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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
世界ケンカ旅行(アジア編)15
ベトナムに批判的な話が先行しすぎたが、この国の名誉のために「ベトナム料理」のすばらしさについて語ってみたい。

率直に言って、ベトナム料理は日本人の口に合う。
熱い国では、料理に唐辛子を多用することが多いが、この国では煮物とかが辛いということはない。

サイゴンには1週間ほど滞在したが、私がよく通ったのが、裏通りにある大衆食堂であった。
旅行者が呼ぶ「ぶっかめメシ」というやつで、皿の上のご飯に2~3品のおかずを載せるのが普通である。

ある食堂での話。

最初の1~2回までは、特に疑いもしなかったが、現地人の支払う金額を小まめに観察していると、どうやら彼らよりも2倍くらい高いのではないかという疑念が沸いてきた。
店の女主人に確認してみると、値段は間違いないという。
ちなみに、ベトナムでは大衆食堂で料理の値段表がないのが普通である。
他の客がカネを払っているところを横からじっと観察していると、女主人は眉間に皺を寄せて、「嫌なら他の店にいけ!」と言わんばかりの剣幕。

そして、現地人よりも確かに2倍以上払っていることを確認して、その食堂に行くのを止めた。

結局、私の場合、ぼったくりをしないマトモな食堂を探し当てるまでに数件の経験を要したわけだが、左様なまでにベトナムというのは、「スキあらば容赦なくぼったくる」国なのである。

(ベトナムの肯定的な話をしようと思っても、結局は「ぼったくり」談に帰結してしまうところがベトナムのベトナムたる所以なのか、、、、、)



さて、私にとってベトナムとは「ベトナム戦争」そのものであることは前述の通り。

戦跡・軍事博物館巡りは私にとっては旅行の恒例行事のようになっているが、ベトナム旅行の最大のテーマはやはり「ベトナム戦争」関連であった。

とりあえず、サイゴン近郊にあったクチトンネルはぜひ行ってみたいと、国営のサイゴンツーリストでツアーを探してみた。

クチトンネルはベトコンの秘密アジトで、田畑の下に蟻の巣のようなトンネルを張り巡らし、ここに武器などを隠していたのである。

聞いてみると、日帰りのツアー料金は1人40ドルだという。

私はこの代理店で、ハノイ行きの列車のチケットも購入していたが、1等車で片道が100ドル。
安いように聞こえるかも知れないが、これは現地人の5倍もする外国人公定運賃で、中共の鉄道外国人運賃が現地人の2倍程度だったことにくらべても、異常に高い。

場末のシクロ・大衆食堂から国営鉄道まで、「総ボッタクリ」という現状に憤慨していた私は、この40ドルというツアー料金に納得がいかず、残念ながら参加を断念。

結局、「ベトナム戦争」は博物館で我慢することにした。

幸いにも、サイゴンの中心地には徒歩で回れる私好みの博物館が割とたくさんあり、飽きることはなかった。

「統一大会堂」は旧南ベトナムの大統領官邸で、ベトナム戦争のクライマックス、柵を乗り越えて突入する北ベトナム正規軍のT54戦車の映像は「サイゴン陥落」の象徴となった。
「旧アメリカ大使館」は、ヘリで脱出する大使館職員や南ベトナム政府関係者のパニックの様子でお馴染みである。

軍事博物館や革命博物館、そして「アメリカ戦争犯罪博物館」などが興味深いが、社会主義国というものは、所詮、こういう場所を「プロパガンダ」の手段として位置付けているので、それなりの鑑識眼を持って見なければならない。

ベトナム戦争とは、米ソの代理戦争であるが、アメリカが手を焼いた理由は大別して2つある。

ひとつは、ソ連との直接対決を避けるために(あるいは国内国際世論に影響されて)軍事作戦に政治的配慮を持ち込み過ぎたからで、もうひとつは、南ベトナム政府が政治家から官僚・軍人に至るまで汚職まみれでダメダメ、自国を防衛しようとする気概がまったくなかったことである。

「アメリカに勝った国」としてベトナムを評価する人々は現在でも多いが、「アメリカが自分でこけた」というのがより実態に近い表現であろう。

冷戦の真っ只中とはいえ、「ぼったくり」精神に溢れたベトナム人相手に巨額の援助を投下し続けたアメリカに、今となっては同情を禁じえないが、、、、




世界ケンカ旅行(アジア編)14
翌日、試しにシクロに乗ってみることにした。

一応、説明しておくと、シクロは3輪自転車で、後部で運転手がペダルを漕ぎ、前部に乗客が一人乗れるようになっている、サイゴンでの交通手段のひとつである。

もちろん、シクロはスピードも遅いから、私の場合は実用としての足というよりは、むしろ観光ついでの体験としての意味が大きい。

私はホテルの入り口付近で休憩していたシクロに声を掛けた。
運転手は「乗れ乗れ」と合図してきた。

後々のトラブルを避けるため、ベトナム語の拙い私は、実際に5000ドン紙幣を見せて、

「レックスホテル!ナムギン(5000)、OK?」
と、ひつこいほど釘を刺して確認を取った。

「OK!OK!」
と60ぐらいの爺さん運転手はニコニコしながら答えた。

ちなみに、レックスホテルまでは、距離にして僅か200メートルそこそこ。

シクロなどに頼らなくても歩けば済む距離であった。5000ドンは、多すぎることはあっても、決して相場より少ないはずはない。

私は少し優雅な気分でサイゴンの街並みを横目で見ながら、シクロで通りを進んだ。

しかし、優雅なひと時もつかの間、このシクロ運転手とはすぐ後に騒動となる。

シクロが目的地であるレックスホテルの横に到着し、私は代金である5000ドンを支払った。

ところが、この爺さん、5000ドンの受け取りを拒否し、5ドルよこせと言い出したのである。

爺さんの言い分は、どうやら、「5000ドン」ではなく「5ドル」の約束だったというのだ。

つまり、同じ「5」の数字に引っ掛けて私からぼったくろうというのだが、私は実際に5000ドン札を見せて確認を取っているから、間違うはずもない。

私と爺さんが口論していると、周辺で客待ちしているシクロ運転手たちがゾロゾロと寄ってきた。

爺さんは、これら野次馬に訴えかけるように、雄弁に自己の正当性を主張する。

すると、野次馬の連中が一斉に爺さんの側に立って、私にカネを出すように要求してきた。

私の周りを3~4人のおっさん達が取り囲む。
こいつらも「ぼったくり」は十分承知の上で外人を責めているはずだ。

私は内心、「しまった」と思った。

とにかく言葉もできないから的確な反論など不可能である。

私はその場から離れるために、一旦は要求を呑むフリをして、1000ドン紙幣や500ドン紙幣をポケットから5~6枚どほ搔き集め、ガチガチに丸めて爺さんの胸に投げつけた。
札は跳ね返って地面に落ちた。

札を丸めたのは、額を確認する時間を長くして、その場から逃げる時間的余裕を作るためである。
払った総額は5000ドンないかも知れないが、それでも相場以上であることには間違いない。

私は札を投げた直後に全速力で走ってその場を離れた。

いくらシクロ運転手が健脚と言えど、爺さんはもちろん、野次馬の連中も中年オヤジばかりで、100メートルも離れれば追いかけてくることはない。
もしも、追いかけてくるならば、「最後の手段」として催涙スプレーをお見舞いしてやるつもりだった。

結局、爺さんは追って来なかった。

結論から言うと、こういう場合、「口論」してはならないのだ。

最初から5000ドンを爺さんに無理やりでも渡して、騒ぎが大きくなる前にその場を離れるのが最善の対処である。

実際、その後、同種のトラブルに遭った際は「揉める」と感じたらカネだけ渡してサッサと逃げることで対処し、事なきを得ている。


余談ではあるが、この数年後、同じサイゴンでメータータクシー(自動車)に乗った際、運転手が理屈をこねてメーターで表示された数倍の金額を要求してきたことがあった。

(サイゴン初心者ならば、びっくり仰天だろうが、私自身、こういうことは「サイゴンでは有りうる」想定の範囲内だったので、比較的冷静に対処できた)

