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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
世界ケンカ旅行(米国編)39
射撃が終わり、昼食の時間となる。

昼食のメニューは朝夕に比較して見劣りするほど軽く、ビスケットとコーヒーだけであった。
午後の訓練開始時に満腹だと支障が出るからであろう。

私とマットは同じシートに座って1時間の昼食休憩を過ごしていた。

マットの私を見る目が、当初の好奇の対象から明らかに尊敬の眼差しに変わっていたのが感じ取れた。

軍隊経験者と未経験者との動作の違いは歴然としていて、私はすべてにおいて、ただの中年オヤジであるマットを凌駕していたのである。

「テリーは体力もあるし、銃の分解結合も早い。日本では特殊部隊にでもいたのか?」
マットがコーヒーを啜りながら私に問いかけてきた。

私はあまりの的外れな質問に笑ってしまった。
私が特に優れているのではなく、彼があまりにもダメなのが実相なのだ。

「そう見えるかい? まあ、年齢がだいぶ違うからね。どうせ遊びなんだから、自分のペースで着いてくればいいんじゃないか?」
私は質問に直接答えることはせずに、マットを励ますに留めた。

せっかく過大評価してくれているのを敢えて否定することはない。 

このまま上下関係が続けば、それはそれでこちらの気分は悪くないのである。
世界ケンカ旅行(米国編)38
引き続き今回の訓練の目玉であるライフル射撃が始まった。

私の場合、この時点で軍用ライフルの実射経験は人民解放軍の射場での56式(ソ連AK47の中共版デッドコピー)と自衛隊での64式小銃で、これが3種類目となる。
とはいっても、解放軍でも自衛隊でも体験程度だったから、本格的にはこれが初めてであった。

今回は射場のレンタル銃とは違い、使用したあとは自身で手入れを行う必要があったから、必要最小限の分解・結合手順は実際の射撃以前に習得しておかなければならない。

我々は部品の紛失がないように、雨具である軍用ポンチョを地面に広げて、アーマライトAR15ライフル(M16)をその上で分解・結合した。
さすが、軍用銃だけに部品数も少なく、野外での手入れもラクラク。この点、自衛隊の64式小銃とは雲泥の差があると実感した。

ボブの手本に従って、銃身内清掃用のロッドを銃口から突っ込み、ゴシゴシと数回ほど銃身内をピストン運動させて硝煙による汚れを拭き取る動作をしてみる。

数回ほど分解・結合を繰り返して、要領を得たところで我々は実射に移った。

マットと私は交互に射手と弾薬手を担当した。

100ヤード先に1メートル四方くらいの標的紙を立て、一気に90発の弾丸を撃ち込む。 ライフル射撃にしては標的までの距離は短いが、弾着の具合を歩いて確認するには程よい距離ではあった。

実包を扱うということで、ボブが指揮をとり、全員が統制のとれた形で射撃は進行していった。 
軍隊での小銃射撃訓練というのは、通常は標的側に採点係がいて、着弾点に表示を付けて射手に見えるようにするが、この訓練では一発一発の射撃精度を高めるというより、慣れを重視しているようで、多様な射撃姿勢を試すように進行していく。 
もちろん、撃つ立場からいうと、このやり方のほうが数段おもしろい。

弾倉交換が3本目になる頃には、銃全体に発射弾頭と銃身内部の摩擦熱が広がり、銃を保持する両手にまで伝わってくる。

90発を撃ち終えたあと、標的を回収して弾着を確認する。

新しい標的を据え付けて、今度は弾薬手としてマットの射撃をサポートする役にまわるのである。
世界ケンカ旅行(米国編)37
軍隊らしい訓練は朝の7時から始まる。

基本的に、2人1組のチームを作り、訓練は互いに助け合いながら進めていく。

私の相棒はマットという地元カリフォルニア出身の白人で、年齢は40歳くらい、今回の訓練参加者の中では最年長であった。

彼は少し太っていたが、体重100キロを超える超肥満体が決して珍しくないアメリカでは標準の部類であろう。
朝の10マイル走では最終ランナーで、その年齢を考慮に入れても、身体能力は平均よりもかなり下だと思われた。
射撃の経験はあるそうだが、軍隊のことは知らないという。
私とバディー(相棒)を組ませたのも、彼をサポートする役割を期待しての人選であることは明白であった。

