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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
情勢判断できない間抜け企業
報道によると、イオングループは中共での出店計画に関して「何ら変更はない」として、予定通り、近々、3店舗のオープンをする、、、、、

チンタオでのジャスコが略奪破壊されたにもかかわらず、あくまで中共の市場にこだわるようですな。

もうね、バカもここまでくると大したもんですな。

まあ、チャイナウォッチャーの誰もが感じているように、日中関係は今年の夏に、大きい岐路に転じました。

これは、「早いか、遅いか」の違いはあれど、日中国交回復以来の宿命ともいえますな。

私は、今回のタイミングが日本にとっては最後のチャンスだったと思います。

なぜなら、中共は海軍力増強に躍起となっており、日中の本格対決があと10年遅ければ、空母3隻態勢が完成して、対潜水艦能力もかなり向上しているはず。

日本が軍事的に優位な現状のまま、今般の情勢に持ち込めたことは偶然とは言え、天佑でありましたな。

いずれにせよ、賢明なる経営者であれば、すべての出店計画はペンディング以外ありません。

日中関係に動きがあるのは、早くて両国の新政権が確立する来年以降は間違いないでしょう。

まあ、少なくともあと2年は様子を見るべき。

一番いいのは、やはり「10億の市場」幻想を捨てることでしょうが、、、




中共が国連本部で日本非難
「盗人猛々しい」とは、まさにこのこと。

しかし、ドロボウ本人が開き直って、相手をドロボウ呼ばわりするのが、シナ人の個人から国家まですべてに当てはまる特性であることが、証明された瞬間でありますな。


今日は、私の悲願だった、「シナ人の正体」が日本人に完全に知られることになった記念日となりそうです。


いやあ、偽りの「パンダ外交」から、40年。

やっとこの日が来ました!

さっそくスタートした、いびつな安倍バッシング
昨日の安倍総裁の昼食が3500円のカツカレーランチ、、、、

そんな一部報道があったようですが、超豪華な鳩山・菅の食生活には触れなかったマスコミが、ここにきてまたぞろ、「庶民的ではないイ~!!!」と露骨な印象操作が始まったようですな。


天敵・朝日新聞の今朝の社説も完全対決モード。


いよいよ戦いが始まったという感じです。
(速報)日本の夜明けは近い! 安倍新総裁誕生!
今後、マスコミが揃って異常なほどの「安倍叩き」に出てくることが予想されます。

我々保守派は今度こそ、安倍さんを守っていかなければならないでしょう。

土地バブル崩壊・高度成長終結後の中共はどうなるか?
さすがに最近は日経新聞でさえも、かつてのような「中国イケイケドンドン」記事を載せることはなくなりましたが、まだまだ気を遣ってか、すでに中共の発表する公的統計からも確認できる「不動産バブル崩壊」と「高度成長期終了」に関しては、腫れ物を扱うような書き方、、、というか、そのものズバリの表現を使うことはありませんな。

中共公式機関でさえ、年7.5%成長達成が難しいとしているわけで、エコノミストによっては今年度は実態マイナス成長なのでは?、、という指摘もあるほど。

中共にとって、高度成長期終了が何を意味するかを考えてみましょう。

少し以前は、中共の経済発展を日本の戦後になぞって、その発展段階を説明しようとするエコノミストが結構多かったように思いますな。

要するに、「今の中国は、日本の昭和30年代に相当する」とか、「日本での東京五輪と大阪万博の時代と同段階なのが、北京五輪と上海万博の中国だ、、」とかいうやつ。
中共で公害が問題になると、「日本でもかつては同じ問題を経験してきた、、、」などと、日本の戦後史に無理やり相似形を求める論法です。

これって、すべてのファクターを考慮したわけではなく、ある意味、学問的にはデタラメな比較論なんですが、一般の無学な日本人大衆に対しては、結構、説得力があったのではないでしょうかね?


さて、そこで、同じように高度経済成長期が終焉した時点での日本と中共を、所得水準というファクターで比較してみましょう。

日本は高度成長後、著しい中間層の台頭を実現しました。いわゆる「一億総中流化」というやつ。

比べて、中共の中間層は、学者によって分析は様々ですが、「2000万人から5000万人」の中に落ち着きます。
つまり、総人口の約2~5%あたりが中間層。

今後は、残りの95%以上の貧困層(ほとんどが農民)の所得向上は見込めないことになり、「10数億」の民が自家用車を持つ状況は絶対に起こり得ません。

例えば、自動車産業でいうと、大陸においては、中間層である5000万人のみが市場としてのターゲットとして有効なのであり、ある意味、韓国の市場規模と何ら変わらなくなるんですな。

もちろん、商品によっても違いますが「10億の市場を狙え~」などと煽っていた日本マスコミの愚かさがわかるというもの。まあ、一流企業なら、それなりのマーケティング調査は行っているでしょうが、中小企業のワンマン社長あたりなら、勘違いして「10億の市場だあ~」と進出してしまいそう。

そして、中共の凄いのは、少子高齢化社会がほぼ日本と同時期に到来するということ。

いったいどうなることやら?










またもや反中デモを報じぬマスコミ
今、日本人の大多数は「中共にやられっぱなし」というストレスに襲われているんではないでしょうか。

プロレスであれば、悪役が散々暴れたあとは、それなりのカタルシスを得る演出があるんですがな、、、何とも、シン上田にやられっぱなしのまま、フォール負けした猪木のような、、、、

つまり、テレビも新聞も「冷静に、、、冷静に、、、」といつもの弱腰主張ばかり。一部週刊誌とスポーツ紙あたりが、国民の溜飲を下げるような記事を書いてくれてますが、、、、

「これだけやられて、日本人は反中デモをしないのか?」
テレビしか見ない人々は単純にそう思っているでしょうが、どっこい、ちゃんと大規模反中デモが先週末にありました。
情けないかな、国内のメジャーな報道機関は黙殺。

むしろ、外国メディアがしっかりと報じております。

当然ながら、日本は言論の自由がある国ですから、「中国と国交を断絶すべし」という意見もあって当然ですが、そういうのは排除されますな。

中共の反日デモにしても、あのシナの愚民どもが掲げていた横断幕の中には「日本人を皆殺しにせよ」とか「殺せ!殺せ!殺せ!」とか、「隣にいる日本人を殺せ!」とか我々の感覚からすると凄いフレーズばかり並んでいたのがテレビ映像からも確認できましたが、そういう横断幕の内容は不思議と紹介されませんでしたな。

そうまでして気を使う必要あるの?