その時も私はメーターの金額だけを一方的に支払い、車を降りたが、何と、そのタクシーは数百メートルほど、私を追跡してきたのである。

その時は車の入らない裏通りの細道に入ることにより辛うじて逃げ切ったが、、、、

これらの例の如く、ベトナム人の「ひつこさ」は悪い面に作用するとどうしようもない。


果たして、私はシクロとのトラブルを経験するに至って、ベトナム人の国民性をある程度はつかめたような気がしたのである。
世界ケンカ旅行(アジア編)13
「1ドルならOKだ」
私は値段交渉することにした。

「何を言ってるんだ?1ドルなんて無理だな。10ドルだ」

「いや、1ドルしかだめだ」

「じゃあ、5ドルでどうだ?半額にしてやろう?」

「5ドルか、、まあいいか、、」
私は渋々ながら5ドルで手を打った。

今にして思えば、これはバイタク相手の上手い交渉術ではない。

交渉は最初から相場の値段を守り、バイタクがそれを拒否すれば、その場をそそくさと立ち去って別のバイタクを見つけて交渉するのがベストなのである。
ただ、そういうテクニックは何回も煮え湯を飲まされた末の経験則として身につくものであるから、初心者がスマートにできることではないかも知れない。

私はホンダカブのバックシートに乗り、一路ベンタンマーケットまで向かった。

道路を走るのはバイク、しかもカブだけで、自動車はほとんど見かけない。
目につくのはロシア製の軍用ジープで、つい数年前まではソ連軍が駐留していた国であることを思い起こさせた。

ベンタンマーケットの前に到着して、5ドル紙幣を手渡すとおっさんはニンマリと笑みを浮かべた。
あとで分かったことだが、サイゴンでは屋台のフォーが2000ドンだから、わずか5ドルでも軽く10食分以上の稼ぎとなったわけである。
最初だから仕方ない部分もあるが、相場よりも高いとは知りつつ妥協した自分が少し悔しかった。


私は事前に調べておいたドンコイホテルへと向かった。

サイゴン観光の中心地は、市内南東部、市庁舎からサイゴン川に突き当たるグエン・フエ大通り周辺である。
川のすぐ近くには有名なマジェスティックホテルが現役で営業していたが、その他、かなり歴史のあるホテルもほぼそのまま観光客を受け入れていた。

私の宿泊したドンコイホテルもそのひとつで、ダブルベッドの置いてあった寝室の他にメインの応接室があり、2部屋で8ドルという格安のホテルであった。

ただし、メンテナンスがほとんど施されず、日々の清掃も行われているか怪しいほど小汚い。
コロニアル風で天井が非常に高く、広い部屋なのにエアコンは旧式で効きが悪い。
その上に、もの凄い騒音で、寝るのも一苦労のように思えた。

実際、夜になると幽霊屋敷のようで、毎夜の如くドアを叩いてくるホテル付きの娼婦が不気味この上ない。
この娼婦、何度断っても、同じ女が一晩に2回3回とドアを叩いてくるから始末が悪い。

女は年齢にして18くらい、容姿はまあまあだが、いかんせんこちらには最初からその気がないから、何回来られても断るしかない。
ストーカー的心理状態なのか、いたずら半分なのか、他に客が全然いないのか、よくわからないが、私にしてみれば嫌がらせ以外の何者でもなかった。

確かに、仮に1回50ドルとしても、1人外人客をつかまえれば、それだけで(ベトナム人にしてみれば)莫大な稼ぎとなるわけで、必死になる理由はそれなりにあるのだろう。

しかし、こういう、カネのためなら人の迷惑をも顧みないのがベトナム人の気質であることが次第にわかってくるのである。
世界ケンカ旅行(アジア編)12
若い読者のために一応の解説を加えておくと、現時点(2012年)における「ベトナム」と、1992年の時点における「ベトナム」に対して日本人が抱く印象はまったく違うと断じても過言ではない。

当時の日本人が「ベトナム」と聞いて連想するのは、アオザイの女子学生でもベトナム式コーヒーでもなく、「ベトナム戦争」であった。
まさに、「戦乱インドシナ」の象徴であり、幾多のマスメディアが世界に配信した悲惨なベトナム人がそのまま「ベトナム」のイメージだったのである。

私の場合も、北ベトナム正規軍が侵攻したサイゴン陥落の日の混乱ぶりや、引き続いて起こったボートピープルの脱出劇は鮮烈な記憶として残っていた。
また、ハリウッド映画で扱われるベトナム戦争映画、例えば、「ディアハンター」「地獄の黙示録」に登場するベトナムの影響も大きかった。

話は脱線するが、私が小さい頃、「遊星仮面」というテレビアニメがあった。
この主題歌は、「戦争を止めろ!地球の危機がやってくる、、、、」という一節で始まるが、ここで言う「戦争止めろ」は、明らかにベトナム戦争反対運動からインスパイアされた歌詞であることが今になって分かる。
ことほど左様に、ベトナム戦争が当時の日本のポップカルチャーに与えた影響は大きかったのである。

話を戻そう。


旅客機はバンコクを発ってわずか2時間ほどでサイゴンのタンソンニャット空港に着陸した。

機体は駐機場の中ほどで停止し、タラップ車が牽引されてドアに横付けされた。

駐機場は四方数メートルのコンクリートタイルが張り合わせてあるような構造で、表面は多少の凸凹があった。素人目からも舗装技術の稚拙さがわかる。

乗客は税関と入国審査を受けるために少し離れたターミナルまで歩くが、このターミナルがボロボロで、国際空港というよりは、地方都市のバスターミナルといった風情であった。
近代的なドンムアン空港から飛んでくると、まるで別の世界である。

私は入国審査を済ませて若干の米ドルを現地通貨「ドン」に両替した。
レートはおおよそ1ドルが6000ドンであった。

なお、前述したように、この頃のベトナムのビザは顔写真の貼ったA5ほどの紙切れ3枚綴りで1部を成す形式であり、出入国時に1枚づつ、そして、旅行者登録時に1枚を官憲に提出するものである。
他の東南アジア諸国では旅券にスタンプを押して手続きが終わりであることに比較して、ベトナムは非常に煩雑であった。

空港の外に出て周辺を見渡したが、まったくもって一国の玄関口というイメージとは程遠いターミナルであることに再度驚いた。

空港正面は舗装もされておらず、赤土が剥き出しになっていた。
そこでは、出迎えの乗用車やバイクタクシーが待ち構えているのである。

私がターミナルから出るのを確認するや、バイタクやシクロの一団が好奇の目を一斉に向けてきた。
そして、我に我にと手招きしてくる。

メンテナンスされていない街並み、人々の服装、道路事情、どれを取っても外国人観光客の受け入れ態勢が整っているバンコクとのインフラ格差は一目瞭然であった。

何よりも、空港周辺で見る人々の表情が固く、ベトナムの人々が「愛想笑い」をしないことがわかる。

私は空港の出口にたむろするバイタク連中は好感が持てなかったので、少し歩いて施設の外に出てから中心地までの足を捜すことにした。

タンソンニャット空港はその気になれば徒歩でも都心まで行ける便利な場所にあったから、精神的にも余裕はあった。

バックパックを背負っているから、非常に目立つらしく、さっそく流しのバイタクが声を掛けてきた。

「さあ、乗れ乗れ!」

運転していたのは40がらみのオッサンであった。
バックシートを指差して私に乗るように促した。

「ベンタンマーケットまで幾らだ?」

「10ドルでいいよ」

バイタクのおっさんは外人と見てさっそく吹っかけてきた。

ぼったくる気は満々である。
ガイドブックには空港から中心地まで1ドルと書いてあったから、相場の10倍ということであろうか。

私はその時、たまたま、とんでもないバイタクに当たったと受けとめたが、実は、この国のぼったくり気質は国民性そのものなのだと次第に体得していくのである。
世界ケンカ旅行(アジア編)11
私はシンガポールでバンコクまでの片道航空券を購入、1週間ぶりに再びジュライホテルに舞い戻っていた。