訓練は基本教練から始まった。

不動の姿勢や挙手の敬礼など、参加者が軍隊の礼式に則って動く練習である。

これがあるとないとでは、雰囲気が全然違うから面白い。 
数時間ほど練習すれば、素人でもそれなりに軍人に見えてくるものである。

世界ケンカ旅行(米国編)36
教官を含む11名は念入りな準備運動のあと、10マイル相当の訓練地外周1周走に出発した。

不思議なもので、広大なアメリカで走ると、10マイルという距離が妙に短く感じてしまう。
日本での5キロ走くらいの感覚であろうか。

コースは、ほとんど一本道で、夜明前の清清しい空気の中のジョギングだから、銃を持っていること以外は訓練ということを感じさせない。

私はライフルのスリング(吊り紐)をタスキ掛けし、銃尾を軽く腰の辺りで押さえつけて走ったが、この方法が最も楽で、全員が申し合わせたように同じ格好をしていた。

私を含む数人にとっては、少し長い「ジョギング」だったが、長距離走に慣れてない人からすると、やはり地獄の訓練に感じるようであった。

2~3キロあたりから、ペースメーカーとなっていた先頭グループと最後尾の距離は広まり、5キロ地点くらいで、先頭から最後尾が見えないくらいの差がついてしまった。

時速にして8キロもない、ゆっくりしたペースに付いてこれないのだから、歩いているのかも知れない。


2時間以上かけて10マイル走を終えた我々は全身汗だくで、日課を全部終えたような心境だったが、現実は夜が明けたばかりで、1日は始まったばかりである。

到着した者から、簡易シャワーを浴びて1時間ほど休憩することが許された。 
というよりも、後続者が全員10マイルを走破するのを待っていた。

その間に、ボブの指揮の元、我々は休憩がてら朝食の準備や次の訓練の準備に動いていた。

最後の走者がゴールした時点で全員揃っての朝食である。

初日でのドロップアウト組はすでに去っているので、一応、全員が完走できた。

しかし、ペナルティーとして、遅かった者はシャワーを浴びることもなく、汗だくで息を切らしたまま次の訓練に望まなければならなかったのである。


世界ケンカ旅行(米国編)35
翌日から本格的な訓練が始まった。

午前3時、最後のシフトに就いていた不寝番が指導教官のボブに付き添われながら、各天幕を叩いて回った。
起床の合図である。

我々は初日の夜から不寝番の勤務を与えられており、1時間交代でキャンプと駐車場近辺を見張っていた。

訓練地は人里離れた郊外だったから、犯罪に巻き込まれる可能性は低い代わりに、何かあった場合、警察ではすぐに対応できない。
アメリカには得体の知れない輩がいて、例えば、宗教上の理由でコミューンを作り外界と隔絶した生活を集団で営む連中、反国家的思想を持つ過激派グループ、盗賊的暴走族集団等々、自由の名の下に、好き勝手なライフスタイルが保障されているのがアメリカの一側面でもあった(我々もその「得体の知れない」活動をしているわけであったが)。
したがって、郊外とは言え、油断するわけにはいかない。
一応、実弾入りのピストルを持たされて、何かあれば空に向けて警告射撃をして、応援を待つよう命じられた。

精神異常者でない侵入者なら、ピストルを持った戦闘服姿の不寝番を見ただけで退散するであろう。


我々は、ゆっくりと戦闘服を着て早朝マラソンの準備をした。

こういう場合に経験者は早い。
私は特に意識したわけでもないが、一番に準備を終えて天幕の外で待った。

私と他の参加者との経験の違いは歴然で、10分くらいしても、まだノソノソと服に袖を通している者もいる。

本当の軍隊であれば、鬼軍曹が怒鳴り散らして全員を叩き起こすのだろうが、いかんせん自費参加だから、教官の方もお客さんには甘くなる。

点呼を済ませると、早朝マラソンに備えて準備運動である。

ドロップアウト組の2名は走らなくていいからか、何故か晴れやかな表情であった。
世界ケンカ旅行(米国編)34
午後は、装備品の取り扱い方などの説明に時間が割かれた。

戦闘服の着こなしから、雨具のポンチョを地面に広げて、その上でライフルの整備まで行うのである。

初日は概して、訓練の準備だけに終始した感があったが、夕食の前のPTで銃を持ったままの10マイル走を行った際には、ジョギング程度のゆっくりしたペースではあったが、早くも2名の脱落者が出てしまった。

軍隊的な息のつまるような厳しさはそれほど感じられなかったが、体力的に要求されるレベルは参加者の予想よりもかなり高く、いきなり10マイル(16キロ)も走らされた日には、根を上げるのも当然かも知れない。

ただし、受講パンフレットにもちゃんと説明があり、私などは事前に走りこみをして体を作っての参加であるから大丈夫だった。
しかし、基本体力を舐めてかかっていた者が半数以上いたように見受けられた。

結局、初日の10マイル走で脱落した受講者は、そのまま、翌日の午前中にはドロップアウトして帰ってしまうことになる。

いやはや、彼らにとっては実質、テントで1泊と、数回の食事だけに大枚を支払ってのボッタクリツアーであった。
世界ケンカ旅行(米国編)33
天幕の設営が終わる頃には、すでに正午に差し掛かっていた。

キャンプエリアの傍に簡易椅子とテーブルが並べられ、ここで一同を会しての昼食が始まった。

昼食は予想外に豪華で、トラックで運び込まれた調理済みの惣菜が給食プレートに山のように盛られ、卓を賑わせた。

アメリカでは一般家庭でもレストランでも、本当に配膳の量が多い。
日本の感覚でいうと、軽く2人前は盛られるのが普通である。 
これは成人の肥満が蔓延している理由のひとつに違いない。

食事をしながら、ボブが大体の日課と2週間の予定を皆に説明した。

朝は3時に起床と、かなり早い。
というのも、日が沈んだと同時にやることがなくなるので、就寝時間が夜の7時と、こちらが異常に早いからである。 
初心者ばかりなので夜間訓練はないようである。

起床直後にPT(体力練成)が2時間ほどあり、夜明けの時間頃に朝食となる。

最初は簡単な軍隊教練から始まり、訓練を重ねた末に、最後の丸2日を使った50マイル行軍で締めくくる計画であった。

速成教育にしては、なかなか練られたプログラムである。
世界ケンカ旅行(米国編)32
装備品の受領から始まった訓練第1日目は、まだまだ準備段階の域を出なかった。

「これから訓練場に場所を移して、キャンプ設営を行う。各員が手分けして準備にかかれ!」
ボブの掛け声と共に、全員が大天幕から何かしらの荷を受け取った。

興味深いのは、日本人であれば小学生あたりから教育の一環として何かしらの共同作業をする癖がついているから、このような作業を与えられた場合、無意識のうちに各自が作業分担を心がけて効率よく当たるものである。

ところが、一般のアメリカ人の場合はかなり具体的に支持を与えないと組織としてぎこちない動きになる。

さすがに彼らの作業を見ていると少々歯がゆい。

我々は大天幕から100メートルほど離れたキャンプ地に移動した。
そこは四周を小高い丘に囲まれた盆地状になっており、300メートル射撃は十分に可能な広さがあった。 
LAで射撃した場所によく似ていた。

