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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
世界ケンカ旅行(欧州編)62
ユーレールパスの使用期限まであと5日となった頃、私はパリに到着した。

恐らく、大陸で最後の宿泊地になるであろうパリは最低でも3泊する予定であった。 
芸術にはほとんど興味はなかったが、やはり、ルーブルやオルセーを無視するわけにはいかないだろう。 
軍事博物館ではナポレオン時代の展示物をじっくり見たかったし、ベルサイユ宮殿等、とりあえず行っておきたい場所がたくさんあった。 
世界で最も観光客が訪れる都市だけに、歴史に疎い私にもそれなりの見所はある。

パリは雑多な人種の住民に加え、観光客、留学生など、ありとあらゆる人間が歩く街であった。 
特に、北アフリカ系や黒人が多数歩いており、これまで訪れた都市とはかなり異質な街である。 

街は全体として陰湿で小汚く、実態は別として、体感する治安の悪さは、ここまで訪れた街の中ではナポリやアムステルダムに次ぐほどに感じた。
 
パリのメトロは日本と同じ方式で、自動改札口に切符を通して入場するが、窓口以外に職員が立っておらず、誰もいない改札口を堂々と飛び越えて「タダ乗り」していく若者の数が半端じゃないのに驚く。 
こんな連中がいるメトロは昼間でさえも薄気味悪い。 同時に、シナ人を含む東洋人もよく歩いていて、私がそこらを歩いていてもフランス国籍を持つ自国民か留学生か観光客か見分けが付かず、目立たない存在となるのである。

ある意味で、外人にとっては暮らし易い所であろう。

世界ケンカ旅行(欧州編)61
ミュンヘンでは、トラブル続きだったイタリア旅行の疲れを癒すために2泊した。
慣れた西ドイツにいると、動きたくなくなってしまう。やはり、英語が通じるというのは大きい。

これからは、南フランスを通過してスペインへと渡る予定だったが、どうもラテンの国に対して先入観ができあがってしまい、気が引けたというのも大きかった。

ただ、ユーレールパスの元を取らなければならないという義務感だけが私を突き動かしていた。

私は重い腰を上げて、国際列車に飛び乗った。
途中、ミラノで降りて夜行列車の乗り換える。

翌日の午前中にはスペインのバルセロナに到着した。

以後の道程は目まぐるしい。

コルドバ、グラナダと進んで首都のマドリッドに移動し、ポルトガルのリスボンまで往復、再度、マドリッドに戻って、いよいよ、花の都・パリに向かうことになる。


さて、スペイン・ポルトガルのいいところは、比較的物価が安いということと、食事が旨いということに尽きる。

これまでは、スーパーで食材を買ってユースや列車の中でサンドイッチを作って食べるのが私のスタイルだったが、さすがに、この国では1日に1回はレストランに行った。
また、西ドイツのユースと同じ値段で個室に泊まれるのはありがたいものである。









世界ケンカ旅行(欧州編)60
一人目を突き飛ばした、その勢いをそのままに、見張り役としてコンパートメントの外側の通路で立っていた共犯者に向かって突進した。

私は、猪突猛進を地でいくタックルを見張り役に食らわせると、その男もまた後ろに弾き飛ばされた。

それから後は、ただ、ひたすら客車を走り、車掌が見つかるまで長い列車の通路を探し続けた。



10数分後、休憩中の車掌を捕まえて、状況を説明し、いっしょにコンパートメントまで戻った。

犯人グループはすでに逃走していた。

が、列車が停車していない以上、他の乗客に混じって座っているのである。残念ながら、月明かりの中で犯人の人相着衣などは、まったく記憶になかったから、同じ人物を見ても識別不可能であった。

幸い、私にはケガはなく、荷物もチェーンで繋がったまま棚に置いてあった。


結局、被害届けのようなものは提出することはなく、何かあれば車掌に連絡するということでその場を決着させたのである。

私は、終着駅のミュンヘンまで一睡もできず、興奮さめないまま再度西ドイツの土を踏んだ。

世界ケンカ旅行(欧州編)59
人間の思考とは不思議なもので、事前には理性であれこれ考えていたことが、土壇場では全く役に立たないことがある。

生まれて初めて、泥棒グループに直面した私の行動も同様で、犯人と目が合った瞬間、それまで頭の中でシミュレーションしていたことなど、どこかに吹き飛んでいた。

「オリャー!」
私は喉を絞るような大声で犯人に向かって気合を発していた。
考えての行動ではなく、とっさの恐怖心が本能的にそうさせたものである。事前には考えていなかった行動であった。

それと同時に私は犯人に向かって頭から飛び込んだ。

事前には、蹴りやパンチを見舞うつもりだったが、狭いコンパートメント内では、実戦としては、こちらが身構える一瞬が時間のロスになってしまうのである。
むしろ、起き上がったと同時に相手に飛び込むのが最も早く対処できるのだ。

私の体は意思に関係なく勝手に動いていた。

結局、私は犯人に頭突きを入れる態勢になり、相手の首から顎の間に、私の頭蓋骨が突き刺さった。

犯人は反動で後ろに倒れたが、このときに後頭部を壁に打ち付けたらしい。
私の頭突き自体よりも、後頭部の打撃が強烈だったのだろう。犯人は頭を両手で押さえながら、悶絶したのである。





世界ケンカ旅行(欧州編)58
イタリアの夜行列車に出没する泥棒については、ガイドブックにも注意喚起が記されるほど特に知られた存在であった。 
被害事例の中には、睡眠剤らしきものをコンパートメント内に散布して乗客を昏睡させて、その間に根こそぎ荷物を運び出すという凶悪な手口まで報告されていたのである。
 