まあ、破壊略奪の映像だけで十分、シナ人の性格は日本人に伝わってますが、、、




次第に明らかになってきた中共反日デモの実相
日本の大手マスコミも昨日あたりから、例の反日デモが官製であることを報じておりますな。

私もよく閲覧する良サイトに、現地からの情報が掲載されていましたので、参考までに。

以下リンク先URL

http://blog.goo.ne.jp/dongyingwenren
海兵隊創設の環境は整ったぞ!
永らく自衛隊は「対ソ北方重視」の編成でやってきましたが、実は現在も基本的には何ら変わっておりませんな。

基本をおさらいすると、日本の防衛戦略は「防衛計画の大綱」にすべて示され、根幹となる部隊の規模や人員なども明記されます。

対中共や対北鮮を念頭に置いた「島嶼防衛」に関する記述もありますが、現状は陸上自衛隊の西部方面隊が主体となって、それが空海の部隊と統合するようなイメージで運用されておりますな。

強襲上陸用の水陸両用戦闘車両も配備されるらしいですが、これを期に、そろそろ本格的な海兵隊の創設を開始するべきでしょう。

米国並みに海兵師団とするならば、陸海空の各自衛隊と別個の組織で、1個大隊基幹なら海上自衛隊の中にぶら下げて、佐世保に司令部を置けばよろしい。

いずれにせよ、すでに仮想的として一般国民にも認知されている対中共対処の一環として早急に検討すべきですな。



人権救済法案が閣議決定!
民主党・売国野田政権がやってくれました。

最近は閣議決定のタイミングを見計らっていたようで、尖閣で日中が衝突しているドサクサに紛れて隠れるように閣議決定してしまいましたな。

この法案を強力に推進してきたのが、権益拡大を目指す法務省と、部落解放同盟。

この法案、名前だけは立派に聞こえますが、「人権委員会」を新たに創設して、公正取引委員会と同様、強制的に証拠物の押収ができるという、強力な警察権を持たせるのが主眼。

どこが問題点かというと、例えば、

私がこのブログで、


「朝鮮人は全員、日本から追い出すべき」


と主張するとします。


そして、当ブログを偶然に閲覧した在日朝鮮人が、「俺を誹謗中傷しているう!! 人権侵害だあ!!」と、人権委員会に申し立てをしたとしますな。

正式にこの申し立てが受理された場合、人権委員会はプロバイダやFC2ブログに命じて、当ブログや私個人に関する情報を提出する義務が生じることになり、証拠として、私個人が所有するPCも押収されることになります。

恐ろしいことに、これを決定する人権委員がどんな思想信条・経歴身分の人間か規定がなく、法案では外国籍の私人が委員になることが可能なため、強力な権限が恣意的に発動される可能性大。

とにかく、法案自体が未完成で、条文に細かい規定がなく、欠陥法案と言えるでしょう。

結果として、この人権救済法自体が強力な人権侵害のツールとなりうるという、根本的矛盾を孕んでいるわけですな。

大手マスコミが特に反対していないのは、すでにマスメディアには適用しないという条項が盛り込まれているからで、ある意味、ネット上などでの言論封殺はマスメディアにとって歓迎すべきことなのかも知れません。

現状は、この法案が国会で採決される時期は不明ですが、隙を突いて必ず成立を目指してくるはず。

今後の動きに注目でしょう。






外務省は露中韓との情報戦に遅れるな!
災い転じて福と成す、、、、、

民主党政権の外交力欠如に付け込まれ、領土問題で大きな後退を見せた3年間でしたが、日本人が「本当の」韓国人・シナ人を知ったという点では意義はあります。

今回の中共官製反日デモですが、日本マスコミのほとんどは「冷静に対応、冷静に対応、、、、」と念仏のように繰り返しておりますな。政権が相応の批判を国際社会に向けて発信していないために、実は、欧米のメディアでは中共寄りの論調で報道されているのをご存知でしょうか?

まず、実態としては「従前からの日本の領土である尖閣に対して、勝手に領有権を主張している中共」というのが日本人の認識ですが、欧米マスコミの表現は「日本と中共の双方が領有権を主張している尖閣」という認識で、この時点で「領土問題は存在せず」という日本の主張が正確に伝わってません。

もう、宣伝戦では中共に凄い遅れを取っております。

これは、対韓国における「慰安婦」「竹島」についても同様。

現状、外務省の片手間の仕事として情報発信業務をするには敵が強大すぎますな。

日本は、存在意義のない「観光庁」を即時廃止して、その人員を「国際広報庁」創設の職員に当てるべきでしょう。

日中新時代に突入!
中共の反日デモ、どうやらピークは超えた模様ですな。

今回、次期国家主席確実とみられる習近平の動向が一時わからなくなっていたことから憶測を呼びました。
チャイナウォッチャーは「権力闘争の始まりか?」などと、ニタニタしながら推移を見守っていたでしょうな、、、

当ブログの読者には説明不要かも知れませんが、中共では権力者同士が争う場合、直接的に非難合戦とかは絶対にしません。
政敵を攻撃する際は、対象者にわかるように皮肉たっぷりに第三者を批判すると見せかけるとか、あるいは、シナ独特の盲目的な愚民を操って、ある種の大衆運動を煽動するとか、その権謀術数は日本人には見えにくいところ。

チャイナウォッチャーの間では、今回の反日デモは「団派」or「上海閥」、どちらが主導しているのかで意見が分かれておりました。

今朝の産経新聞では、かなり断定的に「習近平主導」との記事が載っておりましたが、この種の分析をしているのは全国紙の中ではここだけ(もっとも、少し前に「江沢民死亡説」というガセを飛ばしておりましたが、、、)。