12名の参加者は2人1組の計6組に分けられ、これから居住する2人用天幕の設営に当たった。

これから2週間、粗末なテント生活をしなければならないことをようやく実感する瞬間であった。
世界ケンカ旅行(米国編)31
受講者たちは、大天幕の中に入って、これから2週間に渡って使用する装備品や被服、そして武器を受領した。

それぞれが、私服を脱いで、色褪せたリーフパターンの迷彩戦闘服に身を包んだ。
これからが本番であった。

ボブは告げた。
「みんな戦闘服が全然似合わないな。兵隊に見えない理由がわかるか?長髪だからだ!」
ボブは電動バリカンを右手に持って続けた。

「今から髪を短くして兵隊らしくなってもらう!」
私はあまりにも絵に書いたような決まり文句にニヤリとしたが、参加者のほとんどは、一瞬、当惑した表情をあらわにした。
しかし、この程度で受講料を無駄にする者はいない。
全員が素直に従った。

断髪の儀式が終わると、不思議と全員が兵士に見えてくる。

各自が手にするのは、AR15ライフル銃であった。
言わずと知れた米軍の正式採用銃M16の民間タイプであるが、この銃を選んだのはカリフォルニア州法により、連射機能のある突撃銃は所持が禁止されている故の苦肉の策として致し方ない。
もちろん、本来なら銃左側面にあるはずの単射・連射を切り替えるセレクターはないから、外部からの識別は容易である。
とはいうものの、弾薬を装てんすれば発射できる状態には違いなく、事前の教育もなしに配布するのがアメリカらしい。

参加者は銃の射撃経験はあるようで、各自が手馴れた調子で扱っていた。 
やはり、この種の訓練に自ら参加しようとする人々は射撃が趣味なのであろう。
世界ケンカ旅行(米国編)30
私は大天幕の外に出て、他の参加者を見渡した。

言われてみると、参加者は一様に娑婆っ気著しく、とても本格的な訓練にはついていけそうに見えない。

正直、まったくの素人に歩兵戦闘の初歩を2週間で詰込むことは不可能である。
基本中の基本を教えるのに3ヶ月、さらに兵種の基本分野を教えるのに、もう3ヶ月は最低限必要であるのが常識である。
これは若干の違いはあれど、万国共通の基本教育に要する時間であった。

私は、経験者だけを対象にした特殊専門分野を体験できると思っていただけに少し落胆したが、一方で、訓練の趣旨を理解し、緊張が一気に抜けて精神的にはレジャーモードに切り替わった。

しばらくして、ボブとニックが大天幕から現れた。

「全員揃ったところで、只今より、本訓練を開始する!」
ボブがいかにも新兵訓練部隊(ブートキャンプ)のドリルサージャン然とした口調で全員に宣言した。

「なお、訓練についていけないと思った者はいつ帰っても構わん。ただし、契約により、受講料は1セントたりとも戻らんからそのつもりで!」
ボブの表情は自己紹介の時とは打って変わって鬼軍曹のそれに変身していた。

この豹変は、ある種の新兵教育の「お約束」ではあったが、12名の受講者には緊張が走った。
世界ケンカ旅行(米国編)29
「テリー、これが君の提出した誓約書だけど、間違いないか?」

ニックが先日、代理店でサインした誓約書を片手に私に確認を求めてきた。
「ええ、間違いありません」

「そうか。申込書によると、君は軍隊経験があるそうだね?くわしく聞かせてもらえないかな」

「日本のエアディフェンスフォースに数年ほどいましたが、歩兵としての訓練は体験程度です。もちろん、小銃程度の武器は扱えますが、、、、、」

「そうか。俺も昔は日本には行ったことがあるが、日本の軍隊は文字通り最後の一兵まで戦うそうじゃないか。かなり優秀と聞いているぞ。今回の訓練参加者で軍隊経験者は君だけだ。何かと手伝ってもらうことになるからよろしく」

「いえ、最近の日本人には昔のような精神的な強さはなくなってますよ」
私は咄嗟に否定してしまったが、このような卑下に近い謙遜は日本人の悪い癖である。外人相手なら、ここは素直に礼を言っておけばよかっただろう。

実は、勇猛果敢な日本軍(自衛隊)の評判は意外と世界中に広まっていたのである。 

戦後は日本国内で批判の対象ともなっていた「カミカゼ攻撃」や「玉砕」は、日本人の知らない方向で、ある種の日本人に対するイメージを作り上げ、戦後日本人に対する評価にも一役買っていた。

日本将兵の犠牲は「無駄死に」どころか、こうやって無形の財産として現代人も受け継いでいることを知るべきであろう。
世界ケンカ旅行(米国編)28
訓練教官がいるであろうと思われる大天幕の中に向かうと、他の参加者たちは雑談を中断して好奇の目を投げかけてきた。
そして、それぞれが挨拶の声を掛けてくる。
これはごく自然なアメリカ式の出会いであった。

天幕の中では2名の教官が書類の整理をしていた。 
パンフレットに載っていた人物に相違ない。

二人は私を視認すると、笑顔で迎えいれた。
我々は握手をしたのち、それぞれの自己紹介を簡単に行った。

教官はそれぞれ、ボブとニックと名乗った。2名とも白人系である。

ボブは身長が170センチくらいで、白人としては低い方であろう。
米軍の旧式戦闘服に身を包み、左右の上腕部には軍曹の階級章が縫い付けてある。
ベトナム派遣時に着用していたと言わんばかりである。