したがって、私にもある程度の心の準備はあったが、やはり実際に直面すると背筋が凍ったようになる。

私は、意を決して、睡眠剤などを散布される前に対応することにした。
 
2人組の動きには相当な神経を尖らせて、ピストルなどの武器を取り出すような素振りをすれば、その瞬間に大暴れするつもりで覚悟を決める。

私は拳を握りしめ、いざという場合に、どのように蹴りを入れるか、突きを入れるかをシミュレーションしながら、ゆっくりと上半身を起こした。 

眠気は吹っ飛び、緊張のために体が小刻みに震えた。

敵がピストルを取り出した場合には、それをつかみにいき、頭突きを顔面に食らわしつつ、膝蹴りを腹に入れ続ける、、、、
敵がナイフを抜いた場合には、顔面に正拳突きを入れ、顎を掌ていで突き上げる、、、、
ただし、それらの攻撃はあくまで逃げるための突破口を開くための手段であって、敵を怯ませた直後は、一目散に走る、、、、

起き上がった直後に、私の荷物を棚から剥ぎ取ろうと奮闘している泥棒と目が合った。

日本の移民推進論者よ! 北欧の惨状をよく見とけ
何でもかんでも欧州の潮流を手本にしたがる輩が多いですが、今、欧州ではマグマのように反移民のエネルギーが溜まっているようですな。凶悪犯罪としてオスロでのテロを非難するのは簡単ですが、この男がやっていなくても第2第3のテロがいずれにせよ起こっていたのでしょう。

ノルウェーでの連続テロで明るみに出ましたが、調べてみると、この国での移民は人口比率で11%以上もあるそうですな。
ノルウェーに限ったことではなく、隣りのスウェーデンでも、オランダでも、ベルギーでも、移民を都合よく自国に同化させようという施策はすべて失敗しており、結局のところ、移民というのは都市部の一角に固まって住み着き、受入国に馴染もうとはしないことが証明されております。

つまり、移民の比率が11%であっても、彼らが都市に集中して生活している場合、特定の地区での比率は90%を超える場合がほとんどだそうですな。

もう、欧州の移民政策は失敗であるということが半ば証明されている現在、日本でも移民を積極的に受け入れようという意見が産業界などにあるわけですが、まあ、欧米先進国から移民がくることはなく、実態としてはシナ人を主体としてアジアの貧乏国から大挙してやってくるのは火を見るより明らか。

私の近辺にも実際にブラジルの連中がたくさんいますが、彼らは日本語を勉強する気などありません。結局は「共生社会」のスローガンのもとに、受け入れる日本の自治体が苦労するわけです。

もう、外人はこれ以上、入れてはなりません!
日本人よ!もう、いい加減に「シナ人」というものを理解せい!
中共の新幹線事故ですが、これは賢明なシナ・ウォッチャーであれば(私も含めてですが、、、)早晩、絶対に起こると誰もが予想していたことですな。

かく言う私も、よく中共の列車には乗る方ですが、正直、飛行機に乗るよりも緊張します。 まず、列車に乗る直前には、自分が乗る客車が、前から何番目の車両であるかを必ず確認して、もしも、前から5両以内だったら、本当に「神様」に幸運を祈ります。

最近は減ってきていますが、中共国内ではほとんどが単線での運用であるため、正面衝突の危険は常にあるわけですな。

どだい、シナ人に高速鉄道の運用など無理なのはわかってましたが、こんどの事故で日本人にわかってもらいたいのは、あの国では人命の価値が異常に低いということ。事故の翌日にはさっそく証拠隠滅のために事故車をバラバラに解体して地中に埋めてしまいました。

要は、事故の教訓を今後に役立てようという発想がまったくないわけで、今後も同種の事故は起こっても構わないと考えているんですな。

おそらく、今後は事故自体が「無かった」ことにされて中共得意の「歴史捏造」が行われるでしょう。

去年の尖閣の時と合わせて、日本人も早くシナ人・中共の異常さに気がついてほしいものです。
世界ケンカ旅行(欧州編)57
時刻は深夜12時以降であろうか。 

私はいつものように、2等客車8人がけのコンパートメントに乗って次の目的地に向かっていた。
 
コンパートメント内には私1人しかおらず、窓際の席を占有して睡眠を取ろうとウトウトしていた頃であった。 
ヨーロッパの鉄道は、一つのコンパートメント内に、6人(1等車)ないし8人(2等車)が、2人づつ向かい合って座るような構造になっている。 もし、乗客が少なくて自分の向かい側の席に誰もいない場合、向かいの座席を変形させることによって、簡易ベッドのような、体を横臥できる態勢に組み替えることができる。 
私は窓際席で、簡易ベッド化した2人分の座席を占有して横になっていた。 この季節の夜行列車内では、コンパートメントが満席になることはほとんどなく、窓際に陣取っていれば邪魔されずに朝まで2人分を占有したままで仮眠が取れるのである。もちろん、検札や国境でのパスポートチェックで度々起こされるから、熟睡はできない。


突然、コンパートメントの扉が開く音がした。 

車掌の検札は終わっていたから、乗客であることは間違いなかった。
薄目を開けて確認すると、月夜の光の中、男性2名が扉越しに中の様子をうかがっているのがわかった。 

そのうちの1名は、中に入ると、上方の荷物ラックに置いてあった私のバックパックを触り始めた。 
私は自分が寝ている間に荷物を盗難されないように、バックパックのストラップに鎖をグルグルと巻きつけて、それを荷物ラックに通して南京錠で固めていた。 

男は私のバックパックを揺り動かしていた。 明らかに盗むつもりであった。

私はどうするか一瞬、迷った。
世界ケンカ旅行(欧州編)56
イタリア経済の特異なところは、巨大な地下経済と地方格差であるとは聞いていたが、ミラノから南下していき、フィレンツエ、ローマと下りて、ナポリに到達する頃となると、ローカル列車の客筋も北から南に行くにしたがって微妙に貧困レベルが上がっていくことが観察できる。
 
ナポリ辺りまでくると、農民階層のような人々が増えてきて、農産物輸送の手段として手荷物で鉄道を利用していたりする。それ以外の人々も微妙に着ている衣服の質が落ちてくるから驚きである。 

