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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
世界ケンカ旅行(マカオ編) 第1部 最終回
マカオの日帰り旅行から香港に戻って2日後、いよいよ日本に帰国する日がやってきたのである。

私はカイタック空港から飛び立とうとしている成田行きの旅客機の中にいた。機体が動き出し、窓からは香港のビル群が流れるように見える。

香港最後の日々はゲストハウスに置いてあった文庫本の読破で時間をつぶすだけで終わった。ジュンさんが挨拶もせずに中共に旅立ったのが謎だったが、そこはバックパッカーの自由奔放なところで、気が向けばいつでも移動できる身軽さなのであろう。


考えてみれば、この旅行で、私が貧乏旅行の魅力にとり憑かれてしまったことは間違いない。

しかし、旅というものが、まさか人生を変えてしまうほどの存在になるとは、この時点では知る由もなかったのである。


第1部 極東編 完



第2部 欧州編に続く 乞うご期待!(再開時期未定)


世界ケンカ旅行(マカオ編)
マカオの観光スポットと言えば、セントポール寺院跡であろう。

ところが、これはとんだ食わせ物で、大抵の観光客にとっては期待ハズレに終わる。
最初見た瞬間、その巨大な寺院の正面像にいたく感動はするものの、本堂の階段を上がっていくにつれ、実はそれが壁1枚でバランス悪く建っているだけであることに気が付く。

まるで張りぼての映画セットのような全体像は極めて安っぽく、横から眺めると何が何だかまったくわからない。

落胆していると、観光地にはお決まりの物売りが近寄ってきた。

商品を駅弁スタイルで運び、これと見定めた客に付いて回るスタイルである。ただし、私に声をかけてきた男の売りつけようとしていた商品は一風変わっていた。

それは、文革の嵐が吹き荒れた頃に出回っていた毛沢東語録、そして毛沢東バッジであった。


毛語録は赤い小冊子で装丁はどれも同じだったが、バッジの方は種類がいろいろあって見ているだけで面白い。

丸いバッジだけではなく、四角のもの、リボン型のものなど大小雑多にある。中共でも街頭で売られていたが、種類の多さではここが一番であった。

「これ1個いくらするの?」
私は値段によってはいくつか買って帰るつもりだった。

「1個30香港ドル、安いよ」
物売りの男は私が熱心にバッジを吟味していたので脈ありと見ていたようである。確かに香港から入った観光客にしてみれば微妙な値段に聞こえる。バブルで金満となった日本人観光客なら男の言い値で買うだろう。
ちなみに、香港ドルはマカオでも普通に流通しているが、若干こちらの通貨の方が安い。


「おいおい、上海では1個3元で売ってたぞ!もっと安くしろよ」
中共での貨幣価値をそのままマカオにスライドさせるのは無理があるが、同じモノが20倍で売られていることに腹が立つ。

「じゃあ、20ドルにまけときますよ」

「何言ってんだ? 1個1ドルにしろ! どうせ只同然で仕入れたんだろ?」
そう言う自分でも、これは無理だと思った。

男は、あっちに行けと言わんばかりに手を振って拒絶の意を表した。
私は振り向いて男から離れるように歩いた。

すると男は追いかけてくる。
「ちょっと待って、10ドルでいいよ。10ドルね!」
男は私を引き止めるように前方に回った。

「よし、儲けさせてやる。5ドルだ。いいな!」
私は勝負に出た。

男は少し考えて
「じゃあ、3個買ってくれたら20ドル」
と言った。

「バカ言うな!3個なら10ドルだ。昼飯食えるだろ!」
私はそれでも高いと思っていたが、記念品としては悪くない。

折れてきたのは男の方だった。
「わかった。3個10ドルでいい」
男は言った。
渋々といった表情をしていたが、本当に只同然に仕入れているはずであるから利益は当然ある。



私は男から買った3個の毛沢東バッジを眺めた。
そして、物売りとの交渉というものは、ことすべて左様に面倒臭いものであると実感した。













世界ケンカ旅行(マカオ編)
香港からマカオに入って最初の印象は誰しも同じであろう。

とにかく、視界にビルしか見えなかった雑踏の街である香港から入ると、マカオはのどかな田舎にしか見えない。
息苦しいほどの閉所感から解放されて、日帰りどころか数日ほどゆっくりしていきたい気分になる。