ニックは対照的に身長は190センチくらいの長身で、スリムな体格をしていた。
こちらも戦闘服を着ていたが、こちらは陸軍大尉の階級章を縫い付けていた。

どちらが指揮官かは一目瞭然であった。
世界ケンカ旅行(米国編)27
入校当日、ディックがユースまで迎えに来てくれた。

ここで誤解のないように説明を加えると、私の周辺にいるアメリカ人が特別にフレンドリーということだけではなく、彼らの生活圏に入ってきた日本人が珍しいので、単に興味があるという理由が大きいと思う。
また、日本人自体が彼らにとってはくみし易く、警戒されていなかったこともある。
これは、場合によっては交渉事で舐められることにも繋がっていたことは否めない。

私は車に乗せられて1時間ほど郊外にある広大なキャンプ場のような所に連れて行かれた。

入り口には、他の受講者の乗ってきた車と思われる乗用車が無造作に駐車してあった。どこが敷地の入り口ともつかぬ通路から雑草が茂る訓練地と思われるエリアに入り、しばらく進むと大天幕(10人くらいを収容できる大きなテント)が見えてきた。
濃緑色のまさしく軍事用テントであった。
二人を乗せた車はこの大天幕の前で停車した。

大天幕の周辺には他の参加者と思われる5人程の男たちが思い思いに雑談していた。
皆が初対面のはずであるが、さすがアメリカ人の社交性は大したものである。
日本人同士なら打ち解けるまでに丸1日は必要であろう。

「じゃあ、俺は訓練の最終日に迎えにくるからな。がんばってくれ」
ディックはそれだけを言い残すと、私を車から降ろして挨拶もそこそこに立ち去った。
世界ケンカ旅行(米国編)26
「やあ、君がテリーだね?」
彼は車の中から長い手を伸ばして私に握手を求めてきた。

ちなみに、テリーとは私が使っていたニックネームである。
私がよく見ていた「刑事コジャック」のテリーサバラス、プロレスラーのテリーファンクから拝借したものであった。
アメリカ社会では、日本名はまず覚えてもらえないから、不本意ではあったが苦肉の策であった。

実際に見るディックはアメリカ人にしても大柄で身長は190センチ以上はありそうであった。
握手した手はグローブのように大きく、大人と子供くらいの違いがある。

挨拶もほどほどに、我々はディックの店に向かった。
郊外の複合ショッピングセンターの中にある店舗は思ったよりも立派で、繁盛しているようであった。
場末にある怪しげなたたずまいの店を想像していた私にとっては嬉しい誤算でもあった。

私はその場で費用を払い込むと同時に、例によって誓約書にサインをした。
一度払い込んだ受講料は返金しない、怪我はすべて自己責任、、等々の項目があったが、傷害保険に入ることが条件だったので安心した。
日本で加入してきた旅行保険は、このような危険な活動による傷害には対応していないから好都合である。

訓練は丁度この1週間後に開始することになっていた。
世界ケンカ旅行(米国編)25
果たして、今回の訓練には12名の参加者があるという連絡が来た。

主催者はさっそく受講費用を納めるように急かすが、このあたりの感覚が何となく胡散臭い。
私は自ら旅行代理店に赴いて直接支払う旨伝え、相手も承諾した。

私は英語過程を中退する手続きをして、ホテルを引き払った。



グレーハウンドの夜行バスは夜明け前のSFに到着した。

ダウンタウンにあるバスの発着場周辺ではすでに一日の活動が始まっており、人々も通りを歩いていて、治安的には問題はなさそうである。 

私は時間潰しも兼ねて、目的地であるユースまで歩いた。
ユースは有名なチャイナタウンにほど近い場所で、坂道の中腹あたりにあった。ダーティーハリーの舞台として、坂道ばかりのダウンタウンは承知していたが、さすがに疲れる。

その日の午後から、さっそく活動を開始した。
旅行代理店は中心部から20キロ以上離れており、とても徒歩では無理だった。そこで電話をかけて迎えに来てもらうように頼んだ。
果たして、大型の乗用車に乗ってユースまで迎えに来てくれたのは、初めて見る傭兵学校の主催者兼旅行代理店の社長である、ディックと名乗る男であった。
世界ケンカ旅行(米国編)24
その後はとりあえず、受講願書を送ったあとも手紙や電話で連絡を取り、主催者と密な関係を構築しようと努力した。

諸費用は、講座が開かれることが確定してから主催者の経営する旅行会社名義の銀行口座に振り込む手はずだったが、実際にその会社があるかどうかをこの目で確認する意味も込めて、開講が決定したらSFまで移動し、その旅行代理店の店舗で直接払い込むことにし、これは主催者からも了解を得ていた。

なぜそこまで慎重になるかと言うと、英語クラスの同級生たちから、この種の詐欺同然の商法が横行していることを聞いていたからである。
訴訟社会として知られるアメリカではあるが、実際の典型的パターンは相手が最初から高収入のある比較的裕福な個人や信用ある企業に限られ、訴訟に勝つことによって大金を奪い取れる公算が高いようなケースしか弁護士は付かない。
「カネ」がすべてのアメリカ社会では、十分な弁護費用も払えない下層階級が正体を秘匿している悪徳商法を訴えても「成果」にはつながりにくいから、この手の詐欺商法に対しては「泣き寝入り」になるケースがほとんどなのである。
世界ケンカ旅行(米国編)23
今回資料を取り寄せた学校は、訓練施設にキャンプを置き、そこを基点として日課をこなす方式を取る。
一人当たり支払う1000ドルのうち、宿泊のためのコストはほぼゼロに近く、主催者の他に2人いる教官の給料と会社の儲けとなるわけだ。
また、費用の点で「受講料」の他に「実費」を別途支払わなければならないことが明記されていたので、これは確認しておかなければならない。