数日ほど、マレー半島旅行の疲れを癒しながら、ガイドブックでベトナムやカンボジアについて調べていたが、ある日、意を決してマレーシアホテル周辺の旅行代理店を回ることにした。
当時のベトナムやカンボジアは公使館窓口でツーリストビザを発給することはないらしく、不本意ながら旅行代理店経由で申請するのである。

すでに、欧米バックパッカーがカオサン通りに集まりだした頃ではあるが、マレーシアホテル近辺にも代理店はたくさんあった。

ベトナムやカンボジアのツアー商品はどこの代理店でも扱ってはいたが、概して値が張るものばかりである。
プノンペン・アンコール遺跡のツアーなど、僅か5日ほどの滞在で1000米ドルも取られるようなボッタクリ商品もあった。
1000ドルと言えば、当時のレートで13万円前後である。ただし、アンコール遺跡はポルポト派支配地域の近くということで、ツアーには軍隊の護衛がつくそうである。
いろいろ当たってみたが、カンボジアツアーの大半が800~900ドルだから、これが相場なのだろう。

そんな事情もあり、今回はカンボジアは諦めることにして、ベトナムだけに絞ることにした。
さすがにベトナムツアーはカンボジアに比べて割安で、ホテル抜き・往復航空券とビザ代で4~500米ドルあたりが相場のようである。

私は往路バンコク~サイゴン、復路ハノイ~バンコクのオープンジョー形式エールフランス便チケットを予約した。
サイゴン・ハノイ間は陸路移動である。

続いて料金を払い込み、同時にパスポートとビザ用写真3枚を代理店に預けて、ビザの発給を待つ。

数日後、代理店から受け取ったビザは、3枚綴りの書類で、パスポートには何も記されていなかった。
あらためて、ベトナム旅行の特殊性を実感する。



さて、サイゴン行きのエールフランス機内。

当然と言えば当然ではあるが、乗客の大半はベトナム人である。
ただし、私の隣に座っていたベトナム人の中年女性は、アメリカのパスポートを所有していた。

いわゆる越僑という人々で、このアメリカ国籍を持つベトナム人は、あそらくはベトナム統一直前直後に難民として渡米したのだろう。

そういえば、LAには結構な数のベトナムレストランがあったし、サンノゼには米国最大のベトナム系コミュニティーがあると聞いたことがある。
私の座席の周辺を見渡しても、ほとんどがアメリカ旅券を持っているベトナム人であることがわかった。

勝手に想像するならば、ボートピープルとして着の身着のままでアメリカに辿りつき、小金を貯めて満を持し里帰りしてみれば、「勝利した」はずの社会主義国はどうにもならない停滞に苦しみ、むしろ「敗北した」アメリカに移民した人々が資本主義の恩恵を目一杯受けて裕福だった、、、などという皮肉な逆転劇がごろごろしているのかも知れない。

いずれにせよ、ソ連邦末期のペレストロイカを模倣したベトナム版開放政策の「ドイモイ」は確実に回りだしているようであった。
世界ケンカ旅行(アジア編)10
すでにバンコクは5月の暑い時期に入り、スコールのような通り雨も珍しくない頃となっていた。

私はアジア周遊第一弾として、すぐに鉄道で南下して、マレー半島を下り、シンガポールを経てインドネシアに渡るつもりであった。

ところが、バンコクに一旦腰を据えてしまうと、あまりの居心地の良さに、動くのが面倒になってくる。
この感覚は日本人の貧乏旅行者であれば誰もが経験するところであろう。

ジュライホテルの周辺には、安価で日本人の口に合う屋台の飯屋が至る所にあり、ホテルをぶらりと出れば、食事で不自由することはない。
タイ人は日本人と同じように「愛想笑い」をしてくれるから、誰となく目が合っても警戒する気分にはならない。
陽気な中にも一筋の影があるフィリピン人とは気質が違う。

ホテルの周辺には、最底辺の街娼もかなりの人数が立っており、年齢は20代前半から40代の中年のおばちゃんまで様々である。
彼女たちは目が合うと誘うような笑顔を返してくれるから一目瞭然であった。
前回、初めてヤワラーに来たときは、噂に聞いていた「冷気茶室」を探してみたものの、いわゆる未青年の少女達がいる茶室は内外の批判により一掃されていて、その意味では健全化されていた。
もちろん、ゴーゴーバーやソープランドなど、あらゆる性風俗産業はまだまだ健在であった。

辺りは、ツクツク(読者には説明不要であろう)の2サイクルエンジンのかん高い騒音がビル間で共鳴してけたたましかったが、タイ人ののんびりした生活態度は、喧騒にも関わらず、旅行者の心を落ち着かせる魔力があった。


1週間ほどジュライホテルで休養した頃、私は重い腰を上げて、マレー半島縦断の旅に出ることにした。

さて、本来であれば、逐一マレーの旅以降を記するべきであろうが、当旅行記執筆の段階でいくら回想を試みても、特筆するような記憶が蘇らない。

この地域の旅は可もなく不可もなく、と表現すべきであろうか。

基本がムスリムの人々に英国植民地政策の名残が色濃く残るところであり、加えて、華人とインド人という、相容れない人種が互いの領分を侵さないように居住しているといった印象である。
まったくもって、大英帝国の植民地政策は巧妙であったと認めざるを得ない。

ところで、後年、マレーシアに移住して老後の生活を送るというライフスタイルが一部マスコミで提唱されたこともあったが、私はこれを読んで一笑に付したことがある。
当時、持て囃されたマレーシアへの移民の利点として、年中温暖な気候と比較的安い物価、医療などの社会インフラの充実が挙げられていたが、確かにそれは事実であるとしても、根本的にマレーシア社会が日本人の肌に合わないという、決定的要因が欠落していたからであった。

もっとはっきりと指摘すると、ムスリム社会は(例え戒律がゆるやかではあったとしても)日本とは極めて異質な社会であり、どんなに寛容的な生活をしていても精神的に参ってしまう。
数百人単位で集団移住して、日本人だけで固まって生活しなければ、マレーシアでの生活は破綻するであろう。


私は特に深い印象も持たないまま、マレー半島の終点とも言えるシンガポールに到着した。

極めて近代的な都市国家であるシンガポールではあったが、それ自体は面白くもなんともない。
私はシンガポールにたどり着いた時点で、インドネシアへの旅行に見切りを付けてバンコクに戻ることにした。

理由は「どうしても行きたい」という理由が見出せなかったからであるが、いつでも訪れるチャンスはあると高をくくっていた。

結果として、その後、インドネシアに行くチャンスは多数ありながら、ついぞ実現せずに現在に至るのである。
世界ケンカ旅行(アジア編)9
私は夜のマニラ空港からタイに出発した。

ストップオーバーついでに立ち寄ったとは言え、悪い意味で「期待」通りの国ではあった。
ここに当分来ることはないであろう。

さて、パキスタン機がバンコク・ドンムアン空港に到着するのは真夜中。

私は入国手続きを終えたあと、朝まで空港ロビーで過ごすことにした。

本旅行記では紹介していないが、タイ自体はこれ以前に短期旅行で訪れたことがあり、2回目となる。したがって、空港から市内への移動は多少の土地勘のようなものがあった。

私は広い出発フロアーの隅に並んだ航空会社のブースの裏で仮眠を取っていた。
フロアーはエアコンが効いて涼しかったが、すぐに蚊が寄ってきて、とても熟睡はできなかった。
ウトウトするうちに夜も明けて、辺りの雑踏も騒がしくなり、いよいよ市内に移動することにした。

最初に空港内の銀行でトラベラーズチェックを数百ドル分ほどタイバーツに両替する。

この頃(92年)の交換レートは、大体、バーツ表示の数字を5倍すると日本円に換算できた。
10バーツは約50円となる。

ドンムアン空港から市内に入るための安い方法としては、乗り合いバスを使うか、空港の隣にあった鉄道駅からドン行列車に乗るかのどちらかであった。
私は、待ち時間のほとんどない、路線バス29番でファランポーン駅まで行き、そこから歩いてヤワラー(中華街)のホテルに直行することにした。
所用時間は、道路が流れていれば1時間程度である。
ドンムアン空港から終点のファランポン駅までの料金はエアコンバスで15バーツくらいだから、所要時間が長いのに目を瞑れば文句はない。



