学生の実態はそうでもないらしい。

「日本人は真面目にやっている方ですね」
若い男性は言った。



世界ケンカ旅行(中共編)
私は部屋のドア脇の壁にあった電灯のスイッチに駆け寄った。そしてスイッチをオンにした。

突然、室内が眩しくなった。電灯から放たれる光は白い壁に反射してなおさら輝いて見える。
白人男女は素っ裸で行為に及んでいたが、私が立ち上がった瞬間、反射的に布団にくるまった。

「君たちの行為は私に対する侮辱である!楽しみたければ、シングルルームを借りて2人だけで楽しんでくれ。ここでするな!」
私は決然と忠告した。

白人男女は、眩しいからか、伏せ目がちに服を着始めた。私は最悪、2人と口論することも覚悟していたが、意外と素直に言うことを聞いた。もちろん、彼らも自分たちの行為が公序良俗に反すると自覚しているからであろうが、まずもって私の断固とした言い方に反論する意欲を失ったのであろう。

白人女の方の年齢は30歳前後、少したるんだ脇腹が脳裏に焼きつく。

2人は、そのまま部屋から出て行った。

木内さんは起きて一部始終を見届けていた。

「人に見られるのが好きなんじゃないでしょうかね?」
木内さんが言った。

「それならそうで、女を連れ込む前に打ち合わせでもしてくれれば堂々と覗いてやったのに、、、」
私は答えた。

その白人男は我々が再度就寝したあと1時間ほどして、こっそりと部屋に戻ってきた。今度は1人であった。

翌日、彼は我々に挨拶もしないで、早々に荷物をまとめて部屋を出て行ったのである。



世界ケンカ旅行(中共編)
その白人男は30代後半くらいに見えた。いわゆる「ヒッピー」ファッションで、肩まで伸びた長髪に無精ヒゲという貧乏旅行者スタイルであった。どことなく挙動不審で、オーストラリア出身だと簡単な自己紹介をしたものの、我々との話は続かなかった。




さて、その日の夜も更け、12時を回った頃であった。

私と木内さんは雑談も一段落した頃を見計らって寝ることにした。例のオーストラリア人は外出した様子で、部屋にはいなかった。

部屋の明かりを消して30分ほど経過しただろうか。

ドアを開ける音がした。白人男が帰ってきたのである。

しかし、足音から感じる気配は明らかに複数の人間だった。私は被っていた厚い布団を顔から少しずらして、部屋の入り口付近の人影を確かめた。

人影は二つあった。

オーストラリア人とみられる影ともう1人他の何者かであった。

やがて衣服を脱ぐ音が続き、1人づつ、続けてベッドに入っていく。

1つのベッドに2人が入り込んでいる。

やがて、ベッドは時折ギシギシと音を立てながら、女性の洩れるような吐息が部屋に響いた。

「こいつら、いいことやってやがるな、まったく、、、」
私は思った。
10畳ほどの部屋にはシングルベッドが4台、窓際の2つは私と木内さんが、そして今、欲情を抑えきれなくなった男女が入り口近くのベッドで抱き合っていたのである。
もちろん、このホテルのドミトリーは男女別であり、オーストラリア人が引っ張り込んでいる女は、別の専用部屋の客であろう。

最初はこちらも無視して寝たフリをしていた。彼ら男女も、息を殺すように潜めながら楽しんでいた。

そして、10分が経ち、20分が経ち、声がだんだんと荒くなっていく。遂に、男女ともなり振り構わず声を上げ、布団をひっくり返し、堂々とベッドの上で全裸になってセックスを始めたのである。

私は、睡眠に迷惑がかからなければ知らないフリで通そうと思っていたが、こちらも若い。自然と耳が研ぎ澄まされていく。
隣の部屋にも聞こえるような声をとても無視することはできず、私は、月明かりの中でしばらく観察していた。

そのうち、ふと考えた。

「こいつらは、もし我々が白人だったら、同じ行為をするのだろうか?我々の前でセックスをすることに何の抵抗もないのだろうか?ひょっとして、我々の前では羞恥心がないのだろうか?」
そんなことを考えているうちに妙に腹立たしくなった。日本人のプライドが痛く傷つけられているようで、何とも不愉快な気分に陥った。
元より、幾ばくかのお金を出して、2人だけで部屋を借りて楽しめばいいものを、こいつらは失礼な連中である。東洋人をナメている。

私はやっかみ半分、怒り半分、こいつらの思い通りにさせるのが悔しくなってきた。

そして、目の前で展開する白人男女の果てないセックスが絶頂になる直前あたり、私は意を決して行動に出たのである。
(以下次号)






世界ケンカ旅行(中共編)
雑談が一通り終わって、木内さんと夕食に出かけることになった。

ホテルを出ると乾いた冷気が鼻を通して気管に入ってくる。気温は氷点下5度ぐらいで、寒いというよりは凍えると言った方が適切だった。私は布団のように厚い解放軍コートの襟を立てて足早に食堂に向かった。