「ナポリを見て死ね」という格言があるが、この格言ができた頃はいざ知らず、現代のナポリは地中海に面した田舎町の様相で、街並みはイタリアの大都市でも最も汚く、先進国とはとても思えない。 むしろ、中南米の貧乏都市という雰囲気である。 
人々はより大らかそうで表情も明るいが、目つきの悪い男も増えている。どこから来たか、アフリカ系黒人も歩いていて、「類は友を呼ぶ」でイタリア中の不良国民が集中しているようであった。

ローマでは若い男たちが観光客の女を品定めしているような目つきだったが、ここでは、ひったくりや置き引きのカモを探すような陰湿で犯罪の匂いがする目つきである。

治安は格段に悪そうであった。
 
私はこんな所で「死ぬ」気はさらさらなかったので、早々にナポリを去ることにした。

不審な出来事はナポリを北上するミュンヘン行きの夜行列車内で起こった。
世界ケンカ旅行(欧州編)55
同じイタリアでも、ローマの人は表情が少し違って見えるが、多分これは気のせいだろう。

商店の店員などは、観光客ズレしているのか表情が少しニヤけていて、上目遣いで周辺をうかがっている。見るからに若い女の観光客を捜しているような視線であった。 

ローマ中心部は街全体が博物館のようであった。 
西ドイツの都市のように、完全無欠にメンテナンスされているわけではないが、ローマ帝国の威光はまだ輝いている。 
これだけの観光資源を先祖から受け継いでいるイタリヤは、まったく幸せというしか言いようがない。 イタリア国民がどんなに怠け者であろうが、ぐうたらであろうが、遊んでいようが、この遺跡群がある限り、観光収入が絶えることはないであろう。 
この、イタリアのイメージが続く限り、高級ブランド品は世界中の金持ちに愛され続けるのである。 

まさに、イタリアは「ローマ帝国の遺産」で食っている国であった。

世界ケンカ旅行(欧州編)54
確かに、相手は子供だったから危機感はあまりなく、無理やり振りほどいて逃げることは可能だったが、子供相手に一方的に逃げるのは悔しかった。
 
そこで、最低限の腕力を使いつつ脱出を計り、同時に子供達にはちょっとした罰を与えることにした。

「ウリャー!」
私は大きな気合一発、子供達の足腰に蹴りを次々と入れた。
子供達にはローキックを入れたつもりであったが、如何せん、上背が低いために丁度、子供達のわき腹あたりにヒットしてしまった。 

それと同時に、一斉に彼らの上腕部分に「掌てい」をぶちこんだ。
もちろん、急所は外し、パワーは渾身全力の3割程度に手加減してのことである。いや、手加減したつもりだったのだが、、、、

私自身、力をコントロールしたつもりでも、実際は予期せぬ事態に興奮して、8割くらいのパワーが入っていたらしい。 私の膝や拳には子供達の体に突き刺さる十分な手ごたえがあった。

多分、子供たちにとっても予想外だったのだろう。 
子供は私の蹴りにバランスを崩して、顔を歪めながら次々と倒れていった。 
ある小柄の男の子は後ろに吹っ飛んでしまった。別の少女の顔面には顎のあたりにカウンターが入っていた。歯は折れていないだろうが、口の中を切っているかも知れない。

私は子供がうずくまっているその隙に、現場を走って立ち去った。

その後の子供たちがどうなったかは知らないが、おそらく、その数時間あとには、何食わぬ顔で観光客相手に同じことを繰り返しているのだろう。

世界ケンカ旅行(欧州編)53
私はミラノから南下して、ピサ、シエナ、フィレンツエと、中世の雰囲気がそのまま旧市街に残る都市を周遊した。

ローカル列車が始発の時点で10分以上遅れるなど、アルプス以北の鉄道とは比較にならないほど時間にルーズなのには驚くが、さすがというか、観光という意味においては、イタリアは見所のある街があちらこちらに散在していた。北イタリアからトスカーナ地方あたりまでは、のんびりとして、あまり働いてはいないが、人々の生活レベルは高く、治安に関しても問題なさそうであった。

ところが、フィレンツエのすぐ南、それもローマあたりから印象が根底から違ってくる。

昼下がりの頃、フィレンツエからの列車を降りてローマの中心部にあるテルミニ駅から出ると、一目で貧困層とわかる汚れた服装をした10歳くらいの子供たちが5~6人で私を囲んできた。
いわゆるジプシー(現在で言うロマ人)である。

子供達は私のバックパックやコートの端を掴んで放さず、隙あらばポケットに手を突っ込んできた。 
そして、口々に「マネー、マネー」と言いながら、ニタニタして小馬鹿にするように手を差し出してくる。

私は小走りに逃げたが、子供達は諦めようとしなかった。

「こらー!」
私は一喝したが、子供達はいっそう馬鹿にして、まといついて来た。 想像であるが、こうやって絡まれた日本人観光客、特に女性は、泣く泣く小銭を与えるのではないだろうか。 そして、味をしめて次第に常習化していくのであろう(実際はそんなに甘いものではなく、「泥棒」がジプシーの宿命的生業であるということを後で知る)。

私の堪忍袋の緒が切れた。
世界ケンカ旅行(欧州編)52
1ヶ月以上に渡るような長期旅行をしていると、普通は飽きてくるものであろう。

北欧の奥にあるヘルシンキまで上がって、全行程におけるひとつの節目を迎えていたが、正直、旅のマンネリズムに陥っている自分に嫌気が差すのもこの頃であった。

特に、これまで歩いてきた北欧の国や都市は、文化も生活も人々も、ほぼ同程度・類似のところであったから、最初の東西ドイツを除けば、感動するほどの発見をすることはなくなってくる。初めての国に入っても、感じるものが無くなってくるのである。

ユーレールパスを使用するようになってからは、タイムテーブルと睨めっこする日々が続き、宿泊費や食費をどれだけ節約したかに大半の努力を傾注してきた。
その姿は、まるで、「修行」を敢行しているようであった。