同じ東南アジアでも、マニラとバンコクでは空港到着時からして雰囲気がまったく違っていた。

タイでは、時間がまったり動くようで、独特ののんびりムードが漂う。
人々は穏やかで、日本人の波長とよく合う。
マニラでは背筋に緊張が走るが、バンコクでは張り詰めた緊張が一気にほぐれてトロトロに溶けていくようである。

空港前の路線バス停留場で待っていると、程なく29番バスが到着。
急いで乗り込む。

余談であるが、バンコク路線バスの名物は、何と言っても、あの「パコパコ」運賃箱であろう。
知っている読者には説明不要だろうが、竹筒の形状をした板金製の切符入れのことで、客から受け取った小銭を溜めておく容器でもある。
車掌は、この竹筒のフタを調子よくパコパコと音を立てて開閉しながら車中を練歩き、乗客の切符購入を促すのである。


果たして、バスはバンコクの鉄道中央駅であるファランポンに到着した。

私の向かっていたのは、通称ジュライホテル(本当は違う名前らしいが、みんなこう呼んでいた)という安宿である。

ファランポン駅から歩いて15分程度の距離にあったこのホテルは、シングルルーム120バーツという安さもあり、いつの頃からか日本人が集まるようになっていた。
各階の管理人室脇には黒板が掛けてあり、各部屋の入居状況が表示されていたが、9割方の部屋が漢字で「日本」と書かれていた。まさに日本人ホテルだったのである。
規模は大きく、6階建てホテル全体で100人以上の収容人員はあると思われた。
今回の旅行ではバンコク滞在時の定宿として利用することになる。

世界ケンカ旅行(アジア編)8
私はとりあえず、エルミタに向かった。

フィリピンの便利なところは、市中でそれなりに英語が通じることであり、標識等がローマ字表記であること。ジープニーなども、行き先は一目瞭然である。

私は通りがかりのサリサリストアー(横丁の日用雑貨店)で最寄の大通りまでの方角を聞き、ひたすら歩いた。

直線距離的には1時間も歩けばエルミタに達するであろうことは、空港からの車中でシミュレーションしていたので心配なかったが、現地通貨を持っていないのが気がかりであった。

果たして、くすんだコンクリートの家屋が連なる裏通りから抜けて、自動車の往来が激しい大通りに出た。
私はバックパックを背負い、一路南に歩を進めた。


エルミタ到着後はマニラ滞在期間の生活費を両替し、そのまま1泊25ドルのホテルにチェックインした。

ちなみに、今回の旅行ではドル建のトラベラーズチェックを主体として、日本円とドルの現金も10万円分程度準備して来た。
特に、米ドルは1ドルから10ドルまでの小額紙幣で5百ドル分持ってきたから、これが結構な枚数になる。
小額のドル紙幣は特に途上国の旅行で絶大な威力を発揮するから、携帯は不便だが仕方がない。


さて、バンコクに出発まで3日あるわけだが、ホテル周辺を散策してマニラ市街を観察するに、何とも暗い雰囲気に嫌気が差してくる。

まず、少し構えのしっかりしたレストランとか商店には必ず雇われ警備員が配置されているが、全員が腰に拳銃を吊っているのに驚いた。
デパートでは入り口でボディーチェックを受けるし、銀行の警備員はさらに強力なショットガンを装備している。

総じて、セキュリティーの堅さは銃器が氾濫するアメリカ以上である。

凶悪犯罪が日常的であると言わんばかりのマニラ市街、歩いていてリラックスする瞬間はない。
早くも滞在1日目にして辟易した。

私は残りの滞在期間をジープニーを使ってマニラ市内周遊に励んだが、単なる時間潰しで、夜はタイのガイドブックを読み耽っていた。

そうこうする間、いよいよバンコクに向かう時が来た。
世界ケンカ旅行(アジア編)7
「どうだ、君も遊び歩く暇があるなら、俺の仕事でも手伝ってくれないか?」
三浦さんは私に言った。

「三浦さんの会社で事務とか営業でもするんですか?」
私は彼がマトモな会社など経営していないのを見透かして、皮肉を込めて聞き返した。

三浦さんはニヤリと笑って続けた。

「心配するな!そんな小難しい仕事じゃないよ。日本の飲み屋にフィリピーナを連れて行ってもらうだけだ。簡単だろ? しかも、1人につき10万払うぜ。割のいい仕事だろ」
ここで三浦さんの生業の全体像が大体見えてきた。

日本に連れて行くだけで10万貰えるのであれば、確かにぼろい仕事ではあるが、逆に言うと、それだけのリスク料が加算してあるということである。

例えば、麻薬類などの禁制品の密輸に関わるとすれば、自分が逮捕されるリスクを避けるために第三者の旅行者を利用するようなことも想定できなくはない。

いずれにせよ、よく知らない相手から誘われてリスキーな仕事をホイホイ請ける馬鹿はいないだろう。
「これからまだまだ旅行が続きますから、そんな余裕はありませんよ」
私は断った。


そうこうするうちに、晩餐の仕度が終わり、私はテーブルに促された。

テーブル上には、宅配サービスで届けられたフライドチキンの山と、ポテトフライ、そして、コーラのペットボトルが並ぶ。
正直、見るだけで胃がもたれてくるような光景であった。
私はとりあえずコーラは飲み干したが、チキンとポテトは遠慮した。


「そろそろ休みたいんですが、、、」
私から申し出た。

寝床は、客用のベッドルームがなかったので、空いている部屋に適当に毛布を敷いて作ってもらった。
居心地は悪い。
私は水シャワーで汗を流した後、すぐに横になって目を瞑った。


翌朝、目が覚めたのは6時頃であった。

多分、2~3時間しか寝ていないだろう。
気が高ぶって中々睡眠に入ることができない夜であった。

私はすぐに荷物をまとめ、三浦さん宅を出ることにした。
心身共に居心地が悪く、ホテルでゆっくり寝たかったのである。

私は、まだ寝入っていた三浦さんの寝室に赴き、最後の挨拶をした。

「起こしてすいませんが、私はこれで失礼します。ありがとうございました」
私は寝ぼけ眼の三浦さんに告げると同時に、千円札を2枚差し出して、

「これは気持ちです」
と加えた。

すると、突然、三浦さんの表情が変わった。

「何だ?こんなんで足りると思ってんのかあ?お前、俺を舐めてんのかあ?最低でも5千円は置いていくのが常識ってモンだろが!」
彼は一気にまくし立てたのである。

この突然の豹変には私の方があっけに取られてしまった。

私も当初は2千円さえも置いていくつもりはなかったが、夕食に余計な出費をさせてしまったこともあり、その埋め合せと、一応は空港から送ってもらったので感謝の意味を込めての配慮であった。
しかし、どう計算しても私の感覚では、この一宿一飯の恩義が5千円の価値があるものとは思えないし、当然ながら払うわけにはいかない。

ただ、ここで三浦さんと争う気はサラサラない。

私は三浦さんの手の動きを注視して、枕元から武器を取り出さないか確認した。
アメリカでは、寝込みを襲われたときのために、ベッドに護身用の拳銃を隠しておく場合が多いからである。銃器の所持が緩いフィリピンでもあり得ることだ。

万が一、彼が武器を手に取ろうとしたら、突きの連打をぶち込む覚悟を決める。
幸い、彼の口調だけは激しいものの、腕力や武器で訴えることはしないようであった。

私は何も言わず、2千円だけを置いて立ち去ろうとした。

「コラ!待てよ!」

叫ぶ三浦さんを無視して、一礼したあと、私は荷物を背負って家を飛び出した。
世界ケンカ旅行(アジア編)6
果たして、車は海岸沿いの大通りを北上して、歓楽街であるエルミタを過ぎ、いかにも途上国らしいコンクリートのくたびれた家屋群を抜けていった。