私としては、今回の反日デモが、ある種の「反日紅衛兵」運動に拡大して、大陸全土を巻き込む大暴乱となり、再び文革の悪夢が再来すればいいなあ、、、、と夢想していたんですがな。
もし、産経の記事が事実とすると、習近平率いる次期体制では、対日強硬路線が常態化するのは間違いありません。

まあ、さすがに今回は日本国民もシナ人の凶暴な民族性を見せつけられて、私としては願ったり叶ったりというところ。

「パンダ」で40年間、日本人を騙し続けてきた親中勢力のプロパガンダが崩れ去った瞬間ですな。











石原伸晃が予想以上に××だった件、、、、
いやはや、先入観とは恐ろしいもので自民党総裁選挙が始まるまでは、石原のぶてるという人物に対しては、「優等生的な、そつのない保守リベラル」程度の認識しかなかったんですが、テレビ討論における数々の失言連発で、相当の「バカ」、加えて、外交防衛政策には素人(そこらのオッサン程度)であることが新たに露呈してしまいましたな。

特に、福島第一「サティアン」発言で、私は確信してしまいました、、、、

本人もよく理解しているはずなのですが、テレビ出演の影響は総裁選挙の有権者である自民党員党友に対してあるのに、彼の主張は保守本流路線から外れる内容が多く、思った通り、時間が経つにしたがって人気はどんどん落ちているようですな。

人間、やはり良く見ないとわからないもんですわ。
性懲りもなく、民主党がまたポピュリズム政策をぶち上げやがった、、、
皆さんは原発に賛成ですか?反対ですか?

私は以下の条件を100%満たすならば原発に反対の立場。

1 国際政治経済状況に左右されない、自給自足に近い電力の安定供給が達成される。
2 長期短期の発電コストが現状と同等かそれ以下に抑えられること。

まあ、将来を見通しても、物理的に不可能ですから、原発を現状の総電力の30%をまかなう程度で維持していくのが現実的でしょうな。

ところが、少し思慮のある人が考えれば5分で結論がでることを、考えようとしないで、2030年までに原発全廃を目指すと言う政策が採用されました。

要するに、例の民主党マニフェストで国民を騙した手法を繰り返しただけですが、(確かに、民主党に政権担当能力がないのはわかってますが)それにしても選挙前にトンデモない机上の空論を、しかも、閣議決定までして詐欺のようなことをするか?

いっておきますが、環境庁は鳩山のCO2削減目標をまだ正式に取り下げていません。

論理的にも、恐ろしいほど矛盾する政策であり、こういうことを平然とやれるというのも民主党というのはある意味凄いですな。
次は日本国内でのデモだ! それにつけてもシナ人の民度の低さよのお、、、、、
中共では、毎夜毎夜、どこかのチャンネルで「抗日ドラマ」が延々と放送されて、すでに人民に対する反日マインドコントロールは完了。

スイッチを入れれば、いつでも反日デモなど起こせる状態にあるわけです。

問題は、東京に住む100万以上のシナ人。

特に、留学生は共産党指揮下の在日団体を通じて簡単に操作可能な状態にあります。

北京オリンピックの聖火リレーでは、長野県に数百人のシナ人留学生が動員され、大判の五星紅旗を振りかざす集団と化したのは記憶に新しいでしょう。

要は、中共の指令で、いつ何時でも簡単にデモを起こせる状態にあるということ。

しばらくは目が離せませんな。







世界ケンカ旅行(アジア編)最終回
「インドの地獄、ネパールの天国」と言うらしい。

これは、旅行者によって、口々に語り継がれてきた言葉であるが、それは本当なのか?
私は身を持って「インドの地獄」の何たるかを理解したつもりだったが、では、ネパールは如何にして「天国」なのか?

ヒマラヤ山脈を左手に眺めながら、私の乗ったインディアン機は山岳地帯の狭いエリアに作られたカトマンズの国際空港に着陸した。

機体のドアが開き、タラップに一歩踏み出ると、日差しは強いが湿度が低く、爽やかさを感じる。
気候だけでも「天国」に足る条件は満たしているようである。
標高1000メートルを超えるだけあって、空港からは周囲の山々が眺望でき、極めて牧歌的雰囲気。
空港ターミナルは小さいが近代的で、先進国に遜色ない。

空港から中心部までは、地図で見るとわずか4キロ程度なので、私は歩くことにした。

裏路地のような道を西にむかって進む。
日本でいう春の陽気の中、まるで田舎をピクニックでもしている気分である。
しばらくすると大通りに出て、遠くに王宮が見える。
思ったよりも小さい。
カトマンズは一国の首都とは思えないほどコンパクトで、日本で言うと、地方の田舎町ぐらいの規模に見える。

大通りに面して、日本レストランがあるのを発見した。
ホテルにチェックインしたら、夜は久々の日本食に決まりである。

さらに、進んで、私は目的地であるタメル地区に辿り着いた。
ここは旅行者の集まるエリアで、安ホテルやレストランが密集している地区である。
タメル地区には2ドルくらいのゲストハウスもあるが、私としてはしばらく中級ホテルに逗留するつもりであった。

細い裏路地を歩きながら適当そうなホテルに入ってみた。
内装が新しく、数ヶ月前にオープンしたばかりらしい。

一晩幾らかと訪ねると、バス付きのダブルベッドルームがたったの6ドルだと言う。
レセプションに案内されて部屋を確認すると驚いた。
15畳ほどのもったいないくらい広い部屋に大きなダブルベッドが置かれている。
テレビや冷蔵庫はなかったが、調度品は新品で、内装も真新しい。
バスルームもゆったりしていて、メンテナンスもしっかりしている。
バンコクのジュライホテルと大して変わらない値段で、こんな部屋に泊まれるとはカトマンズの物価はよほど安いに違いない。
私はとりあえず1泊分だけ支払って、荷を解いた。
結局、あまりにも居心地が良すぎて、このホテルには合計3週間近くお世話になることになる。