結局、ヘルシンキを出てからは、南下するルートを取った。

途中、北ドイツを通過してアムステルダム、ブリュッセル、ルクセンブルグと周遊し、さらに南ドイツを下ってオーストリアのリンツ、ウイーン、ザルツブルグ、そこからスイスに転じてインスブルック、チューリッヒと旅は続いた。

その後の旅程は、スイスから南下してイタリアを縦断するルートとなるが、このイタリアという国は、それまで旅行してきた中欧・北欧とは趣きが若干変わってくる。

いよいよ、これまでとは違ったラテン文化圏に入ることになる。






世界ケンカ旅行(欧州編)51
翌日、久々に、糊の利いたリネンのシーツに身をくるんで、十分な睡眠を取り、満を持してヘルシンキに到着した。

その日の夕方には、再び同じフェリーに搭乗しなければならないから、ヘルシンキ滞在時間は10時間を切ることになる。
かなり急ぎの行程ではあるが、正直、私にとってはオスロもコペンハーゲンもストックホルムも、そしてここヘルシンキも、同じ北欧にある似たような港湾都市に思えてならなかったから、あまり興味が湧いてこない。

もちろん、細かな特徴に違いはあり、フィンランドの場合は、政治経済の分野でソ連に近いことから、何となくではあるがヘルシンキの街全体が暗いような気がした。

これは偏見かも知れないが、ストックホルムの人々が自由を謳歌しつつ、仕事もしない若者が昼間から街を闊歩しているなど、退廃的な雰囲気もある一方、ヘルシンキの人々は真面目に黙々と生きているような印象を受けてしまうのである。
通りを歩いている人々の数がストックホルムよりもかなり少ないことが、そう感じさせるのかも知れない。

さて、ヘルシンキでの目的は例によって軍事博物館の見学であった。

フィンランドは第二次大戦中において、ソ連と死闘を繰り広げており、その意味でかなり期待していたのである。

世界ケンカ旅行(欧州編)50
スウェーデンのイメージとしては、いろいろあるだろうが、昭和40年代にはフリーセックスの国、無修正ポルノ雑誌の国という風評から、その後の高度福祉国家というイメージまで多岐に渡るであろう。もちろん、サーブとかボルボという企業は、軍事マニアやカーマニアならずとも知られた名前であり、この国が工業立国でもある一面を表している。

日本ではスウェーデンを含めた北欧の福祉制度を見習うべく、度々引き合いにだされるが、例によって「いい所取り」に終始して、高福祉の財源となる「国民高負担」には触れないという、片手落ちな提言のいかに多いことか。
しかも、北欧諸国は概して人口1千万人以下の小国であり、日本とは到底、比較にはならない。

冷戦時代は、スウェーデンとかスイスとかの中立国を引き合いに出して、日本も中立であるべきなどという主張を左翼陣営はしていたが、これも、人口が少ないために国民皆兵で有事に対応している点を無視して紹介するなど、かなり悪質であった。


さて、スウェーデンを含めて、北欧というのは物価が高いという一点を除けば、非常に旅行がし易いエリアであろう。
とにかく、どこでも英語が通じるのは楽である。国民の英語習熟度は西ドイツ以上に違いない。しかも、ドイツ人のように訛のある英語を話さないから徹底している。
確かに、世界規模でみた場合、スウェーデン語やノルウェー語を勉強しているのは、ごく少数の専門家だけに違いないから、立国の基本として、世界標準である英語や近隣の大国であるドイツ語を率先してマスターしなければ国家が立ち行かなくなるのであろう。特に、ドイツ語とは文法面でも近いから、少し勉強すればすぐに身につくはずである。


ところで、ストックホルムを歩いていて気付くことは、この街には、美人が多いことである。異常に美人が多いと言ったほうがいいかも知れない。
しかも、背は高く、金髪で目は青い。 すぐにでもモデルを生業にできそうな美人がそこらじゅうを歩いている。

私は、自分よりも背の高い北欧美人とすれ違うにつけ、感嘆の思いと、それと同時に湧いてくる劣等感を感じずにはいられなかったのである。










世界ケンカ旅行(欧州編)49
スウェーデンの首都であるストックホルムに到着したのは翌日の早朝であった。

ここまで、3日連続で夜行列車泊を強行しており、昼間はバックパックを背負って歩き回ってきたから、肉体的に相当な疲れが出ていた。

ここストックホルムから先は、フェリーに乗ってヘルシンキまで渡ることになるが、このフェリーでは、久々にベッドの上で寝ることができそうであった。 汗だくになった体をシャワーで洗い流すことを考えるだけで嬉しくて仕方がない。これから歩くストックホルムよりも、むしろそのあとが待ち遠しかったのである。 

ストックホルムの埠頭は中央駅から歩いてすぐの所で、乗船時間である夕方まで近辺で時間を潰す必要があった。幸い、市内中心部に軍事博物館があることを知って、これを中心に観光しようと考えた。

ここでは、フェリー代金を往復で購入するため、比較的多額のトラベラーズチェックを銀行で両替した。ちなみにユーレールパス保持者はフェリー乗船券が半額となる。

多額の現金を手にして心も大きくなったこともあり、久々に駅の荷物預かり所にバックパックを預けて、軽い足取りで街に繰り出した。

世界ケンカ旅行(欧州編)48
デンマークの首都であるコペンハーゲンは情緒豊かな国際都市である。

私は、オスロから夜行に乗ってハンブルグまで戻り、この日の朝、再度オスロ行きの列車に乗り込んだ。コペンハーゲンに到着したのは昼下がりの頃であった。
この街は、すでに列車で2度も通過しているが、実際に降りるのは初めてであった。

港湾都市ということで、ハンブルグと良く似た雰囲気だが、当然ながらドイツ語ではなく、デンマーク語が使われていた。ローマ字のOに斜線を入れたような、独特の母音文字がコペンハーゲン(København)という単語に使われているのを見て、これはノルウェー語にもあったなと思った。