私とジュンさんはフェリー埠頭で入国審査を終えた後、それぞれの行動を取るために別れることになった。ジュンさんは、1時間ほど市街で時間をつぶして折り返し香港に戻るという。文字通り、今回は香港での滞在期間を延ばすだけのマカオ行きであった。

彼女とは今晩にも香港のゲストハウスで再会するはずだったので挨拶もほどほどで別れた。しかし、結局はこれが彼女を見る最後になったのである。

さて、私の方は狭いマカオをぐるりと徒歩で1周することにした。


日本でいう春のような陽気の中、軽装での散歩は至極気持ちがいい。
マカオの起伏ある坂道は、ある種、狭い香港で生活するストレスの発散としては最高であった。

風景を楽しむうちに、すぐに島の半周ぐらいは踏破してしまう。私はいつのまにか市街の中心部まで到達していた。





世界ケンカ旅行(マカオ編)
香港に入ってから4日が経っていた。

リチャード君のガイドもあり、香港の観光スポットはほぼすべて回った。
遂には、何もすることがなくなり、この日はゲストハウスで読書を決め込んでいたが、ジュンさんに誘われて、いっしょにマカオに行くことになった。

予定外の行動ではあったが、誘われれば興味も出てくるものである。

ジュンさんの目的は観光ではなかった。

入国時、1週間ほどの滞在しか許されない香港では、マカオに旅行することで滞在期間を実質上延ばす方法が有力であった。中共と香港を何度も出入りして、しかも香港の滞在が2週間程度である彼女にとってはこの方法が一番合理的なのである。もっとも、普通の観光なら3日で終わってしまうわけで、与えられた1週間の在留期限が特別短いということでは決してなかったが。


我々はハイドロフォイルと呼ばれた水中翼船に乗ることにした。香港島側のフェリー埠頭からは30分ごとに出発しているので予約など面倒な手続きは必要ない。

ちなみに、香港の出国手続きは、形式だけといってもいいほど簡単であった。

特に感慨もなく、船は小1時間ほどで、マカオに到着した。








世界ケンカ旅行(香港編)
私はリチャード君と香港の下町を歩き回った。

ここは「燃えよドラゴン」のオープニングで出てきたような古い情景がまだ残っている地域である。見上げれば、洗濯物を干した竹竿が窓から突き出して、道路上にせり出している。
さらに、建築中の高層ビルでは作業足場の骨組みに竹竿が使用されていて、繋ぎ目は紐で縛られているだけだった。ここでは竹竿が大活躍である。

「ビルから物を投げ捨てる人が多いですから、気をつけてください」
リチャード君が注意を促した。

彼の気乗りしない表情が気になったが、多分、香港の汚い部分を見られたくなかったのだろう。いずれにせよ、私のようにスラムや古い町並みに興味を持つ観光客は珍しいかも知れない。

「夜はビクトリアピークにでも行きませんか? 天気がいいですから」
彼がしきりに勧めるので私もムゲに断るわけにはいかない。確かにビクトリアピークは行きたかったが、私にとっての優先順位は低かった。


夜までの時間つぶしで2人はモンコクの専門店街に向かい、カメラやアウトドアショップなどを見て回った。まだ量販店の展開がなかった日本に比べればかなり安い。
香港買物ツアーと称して、ブランド雑貨購入を目的に日本から観光客が押し寄せてきたのはこの頃である。









世界ケンカ旅行(香港編)
「九龍城に行きたいんだけど、いっしょにきてくれないか?」
リチャード君のアパートの近くにある食堂で、私は唐突に切り出した。
というのも、九龍城はそこから歩いて行ける距離だったからである。

リチャード君はコーヒーをすすりながら私に目を合わせた。

「そんなとこ行ってどうするんですか?」
彼は不思議そうな顔をした。

リチャード君によると、九龍城砦は単なる雑居ビルが密集しているだけで、行く価値などないという。
しかし、ここまでやって来た以上、とにかく現地だけでも見ておきたかったので、乗り気ではなさそうな彼に頼んで付いてきてもらうことになった。