その教官たちのプロフィールを見ると、50歳近い高齢者で、この種の訓練には明らかにキツい域ではあるが、元米陸軍の特殊部隊経験者が揃っており、ベトナムで実戦の経験もある猛者であることがわかる。
ただし、これが事実であるという前提だが。

いずれにせよ、これらパンフレットに書かれていることが本当か嘘かを事前に調べることは、当時の私では実質的に不可能な領域であり、敢えて調べるとなると、受講料の1000ドル以上の費用がその調査自体に費やされる恐れもあった。 

送られてきたパンフレットによると、訓練は年に3回しか行われないという。
そして最低の入校が10人に満たない場合は、その回は中止となり、すでに申し込んだ人は次回以降に編入される仕組みになっていた。
私が資料を取り寄せた時点で、過去2回の訓練は中止となっており、次の回が実施されたとしたら、実に1年ぶりの開催となる。

なぜかパンフレットと同封されていた旅行会社の宣伝ビラを見ると、訓練主催者が旅行会社も同時に経営していることがわかり、おぼろげながら、主催者のビジネス展開が読み取れた。

経営する旅行代理店の商品のひとつに軍事訓練ツアーも加味して、趣味と実益を微妙に両立させているのであろう。 
一般向けである旅行パンフレットの方にも軍事訓練ツアーの募集があったことから、訓練自体はまったくの素人相手に体験させる程度で、あまり期待はできなさそうである。
とは言うものの、時期的にタイムリーなことと、(アメリカ的感覚から言って)すぐ近くで開講されることを考えると、この機会を逃すと少なくとも今回の滞在時にはこの種の学校で経験することはできない。

私は覚悟の上で、このコースに参加することに決心した。
世界ケンカ旅行(米国編)22
私はサンフランシスコ(以下、SF)の近くにタクティカルトレーニングコースを開設する私立の学校があることを発見した。

ただ、雑誌広告と言っても日本のスポーツ紙の片隅に載る3行風俗広告のような形式だったから、いまひとつ信頼性に乏しい。 
そこで手紙を送り、ホテル宛にパンフレットを送付するように依頼した。
このような雑誌広告では、郵便を私書箱宛てでしか送付できない所が多いが、この学校は一応の所在地を明らかにしていたのである。

1週間ほどして、入校案内が送られてきた。
それは一見してみすぼらしく、タイプで打って白黒コピーしただけの簡素なものであった。 

コースは2週間ほどで、1000ドルの受講料が必要と記してあった。
こちらが車を保有していないことを手紙に書いておいたが、それに対する返答も同封されており、SFのダウンタウンまで、送迎してくれる旨の内容であった。

想像するに、この学校もアルの射撃ツアー同様、個人的に開催している様子であった。
ただし、パンフレットによると主催者は、かつて海兵隊将校だったとのことだから、単なる銃コレクターではなく、一応のプロフェッショナルには違いない。

最大の問題は、やはり費用が高額であるという点であった。 
ただ、他のトレーニングコースは1週間程度で同額の受講料を取る学校もあり、相対的に判断することはできなかった。
要は内容がどれだけ充実しているかであり、ぼったくりかどうかは値段だけではわからない。
世界ケンカ旅行(米国編)21
アメリカに「ソルジャーオブフォーチュン」という軍事関連の雑誌があった。
これは、特に個人歩兵戦闘に着目した専門誌で、世界各国のゲリラの潜入取材とか、特殊部隊の取材、小火器の射撃レポートなどが売りである。
雑誌自体は、軍関係者や業界関係者などのプロフェッショナル向けというよりも、銃コレクターや軍事オタク向けの一般紙で、「ポピュラーメカニック」誌などと並んで普通に書店で売られていた。
同誌の最後の方には広告欄があり、そこでは射撃スクールなどの講座の宣伝なども載っていた。

私はサンタモニカの安ホテルで同誌の最新号から、カリフォルニア周辺で「傭兵スクール」の類がないか探していた。
正確にいうと、的を撃つだけの射撃訓練ではなく、戦闘を想定した訓練を取り入れた、より実戦に近い訓練をしている私設学校のことである。

この手の学校がアメリカに存在することは、落合信彦の初期のノンフィクション「傭兵部隊」に記述されていたアメリカの傭兵学校レポートを読んで初めて知った。
落合信彦は少年期において私に多大な影響を与えた作家であるということで、話しはそれるが、ここで落合信彦に少し触れておこう。

彼が初期に発表したノンフィクションものは、当時、私を含めた20代以下の一部男性に熱狂的に支持されていた(ただし、著作の大部分がヤラセとパクリと捏造で溢れていることが今では知られている)。
私自身も、落合トンデモワールドの最高傑作とされる「20世紀最後の真実」の折込写真で落合氏と並ぶ「元ドイツ軍将校」がなぜかレプリカのドイツ国防軍の制服を着ているなど、不審な点はいくつもあったが、基本的には盲信していた。
この本の主要テーマは、南米チリにドイツ移民の村があり、そこでUFOを製造しているのではないか?という、今考えるとオカルトまがいの題材であった(著作の嘘を確認したのは、私が実際に南米チリのドイツ人移民村を訪れてからであるが、同著が発売された当時は、日本人がいとも簡単に南米旅行ができる時代がすぐそこに到来することを想定はしていなかったようである。この件については、後々の「中南米編」で詳述の予定)。

「傭兵部隊」も然りで、折込写真に登場する「元傭兵」が日本製のモデルガンと写っていたりと、読む人が読めば不審な点はいくつもあったに違いないが、この著作の影響で本当にフランス外人部隊に入った日本人もいるほどだった。
ただ、実際にその種の訓練をする学校が存在することは事実で、私も時々、ソルジャーオブフォーチュン誌に掲載される広告をチェックしていたのである。