さて、コペンハーゲンで何をするか考えた挙句、やはり「ヨーロッパ3大がっかり名所」のひとつである、人魚姫像を見に行くことにした。ちなみに、残りの2つはブリュッセルの小便小僧と、ライン川沿いにあるローレライである。

コペンハーゲンでは手数料が馬鹿にならないので敢えて両替はしないことにした。したがって、ストックホルム行きの夜行に乗るまでの間、買物をすることも博物館に行くこともできない。


はたして、徒歩で人魚姫像のある埠頭まで行った。

人魚姫像は、高さにして1メートル程度、言われなければ見過ごしてしまうような地味なものであった。私は、そこで、いかにしてそれが「3大がっかり」なのかを存分に納得したのである。

その後、私は、日が落ちるまで駅の周辺をぐるぐる歩き回り、夜は駅の構内で夜行列車の到着をひたすら待った。





世界ケンカ旅行(欧州編)47
さて、ムンク美術館で「叫び」を見終わり、とりあえず、その日の夜に乗る国際列車の出発時刻まで街を歩きながら時間をつぶすことにした。

タイムテーブルがうまく合えば、次はスウェーデンの首都であるストックホルムに行きたかったが、夜に乗って朝に到着するような都合のいい夜行はなかった。
そこで、いったんはハンブルグ行きの夜行列車で車中泊し、翌日、ハンブルグ到着後に再度、オスロ行きの国際列車に搭乗する。
途中、コペンハーゲンで下車して市内観光を済ませ、その日の夜にストックホルム行きの夜行に飛び乗るという、意地でも宿泊代を浮かそうという計画であった。


オスロは確かに静かで美しい街だが、すぐに飽きてきたので、またファーストフードのレストランに入って、紙コップのコーヒー1杯で何時間も粘ることにした。

ガイドブックと時刻表を睨みながら、乗る列車をパズルを解くが如く決定していくプロセスは、時間を忘れるのに調度いい頭の体操であり、楽しくもあった。 鉄道マニアが時刻表を読んで楽しんでいる気持ちが判るような気がした。 

この頃から、ドイツ旅行の時のように、ある程度の目的を持って精力的に現地を回るようなスタイルとは違い、本末転倒的な旅行形態に変わっていくことになる。

世界ケンカ旅行(欧州編)46
オスロは人口50万人程度の港町である。フィヨルドで知られた抜群の自然環境の中に位置しており、街並みも落ち着いていて、人通りも少ない。
別の言い方をすれば、とても一国の首都機能が集中しているとは思えないほど活気のない雰囲気であった。かといって、経済の中心地が他の都市にあるわけではなく、文字通り、オスロがノルウェーの政治経済の中枢なのである。

私はオスロでの目的であった、ムンク美術館に向かって歩いた。

特に美術史に関心はなかったが、中学生の頃の美術の副読本に載っていたムンクの「叫び」を見るくらいしか思い浮かばなかったからである。

道沿いにあった、ハンバーガーのファーストフード店に入って、休憩することにした。バックパックを背負ったままなので、休憩なしでは体力的にきつかった。

店に入って、いろいろと観察してみた。
ノルウェー語は若干の母音に独特の文字があるが、ローマ字表記なので読むのは簡単である。基本的なドイツ語とフランス語の知識があれば、「なんとなく」ではあるが、長文の大意も理解できる。

やはり、予想していたとはいえ、驚いたのは料理の価格であった。

安いハンバーガーが1個600円くらい、コーヒー1杯が300円以上もする。セットメニューも、だいたい1000円以上が普通で、ビッグマックセット相当で1500円以上の値が付いていた。ざっくり言って、当時、世界で最も物価が高いと言われた東京の2倍以上の値段である。

当然ながら、マトモに買う気力もなくなり、知らんふりを決め込んで、注文カウンターから一番遠い席に荷物を置いて休憩した。さすがに外は極寒の世界だから仕方がない。

最初は大目に見てくれたものの、いかんせん、客がほとんどいない上に、東洋人の旅行者は目立つから、しばらくして店員が注文を取りにきた。おそらく、ここに入った旅行者は値段に仰天して同じような行動をするのかも知れない。

私は仕方なくコーヒーを注文してその場をしのいだのである。




世界ケンカ旅行(欧州編)45
私の乗ったドイツからの国際夜行列車は、ノルウェーの首都であるオスロの中央駅に到着した。まだ外も暗い早朝のことであった。

私はいつもより膨れ上がったパンパンのバックパックを担いでプラットフォームに降りた。

北欧諸国は、いわゆる福祉国家として日本人には肯定的に受け取られる場合が多いが、その財源としての税金は、名だたる手厚い福祉の恩恵を受けない旅行者にも賦課される。 したがって、短期旅行者にとっての北欧は異常に物価が高い、旅行のしにくい場所として評判は悪かった。

バックパックの中には、ハノーバーのスーパーマーケットで買った、2日分程度の食料と水が詰まっていたのである。もちろん、車中だけではなく、オスロで消費する食料であった。

ノルウェー中央駅でしばらく時間をつぶし、駅の両替屋が開くのを待って、私は大量に両替していた西独マルクから雑費2千円分程度を現地通過に替えた。当然ながら、ここで泊まる予定はなかったから、十分な額である。
 
場所にもよるが、駅のような便利な場所にある両替屋の手数料は高い。 しかも、最低手数料を設定しているから、たとえ小額であっても一定額は必ず差し引かれることになる。 上記のような小出しの両替を何度も繰り返す方法が最も効率が悪く、手数料が高くついてしまうのである。