はたして、現地に到着してあたりを見回すが、九龍城砦がどこなのかわからない。

「ここがそうですよ」
リチャード君は我々が通る歩道の横一面を手で仰いだ。

九龍城砦は航空写真で俯瞰させて見ると凄いスラムに見えるが、地上で見るとチョンキンマンションとそれほど変わらない。我々はすでに九龍城砦の一角を歩いていたが私が気付かなかったのである。

一階には雑貨屋などもあるし、子供が遊んでいる。明らかに期待していたイメージとは違っていた。

「ちょっと中に入ってみないか?」
私は彼を誘った。

「う~ん、中で迷うかも知れないですよ。まあ、人に聞けばいいんですけど、入りたくないなあ」
彼はやんわりと断った。

香港の古い建築物が迷路のようになっていることは、チョンキンマンションや彼のアパートでよくわかっていた。つまり、この九龍城砦が日本で紹介される場合の説明で、「一度入ると出られない」というのは、そういう意味だったのだ。早い話、リチャード君のような香港人だったら、誰かに通路を聞きながら外に出ればいいだけなのである。

なんだか九龍城砦の正体を垣間見たような気がした。




世界ケンカ旅行(香港編)
香港の住宅事情は皮肉を込めて、マッチボックスと呼ばれていた。
その表現は、日本のそれが「ウサギ小屋」だったことに似ている。つまり、香港は文字通り、幾重にも積まれたマッチ箱のように狭いというわけである。

リチャード君のアパートの間取りはチョンキンマンションのゲストハウスと非常に良く似ていた。
狭いキッチンとトイレ兼シャワールーム、そして8畳程度のリビングとベッドルーム3つで、日当たりは悪く、狭い窓からは向かいのアパートが見えるだけである。下層階なので窓から上空を見上げないと青い空さえ見えない。

リチャード君は私を迎えに下に降りる直前だったという。このアパートの構造だと、それしか確実に会う方法はなかったのかも知れない。いずれにせよ、運よく直ぐ入ってこれたものである。

リチャード君に招かれ、私はリビングの木製の長椅子に座った。彼はつれて来てくれたおばさんと何やら話しをしていた。状況を説明しているのだろう。

おばさんが帰ったあと、リチャード君は私にコップに入れた水を出してくれた。
奥の部屋では兄さんらしい人が物珍しそうにこちらを見ながら着替えをしていた。

「あれが私の兄です。奥の部屋は兄弟3人の部屋、こちらは両親の部屋、こちらは祖父母の部屋ですよ」
リチャード君は指差しながらそれぞれの部屋を説明した。

「どうですか?日本の家よりすごく狭いでしょう?」
彼は私に同意を求めた。

正直、世辞としても褒められない狭さであった。息子3人の部屋には2段ベッドとシングルベッドがひとつずつと、共用の机が置いてあった。いい大人に個室がないのは不便であろう。3世代同居といってもさすがに夫婦の部屋は別々であるが。

ただ、すでに核家族化が一般的となっていた日本からすると食事時は楽しそうな家庭にも思える。

「日本も狭いもんですよ。まあ、外に出て話しませんか?」
私は答えた。

雰囲気的に、祖父母も父母も息を殺して部屋で私が出て行くのを待っているようである。1人ずつ自己紹介でもするのかと思っていたが、多少期待はずれの感があった。私は招かざる客であったのだ。

さて、明らかにリチャード君は日本の住宅事情を過大評価しているようであった。

我々日本人が昭和30年代にアメリカ製のテレビドラマで繰り広げられる健康で豊かな消費生活をそのままアメリカの実情であると錯覚して、あの国に憧れをもったように、香港人も日本製のドラマを鵜呑みにしているふしが見られる。

実際の日本では6畳ひと間、トイレ共同のアパートだって数えきらないほどあった時代であった。















世界ケンカ旅行(香港編)
香港到着の翌日、さっそく、リチャード君に会うことにした。

事前にゲストハウスから住んでいるアパートに電話連絡したものの、受話器に応答したのは兄さんで、本人は外出しているとのことである。そこで、アパートに直接出向くと伝えた。