夜間のことであり、マニラの雰囲気はもうひとつわからなかったが、初めての国ということもあり、不安で仕方がない。

車は程無く粗末な家の前で停車した。

「さあ、着いたよ。降りてくれ」
三浦さんは私を促した。

夜になっても気温は高く、エアコンの効いた車内から出ると熱気がむっとする。
亜熱帯の途上国に来たんだなと実感する瞬間であった。

一行はコンクリートブロックを積み上げただけのような、薄汚れた2階建ての小さな家に入った。庭は無く、半分長屋のような形で隣の家と近接していた。

三浦さんは何食わぬ表情で家に入っていったが、飛行機の中で大見得を切って札束の詰まった財布を出し、実業家としての金満ぶりをアピールした割にはその落差は大きく、少なくとも広い庭付きの邸宅を想像していた私からすると、すでに「正体は見えた」感があった。

ところが、彼は私がどういう風に見ているかということにまだ気がついておらず、案外、鈍感のようであった。
こんな途上国でビジネスをするような人の資質としては、彼の如く物事にはむしろ繊細でない方が向いているのかも知れない。

三浦さんの自宅では、日本から客人が来たということで、ささやかながらの晩餐をするらしく、奥さん達が宅配屋にフライドチキンを注文していた。

風通しが悪い室内にエアコンはなく、扇風機が首を振って空気を循環させてはいたが、これが気休め程度で、すぐに汗が首筋に伝わってくる。
壁には三浦さんと奥さんの結婚披露宴の模様と思われる記念写真が額縁に収まって飾られていた。

概して部屋の居心地は悪く、初対面の人の家ということもあって、この家に泊まることを今さらながら後悔した。
しかし、とにかく来てしまった以上、今晩一泊は仕方がないとしても、明日はエルミタの多少マシなホテルに移動しようと思った。

「どうだい、君は飛行機の中で、いま仕事をしていないと言っていたな?」
女性が食卓の準備をしている間、三浦さんが話かけてきた。

「ええ。これからしばらくは旅行で世界を周ろうというわけです。仕事は性に合わないんで、、、」

「ははは、、性に合わないくらいで仕事をしないとは結構な身分だ。親が金持ちなのか?」

「金持ちではありませんがね。まあ、一生気楽に生きたいですわ。寅さんみたいに」

「君は何を言ってるんだ?寅さんなんて映画の中の渡世人だぜ。あんな奴いるわけねーだろが!」
私も別に寅さんが実在するとは思っていないが、ちょっとした理想像としてのあこがれを表現するために名前を出しただけにすぎない。
三浦さんの口調では、まるで寅さんが実在しているという前提で私が例え話をしたような言い方だが、なんとも人を小ばかにしているようで、いちいち引っ掛かる。

彼は、他人がどういうバックグラウンドを持つ人物かとか、知的水準はどの程度なのかとか、どういう思想の持ち主なのかとか、そういうことをあまり邪推しないで人と接するらしい。

考えてみればノー天気で気楽な性格である。
逆に、私は人の言葉や行動の端々からバックグラウンドを探ろうとする癖があり、これはこれで気疲れするものである。

ちなみに、三浦さんは奥さんと英語で会話しているが、彼の英語のレベルはそれほどではないことはすぐにわかった。
会話が構文になっていないレベルで、知っている単語をつなげているだけの文章しかできない。

そこらの英語の好きな中学生の方がよっぽど達者に感じるレベルである。
そんな彼の英語力から察すると、元入国審査官という肩書きも怪しくなってくるが、第一に奥さんとのコミュニケーションが円滑かどうかも疑問であった。

少し雑談が続いたあと、三浦さんが私に切り出した。

世界ケンカ旅行(アジア編)5
やがて、マニラ空港に到着。
三浦さんのおかげで退屈はしなかったが、ガイドブックを読み込む時間は取れなかった。

「じゃあ、ここでお別れします」
私は彼に告げて、さっさと機内を出た。

さて、入国審査ブースではヒトクセありそうなオッサン連中が何の咎めもなく次々と通過していく中、私の番で審査官が手元の資料をジロジロと見始めた。

何かの名簿と私の名前を照合しているようであった。

「ちょっと、腕を見せてくれないか?刺青を確認したいんだ」
私は半そでの開襟シャツの両腕をまくり上げて、審査官に刺青がないことを確認させた。

「よし」
審査官は入国スタンプを押して私に返した。

手配犯と氏名が似ていたのかどうかは知る由もなかったが、どうにも気持ち悪いフィリピンの第一歩であった。

機内荷物を受け取って、税関を通り到着フロアーにたどり着いた。

さて、どうやって市内に出るか?

マニラ空港は、公共交通機関のアクセスが悪く、事実上、旅行者はタクシーでしかマニラ中心地に行くことはできない。
ところが、この雲助タクシーの評判が異常に悪く、遠回りやボッタクリはまだいい方で、夜間などは強盗に遭うこともよくあるらしい。もちろん、この場合は大半が犯人と運転手はグルであると言われている。
その意味では三浦さんの忠告は単なる脅しではない。

したがって、現地にいる身元の確かな誰かに車で迎えに来てもらうのが最も安全で、それなりのホテルであれば空港まで迎えにくる安全な専属タクシーを有するのである。

マニラ空港の到着フロアーは、迎えのフィリピン人群衆で溢れていた。

国策による海外出稼ぎ政策によって多数のフィリピン人が海外と行き来するためである。
帰国するフィリピン人は多額の現金や土産物を持参しているせいか、迎えにくる人々の表情も明るい。

初めてマニラに降り立つ外人は、最初にこの異様な熱気に圧倒されるに違いない。

私は取り合えず到着フロアから出て、2階の出発フロアに向かった。そこで夜を明かすのである。

その時であった。

後ろにいた三浦さんが声をかけてきた。
彼は迎えに来ていた奥さんらしい女性と一緒だった。

「まあ、遠慮するなよ。今晩はウチに泊まったらどうだ?」

「空港で朝を待ちますから大丈夫ですよ」

「まあまあ、いいから来いよ」

私は根負けした形で三浦さんに送ってもらうことにした。
三浦さんはつくづく相手の心が読めない人である。私が遠慮でなく、本当に避けていることに気づいていないらしい。

三浦さんを迎えに来ていたのは、奥さん以外にドライバーらしい男性1人と、他の女性1人であった。

「こちらはカミさんの弟、こちらは来月日本に行く予定になっているダンサーだ」
三浦さんは手短に彼らを紹介した。

我々は空港を出て、駐車場に停めてあった乗用車に乗り込んだ。

「家はどちらの方にあるんですか?」
私は目的地を聞いた。

「カルカンだから、すぐ近くだよ」
三浦さんはそう告げたが、マニラが初めての私には位置関係がよくわからないので続けて聞いた。

「空港から距離にしてどれぐらいですか?」

「わかんねーな。とにかく車で2~30分くらいかな」

仮に平均速度60キロとして、30分で到着するとしたら、距離的には空港から30キロ圏内であり、それほど遠くないのは間違いなさそうであった。

一行は空港の敷地を出て、マニラ中心部に向かった。

私は念のため、方位磁石で車の進行方向を確認して、おおよそのスピードと経過時間を計算し、三浦さんの自宅に到着するまでの経路を頭に思い浮かべた地図にマッピングしていった。

ちなみに、自衛隊で航空航法関連の実務に携わっていたことのある私としては、こういうシミュレーションは朝飯前である。
世界ケンカ旅行(アジア編)4
ここで1990年代前半におけるフィリピンに対する私なりのイメージを少し回顧してみたい(というか、根本的には2012年の現時点とあまり変化はないというのが率直な印象なのだが、、、)。

何といっても、アキノ氏暗殺やマルコス政権の崩壊をマスコミを通じて見ていたから、混乱の国というイメージが根底にはあった。 しかし、フィリピン人自体には親近感があった。
日本のあちらこちらでフィリピンパブが流行していたからである。

もうひとつ、当時は犯罪者が海外逃避する国としても有名であり、都銀の女子行員だった伊藤某がフィリピンに逃亡の果てに国際手配を受け、逮捕に至る巨額横領事件は象徴的であった。

総じて、健全な国というイメージには程遠く、貧困・経済格差・暴力・無法など、ネガティブな修飾語が実に良く似合う国だったのである。



さて、私は三浦さんから渡された名刺を読んで確かめた。

第一印象から「信用できない人物」と脳にインプットされていたから、彼のやっている仕事については懐疑的であった。
どうせ何を聞いても返ってくるのは誇張された作り話であろう。
にも関わらず、三浦さんはあれこれと聞きたくもないフィリピンでの事業について解説してくれる。