話を元に戻そう。
世界ケンカ旅行(米国編)20
アメリカに到着して1カ月ほどが経っていたが、射撃の方も一通り経験し、次に何をするかで思案に暮れる頃となっていた。

とりあえず、観光ビザはまだ4カ月以上残っているが、毎日通っていた英語の短期コースも、いい加減飽きていた。

クラスメートの大半がヒスパニック系や新興移民で、アメリカでも東部の一流私立大学に正規入学するのならともかく、格安語学コースに通う学生は下層階級出身者ばかりであった。
もちろん、彼らの日常会話はスペイン語である。

こういう環境の中では勉強しようという気も起こらない。やはり人種の違いは人間関係における決定的要因で、私はクラスに馴染むことはできなかったし、馴染もうという努力もしなかった。

むしろ、日本人が集う語学学校に行った方が生活自体は楽しかっただろう。

そんな中、私はマンネリ状態から脱却すべく次の行動に移る決心をした。
世界ケンカ旅行(米国編)19
次に手に取ったのはワルサーP38であった。 
ごく一般的には「ルパン3世」の愛用銃として日本では有名である。
戦時中に粗製されたタイプで、表面仕上げも粗いのがわかる。
アル曰く、「ガラクタ」で、市場価値もそれほどないという。
それでも、日本人ガンマニアとしては、「子供の頃の夢」が実現した瞬間であった。
モデルガンで鍛えていたから、操作はお手のもの。ブルズアイ(標的の中心)を狙うわけでもなく、無造作にバンバン撃ちまくった。
巻き上がる土煙を見ながら、手に伝わる感触を確かめる。
室内射場では絶対に得られない解放感がそこにはあった。

私は、続けてルガーやモーゼルミリタリーなどの名銃を撃ちまくった。

一通り、アルのコレクションを撃ち、数百発の弾丸を消費した頃になると、利き腕の右手が痺れ始めてきた。
最初は律儀にターゲットを置いてねらい撃ちしていたが、終盤の頃になると、遠くの地面を撃って着弾の土煙を見て楽しむようになっていた。

「これが最後だ」
アルはそう言うと、50発ほどの9ミリ弾が詰まったビニール袋をシートの上に置いた。
私は、多分、生涯最初で最後の経験になるであろう、名銃の感触を記憶に刻み込むようにワルサーやルガーの弾倉に弾を一発づつ装填した。

ほどなく、我々は全弾を撃ち尽くした。

帰りは私の宿泊するホテルに直接送ってもらうことになり、アルとの射撃ツアーは終了した。


世界ケンカ旅行(米国編)18
さて、射撃準備も終わり、銃器を一通りシートの上に並べてみた。

南部14年式を手にしてみると、思っていたよりも大きいことがわかる。
私はこの銃のモデルガンは触ったこともなかったが、正直、意外な感触であった。

グリップが非常に細いので握り易いが、ドイツ製拳銃の機能美もないし、アメリカ製拳銃の実用性にも欠ける。
アルの所有する南部は、寒冷地タイプではなく、手袋を着用すると指が引きガネ枠に入らない。
構造は極めて(悪い意味で)簡単で、欧米に比べて当時の日本のエンジニアリング能力の低さを感じずにはいられない。

せっかく、アルが南部の8ミリ弾を自作してきてくれたので、私はこの銃から撃ってみることにした。

口径が、撃ち慣れた9ミリ弾より小さく、発射時の爆発力は弱い。
しかも、グリップが細くて握り易いから、反動が実際よりも小さく感じる。
時間をかけて数十発撃ってみて、この拳銃が射的競技用なら、かなり優秀だと感じた。
ただし、軍用銃としてはかなり扱いにくいと言わざるを得ない。

武器を見れば、その国の用兵思想とか技術力などがよくわかるが、拳銃ひとつとっても、日本の当時の国力が透けて見えてくるものである。
世界ケンカ旅行(米国編)17
アルの家で食事を取ったあと、我々は近くの銃砲店で足りない弾薬類を購入して、いよいよ射撃場に向かった。

車は1時間ほど郊外に走った。

荒涼とした風景が続く旅であった。
対抗車両もほとんどない田舎道をひたすら進み、やがて突然、アルは車を脇道に入れた。

「ここは俺の秘密の場所だ。もっとも、誰が土地の所有者かは知らないが、、、」
彼はそう言うと、車を停めた。

周辺は360度を高台に囲まれた盆地のような所であった。
確かに、300メートルくらいまでならライフル射撃にうってつけの場所である。
広大なアメリカでは、特に射撃場に行かなくても、このような管理されていない無人の土地はどこにでもあるようだ。

我々は銃と弾薬を並べて射撃の準備をした。
世界ケンカ旅行(米国編)16
「どの銃を撃ちたい?」
アルは私に聞いた。

「私は古いドイツ軍用銃のファンなんで、やっぱりP38とかP08、マウザー(モーゼル)ミリタリーが撃ちたいですね」
私が答えるとアルは少々期待はずれの表情を見せた。
彼は日本人ガンマニアの趣向は全然知らないらしい。

「そうか? せっかくパパナンブ(南部14年式)の弾を準備しておいたんだが、、」
南部14年式は独特の口径8ミリで、市販されていないから自家製のカスタムメイドで弾を準備することになる。
アルは日本人の私が当然ながら南部式に興味を示すと思い込んでいたらしい。

「じゃあ、南部も持っていきましょう」
私は彼の顔も立てて申し出た。

私は彼のコレクションの中から、他に撃ちたい銃を探した。
「S&WのM29はありますか?」

「ほう、君も映画を見たのか。もちろんあるよ」
彼は、日本人の私がハリウッド映画を見ていることに不思議そうな表情を浮かべたが、ハリウッド映画が世界中で上映されて、しかも影響力があるのを知らないようである。一般のアメリカ人の国際認識というのはこの程度なのかも知れない。