リチャード君の居所は九龍半島では下町とも言えるトカワンの団地にあった。そこは空港に離着陸する旅客機がビルをかすめるように目前で見える場所に位置していた。

私はまず、地図で住所を確認してから、バスでアパートの近くまで到着した。そこからが大変である。

通りの名前と番地からアパートの「あたり」は付けたが、入り口がどこかわからない。そこで、表通りから裏通りに回ると、縦1列ごとに鉄格子の狭い扉がいくつかあるのを発見した。しかし、一見してそれぞれの扉がどのブロックなのかを示す表示がない。近寄って格子の間から覗くと、壁に白いペンキで殴り書きしたように、「A座」とか「B座」などという、小さくてわかりにくい表示があるのを見つけた。
香港人、いや、シナ人の猜疑心の強さなのか、外部からは、そこが出入り口であること自体がわかりにくいようにしてあるのだ。
しかも、入り口には呼び出しブザーなどというものはなく、外鍵を持っていないと建物内には入れないようになっていた。泥棒や押し売り除けとしては完成度が高い。
仕方なく、私は誰かが出入りするまで待つことにした。

20分ほど待っていると、住人と思われるおばさんが帰ってきた。

おばさんには、自分が旅行者であり、リチャード君に会いに来たことを説明して、中にいっしょに入れてもらうことになった。

そのあばさんは、リチャード君の住む6階までいっしょに案内してくれた。おそらく、純粋な親切心からというよりは本当に自分がリチャード君の知人なのかを見届けるためについてきたのだろう。香港人の警戒心は強い。

ようやくリチャード君の家の扉の前に到着し、おばさんがブザーを鳴らした。

このアパートも、チョンキンマンションと同じく、各居住部屋の入り口は2重ドアの構造になっていて、外側は鉄格子である。薄暗い雰囲気も手伝ってか、まるで牢獄に住んでいるようであった。

ほどなくして、ドアを開けて応対したのは、他ならぬリチャード君自身であった。












世界ケンカ旅行(香港編)
歓談は1時間を越え、料理もビールも無くなった。
宴はお開きとなり、3人は現地解散して、思い思いの帰路についた。

私は徒歩でセントラル地区まで戻り、スターフェリーで夜景を楽しみながらゲストハウスに戻った。


夜のゲストハウスでは、昼間には顔も見なかった連中が部屋を賑わしていた。

3人の白人男性がリビングルームでテレビつけながら食事していたのである。ちなみに、香港では地上波の英語チャンネルがあった。これはあらためて国際都市香港を実感させる。

私はソファーの隅に腰掛けて情報ノートを読んでいたが、彼らの会話がどうしても耳に入ってくる。

3人に共通するのは、夕食を自炊して食費を節約していることであるが、旅行者は1人だけで、残り2人はイギリスから仕事を求めてやってきたと思われる若者であった。

当時、すでにバブル頂点の8合目くらいにあったカネ余り日本からは想像できなかったが、かの国では永く続いた「英国病」が尾を引き、イギリスの若者が失業者として街に溢れていた時代である。
彼らの一部は英連邦各地に飛散した。流れ流れて辿り着いたのが香港だったわけである。

イギリス人に限らないが、英語を母国語とする人々がアジアで職を得るための最大のセールスポイントは「英語ができること」であった。
最も手っ取り早いのは「英語教師」であり、言語体系や文法構造がヨーロッパと大きく違うアジアでは構造的に習得が比較的難しく、どの国でも常に一定の需要が存在していた。

もうひとつ、英語教師としては「白人」であることも重要であった。日本でも、単に白人というだけで、北欧の若者が英語講師をしている例もある。大抵は教える相手が子供なので、特に問題が起こることはないようである。

香港におけるイギリス人の状況は少し違っていて、所在企業で普通に仕事を探すことができた。ただし、香港は正式な英連邦の植民地であり、英語は公用語なので、教育現場で「単に英語ができる」程度で教師になれるほど甘くない。

ゲストハウスのイギリス人も、最初は英語教師を目指していたが、学歴の問題で諦め、今は飲食店での仕事を探しているようだった。といっても、本国で仕事のない者が外国で仕事を探すのは倍難しい。結局は、バーテンダーのような仕事しかないのだろう。

彼らは毎夜毎夜、自炊のサンドイッチをほお張りながら就職の情報交換をしていたのである。









世界ケンカ旅行(香港編)
3人の宴はビールが程よくまわるにつれて盛り上がっていった。

会話の役割分担もある程度明確になっていく。私とジュンさんは中共旅行の経験者として、未経験の彼に指南する側、そして彼は教えを請う側となる。

「切符を買うのは大変らしいですね、、、」
彼は好奇心に目を輝かせて訊いた。

私は一瞬考えた。中共の実情が想像を絶するが故に、本当の事を言うと逆に誇張していると受け取られる可能性があるから、控えめに教えるべきか?それとも真実を告げるべきか?