聞いた話をまとめると、こうだ。

彼は元入国審査官で、フィリピン人女と知り合い(多分、フィリピンパブのホステスだろうが、それは伏せていた)マニラで人材派遣の事業を興した。日本で働く女性をフィリピンでリクルートして送り込むのが仕事らしい。

確かに、元入国審査官なら真っ先に思いつきそうなビジネスではあった。


「キミはフィリピンに知り合いはいるのかね?」
飛行機がアキノ空港に近づいたころ、三浦さんは私に聞いた。

彼の話の進め方は、常に私の身辺を探るような質問を交えることで「利用できる奴」か定めているようにも受け取れた。

「いえ、いません」
私は答えた。

「キミは知らないと思うが、マニラは危なくて夜は歩けない。空港に迎えに来てもらわないと、街には行けないぞ」

「タクシーで行くつもりです」

「マニラのタクシーなんてどこに連れていかれるかわかんないぞ。私の妻が迎えにくるからいっしょに乗っていきなさい。今晩は私の家に泊めてあげよう」

初めての国で現地の日本人に一宿一飯の施しを受けるのは嬉しいものだが、こと三浦さんに勧められると、素直に受け取れない。

少し考えたが、見るからに私とは別の世界にいる人で、お互い有意義ではないだろうと思い、ここは断ることにした。
世界ケンカ旅行(アジア編)3
出発当日の成田空港。

前日は都内の知人宅に泊めてもらい、睡眠時間は十分である。
搭乗時刻は夜なので、上野でゆっくり時間を潰して京成線で空港ターミナルに到着した。

果たして、空港カウンターでチェックインを済ませて搭乗ロビーに行くと、少し異様な雰囲気を察知した。
明らかに搭乗者の客層が偏っていたのである。

搭乗を待っている日本人男性のほとんどが50歳前後以上、いわゆる中年から初老域で、女性の方は、ほぼ100%若いフィリピーナ。
パキスタン人はごく僅かで、逆に目立ってしまう。

夫婦か恋人同士と思われるカップルも多く、もちろん、明らかに不釣合いな初老日本人と若いフィリピーナの組み合わせも見られる。

正直、当時の私はこういう光景にいい印象は持たなかった。

やがて搭乗が始まり、私は座席に落ち着くが、隣に座ったのは、これまたひとクセありそうなオッサンだった。
そのオッサン、一時期テレビを多いに賑わした、あの「ロス疑惑」の三浦某にそっくりな男であった(以下、本稿では三浦さんと呼ぶことにする)。

いや、正確にいうと、顔かたちが似ているだけではない。 
ジーパンにベーズリー柄開襟シャツというファッションに加えて、髪型、そして夜なのに偏光グラスを付けている。
長身かつ優男風のいでたちは、意識的に三浦を真似しているようにさえ思えた。
結構、女にはモテルだろう。

声を掛けてきたのは向こうからである。

「マニラですか?」
少し甲高い声も三浦を彷彿とさせた。

「ええ」

「何回も行かれるんですか?」

「初めてです」
私は答えた。

私がフィリピン初心者ということを確認したとたん、オッサンの身の上話(という名の自慢話)が始まった。
その後、マニラに到着するまでの数時間は彼の独壇場である。


「僕はマニラで会社を経営しているんだよね」

三浦さんはそう前置きすると、セカンドバッグからハンティングワールドの長財布を取り出して、中から名刺を1枚抜いて私に差し出した。

その財布、1万円札が50枚くらいビッシリと詰込んであり、クレジットカードが10枚以上あるのが見える。というか、彼は意識して私に中身を見せるように名刺を抜き取った。

元来、クレジットカードというのは、キャッシュの携帯を避ける意味での利便性が目的のひとつなのだから、多額の現金とカードを同じ財布に入れることは、それ自体が自己矛盾を内包していると言える。
しかも、10枚以上のカードを一つの財布に入れておく意味がよくわからない。
財布には2種類ぐらいのカードを入れておけば大抵の用件は済むし、盗難の際にはカード会社への連絡等が最小限になる。

それ以前の話として、私など、外国では財布から大枚を取り出す際には、トイレに行って人に見られないように工夫するなどしているわけだが、その視点からも、このオッサンは私などとは対極にある人種に違いない。
しかも、明らかにその財布は「人に見せる」ための目的で携帯しているのである。

彼の財布の中身は新札のようにピッチリと揃い、いかにも「見てください」と言わんばかりにに整っていた。
もし、すべてにおいてこのように神経質な性格だとすれば、最初から財布を人に見せびらかしたりしないものである。
もちろん、札がすべてダミーの紙切れで、失効したカードばかりであるという可能性もあるが、私は別にこのオッサンと商取引する予定はないので、確信犯的な偽装に関する詮索の必要はなかろう。

こういう「自慢」の仕方は確かにフィリピン人には効果覿面なのだろうが、いかんせん「ロス疑惑の三浦」似の怪しいオッサンがフィリピン行きの飛行機の中で隣の日本人に自分の金満ぶりを「自慢」しようとしても、胡散臭いフィリピン・ゴロにしか思われないのがオチである。

いずれにせよ、三浦さんの隣に座ったことで、フィリピンに対する先入観はますますネガティブな方向に振れていた。
世界ケンカ旅行(アジア編)2
具体的な計画を立てるために資料を一通り収集してみた。

まずは旅行ガイドブックである。 
すでに貧乏旅行のバイブルとして定着していた「地球の歩き方」シリーズには個別の国々編はあるものの、ヨーロッパ編や南米編に相当する、アジア十数カ国を一冊で網羅する周遊編の出版にはまだ数年を要した。
しかも、ラオスやベトナムは「フロンティア編」と称して、サイズの大きな別シリーズとして発行されており、カラー写真は豊富ではあったが、ガイドブックとしてはあまり使えない。
内戦状態だったカンボジアに至っては旅行の対象にもなっていなかったのである。

一方でこの方面に関しては、ロンリープラネットシリーズ(英語)が充実していた。
「South-East Asia on a shoestring」は創始者のトニー・ホイーラー自らが執筆した東南アジアのすべてを網羅したガイドブックであった。
そして、個別国編はなかったものの、ラオス、カンボジア、ベトナムの3カ国を網羅した便利なトラベル・サバイバルキットシリーズもあり、東南アジアはこの2冊で十分である。

旅のメインとなりそうなタイ、インドとネパールは「歩き方」を個別に購入することとし、上掲の洋書2冊と合わせて5冊を当初から携帯していくことにした。


大まかなルートは、バンコクを基点として各方面を周回するのがもっとも合理的であった。 従ってタイの出入は今回の旅では少なくとも3回になる予定となる。

理想的には一筆書きのように隣国を陸路で伝っていくのがいいが、東南アジアに関してはベトナムやラオス、カンボジアなどで相互の陸路移動が未知数であること、空路においては交通の要衝であるバンコク発券の格安航空券を利用した方がコスト的には安くなることが理由であった。

さて、そのバンコクにはどの航空会社で行くか?
当時、日本とタイを往復する際に利用するキャリアとして、貧乏旅行者に人気のあったのは、ビーマン航空、エアインディア、パキスタン航空、エジプト航空の4社であった。
このうち、パキとエジプトはマニラにストップオーバーするから、これらはフィリピンに寄るには好都合であった。

最寄の代理店で検討した結果、パキスタン航空の1年オープンを8万円弱で購入。もちろん、1年間丸々帰って来ないわけではなく、バンコクで日本往復の格安チケットを購入して帰国しようということである。

出発までの間、私は図書館に通って、アジア関連の旅行記などを読み漁り、旅行の雰囲気を感じておこうと勉強していた。
連載再開!「世界ケンカ旅行」(アジア編)1
私は、ある種のアメリカンドリームを夢見ながらも、現実を目の当たりにして理想の国とは程遠かった北米の旅を終えて、しばし思案に暮れる日々を日本で送っていた。