夕方、さっそく「古都」という日本レストランに行った。

店内には少し古いが日本の新聞や雑誌もある。
そして、80年代の歌謡曲がBGMとして流れていた。

メニューの中から、カツ丼を注文した。
値段は3ドルくらいで日本の半値くらいである。

さて、注文していたカツ丼が運ばれてきた。
卵とじの絡まったカツをほお張る。
そこには紛れも無い、日本の味があった。

すると、何故かわからないが、目に涙が溢れてきた。

私はその時、昔読んだ戦記の一部を思い出した。

それは大東亜戦争が終結し、南方から復員する兵隊の回想である。

その兵隊は復員船の中で「握り飯と味噌汁」を見るやいなや、とめどなく涙が流れてきたのだと言う。
するとその兵隊だけでなく、周辺の戦友たちから、鼻をすする音が聞こえ、それは嗚咽に変わり、やがて、数十人の男たちが号泣するに至るという話であった。


それから数日で、私の腹の調子はすっかり元に戻ってしまった。

欧米式の朝食、パスタ、ピザ、ステーキ、日本食、、、、このカトマンズには何でもあった。
しかも安い。
フランス人やドイツ人が経営するレストランもあり、値段もリーズナブル。
もう、食べることに関しては申し分ないと言えるだろう。
ここに来て、1日5食。インドで5~6キロは痩せたはずだが、すぐに戻りそうである。
運動のためにカトマンズ中をグルグルと歩き回るが、日本でいう春の陽気は、最高の気分である。

カトマンズの観光エリアは、インドのような「押し売り」は皆無で、適当に外人と距離を取ってくれる。
人が全然違うのだ。
リラックスしすぎて、歩いていても「夢うつつ」状態が続き、良くも悪くも緊張感が弛緩していた。

「インド人」地獄から解放され、ようやく日本食が「日常」となり、当初の感動も過去の記憶となった頃、時間を持て余すのも惜しいとばかり、重い腰を上げることに。
私はカトマンズの西にあるポカラへのバスに乗り、ネパールの田舎を歩いてみることにした。

バスの車窓から見える山岳地帯は雲ひとつない青い空に映えて限りなく美しい。

私は、今回の旅行の締めくくりとしてネパールを選んで正解だったと心から思った。

(未完)

次回東欧中東編では、エルアラメインの古戦場に向かって電撃戦を敢行! 乞うご期待!(再開時期未定)

世界ケンカ旅行(アジア編)29
予定通り、ネパールのビザを取得、続いて、インディアンエアラインのカトマンズ行き片道航空券の購入が完了した。

出発は1週間後で、その間にジャイプルとアグラを周遊するのである。

インドに来て「風の宮殿」と「タージマハル廟」を見るのは、言ってみれば、普通の観光旅行者にとっては「インドに来る」のと同義語と言える。
私を動かしていたのはそういった名所に対する純粋な興味ではなく、義務感でしかなかった。
なにせ、もう、この国を再度訪れることは絶対にないだろうという確信があったからである。

両都市はインドを代表する観光地だけに、物売りやガイド(という名の詐欺師)など、煩わしいクソインド人の数は今までのどの都市よりも多いだろう。

私は気合を入れなおして、観光都市周遊に出発した。


さて、ここでは、インドで最も有名な観光地の旅行記を記すべきなのであろうが、不愉快なインド人の話しかないのが辛いところである。
したがって、同じようなエピソードの繰り返しになるということで、以後は省略することを容赦願いたい。

この国で「ちょっといい話」とか、そんなものはない。

長期滞在するとか、仕事で駐在するとかしないと、インド人の「いい話」はないのだろうと思う。

観光で来るとすれば、寄ってくるインド人は99%、あなたのカネ目当てであることを保障する。

私はデリーの空港から飛び立つとき、
「こんな国、2度と来るか!」
と下痢が止まない下腹を擦りながら、インディアン機の窓際で叫んでいた自分を今でもはっきりと記憶している。

次はネパールだ。

世界ケンカ旅行(アジア編)28
長老は自分のインド旅行歴を話し始めた。

彼の自信に満ち溢れた態度から、かなりのインド通であると踏んでいたが、4~5回は来ているようである。
しかも、南インドの方まで歩いているというから、驚きである。

長老の饒舌な旅行談義を聞いてると、私を誘った理由が判ってきた。
彼は、私を一目見て身なりがインドズレしていない初心者であると看破し、メシに誘って自慢話をしたかったようだ。

ただ、黙って長老の話をフンフン聞く2人の学生風と違って、私が相当のアマノジャクであることまでは見抜けなかったに違いない。

基本的にインドへ「ガンジャ抜き」で複数回も来るというのは相当の変人であろう。

長老はインドのエキゾチックで多様な文化様式や精神世界に魅せられているらしく、ヨガアシュラムでの瞑想体験を話す。
どちらかというと、社会科学的切り口で物事を見ようとする私の立場とは相反するようだ。

「いやあ、アシュラムでの体験は素晴らしかったよ。日本社会の矛盾というかな、病理から解脱できたような気がするなあ、、、」
長老はしみじみと回想する。

この人は現役時代、人間関係とかでかなり苦労したのだろう。
「別世界」であるインドで日本に置いてきた煩わしさから解放されたのは私も同様であるが、どう頑張ってもインドカレーは絶対に日本人の胃には合わない。

長老のインド体験談が一区切りしたころを見計らって、私が意見を投じた。

「この国は核兵器や自動車も作れる工業国でありながら、街角に転がる死体や乞食も放置しています。国民の生活向上を第一に掲げる近代福祉国家というよりは、厳格な身分制度を社会の根幹と位置づけて、ピラミッド上層の一握りが国家を牛耳ることを良しとする、典型的な愚民政策の国ですね。こんな国の下層階級に生まれなくてよかったですよ」
私はインドのエキゾチックな精神世界に偏りすぎた話題を現実に戻そうとした。

「君、もしもだな、君が最初からこの国で乞食に生まれて、乞食として死んでいく運命しか知らず、絶対に階級を超えることができない、、、そう考えたとき、乞食であることに悲観して自殺するだろうか?」
長老は言った。

彼の言わんとすることは私自身の考えと一致するところである。
何が「幸福」かは相対的な事象である。
「日本のサラリーマン」と「インドの乞食」、どちらが幸福なのかは客観的には計れない、と言いたいのだろう。