やはり、真実を告げるべきだろう。

「まあ、普通は300人くらい並んでいますね。多い駅だと1000人くらい並んでいるんじゃないか?なんせ駅前が人でいっぱいだから、、、」
私は答えた。ジャンさんも頷く。

私は続けた。
「あの国では列を作らないんですよ。ひとつの窓口があると、すぐ後ろは2列になって、その後ろは4列になる。結果として団子状態になるから、まあ、人の流れは砂時計が落ちていくような感じかな。最後尾なんてないから、切符を買うときは適当に集団にくっついていれば大丈夫だよ」

「となると、時間はどれくらいかかります?」

「そうですね。普通は3時間あれば大丈夫だけど、朝から夕方まで並んでやっと買えることもあるよ。切符を買うのは一日仕事ですね。まあ、外人料金で買えば楽だけど、値段が4倍違いますからね」


彼の戦意喪失したような表情が伺えた。

実際は渦中に入ってみると慣れてしまうものだが、こうやって別世界の香港で話していると、あの国の異常さがあらためて浮き彫りになるのである。
世界ケンカ旅行(香港編)
我々はセントラル地区をひたすら東に歩いた。

「えーと、ここら辺なんだけどねえ、、、」
ジュンさんが呟いた。どうも彼女の記憶は怪しそうである。
私は持っていたショルダーバッグから地図を取り出して差し出した。
しばらく考えた末、彼女は地図の一点を指差して、
「あ、ここ!」
と叫んだ。

目的のレストランはワンチャイ地区の裏通りにあるようである。とすると、ここから、まだ東に500メートルは歩かなければならない。

明らかにバスを降りる地点を間違えたが、一同無言のまま引き続き歩いた。

貧乏旅行でも慎重な人は情報を事前にできるだけ収集して準備しようとする一方、行き当たりばったりの旅行者もいる。ジュンさんは後者の方であろう、、、などと考えながら私は歩いた。

さて、ようやくワンチャイ地区に辿り着き、我々は大通りから1本南の通りにある薄汚い大衆食堂に入った。
壁には紙に書かれたメニューが貼り付けてあった。

「うーん、やっぱり香港は高いなあ」
私は言った。

ざっくり中共の10倍程度の値段であった。一品は安くて30香港ドルぐらいからである。

我々3人は1人1品ずつで、合計3品とビールを注文した。



「これは凄い夜景ですね」
私は言った。

対岸セントラル地区の高層ビル群のことである。100万ドルの夜景という表現が陳腐なくらいなSF的都市景観であった。市街地に空港があるため、日本のように点滅する派手なネオンは禁止ということらしいが、これが静的な美しさとなっていた。

我々3人は埠頭を歩きながらスターフェリー乗り場に向かった。

香港にはMTRと呼ばれる地下鉄もあったが、やはり観光客としてはスターフェリーで対岸に渡るのが風情があっていい。しかも安い。
フェリー乗り場付近には露天で外国の新聞が売られていて、その中には日本の国際衛星版もあった。まったく中共とは雲泥の差であった。
3人が船に乗り込むと同時にゲートが閉まった。エンジン音が鳴り響き、船内での会話は少々きつい。

さて、船は5分程度で対岸に到着し、そこからダブルデッカーとよばれる2階立てバスに乗り込む。

市街地を眺めると、あの「燃えよドラゴン」のテーマを思わず口ずさんでしまう。

「ここで降りますよ」
ジュンさんが合図した。

我々はバスを降り、ジュンさんの後をついて目的のレストランに向かった。
セントラル地区も物凄い人の数で賑わっていた。
世界ケンカ旅行(香港編)
香港初日は慌しかったが、ようやく日も暮れようとしていた。