この頃、最大4~5年はアメリカで就学しながら暮らせる資金を溜め込んで仕事を辞めたから、貧乏旅行に徹するとすれば10年以上は継続可能であり、そんな生活に飽きればその時点で仕事を探せばいいと考えた。

なにせ、当時はまだ30前の話で、老後の心配とか健康上の問題など皆無。将来をあまり深く考えずに貯金を使い切ることも選択肢のひとつだったのである。

結局、家族からの強い要請もあり、ブラブラしている境遇に終止符を打つべく就職した。

いろいろな職を転々としたが、どの会社も続かない。しかし、まだ若かったから、選り好みさえしなければ就職口はいくらでもあった。

ただ、夢多き若者としては、小粒な人生を送るのは耐え難いものである。

また、いわゆる「ノストラダムスの大予言」が私の深層心理に焼き付いていて、(もちろん真剣に人類滅亡を信じていたわけではないが)1999年までにやりたいことはやっておこう、、、と、この年号を人生のある種の区切りとして捉えていたのである。
余談にはなるが、後にテロ教団と化したオウム真理教に入信し、出家信徒となった私と同世代の若者の動機に「ノストラダムスの大予言」が影響していたことは間違いない。
それを考えると、あの大ベストセラー本の作者である某の罪は深いと言わざるを得ないのである。

さて、今後の身の振り方をあれこれ考える中、やはり世界を歩いてみようという原点に戻り、具体的に計画を立てる段階に入った。と言えば格好はいいが、要するに現実から逃避したかったのである。

これまで、中韓と欧州・北米を旅してきたから、自然の流れとして東南アジア方面に目が向いたのは当然のことであろう。

ユーラシア大陸横断も検討したが、今回はインド・ネパールを最終目的地としてコンパクトに周遊することにした。


特報!「世界ケンカ旅行」、近日再開! こんどはアジア編だ!
民主党外交の崩壊!
終戦記念日を狙って、尖閣にシナ人グループが上陸しましたな。

昨日の事件をもって、民主党政権、特に、憲政史上最悪の鳩山政権が掲げた友愛外交が完全に失敗だったことが名実共に証明されました。

いずれにせよ、連中を政権に置いたのは民主党に投票した国民であります。

現状、またまた不可思議に「維新の会」なる勢力が台頭しておりますが、国民のバカさ加減は日本を滅ぼす手前。

何としても次は自民党政権に戻ってもらわねば、、、、


hannniti

へっへっへ

朝鮮人の血、、、事大に走る韓国大統領
まさに、100年前の李朝末期の混乱ぶりを思わせる、韓国大統領の暴言ですな。

産経新聞の特派員、黒田さんの観察よると、昨年の震災以来、一般韓国人レベルでも日本を明らかに「見下す」言葉を吐くことが多くなったそうです。

いみじくも、公の場でMB(イミョンバク大統領のこと)が「日本の力は低下した」と発言しましたが、現在の状況は朝鮮事大主義の典型的パターンで、「強いものに弱く、弱いものに強い」民族性の中で、日本を「弱い」と認識し始めているということ。

これは朝鮮民族の不思議なところですが、MBの認識は、そのまま全韓国人の認識であるということを日本人は知っておく必要があります。

つまり、いままで日本人に対しては、ニコニコしながら手揉みして擦り寄ってきた韓国人が手のひらを返したような態度に豹変するということです。

大東亜戦争に敗北した直後、それまで忠実だった朝鮮人の使用人が、突然豹変して態度が大きくなったという話があちらこちらで再現されるわけですな。

まあ、結局はそれが自分で自分の首を絞める結果となるのが、あいつらのバカなところなんですが、、、



救いようのないバカ韓国人
連日、バカバカと、韓国人を大バカ扱いですが、これは偏見ではなくて、本当にバカだから仕方がないこと。

現地の世論調査では、サッカー試合後のプラカードのアピールを70%近い韓国バカ国民が支持しているということですが、事の本質をまったく理解していないというか、まあ、五輪の趣旨を知らないというか、、、、

私が韓国民なら、どうせ竹島を占拠して警備隊を駐留させているのだから、敢えて主権をアピールするでもなく、現状維持のまま、放置しておくだけにしておきますな。
そうすれば、永遠に現状のまま。

騒げば騒ぐほど、世界中に竹島の存在を知られてしまうだけです。

とにかく、「反日」でしか国民がまとまらないというのが韓国の何とも情けない構造、、、

お前の敵は他にあるだろうが!
嗚呼、、やはり予想の斜め上の展開、、、、韓国人のバカぶり
80年代頃は、日本の一部韓国ウォッチャーにも、「反日感情消滅説」が希望的観測として確かにありました。

つまり、日本統治下を知らない韓国人が増えるに従い、徐々に韓国内での反日感情が減っていき、いずれは反日感情というものは韓国人の中から消えていくだろう、、、現実は逆ですな。

実際は、恣意的に捏造された歴史教育を子供の頃から学校で教えられたために、80年代よりも90年代、90年代よりも2000年代と、年を追うに従って、反日の度合いは強くなっていったのが率直な印象ですな。

ここに、代表的な韓国人の「常識」を少し並べてみましょう。以下は、韓国内で完全に社会的コンセンサスを得ている「事実」として韓国人の対日本感情の根幹を成すものです。

1 日本の朝鮮半島統治時代は過酷で、日帝は朝鮮半島のすべてを略奪した。
(真実:日本はあらゆる分野で朝鮮を近代化した)

2 日本が敗戦から立ち直り、高度成長できた理由は、朝鮮動乱による特需が原因である。
(真実:朝鮮動乱はきっかけにすぎない)
3 広島長崎の原爆投下は、日帝が悪逆非道なことをした罰として当然である。
(真実:米による非戦闘員の虐殺)

4 日本文化のほとんどは朝鮮半島が起源で朝鮮人が教えてやった。
(真実:大陸経由のものを独自に発展させた文化)

5 韓国の高度経済成長は韓国人の優秀性の結果である。
(真実:日本からの資金的技術的援助の占める割合が大きい)

まあ、上はほんの一例ですが、要するに、日本が繁栄しているのは朝鮮半島を踏み台にしているという、一方的被害者意識が根底にあるわけです。

今回の五輪では、サッカー日韓戦終了後、韓国チームの一選手が「独島は我が領土」と書かれたプラカードを掲げて、これが五輪憲章に違反するという問題でしたが、それに反撃して、韓国世論の一部は、日本の体操選手の服装デザインが旭日旗に似ているという難癖をつけてきましたな。

こちらで攻撃されたら、真摯に反省しないで、あちらで反撃する、、、、まさに朝鮮人的ケンカのやり方ですが、いつも「予想の斜め上」の展開に驚くばかりですわ。

注目すべき増税関連法案の中身!
私の知人の中で、マトモに20年とか30年、コツコツと勤め上げる典型的なサラリーマン人生を送っている方は少数派です。

生涯で働いた期間はせいぜい10~15年前後、残りは海外で遊んで暮らす、、、、そんな人生を送っている人々が年金受給年齢に近づくと悩ましいのが、「最低25年」の納付期間をどうクリアーするかの問題。

たいていの人が、海外渡航期間が「カラ期間」に算入できる制度を利用して、25年をクリアーしようと躍起になって計算しておりますな。

今回のいわゆる「税と年金の一体改革」法案成立で、とうとう、この最低必要納付期間が10年に短縮されるというのです。

もし、そうだとしたら、私自身もすでに現時点で、納付期間の問題はクリアーできることになり、とりあえず、老後は毎月2万円(涙)くらいの年金は貰えることになります。
また、私のような低額受給者に対しては5000円の給付もあるのだとか、、、、

どの道、今のままだと、生活保護のお世話になるか、そうでなければ、物価の安い国で暮らすしかありませんが、、、






民主党政権の悪政がここにも、、、韓国大統領が竹島上陸
しかし、五輪期間中にやるかねえ、、、、、

皮肉にも、女子バレーと男子サッカーは3位決定戦で日韓戦が控えているタイミングで。



さて、民主党外交のダメダメぶりは、領土問題が象徴的に表しておりますな。

北方領土と竹島では、閣僚が次々と上陸し、明らかに「やられっぱなし」。

弱腰と批判されつつも、水面下で工作を続けていた自民党政権との違いは明らかです。


いずれにせよ、今回の件でよくわかったのは、

「未来志向の日韓関係」な~んてウソウソ!