近所の食堂に向かう間に材木を載せた馬車がヨタヨタと車道を通り過ぎていく。首都のど真ん中にも関わらず物流の一端を家畜が担っているのも中共社会主義経済の後進性をよく現している。

我々はホテルから300メートルほど離れたバス停留場前にある食堂に入った。20人ほどで満員になる小さな店だったが、服務員の愛想が他に比べて良かったことから、日本人旅行者が好んで通っていた食堂であった。

2人は地元民しかいないことを確認して四人用のテーブルに座った。室内は殺風景で、薄汚い、典型的な中共の食堂である。

「バオズと豚肉の薄切り、、、あとチンジャオロウス」
木内さんは考えずにテキパキと注文したが、もちろん、選択の余地がほとんどないからである。

ちなみに、北京ではバオズ(包子)と呼ばれる、いわゆる「肉まん」を主食とするのが一般的で、「ご飯」はあるものの、とても日本人の食感に耐えられるものではなく、大陸全般で見ても質が低い。麺類もあるが、日本人に馴染みのラーメンよりも麺の太いトウシャオメンの店が多いのが特徴である。

テーブルには注文した料理が並べられた。他の地方に比べても質素で、料理の多彩さを楽しむというよりは、燃料補給の感覚である。値段は一人5元ぐらいでお腹一杯注文できるから文句は言えない。


さて、2人は食事も済んで、他にすることもなくホテルに帰った。

我々の4人部屋では男性白人客が1人で荷物整理していた。食事の間にチェックインしたらしい。できれば私と木内さんの2人だけで独占したかったが、ドミトリーなので仕方がない。

この白人男と、その晩、ひと悶着あるとは最初は予想もしていなかった。















世界ケンカ旅行(中共編)
白人男は自分がフランス人であると言い、北京にたどり着いた経緯を説明した。

彼はハンガリーのブダペストで鉄道チケットを購入したという。当時、ソ連を含む東欧では複数国にまたがる通しのチケットを購入することが可能だった。特に西欧のバックパッカーに人気のあったのはブダペスト発券のシベリア鉄道で、終点は北京かウラジオストックであった。

ビザ発給の関係かどうかは不明だが、ブダペストでは往復チケットの購入が必要で、彼のように香港経由で抜ける旅行者には復路チケットが無用となる。そこで、不必要となったチケットを売却しようとしていたのだ。

北京発ブダペスト行きチケットは200ドルもしない共産圏価格で、シベリア鉄道でヨーロッパに向かう旅行者には手頃だったはずである。
フランス人は実際にチケットを見せて、それが北京駅で売られているチケットより安いことを強調していた。ただ、チケットの様式はハンガリー国内のもので、それが実際に北京でも通用するのかどうかは若干の疑問もあった。
我々は彼の意図が見えてきたので、購入する意思がないことを告げた。
すると、彼は諦めた様子で部屋をあとにした。
足音からの雰囲気からすると各部屋を片っ端から巡回しているらしく、もしかすると、チケット売却の話は方便で、その実は旅行客の金品を狙った泥棒だったのかも知れない。

「ああやって、チケットを売り歩いている白人は多いですよ」
木内さんは言った。











世界ケンカ旅行(中共編)続編スタート
(前回までのあらすじ)
1980年代後半、まだ実態が知られていなかった中華人民共和国に入国、上海を皮切りに各地方を回り、首都である北京を観光してした。バックパッカーの溜まり場である僑園飯店のドミトリーでも例によって同室の日本人旅行者と意気投合した。


「いやあ、ここは本当に広い街ですね、、、今日は10キロ以上歩きましたよ、、、」
私は最後にそう付け加えた。


木内さんは年齢にして30歳過ぎぐらい、本業は獣医さんであるという。
彼は単なる観光客ではなくて、中国語を勉強に来た留学生であった。正確に言うとまだ学生の身分ではなく、2ヶ月後に北京語言学院(現在の北京語言大学)に入校するための下見と準備を兼ねて長期滞在しているのである。

もちろん、毎日の勉強は欠かしておらず、枕元には辞書と教本を置いて掃除に来る服務員相手に練習していた。

まだ開放政策が実施されて間もない80年代、この国の言語を勉強しようとする人々は無類の「中国好き」か、あるいは同じ漢字文化圏の言語としての「習得しやすさ」に惹かれたかのどちらかであって、就職にいいとか、「実利」を念頭に勉強する日本人は皆無と言ってよかった。

木内さんはどうやら後者にあたるようで、この国のメチャクチャな実態を目にしても素直に現実として受け止めているように見受けられた。もちろん、本職は別にあるので語学は趣味の範疇といっても差し支えないだろう。

「明日、語言学院に行きますが、いっしょにどうですか?」
彼は入校を待たずして、ちょくちょく学校に顔を出しているようであった。
私も興味があったので断る理由はない。
「楽しみですね」

話が弾む中、いきなり部屋のドアを開けて男が入ってきた。

白人旅行者のようだが、無精ひげで何ともむさ苦しい50絡みのオッサンであった。

「君たちは日本人か?」
白人男は訛の強い英語で唐突に訊いた。


(以下次号)





2011
本年も

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