私は所用をとりあえず済ませて、夕食の約束時間である午後6時に間に合うようゲストハウスに戻った。

共用リビングでは別の日本人らしき男性がテレビを見ながらインスタントコーヒーを飲んでいた。コーヒーカップは、今となっては懐かしい気もする、花柄のホーロー仕上げの蓋付き鉄製カップである。中共での鉄道旅行での必需品ともいえたホーローカップだったが、用済みとなって旅行者が置いていったものが10個近くもキッチンの棚に放置されていた。

「あ、ジュンさんと晩飯に行く方ですか?」
男性は私を見つけるなり尋ねてきた。ジュンさんとはあの女性のことだろうと思ったが、よく考えてみれば、まだ女性から名前は聞いていなかった。
「小太りの女の人ですね?6時で約束してますよ」
私は答えた。

話を聞いてみると、彼の名は葛西といい、やはり夕食の約束をしているとのことである。彼も私と同様に大学生の身分だが、学年はよくわからない。旅行経路は私と逆コースで、香港から中共に入るそうだ。
メガネをかけた痩身男で、私より神経質そうな男である。

そうこう雑談するうちにジュンさんが戻ってきた。

「じゃあ、行きますか」
彼女は促した。
彼女がリーダー格となり連れて行ってくれるのはありがたい。中華料理は円卓を囲める5~6人がベストだが、最低3人いれば格好はつく。

我々3人は「開かずのエレベーター」を通り越して階段を駆け下りた。

チョンキンマンションの外はすでに暗く、きらびやかなネオンの渦に囲まれていた。



世界ケンカ旅行(香港編)
夕食までは時間がたっぷりあったので所用を済ませることにした。

情報ノートには手数料の比較的安い両替屋がビル内にあると記されていたので、さっそく航空券代と生活費を確保することにした。手元には国境で替えた数百香港ドルしかない。

その両替屋は2階にあった。

一望して、香港の観光エリアには多くの両替屋が密集していたが、レートが悪い上にトラベラーズチェックの手数料も高い。それらに比べて、チョンキンマンション内にある両替屋は有利であった。

私が行った両替屋は、屋号は華人経営を思わせるものの、インド系の係員が現金を扱っていた。

そこで両替に来る客の大部分もインド・パキスタン系で、観光客はほとんどいなかった。

私はバンカメのトラベラーズチェックとパスポートを小窓から入れて両替できるか確認した。係員はOKの返事を出した。次に所定の位置にサインをしてチェックを渡すと、手馴れた調子で札を数えて小窓からパスポートとともに返却して取引は終了である。

全部終わるのに1分ほどかかったが、中国銀行での両替でイライラ待たされたことを思い返すと、資本主義の権化である香港の効率の良さには改めて驚かされる。

私は、そのまま最上階にある旅行代理店に直行した。

1週間後の成田行きフライトを確保して代金約2万数千円をその場で支払った。チケットの受け取りは翌日である。

中共国内では、鉄道の切符を並んで買うのに丸1日を要していたことを考えると、まさにここは別世界であった。




世界ケンカ旅行(香港編)
さて、ゲストハウスの共用ルームを見回してみると、隅の本棚には、旅行者が置いていった文庫本やガイドブックが未整理のまま積まれていた。
香港は中共旅行の基点でもあるが、逆に終点でもあるから、ここから空路で帰国する旅行者にとっては旅行中に読み終えた書籍や雑誌、あるいはガイドブックは不要になる。ここにあるのは、そんな経緯でゲストハウスに寄贈された書籍類であった。その中には日本語のものも含まれていたが、英文のものが大半である。

もうひとつ、ここには日本語の「情報ノート」があった。これは、宿泊者が入れ替わり立ち代わり、大学ノートに書き連ねた旅行経験談の集大成であった。

内容は、大きく分けて香港の生活情報、中共の旅行情報、そして、その他の東南アジアの旅行情報が思い思いの形式で書きなぐられていた。

これが非常に面白い。特に、経験談は具体的なものが多く、本音で語られていた。私はついつい最後まで一気に読み込んでしまった。

もし、中共に入国する前に、このノートを読んでいたら、心構えはかなり違っていたであろう。

インターネットもパソコン通信もなかった時代、日本人バックパッカーたちは、こうやって少ない旅行情報を共有していたのである。



世界ケンカ旅行(香港編)
列ができているエレベーターには乗らず、階段を使って6階のゲストハウスまで戻った。

ゲストハウスの共用スペースには、宿泊者とみられる女性が独りで雑誌を読みながらソファーに寝転がっていた。直感的にまず間違いなく日本人である。もしくは台湾人、あるいは欧米在住の華僑かも知れない。