こういう「命題」は、理性ある日本人ならば誰もがインドで考えるところだが、「インド好き」はインド社会を無理をしてでも理解しようとする性向があるらしい。
そうでないと、インドのカーストを前提とした精神世界に憧れる自己と矛盾してしまうからである。

「インドの乞食がマトモな教育を受けて、階級社会の矛盾を知ったら自殺ではなく、反乱を起こすでしょうね。だから、支配階層は文字も書けない愚民のままでしておきたいのですよ。あ、断っておきますが私は共産主義者ではありませんので、、、」
私は皇室以下の平民が皆平等という日本の現行「階級制度」を理想像とするが、インドのカースト制を批判すると、共産主義者と間違われてしまいそうなので、一言、付言しておいた。

長老は言った。

「インドというのはな、世界の縮図なんだよ。インド自体がひとつの世界ということだ。この地球は欧米が支配階層で、近代に入って、日本がようやくその一角に入り込んでいるのが現状だよな? ある意味、アフリカとかの途上国はそんな日本を含めた支配階層の搾取を受けている下層階級とも言えるわけだ。インドというのは、そんな世界の支配構造が一国の中に全部存在するんだよ」

「つまり、この国の乞食は、「アフリカ」みたいなものだと?」

「そういうことだ。そこがインドの奥深いところさ」

「なるほど」

私は納得したような、しないような、煙に巻かれたような気分であった。
いずれにせよ、富も貧困も矛盾も快楽も凝縮している摩訶不思議がインドの魅力なのだろう。


長老は本音の部分も語り始めた。

「しかし、君イ、貧困問題というのは奥深いとは思わんか?」

私は答えた。

「インドを見ているとよくわかりますね。この国では、ある一定の貧困階層は社会の要請として存在しているわけです。言い換えると、貧困層を必要としている社会構造ですからね」

「そうだ。国の指導者層も貧困はなくなっては困るというのが本音だろうね」

「多分、地球上の途上国と呼ばれている国の大部分は、タテマエでは国民が等しく豊かになるのが理想としながら、本音では一部の支配層だけが豊かになればいいと思っているはずですよ」

「そんな国に援助したって意味はないよな。自分たちにやる気がまったくないのに、お節介というものだ」

我々は変なところで意気投合したものだ。
世界ケンカ旅行(アジア編)27
私はバラナシで数日を過ごした後、インドの最終目的地であるデリーに夜行列車で到着した。
このデリーを基点にジャイプルとアグラを回って今回のインド旅行は完結する予定である。

ただ、もう私としてはカルカッタとバラナシでインドの「クソぶり」はお腹一杯という気分で、できれば明日にでもカトマンズに飛びたい心境であった。

例の南京虫は刺されてから10日以上経つのに腫れは完全に引いていない。
しかし、見た目を除けば生活にまったく差し支えはなかった。
下痢の方は一旦は治まりつつあったが、バラナシで出会った日本人と無理を承知でカレーを食べたため、案の定、再発してしまい、調子の悪い状態に戻ってしまった。

さて、ニューデリー駅も人で溢れていたが、やはり首都の中央駅ということでことさら大きく、ブリティッシュコロニアル風の建物は威厳もカルカッタ中央駅の比ではない。

駅から出て、ホテル探しでも始めようかという時に、駅の敷地に乞食の死体が放置されているのを見つけた。

死体はバラナシでも見てきたからどうということはないが、一国の首都にある最大級の公共施設に死体を放置したままというのがインド流であろう。
マトモな国ならば、誰かが通報して即刻収容するのだろうが、ここでは良くも悪くも「死体」というものに国民が慣れていて感覚が麻痺しているのである。

事実、通りがかりの人々は乞食の亡骸には気にも留めず、「よくある光景」とばかりに黙々と歩いている。
もちろん、通行人の中にはサラリーマン風の男もいれば、化粧をした婦人もいるのである。

この平然とした感覚は先進国の人間には到底理解不可能であろう。
ただ、駅に転がる死体を見ている自分自身が「平気」でいられるのだから、ある意味、私の感覚も「インド化」しているとも言える。


私はコンノートプレイスの近くにあるホテルにチェックインした。
それなりの設備を整えたホテルに慣れてしまうと、もうこの国では安ホテルやドミには泊まれない。

下痢の治まりを待つ間に、ネパールビザの取得とカトマンズまでの航空券の購入を済ませておくのがここでの仕事であった。
幸い、デリーではカレー以外のマトモな選択肢が多いので助かるが、メシの不味い英国の影響があってか、ハンバーガー屋のファーストフードも豚の餌レベルであった。


その日の夕方、旧市街を散策していると、日本人男性の一団とすれ違った。

60歳ぐらいの老人と学生風が2人の、年齢的には不釣合いなグループであったが、大方、同じ日本人宿でいっしょになったのだろう。

私自身も体調が良ければ日本人宿で同胞と意気投合したいが、インドの日本人宿というのは、まずもって汚く、その環境に比して格安というわけでもないらしい。
おおよそ日本人が集まるという利点以外はあまりない。
また、バラナシの青年が指摘したように、ガンジャ目的で長期逗留、と言うか、「沈没」している輩も多いので、価値観が違う日本人と同室してしまう可能性も大きい。
私にとってインドは災難続きで1日も早く「脱出」したい国だが、一部の旅行者にとっては心地良く時間が潰せる場所なのだ。

一団とは目が合ったので、私の方から軽く会釈した。

「これからメシ食いに行くんですが、いっしょにどうですか?」

一団の長老が私を誘ってくれた。

私としては、腹の具合もあってお断りしたかったが、彼らの体験談を聞くのも楽しそうである。

結局、私も便乗して夕食に同席させてもらうことにした。

しばらく歩く間に、私はカルカッタ以後の旅程を披露した。
しかし、メシに誘われていることもあり、下痢の事は伏せておいた。

「美味くて安いカレー屋があるんですよ」

長老はそう言うと、雑貨屋の2階にある店舗にみんなを促した。

確かに見た目は高級店風で衛生的には若干はマシのようである。

これで安いのなら文句はない。
ただし、「美味い」というのはインドカレーは大同小異なので期待薄ではあった。

ウエーターに促された4人は、白い綺麗なクロスのかかったテーブルに座った。

長老が主導権を握って、どんどん注文していく。

多種多様なカレーと、ナンが山と積まれた皿、付け合せがテーブルに盛られて宴は始まった。
世界ケンカ旅行(アジア編)26
私の乗った列車は定刻より15分遅れて出発した。
怠慢なインドのことだから、始発で数時間遅れても仕方ないと思っていたが、案外とマトモである。