アルは、数あるリボルバーの中からスミス・アンド・ウエッソンのモデル29、つまり、ハリーキャラハン刑事の持っていた、いわゆる「マグナム銃」を取り出した。

私はその他、合計10丁ほどの拳銃とライフルを指名して、アルの車に運んで準備を手伝った。
世界ケンカ旅行(米国編)15
アルの20畳くらいあるコレクションルームはどう見ても「武器庫」であった。

小窓と入り口には鉄格子がはめられ、ドアには3重の施錠がほどこされるほど厳重な保管状態である。
壁一面のラックに収用されている銃器は拳銃、ライフル、そして機関銃など、ざっと見て少なくとも300丁はあった。
部屋の中央には工作机が置いてありここで弾薬を組み立てたり、補修したりするのだろう。

「どうだ、凄いだろう?」
アルは自分のコレクションを誇らしげに見せた。

多分、この程度のマニアはアメリカにはゴロゴロいるのだろうが、拳銃の所有が禁止されている日本人からすると、かなり異様な光景であった。ただし、アメリカでは、中古銃器も商品として安定した相場で取り引きされているから、これらも立派な換金可能な資産である。

アルは、膨大なコレクションの中の一部を私に紹介した。

「これは日本の銃だぞ。昔の恋人に会った気分だろう?」

アルが指差したコーナーには、日本の南部14年式を筆頭に、96式拳銃から、名前も知らない拳銃までが10丁ほど並んでいた。壁には、38式歩兵銃、99式歩兵銃などが無造作に立て掛けられていた。

なるほど、アルは日本の銃もコレクションしていたから、私に特別強い関心を示していたのである。
世界ケンカ旅行(米国編)14
「今日は、まず俺の家に寄ってコレクションから撃つ銃を選んでもらう。君が選んだ方がいいだろ?メシを食ってから、郊外にいい場所があるから、そこで日が暮れるまで射撃三昧だぜ。晩メシも俺の奢りだ」

アルの家に着くまでの間、我々は雑談に興じた。

彼の本業は個人経営の配管工で、かなり稼いでいるらしい。
手先が器用でメカに強いらしく、現在住んでいる家の補修も全部自分でやっている。若い頃は警察官をしていて、銃器のコレクションは警官を辞めた頃から始めたとのことだ(ちなみに、アメリカでの警察官の社会的地位は日本ほど高くはない)。

そうこう話すうちに我々はLA郊外にあるアルの家に到着した。

アルのように、どちらかというとブルーカラーの労働者でも、こんな広い家に住めるのかと羨むほど日本人からすると立派な家であった。

玄関では奥さんが出迎えてくれた。

私はさっそく、奥のコレクションルームに案内された。
私はアルのコレクションに度肝を抜かれた。

世界ケンカ旅行(米国編)13
「ちょっと待て、俺がアルに電話かけてやるから、、、、」
レンジマスターの兄さんはレセプションの電話を使って、張り紙に書いてある電話番号をかけた。

しばらくアルと呼ばれる男との会話のやり取りが続いたあと、レンジマスターは再度私に確認した。

「普通は3人集まらないと開催しないが、日本人が客だと言ったら興味津々でぜひ会いたいと言ったよ。来週の月曜日はどうだ?」

「Okです」
私は答えた。

結局、次の月曜日にアルとクラブで待ち合わせることになった。

当日の午前9時頃、約束の時間丁度にクラブに行くと、レンジマスターが受け付けカウンター越しに手を振って挨拶した。

マスターの正面には、60才くらいの初老のオッサンが話を止めてこちらを振り向いた。私はオッサンがこちらを見た瞬間、直感的にこの人がアルだと思った。

「よう、俺がアルだ。よろしくな」
アルから私に握手を求めてきた。
私は反射的に応じたが、アメリカにいるとこういう社交にはすぐに慣れる。

「さあ、行こうぜ。俺の車に乗りな」
アルはレンジマスターから事前に私の話を聞いていたらしく、余計な話は抜きで出発となった。

アルと私はガンクラブの駐車場に停めてあった彼の大型バンに乗った。

「細かい実費はどうなっているんですか?」
レンジマスターの紹介もあり、人物そのものには疑いはなかったが、ビジネス偏重社会のアメリカだけに、事前に聞いておかないと、いくら請求されるかわからない。

アルは運転しながら答えた。
「そうだな。昨日、500発ほど弾を作ったが、全部コミで200ドルでどうだ?今日は俺も儲けるつもりはないからな」

「コーチ料金は別か?」
私は確認した。
「いや、今日は君との親交を記念して、サービス料はいらないぜ。この誓約書の該当部分は消しておいてくれ」
アルは胸ポケットから紙切れ1枚を差し出すと私にサインを促した。

私は誓約書を丹念に読んで、支払う料金の該当部分を修正してアルに確認させ、その上でサインをした。

世界ケンカ旅行(米国編)12
私は、取りあえず、その張り紙を掲示板から外して、クラブのレセプションに持ち込んでレンジマスター(管理責任者)に相談してみた。
信用できるかどうかを確認するためである。

私の質問に、40歳くらいの白人系レンジマスターは私の不安を打ち消すように笑顔で答えた。
「この主催者はアルと言って、俺もよく知ってる男だよ。信用できるから大丈夫だ」