私はたかだか2千円の両替で5百円近い手数料を取られていることに憤慨したが、これも法定内なら仕方がないと諦めた。

ところが「狂乱物価」の国ノルウェーはそんなに甘くない。

この程度はほんの序の口であった。


世界ケンカ旅行(欧州編)44
いよいよ、ユーレールパスを使っての西ヨーロッパ周遊が始まろうとしていた。

当初は、時計周りか反時計周りで西欧各主要都市に3日間程度滞在するオーソドックスなルートを考えていたが、ドイッチュレールパスで要領を極めてしまうと、鉄道に乗らない日数が多いと、損したように思えてならなかった。したがって、移動はできるだけ夜行を使い、宿泊代金を節約すると同時に、1日で観光する都市をできるだけ複数個にするように計画した。

その結果、ユースでしっかりと睡眠を取るのは週に1回のみとし、残りは夜行列車泊で強行軍を続けるという、何とも体力勝負の旅行計画を練ることになった。もちろん、パリのように、とても1日では史跡、博物館・美術館を見学できない大都市に限って2泊程度は泊まることになる。

ところで、旅行の計画には日本で買った「地球の歩き方」に加えて、フランクフルトのユースで日本人旅行者から頂いた、「LET’S GO EUROPE」という、英文のガイドブックも併せて使用した。

この頃の「地球の歩き方」は、ユースを渡り歩く平均的学生旅行者から、1日あたり1万円程度の予算を使える一般自由旅行者ぐらいを対象に編集されていたから、私にとっては「帯に短しタスキに長し」であった。
しかし、上記の英文ガイドブックは、自転車移動やヒッチハイカーを含む極貧ハードコア旅行者あたりにターゲットを絞っていたから、安宿・安レストラン情報に関しては特に使えるものばかりであった。ただ、掲載地図が貧弱なのが難で、他の詳細地図と併せて使用しなければならない欠点があった。


さて、私はハノーバーにいったん戻り、北欧行きの列車に乗り換えた。

車掌にユーレールパスを見せて日付を入れてもらう。 
いよいよ私の「電撃戦」が始まった。
世界ケンカ旅行(欧州編)43
観光ビザ取得を諦めてからは、強制両替で手にした東独マルクをどうやって使い切るか、、、、ばかり考えてしまい、肝心の観光はおざなりとなっていた。

とりあえず、東独水準でいう高級レストランで食事をしたが、他に客がおらず、事実上の貸し切り状態でのフルコースが僅か500円程度という破格値で、もし闇で交換していれば100円ちょっとで食事ができることになる。
これに意をよくして、東独マルクは高級レストランで「食いまくって」使い切ることに算段がつき、余裕をもって東ベルリン観光はスタートした。  

やはり東ベルリン一番の名所はブランデンブルグ門であろう。

西ベルリン側から臨んではみたものの、後ろ側からの視点である上、いかんせん、落書きで埋め尽くされた「ベルリンの壁」が間に入って良好な視界を隔たり、ゴミ溜めの中にあるように見える。 これでは、とても歴史に思いを馳せらす気分にはなれない。

その点、東ベルリン側の壁は落書き一つなく情景に溶け込んでいた。
ブランデンブルグ門正面に立つと、この門の立つウンター・デン・リンデン通りを観閲行進するドイツ国防軍とそれを閲兵するヒトラー総統の情景や、軍靴の足音が時空を超えて脳裏に蘇ってくるのである。

私は無意識に、右手を高く上げてナチス式の敬礼を行い、栄光の戦いに散ったドイツの将兵達に敬意を表した。 そして、すぐさま我に帰り、慌てて近くに誰かいないか確認した。 ここは泣く子も黙る社会主義国だということを忘れていたのである。

その後、一日中、東ベルリン中心部を歩き回り、高級レストランを探しては東独マルクを消費していった。 
時折、道端では現地人に声をかけられることがあるが、これらの人々は外貨との闇両替を希望する人々であった。もちろん、東ドイツ以外では「土産物」としてしか使用方法がない紙切れを敢えて入手する意味はないから、断っていた。

そんなこんなで、東ベルリン散策は終了、私は西ベルリンに戻り、次の旅行計画を列車時刻表を見ながら構想した。


世界ケンカ旅行(欧州編)42
東ベルリンの人々は皆が質素な服装であったが、仕立は中々良さそうで、20年くらい我慢して着れそうな被服に身を包んでいた。腐っても優秀なドイツ人で、やはり質実剛健な民族性は特徴として表れていた。

私はまず最初にしなければならないことがあったので、観察もほどほどにして再び地下鉄で目的地に向かった。


東ベルリンの中心、アレクサンダー広場には、デザインの貧相なテレビ塔がランドマーク的にそびえ立っていた。
その概観は、丸い団子に箸を串刺しにしたようなデザインで、いかにも社会主義的代物である。

ここのすぐ下にあった国営旅行代理店で観光ビザを取るべく門を叩いた。

外国人観光客の同種の来訪が多いのだろう。係員は相当に慣れた様子であった。担当の女性は、さっそくホテルの値段を含めた旅程の試算を提示してきた。

事前には聞いていたが、ホテルは1泊1万5千円程度で、西側の感覚だと設備は星3つぐらいと思われた。 ドレスデンかライプチヒで1泊するのが精一杯で、とてもこんなホテルに2泊   
する気にはなれない。

結局、資料をもらって熟慮した結果、朽ちたホテルに法外な値段で1泊するだけなら、通過ビザで車窓から風景を眺めているのと大差なしと判断、東ドイツの観光ビザ取得は諦めたのである。
世界ケンカ旅行(欧州編)41
まずは、充満する排気ガスに思わず鼻を押さえた。
 
原因は、目の前を走る東独の国産大衆車・トラバントの空冷2サイクルエンジンから吹き出る白い煙であった。
三菱初代ミニカを思わせる、どこか懐かしい車体ではあるが、廃車置場から持ってきたような車が、原付バイク並みのカン高いエンジン音を鳴り響かせながら、通りを連ねて大真面目に走っている。