4人コンパートメントは私の他にビジネスマン風のオッサン、そして老婆と中年女性の親子らしい2人連れである。
エアコンが効きすぎて下痢の身には少々きついが乗り心地はいい。

駅を出て数分後、中年女性が私に手作りクッキー(のようなもの)を勧めてきた。

笑顔で食べろ食べろと言う。
これには苦笑せざるを得ない。

なるほど、そのクッキーに睡眠薬が入っている可能性は低いとは思うが、オッサンを差し置いて私にだけ勧めるのはなぜか?
百歩譲って、私が外人であるから特に興味を示したとしても、普通は自己紹介を先にするのが順序というものである。
まるで、「オリエント急行殺人事件」ではないが、乗客が全員、悪人に見えてくるのが不思議だ。

私は正直に腹の具合が悪いからと断った。
(さて、私があまりに警戒しすぎと思われるかも知れないが、実際、こういう振る舞いでチャイや菓子類をご馳走になり、気がついたら丸裸で放り出されていた、、、などという事件もあるそうだからインド初心者としては「すべて断る」のが無難であろう)


翌日、予定よりかなり遅れて昼過ぎ頃にバラナシに到着した。

駅の外に出ると、列車を待っていたのか、さっそく現地人の男が数人ほど声を掛けてきたが、相手にせず無視である。

バックパックを置いて「地球の歩き方」を見ていると、後ろから別の男が声を掛けてきた。

「すいません、日本の方ですか?」

振り返ると、学生風の日本人男性が立っていた。彼もバックパックを背負っていたから、私と同じ貧乏旅行者なのはすぐにわかった。
もっとも、私自身はインドでそれなりにカネを使っているが、、、

日本語のガイドブックを読んでいた私に対して「日本の方ですか?」は愛嬌だが、まあ、こういう場合の決まり文句である。

「ええ。」
私は答えた。

「昨日、カルカッタ駅で見かけましたよ。同じ列車に乗ってきたようですね」
青年は言った。

「ここで立ち話もなんですから、メシでもいっしょにどうですか?」
私から彼を誘った。

思い返すと、90年前後辺りまでは、海外で日本人同士が出会うと、行きずりではあるが、それなりに意気投合したものである。

私は半ば反射的にメシに誘ってしまったが、よく考えてみると、インドでメシに行くことは、ほとんどカレーを食いに行くのと同義語である。

私は腹をさすり、具合を確かめた上で、青年と食堂に入った。


駅最寄のカレー屋で、歓談の時間が続く。

青年は学生ではなかった。
年齢は私より若干年下、私と同様、仕事を数年経験したのちに、アジア方面主体で旅をしているのだという。

インドを貧乏旅行する日本人の大半は大体こんなもんだ。

私はここぞとばかり、南京虫の話をして鬱憤を晴らした。
青年は数日前にカルカッタに到着したそうで、インド人にガンジャを高く売りつけられそうになったという話を披露してくれた。
旅行していて当事国の批判で話が盛り上がるのはアジアでは中共とインドぐらいだろう。

彼は日本人宿に泊まるというので、晩メシもいっしょに食べる約束をしてその場は青年と別れた。


バラナシはヒンズー教の聖地として、多くの巡礼者が訪れる。
街の中心部はガンジス川の西岸に広がり、幾つかの大通りが交差する他は、小路が入り乱れており、うっかりすると迷子になりかねない。
ガンジス川沿いには数百メートル毎に「ガート」と呼ばれる火葬場があり、ガンジス川に流される亡骸を近くで見ることができる。

また、この聖なる場所でガンジス川に漬かると現世の罪を洗い流すことができるとされ、人畜の糞尿、生活排水も混じっているであろう、汚い川の中に入る巡礼者もたくさんいる。

まあ、特定の宗教で信者が何をしようが批判はするまいが、事後、ちゃんと薬用石鹸で体を洗っているのだろうか?

私は駅近くの中級ホテルにチェックインして街をブラブラしていた。
カルカッタよりは田舎であるが、インドの混沌を絵に描いたような街で、人々で溢れ、すべてがエネルギッシュである。

日本人青年と夕食を待ち合わせたのはいいが、調子に乗って久々にカレーを食したところ、また腹の具合がおかしくなってきた。
体の調子が悪いときは、インドの混沌さが不愉快にしか感じられなくなるものである。
観光地としても有名なこの地であるから、物売りやガイドが声を掛けてくるがこいつらも不愉快そのものであった。

私はその日のうちにデリー行きのチケットを買って、バラナシでの数日間は引き続き病気の静養に専念することにした。


私は夕方、駅頭で日本人青年と再会した。

さすがに夕食は中華料理ということで合意し、レストランに到着後、チャーハンと数品を注文した(チャーハン以外は不味くて食えないが、、、)。

彼は昼間私と別れた後、日本人宿のドミトリーに入ったが、さっそく文句をぶちまけた。

「昼真っからガンジャをやってる連中がいて、雰囲気が悪いですね」
青年は言った。

インドでは大麻系の草はどこにでも売っていた。
私自身、タバコを吸わないので生涯でガンジャを喫煙したことは一度もないが、カルカッタでもバラナシでも、かならず売人に声を掛けられるし、読んだ旅行記によると、売店もあるらしい。

ガンジャ自体は、歴史的に宗教上の作法と深く関わっているせいか、当局もタテマエはともかく、実態としては野放し状態である。

以前に書いた「カースト制」といい、「ガンジャの流通」といい、実態として前近代から何ら変わっていないインドが、核兵器保有の大国として世界に認知されている現状が何とも摩訶不思議だ。