私は毎日通い詰めで、相当なカネを落としていたから、レンジマスターとはすぐ仲良くなっていた。

アメリカ人というのは、こういう場合、日本人からみると異常なくらいフレンドリーである。
フレンドリーを装うと言った方が正しい表現かも知れない。
というのも、日頃から人種や階層で社会が断絶しているだけに、誰もが積極的にフレンドリーさを演じなければ怖くて仕方がないのである。
この国では、すれ違いざまにニヤリと笑って軽い挨拶をしない奴は誰でも何かしら悪事を考えている輩に見えてくる。
特に、ここはガンクラブであったから、精神異常者が紛れていて、理由もなく撃ち殺される状況も、あながち被害妄想ではなかった。
世界ケンカ旅行(米国編)11
さて、クラブに通い始めて2週間ほどが経ち、レンタル用銃のほとんどすべてを体験したころ、以前から少し気になっていた掲示板の、ある広告に目が止まった。

ガンクラブは単に射撃場を管理しているだけではなく、関連グッズの販売や同好の親睦を深めるための活動にも力を注いでいた。
チャットルームには掲示板があり、メンバー同士の情報交換や売買の告知なども張り出されていた。
当時のカリフォルニア州では銃器の個人売買は自由で、中古車を売買する感覚で、掲示板に売買情報を思い思いに告知していたのである。

私が注目したのは、個人による射撃教室の宣伝であった。といっても、素人がタイプライターで作ったようなビラが張ってあるだけなので、どこかウサン臭く、信用できない。ただし、その内容は注目に値した。

主催者は銃器のコレクターみたいで、彼のコレクションと思われるワルサーP38、ルガーP08など、クラシックな名銃がずらりとリストに列記されていた。
ガンクラブのレンタル銃は現用のものばかりで、当然ながらコルトやS&W、Sigやグロックの類しかない。

射撃教室の参加費用は弾薬別で1日100ドルと、かなり高額なので最初は見向きもしていなかったが、毎日80ドルもガンクラブで消費している中、世界の歴史的名銃を撃てるとすれば、あながちボッタクリでもないように思えてきたのである。
世界ケンカ旅行(米国編)10
拳銃射撃の場合、両手を前方に伸ばす姿勢を保持し続けるため、私の場合は1度に200発ぐらいが限界となる。
特に、反動が直接伝わってくるリボルバーを撃つと60発あたりで手に痺れがきて、それ以後の射撃はあまり意味を成さなくなってくるから、当初の体が慣れていない間は100発程度で撃ち止めにすることもあった。
標的射撃の世界でも結局は基本体力がモノを言うことが体験を通じてよくわかる。 

射場の安全規則は厳しく、事故防止のためにクイックドロー(西部劇のガンマンがやるような「抜き打ち」動作)は禁止、しかも連射は1秒に1発以下と定められていた。
連射する人がいると、場内放送で警告が即座に発せられる。これらの規則により、当時流行していた「コンバットシューティング」は事実上、練習できなかった。 
結局、ターゲットに普通に撃つだけなので、射撃自体には3日も通えば飽きてくる。

私の場合は、2週間ほどかけて、とりあえずクラブのレンタル用拳銃を全部一通り撃ってみることを目標とした。

子供の頃に日本のレベルの高いモデルガンに親しんできたこと、「GUN」などの専門誌を読んで知識があったこと、また、これまでの仕事の関係で拳銃射撃の経験があったことから、特に指導を受けなくても安全上の問題はなかった。
世界ケンカ旅行(米国編)9
レンタル用拳銃は、小は22口径から、大は45口径まで、リボルバーとオートマチックが適度に揃っていたから、私は片っ端から試すことにした。

ちなみに、弾薬でいう口径とは、例えば45口径で、100分の45インチの長さを表す米国式のインチ・フィート方式である。
これとは別に欧州式のメートル法を使用する呼び方もあるが、これらは世界中で併用されている。

また、弾頭や火薬の重量に関しても、「グレイン」というアメリカ独特の度量衡単位を使用するので、何かにつけてややこしい。
軍用銃で7・62ミリとか12・7ミリという中途半端な口径は、それぞれ米国式単位だと30口径と50口径に当たる。
つまり、弾薬の発祥の地によって口径の単位が欧米ごちゃ混ぜになっているわけで、拳銃弾でいうと、欧州発祥の9ミリ弾は口径が「9ミリ」であり、アメリカ発祥の45口径は口径が「45」と呼ばれているのである。

さて、私は1回の射撃でリボルバーとオートをそれぞれ1丁ずつ借りて、弾は1丁あたり100発、合計200発を日課とした。
これは、1日あたり約80ドルの出費にあたり、当時の為替レートでは1万円程度。貧乏旅行者にはかなりの額であったが、一生に一度の経験と割り切って、散財を惜しむことはなかった。 
世界ケンカ旅行(米国編)8
クラブで射撃するメンバーは、ほとんどが自分の拳銃と自家製弾丸を持ち込んでやってくるが、ここではビジター用に銃のレンタルと弾薬や関連商品の販売も行っていた。

当時のカリフォルニア州では、厳密にはグリーンカード保持者(永住権取得者)でなくても外国人が銃器を購入することが可能であったが、定住先を確保して州の自動車免許を取得するなど、煩雑な形式上の手続きが必要となってくる。
私の場合、当然ながらレンタルの銃を使用する選択肢の方がラクで、クラブには30種類ぐらいの多種多様の拳銃があり、短期では拳銃を自分で購入するよりも効率的であった。

レンジ使用料が1回5ドルで、レンタル料金は1丁につき5ドル。パスポートを提示して誓約書にサインすれば外国人でもまったく問題はない。
一応、「経験はあるのか?」と最初に聞かれるが「ある」と答えれば銃と弾薬を渡されてあとは自己責任の世界となる。

弾薬は、ファクトリーメイド~メーカー純正品~か、ハンドロード~薬きょうを使い回しした私製品~のどちらかを購入できるが、私は50発で15ドル程度と圧倒的に安いハンドロードを使っていた。
グアムやハワイの観光地では100ドル以上ボッタくる業者もあるようだが、これが実際の相場であった。
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