「これは上海の匂いと同じだ、、、」
私は思った。

社会主義諸国には「公害」という概念が存在しないのであろうか、皮肉にも排気ガスにまみれた市街地の「匂い」に2都市の共通性を感じたのである。   

東ベルリンは街もどんよりと暗い。西ベルリンに溢れる私企業の看板やポップな広告がない(まったくない)ので雰囲気がパっとしないというだけではなく、建物の壁が排気ガスに染まり薄汚れて暗くなっているのである。 

寒風吹きすさぶ真冬に東ベルリンに立っていると、救いようのない暗澹とした気持ちにさせられる。 
ただ、ドイツ民族に敬意を表するならば、中共ではどこでもみられた、無造作に捨てられたゴミ屑はなく、多少は小奇麗である。この点でシナ人とは民度の差が表れていた。

総じて、東ベルリンは壮大な社会主義のテーマパークの様相で、強制両替はさしずめ、その「入場料」であった。
世界ケンカ旅行(欧州編)40
いよいよ東ベルリンに入る日がやってきた。

私はチェックポイント・チャーリーと呼ばれた地上の検問ではなく、地下鉄駅構内に設けられた東ベルリンの入管を通った。
書類での申請はなく、ほぼ機械的に1日有効のビザを発給してもらう。ただし、二千円程度の強制両替が必要で、これが少々曲者であった。 
当時は闇で1対4~5と言われたが、これを1対1で交換させられるのである。 それでも、実質的に食事代だけで使い切るにはかなりの額であった。
東独マルクを実際に手にしてみると、「人生ゲーム」で使うようなオモチャの紙幣に見えるほど粗末で、偽造を想定していないのか、凝った技術も使われていなかった。

列車の中から見た東ドイツの光景から大体の予想はできたが、それでもやはり地下鉄構内から出て驚いた。

西ベルリンからわずか数百メートルしか離れていない場所に「別世界」が存在していたのである。
世界ケンカ旅行(欧州編)39
東ドイツを横断した列車は、ベルリンの動物園駅に到着した。

車窓から眺めた西ベルリンは、今までいた西ドイツの都市とはまったく雰囲気が違っていた。
規則正しく、美しい街並みが維持されていた西ドイツの都市と比較して、ベルリンのそれは、乱れた、退廃した雰囲気を醸し出していた。 
壁の落書きは「ベルリンの壁」だけに限定されたものではなく、街中に溢れていて、景観をいっそう悪くしている。 

ユースに荷物を置いて、夜の街に出てみた。

フランクフルトやハンブルグの夜道を歩いていても肌で危険を感じることはなかったが、ここベルリンでは普通にパンクファッションに身を包んだ不良連中が街角でたむろしていた。 夜道などは到底、歩き辛いものがあった。ここ、連合国の共同管理区域では、ドイツ人本来の美徳である、秩序とか規則正しさ、質実剛健さが少し離れた本国ほど感じられないのである。 良く言えば、自由奔放なコスモポリタン的雰囲気となるだろうが若干の失望感は拭えなかった。

私は博物館となっていた旧帝国議会(現連邦議会)などを見学したが、思ったより小さい議事堂に驚いた。 
残念ながら、西ベルリンの感想はその程度である。
世界ケンカ旅行(欧州編)38
ハノーバーから西ベルリン動物園駅に向かう列車は、東独製で、当然ながら乗務員も東独人であった。
通過ビザの発給は至って簡単、紙切れ一枚を配布するだけである。

東独製の車両は「西」よりも30年は古そうな内装であった。ナチスの時代に走っていたとしても違和感がない。 これだけでも「期待」させるものがあったが、国境を越えて実際に東ドイツの街並み、田園風景を眺めてみると、その未発達ぶりは凄いものがあった。

やはり国土が地続きであり、国境を越えた途端に風景が一転する違和感は、中共旅行とはまた一味違ったカルチャーショックであった。

私が見た東独は、ドイツが敗戦してから、ほとんどインフラ状況が変わっていないようであった。 舗装されてない道路、屋根が歪みひび割れだらけのボロ家屋、荒れ放題の田園、どれを見ても、さっきまでいた同じドイツとは思えない。十分に1930年代の風景で通りそうである。
 
「社会主義の優等生」とされた東独でさえ「このザマ」なのである。 もう、資本主義がいいとか社会主義が悪いとか論争する次元を超えて、論より証拠、実は、とっくに勝負は終わっていたのだ。

この数年後、東西ドイツが平和裏に統合しようなどとは夢にも思っていなかったのだから、世の中はなにが起こるかわからないものである。
世界ケンカ旅行(欧州編)37
ベルヒテスガーデン訪問を終えたところで、西ドイツの旅は一段落した。
あとは、東ドイツを回ればいいわけであるが、これが「西」と正反対で、入国すること自体が非常に面倒で、敷居がかなり高い。

事前に調べたところによると、正式な観光ビザを取得するには、まず東ドイツでの営業実績がある旅行代理店で、ホテルと鉄道などをすべて予約して代金を払い込み、その旅程表(バウチャー)を東独大使館に提出して初めてビザが発給される。申請する国によって若干の違いはあるとしても、要は、行き当たりばったりの自由旅行はできない建前であった。 もちろん、いったん入国してしまえばバウチャー通りに動く必要はないかも知れないが、いかんせんホテルや鉄道料金は外貨獲得の手段として、ボッタクリも甚だしい合法的な法外外国人料金(?)で、放棄するにはもったいないほど支払っている手前、結局はバウチャー通りの予定となってしまう。

「地球の歩き方」東欧編には、東ベルリンに入ってからビザを取る方法が記述してあったので、自分もそれに習って、現地で取得することにした。

当時、大ベルリンは複雑な国際政治の影響で「陸の孤島」となっており、しかも、ソ連の管理する東ベルリンと、英米仏の管理する西ベルリン地区に分割されていた。これを仕切っていたのが「ベルリンの壁」であった。
空路に加えて、陸路でも西ドイツから西ベルリンに行くことは複雑な手続きなしに可能であった。