「君はタバコを吸うのか?」
私は青年に訊いた。

「いや、吸わないんで余計にキツイと言うか、、、明日はホテルを替えます」

青年は私と似たようなタイプで、無為に「沈没する」タイプではなさそうだ。

この国は物価が安い上に、簡単に神秘体験できるから、「その道」に入り込んでしまうと抜け出せなくなるらしい。
インドの日本人宿にはそんな連中が集まるのである。
こればかりは相性で、青年のようなタイプは長居できないのだろう。
その日、青年と別れてから、再度、バラナシで彼を見かけることはなかった。

私は特に何もすることなく、数日でバラナシを離れた。
世界ケンカ旅行(アジア編)25
下痢は数日経ってもなかなか収まらず、中華料理屋でチャーハンばかり食べていたが、米粒が消化されずに排便されてくる。
日に10回以上トイレに行っていると、手で洗っているにも関わらず肛門がただれてきて、痛くなる。
熱はなく、便に血は混ざっていないようだから、アメーバ赤痢ではないと考えていたが、それにしても長引く。

私としては、短い滞在期間なので、下痢が治らなくても療養1週間で強行軍に出るつもりであった。

滞在5日目、下痢は収まらないが、いよいよ場外切符売り場にバラナシ行きのチケットを買いに出かけた。

売り場にはカウンターに4~50人が並んでいた。
長蛇の列は慣れていたからどうということはないが、並ぶ途中で便意を催した場合どうしようかと悩む。
とにかく、トイレに行きたくなったら前後の人に場所をキープしてもらうように頼んでおくしかない。

並んでいるインド人たちの表情は殺気立っており、気長に待っているという悠長な者はいなかった。

果たして、トイレに駆け込むことなく1時間ほど並んだ挙句、2日後出発のバラナシ行き1等寝台を無事購入した。


さて、カルカッタ出発当日。

インドに到着後は南京虫の攻撃、下痢、そして「インド人」の3重苦に耐えるに終始し、ロクな観光はしていない。
というより、外に出て人々をウォッチングするのが、この国での最大の観光である。

刺され傷は腫れが少し治まってきたようで、さすがに痒みは感じなくなってきた。
しかし、鏡で背中を見ると、ブツブツが数十箇所もあり、完治はしていない。
下痢も当初の「水便」からは脱して、トイレに行く頻度も減ってきた。

とりあえず、長距離の移動は可能であるが、煩わしいインド人とは接したくなかったので列車は最上級車以外の選択肢はない。
列車の出発は夜なので、それまで荷物を持ってサダルストリート周辺で時間を潰すことにした。
正直、この時点ではインド人がまったく信用できなかったので、ホテルに荷物を預ける気は起こらない。
私はバックパックを背負い、ホテルを出た。

私は元より鉄道マニアではないから旅先の汽車に乗ることを単なる移動の手段としか考えていない。
しかし、マニアの視点からすれば彼らが羨むほど世界の鉄道網を乗りまくっているはずである。
ユーレール、中国鉄路、アムトラック、マレー半島縦断鉄道、ベトナム統一鉄道、そして、そこにインド鉄道が加わる時が来た。

夜の8時過ぎ、私はカルカッタのハウラー駅で夜行列車に乗り込んだ。

インド鉄道のエアコンのない客車は別名「牢獄」と呼ばれ、タダ乗り防止のため、窓に鉄格子が嵌め込んである。インドの鉄道事故で数十人の死傷者が当たり前なのは非常時に窓から脱出できない構造自体が大きな理由であろう。
また、近郊を行き来するコミューターはスピードが遅いため、沿線の人々が駅以外の場所から容易に飛び乗ることが可能である。
車両外部に足の置き場があれば、ぶら下がってでもタダ乗りする人々で溢れており、屋根の上に登るつわものまでいる。
実際、パンタグラフに触れて感電死する事故も多いと言う。
これらは事故防止の観点から見ても断固排除すべきであるが、なぜか放置されているのがインド流である。
インドは10億近い民を抱える人口大国であるから、下層階級の国民が少しくらい死んでも、国としてはどうでもいいのかも知れない。
このあたりの発想は中共にも通じるところがあろう。

こういう命の軽い国に生まれなくてよかったと心から思う。


世界ケンカ旅行(アジア編)24
悶々とした数日が過ぎ去った。

身体的には、ようやく落ち着きを取り戻したものの、あの安ホテルの酷い対応に対する怒りは痛々しい刺され跡を見る度に沸々と湧いてくる。

何とかならないものか?

簡易訴訟のようなもので損害賠償を訴えることができれば一番だが、現実問題として、現地事情もよくわからぬ外人旅行者では不可能であるし、実利的ではない。
ホテルの兄ちゃんはそれを知っているから私を相手にしないのだろう。

では、次善手段として、日本でいう保険所のような監督官庁に通報して、注意をしてもらう手もある。
だが、そもそもこの国では安ホテルを経営するのに営業許可など必要なのか?

ベトナムあたりなら「泣き寝入り」というところだろうが、幸い、この国は英語が公用語なので、とりあえず、ダメもとで近くの警察署に相談に行ってみることにした。

最寄の庁舎を探し当てて、正面口から入る。

受付の40絡みの警官はカウンター越しに不遜な態度で座っていた。
その警官は私に冷めた視線を向けてきた。
私が事情を少し話すと、聞くのも面倒くさいと言わんばかりに話を途中で遮断して、「あっちへ行け」と別のカウンターを指差す。

とにかく、この警官の態度から、インドの官僚主義の一旦を感じた。
気は進まなかったが、ここまで来たら、行くしかない。

次のカウンターでは、強い眼鏡をかけた、肥満体の中年警官が座って雑誌を読んでいた。
私が声を掛けると、ムッとしたような表情で私を睨み返してきた。

私は事情を丁寧に説明して、件の安ホテルの過失にも関わらず、治療費弁済も代金の返却もない旨訴えた。

眼鏡警官は、私の話を途中で遮って面倒くさそうに言った。

「で、お前は何を盗まれたのか?」

「盗まれたものはない」

「それなら、ここに来ても意味はない。早く病院にでも行け!」

「そのホテルは人体に害を及ぼす虫がいると知りながら私を部屋に泊めた。これは立派な傷害罪ではないのか?外国人の被害者が出れば、国際問題に発展するぞ!警察から注意はできないか?」