「こんにちは」
目と目が合った瞬間、むこうの方から挨拶をしてきた。私も返事を返した。次は、互いの旅行歴の披瀝のようなものが始まるのが通例であった。

女性は20代後半くらい、小太りで、活発なタイプに思えた。概して、貧乏旅行する典型的な日本女性に見えた。

私が中共をぐるりと周遊してきたことを話すと、さっそく情報交換である。

「ヤミ両替はいくらでしたか?」
女性は言った。
「上海で190だったかな。北京で180くらい」
私は答えた。この場合、外貨券100元に対して人民元が190元になるという意味である。

「へー、今ね、広州では180だよ」
女性は得意げに話した。

バックパッカーの価値観としては、できるだけ多くの国を訪れ、できるだけ辺ぴな国境超えをしたことが勲章のように付いてまわる。
最初の会話で、相手の旅行歴に探りを入れ、自分の渡航経験を自慢できるかどうかを見極めるのである。中共関連でいうと、ネパールからヒマラヤ越えをしてチベットに入れば、ドミトリーでは「猛者」として尊敬される時代であった。
その女性は、私が初めての中共旅行であることを知るや、急に態度がでかくなり、ちょっとした先輩気分である。もっとも、実年齢も私より上なので気にはならなかったが。
ただ、こういう人は慕えば何でも教えてくれるので非常に助かる。中共国内でもよく会ったタイプだった。

「今晩、いっしょに食事でも行かない?」
一通り情報交換が終わったあと、女性は私を誘った。ドミトリーで同室になれば、とりあえずいっしょに晩飯を食うのが普通の時代である。




世界ケンカ旅行(香港編)
チョンキンマンションの周辺は香港有数の繁華街であるチムシャチュイである。

ここを歩いている半数以上は観光客で、どこを向いても外人相手のカメラ屋や両替屋が視界の中に必ず入ってくる。そして、文明国家に戻ってきたのだと感慨に耽る。

とりあえず、私は近くのマクドナルドに入って観光計画を練った。

まず、日本に帰るための航空券を買わなければならない。
当時、香港は貧乏旅行者にとっては格安チケットで有名であった。もちろん、日本国内でも格安チケットが本格的に出回り始めたころではあったが、価格差で香港発券の2倍はあったから、大陸旅行の帰りは香港に寄って日本までの航空券を買うのが最良の選択肢であった。

そして、必ず行きたかったのは、例の九龍城。
小さい頃からテレビの海外取材モノで見てきたから、これはぜひ訪れてみたかった。

あとは、上海で会ったリチャード君に会うこと。
彼の住所を控えてあるので、これを頼りに探すつもりであったが、香港の大きさを考えると、さほど難しくはないだろうと思った。

一通りガイドブックを眺め終わり、私はマクドナルドを出て、小1時間ほど周辺を散策して、宿に戻った。









世界ケンカ旅行(香港編)
荷物整理も一段落して、周辺を散歩するために外に出ることにした。

暗い廊下でエレベーターを待つも、なかなか降りてこない。ようやく、ドアが開いたと思ったら、すでに満員状態で私が乗る余地はなかった。

根本的な問題として、昇降客の総数に対してエレベーターの数が足りないのである。だから、1階では列を作って待つ必要があったし、6階に降りてくる台は、すでに上層階で客をパンパンに乗せて満員となっている。

私は階段を使うことにした。この階段も少々曲者で、少し隠れた場所にあって、最初はどこにあるのかわからない。
やっと見つけて降りていくが、1階の出口は裏口のような所に抜けていて、帰りは場所を覚えておく必要がある。

まったく迷路のようなビルであるが、当然ながら、ほぼ数年に1回は火事で死者が出ているそうである。もし、地上10階あたりで出火すれば、それから上層階は煙に見舞われて死者続出であろう。

私は子供の頃テレビで見た、千日デパートや大洋デパートの火災を思い出して、身震いした。








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