ヒッチハイクで行くか、鉄道を使うか考えた末、私は安全確実な鉄道を使うことにした。
世界ケンカ旅行(欧州編)36
オーストリア国境に近いベルヒテスガーデンは西ドイツ有数の避暑地として、夏季は多数の国内観光客で賑わうという。

私は日も暮れたベルヒテスガーデン駅のプラットホームに降り立った。 ミュンヘンからは列車で1時間程度の距離である。

観光客は誰一人いない。非常に寂しい田舎町の駅であった。 私は営業時間外で誰もいない観光案内所にあった宣伝ビラで、「ヒトラーの山荘」に関する情報を集めた。
 
現地でも当然ながら観光資源のひとつにしているから、どのビラにも記述はある。
ところが、よくよく調べてみるとまたもや「夏季のみ」となっていた。 

「ああ、今は閉鎖しているのか、、、」
私は溜息をついた。 到着して、さっそくの挫折である。

ヒトラーの山荘とは、彼がナチスの幹部を引き連れて静養に来ていたという山荘である。 ただそれだけのことだが、ナチスマニアにとっては結構、以前から馴染みのある場所であった。
ヒトラーを捉えた数少ないカラーフィルムの映像としてテレビ等で紹介される場合、必ずと言っていいほど、このベルヒテスガーデンの山荘で撮られたプライベートフィルムが使われたのである。ある場面ではエバといっしょに、ある時は愛犬ブロンディーと、そしてある時はヘスやヒムラーといった同士達といっしょに歓談する総統のバックにはいつも雄大な山々があった。

山荘自体は、駅のあるベルヒテスガーデン中心地から車両で山頂近くまで登っていかなければならない。 万国共通、山岳道路というものは降雪があれば通行止めになるから、冬季に閉鎖になることは、少し考えれば想像できることではある。

ヒトラーが眺めていたのと同じ光景を目前にすることで、司馬遼太郎の「街道を行く」的感慨に耽ろうとしたわけだが、それもまた果たせなかった。

世界ケンカ旅行(欧州編)35
ミュンヘンに到着し、名残惜しい表情で見送ってくれた老人を背にして、私は中央駅周辺を歩いてみた。

私にとってミュンヘン最大の目的は、ホーフブロイハオス(有名なビアホール)でもラートハオス(市庁舎)でもなく、近郊ダッハウのユダヤ人強制収容所跡であったから、さっそく列車に乗って向かった。 ちなみに、「万一」のことも考えて、SSの老人にはダッハウの収容所を見学に行くことは伏せていた。

さて、ダッハウの収容所であるが、この旅行記に後から登場するであろう、アウシュビッツ・ビルケナウ絶滅収容所とは本来の目的が異なり、ナチスの「ユダヤ人最終計画」実施の施設ではない。端的に言うと、ここに「ガス室」はない。 ただし、処刑場は当然ある。

この収容所跡、ある意味、現在・未来、その時代を生きるドイツ人に、生涯、ユダヤ人に頭が上がらないように、そして徹底的に民族的罪悪感を植えつけるために残された、極めて政治的な博物館である。
その意味では南京の「大虐殺」記念館に存在目的は近いといえる。もっとも、南京のは、「大虐殺」という存在自体も捏造されたものだが、、、

世界ケンカ旅行(欧州編)34
元SS隊員の老人はミュンヘン近くに住んでいるということで、自然の成り行きから、彼の自宅に泊まりに来いと誘われた。

老人は敗戦後40年以上、栄光ある「親衛隊将校」としての誇りをそのままに抱きつつも、一方で社会的に抹殺されないようように、周辺には徹底して隠し通してきたに違いない。秘密でありながら、誰に偶然見られるかも知れない財布に、西ドイツでは禁制に等しい写真をお守り代わりに入れているのは、彼を不遇する「時代」に対する意地なのだろう。

私は迷った末、その日のうちにベルヒテスガーデンに到着しなければならないことを伝え、丁寧にお断りした。
今考えてみると、ドイツ人の生活の一端を垣間見るチャンスでもあり、非常に惜しいことであるが、私はこの旅行で現地ドイツ人から何回となく誘われつつも、一宿一飯の恩義を受けることは遂になかったのである。
世界ケンカ旅行(欧州編)33
「よう、君は日本人だな? 旅行しているのか?」
8人掛けコンパートメントにいたのは、私と、その70歳くらいの老人の2人だけだった。
2人だけなのに無言で通すのは気まずかったのだろう。先に声をかけてきたのは、老人からだった。

「ええ。そうです」
私は答えた。

「どんなところを見てきたんだい?」

「とくに第二次大戦関連の博物館です。ニュールンベルグ党大会跡とか、ナチスゆかりの地も行きました」
私がそう言うと、老人の表情が少し変わった。やはり年齢からして、ナチスという単語に反応しているようであった。

「そうか。君はヒトラーをどう思うかね?」

「フューラー(総統)の人生は男としてロマンを感じますね。好きな歴史的人物の1人ですよ。まあ、彼も誤った判断をいくつもしましたが、、、、、」
老人は、私がヒトラーを形容して、敢えてドイツ語の「フューラー」という単語を使ったことに驚いた様子であった。
私が以前に読んだ落合信彦の「20世紀最後の真実」とか「第四帝国」の中で、作者が元ドイツ人将校と会話する場面を思い出して、格好をつけて同じ表現を使っただけだったが。

すると、笑みを浮かべながら老人は言った。
「君だけに言うが、私は元SS隊員だ。これを見たまえ」
そう告げると、老人は財布を取り出して、奥から一枚の写真を取り出した。

それは、あまりにも有名な、左腕にカギ十字の腕章のある、あの黒いSSの制服に身を包んだ、若き日の老人の勇士であった。

「おお、これは凄い!」
私は叫んだ。
その後、私と老人は主として戦時中の話で大いに盛り上がったのである。

もちろん、老人は最後にこう言った。
「次はイタリア抜きでやろうぜ」

当時は、これがドイツ人と日本人の「合言葉」であった。
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