もういい加減に、韓国が潜在的仮想敵であるのに気がつくべきでしょうな。

hannniti
へっへっへ
「いじめた側」の体験談がほとんど語られない理由
大津のいじめ自殺事件に関連して、「私もいじめられていた」などと体験談を語る著名人などが登場しますな。

しかし、「私はいじめていた」と加害者として告白する人は、イメージ低下を恐れてか、まずいません。まあ、確かに「いじめられた」体験は生涯忘れませんが、「いじめた」体験はあまり記憶に残らないんですよね、、、

でも、よく考えてみてください。

学校でいじめの対象となりやすいタイプは、まずもって、容姿が悪く、勉強も今ひとつ、もちろん運動能力も低い、、、「魔太郎がくる」の浦見魔太郎のような救いようのないダメダメタイプですわ。

つまり、テレビに登場する著名人とか各界でそれなりにリーダーとして活躍している人々は、大半が「いじめる側」のタイプ。

今回の大津事件のように、中学校での陰湿な犯罪行為を定義として「いじめ」に含めるのはいい加減やめた方がいいでしょう。そうでないと、「いじめた側」の体験談を語る人が一人もいなくなります。

現実問題として、ちばてつやの漫画に出てきた石田国松とか上杉鉄兵みたいな、「勉強は全然ダメだが運動だけは1番」みたいな児童は、まず存在しません。

たいてい、運動能力の優れた子供は勉強もそれなりにできるのが実世界。そして、そういう将来のリーダー候補みたいな奴が、いじめっ子というパターンではないでしょうかね?

みなさんの子供時代はどうでしたか?



韓国暴力サッカーに気をつけろ!
誰もが危惧していた通り、五輪男子サッカーが韓国との3位決定戦になりましたな。

もう皆さんには説明不要と思いますが、韓国というのは日本相手となると「手段」を選びません。

ぶつかる、蹴る、殴る、、、、日本選手を潰しにかかってくるでしょう。

なんとか怪我をしないように、、、、





速水が現代に実在したとすれば、やはり巨人軍の入団テストを受けるのか?
近年の日本プロ野球人気の凋落は象徴的ですな。

みなさんは、例えば今期巨人軍の先発オーダーを言えますか?

私は監督が原辰徳である以外、主力選手の名前を一人も知りません。現在の順位もよくわかりませんな。スポーツ新聞を読んでも野球ページは全部飛ばし読みしますから、、、、

ところが、V9川上監督時代のオーダーは今でも覚えてます。小学生の頃でしたが、男の子なら誰もが長嶋・王とか柴田のモノマネして野球してましたわ。思えば、あの頃がプロ野球人気の頂点だった気がします。

そういえば、梶原一騎の代表作「巨人の星」のエピソードで、星飛雄馬が巨人軍の入団テストを受けるとき、オリンピック陸上代表候補の速水という男といっしょになる話がありましたな。

速水は「オリンピックではカネは稼げない」と、代走専門としてプロテストを受けるわけですが、現代の感覚なら、速水ほどの運動能力と実績がありながら、たかだかプロ野球で代走要員を志願するという発想は絶対にないでしょう。

価値観というのは時代とともに変わるということです。



本当に地球温暖化説は正しいのか?
俗人というのは「雰囲気」というのに非常に弱いものですな。

例えば、今年の夏、たまたま暑い日が続いた頃、「ああ、やっぱり地球温暖化のせいだ、、、」などと、安易に結論を出したがる人々の多いこと、、、、しかも、これって一応は肩書きのある学者まで同じことを言っているから始末が悪いですな。

皆さんはどうですか? 「雰囲気」に流されてませんか?

実は、「地球温暖化説」は「仮説」であって、定理ではありません。これを定量的に証明した学者は一人も出現しておりません。

したがって、「変」な気候を地球温暖化のせいにするのは、不思議な現象をすべて「霊」の仕業にするに等しい非科学的行為といえます。

なのに、マスコミでは「○○大学教授」なる人物が平気で猛暑の原因を地球温暖化のせいにしたりしますな。

実は日本に「原子力村」なる産学官の利権集団があるように、国際社会にも「地球温暖化利権」があるのをご存知でしょうか?

すでにCO2排出枠が取引される市場が欧州で確立されておりますが、もう、「地球温暖化は間違いでした。スイマセ~ン」とは絶対に言えないような利権構造が出来上がってしまっているんです。

この産学官「温暖化村」は、「仮説」を「定理」のごとき錯覚させるために、不断の努力をしているわけですな。

みなさんも、もし、「ああ、暑いなあ、、、温暖化のせいだろうなあ、、、」と、思い始めたら、まんまと彼らの術中に嵌まっているのですよ。






ロシアはオリンピックを捨てたのか?
当ブログの読者には説明不要かと思いますが、オリンピックというのはスポーツの祭典であると同時に、国威発揚の政治的チャンスでもあります。

メダルの数は、ある意味、世界各国がそれぞれの体制・経済力の中で、国家目標実現の政治的イベントとしてオリンピックをどういう位置づけに置いているかに左右されると言えますな。

数十年前を振り返ってみると、オリンピックのメダルの半数ぐらいは常に、ソ連邦とその衛星国が勝ち取っていました。要するに、当時はこれらの社会主義陣営がオリンピックを政治宣伝の場として多いに価値を認めて、軍事に次ぐ国家の優先順位としてメダルの獲得を目指した結果なわけです。

そして、かつてのソ連邦の役割を引き継いでいるのが、現在の中共になりますな。

で、ソ連の後継であるロシアと言うと、今大会では、かつての「メダル量産国」は見る影もなく、「金」が実績に比して異常に少なく、「銀」「銅」に偏重しております。
それにしても、北鮮とロシアの「金」の数がそれほど変わらないのも仰天というか、逆にいうと、北は核兵器開発の次ぐらいでメダル獲得に優先順位を置いているのでしょう。


言い換えれば、ロシアはもはやオリンピックで国威発揚することに価値を見出さなくなったとも見ることができるわけですな。

まあ、時代は変わりました。
五輪終了後に何かが起こる??
欧州でまたスペイン公債への仕掛けが起きるのではないか?

との、まことしやかな説が流れておりますな。

また円高が加速するのか?

シャープの凄まじい決算が明らかになっていますが、同様の状況に陥っている上場企業は数百社に上っているという観測もあります。


こうなると、「日本国債破綻論者」の皆さんの言うように、日本売りが始まらないと、円安になってくれませんなあ、、、(棒読み)

とにかく、何でもいいから、最低でも1ドル100円くらいまで戻らないと、大変なことになりそうですわ。



金メダル3個! 恐るべし北朝鮮
オリンピックが佳境に入っておりますが、何だかんだ言いながら中共と韓国は頑張っておりますな(棒読み)、、、

バドミントンでは「無気力試合」で揃って失格など、計らずも、両国の「アマチュアスポーツ」に対する姿勢が白日の下に晒されておりますが、言うまでも無く、彼らにとっては、「スポーツマンシップ」とか「オリンピック精神」などどうでもいいことで、ひたすら「勝つためには手段を選ばず」であります。

実際、それで成果が出ているんですから、、、
でも、商売でもスポーツでも政治でも、連中はやり方が同じなので、分かり易いと言えば分かり易い国ですな。

そういえば、フェンシングで判定を不服として、会場に居座って進行を遅らせた韓国人がいましたが、(この判定そのものもおかしいのは事実ですが)こういう、人の迷惑を顧みない「抗議」の仕方など、極めて朝鮮人流。
私などは、秀吉の朝鮮出兵を21世紀の現代でも根に持つ韓国人とダブって見えてしまいます。

しかし、北鮮の金3個は凄いというか、国民を飢えさせてでも核兵器を開発する国柄そのもの。

日本は例の民主党「事業仕分け」で、体育振興予算を大幅に削られている中でのオリンピックで、中共や韓国の5分の1以下の予算で頑張っているそうです。

コストパフォーマンス的には世界トップクラスなのは間違いないでしょう。






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