すると眼鏡警官は興味を示したようで、前のめりになった。少し考えて、私に言った。

「そうだな。俺から注意してやっても構わんが、忙しい身だ。1000ルピー払ってもらうぞ」

向こうから賄賂の金額を提示してきたのは恐れ入ったが、もとより、60ルピーの部屋代を返してもらうのに1000ルピー払うのは本末転倒である。
賄賂の金額で交渉する気はない。

所詮、インド警察である。
私は警察のラインから攻めるのは諦めた。

「じゃあ、カルカッタ市庁でホテルの営業を管轄する部署を紹介してくれないか?そちらに訴えてみる」

「俺は忙しいと言っただろう。お前が100ルピー出すなら調べてやろう」

「もういいよ!」

私は捨て台詞を投げつけて警察署を出た。

ホテルに帰ってから、あれこれと考えてみる。

果たして、警察に行ってよかったのか?それとも「泣き寝入り」しかないのか?

ひつこく、ホテル側に返金を迫るべきか?

旅行者が「郷に入れば郷に従え」をどこまで貫くかは判断が難しい問題でもある。
例えば、「人を殺す」とか「人の物を盗む」ことは、古代エジプトでもハムラビ法典でもコーランでも、およそ太古の時代から「悪いこと」とされてきた。
こういった刑法典は、現代の地球上のすべての国で「犯罪」と規定されているはずである。
だから、「ホテルで盗難に遭う」ことなら、インドでも「犯罪」となろうから、盗難届けくらいは受理してくれるだろう。

今回の、「ホテルで南京虫に刺された」場合はどうか?

おそらく、途上国インドの社会通念では、虫に刺されたくらいは取るに足らない出来事なのだろう。
そんなどうでもいいことを警察に持ち込んでくる外国人に対して、冷たい態度を取ったのかも知れない。

日本流に考えると、この問題はホテルと私個人の問題であり、民事の損害賠償の係争にしかならないはずである。
警察には元より関係ない。

いや、もし先進国ならば、例え警察の所掌外の相談であったとしても、最低限、担当官庁の紹介くらいはしてくれるはずである。
人の弱みに付け込んで、賄賂の要求をする先進国はない。

元はと言えば、客の訴えを無視したホテル側が原因であり、現地事情を知らぬ外国人としては、警察に飛び込んだのも無理からぬことではないか?

自問自答は数日間続いたが、結局、そんなこんなも含めて、「これが途上国インド」と割り切って自分を納得させるしかなかった。



世界ケンカ旅行(アジア編)23
体の変調は到着した日の夜半にやってきた。

部屋にいるとき、急激な腹痛に見舞われて、トイレに駆け込んだ。

インドでは用便後に「紙」を使わないが、私も郷に入れば郷に従えで、ペットボトルに水道水を常時詰めておき、洗浄の際は左手に少し水を取って、器用に洗い流した。
実はタイで既に実践していた方法で、初めてするときは躊躇するが、慣れると非常に気持ちがいいことがわかる。

どうやら下痢になったらしい。

原因は大体わかっていた。

刺激の強いカレーを腹いっぱいに詰め込んだからだろう。
一晩経てば体も慣れてくるだろうと高をくくっていたが、下痢はいっこうに収まらない。

翌日はさらに、とんでもない状況になっていた。

腹痛と下痢に悩まされたカルカッタ第1日目であったが、、翌朝、体中に痒みを覚え、腕や腹回りを見ると、虫刺されの発疹があることに気がついた。

私が生まれて初めて受けた「南京虫」の洗礼である。

刺された箇所は生易しい数ではなく、背中を中心に内股あたりまで、少なくとも50箇所以上はあった。
肩越しに手で撫でてみると、患部が凸凹になっていて、虫刺されというよりは、酷い皮膚病のようであった。

南京虫の厄介なのは、刺された瞬間はほとんど何も感じないことである。
思い出してみると、確かに夜中に背中がチクチクしたような気がしたが、あれが刺された瞬間だったのだ。
「地球の歩き方」にも南京虫の恐ろしさは書いてあったが、私はそれを過小評価し過ぎていたのである。

まったくもって、「後悔先に立たず」であった。

私は即断でホテルを出ることにした。

昼前に荷物をまとめて、レセプションでチェックアウトの手続きをする。

担当の30ぐらいの兄ちゃんの表情が、昨日と違って妙によそよそしいのが気になる。

「ひょっとして、この兄ちゃん、あの部屋のベッドが南京虫の巣窟になっているのを知っているんではないのだろうか?」
私は思った。
日本人なら、逆に「急にニコニコ振舞う」のだろうが、インド人は心情がストレートに表情に表れるらしい。
解りやすい国民性である。

私は当然ながら、クレームをつけた。

「あの部屋にはベッドバグ(南京虫)がいるぞ!見ろ!」

と言いながら、Tシャツの袖口をたくし上げて、上腕から肩口までびっしりと刺された痕を見せつけた。

「このホテルにはそんなのはいない。チェックアウトしたなら出てけ!」

兄ちゃんは私から目を逸らして、怒りの口調で答えた。
今で言うところの「逆ギレ」というやつだ。

態度の豹変がインド人らしいというか、見せ掛けだけでも同情するかと思いきや、完全に突っぱねる戦法に出た。

やはり、この男は最初から知っていて私に部屋をあてがったのだと確信した。

こうなったら売り言葉に買い言葉である。

「ホテルの清掃が行き届いていないからこうなったんだ!治療費として500ルピー払え!もちろん、宿泊費の60ルピーも返却してもらうぞ!」

「うるさい! 出てけ!」
兄ちゃんはこの一点張りの対応である。

問答が続いたのち、私は不本意ながらも渋々引き下がり、そのホテルを後にした。

さて、南京虫と下痢のダブルパンチで、さすがに、安宿に移るのは気が滅入る。

とにかく、私は清潔で安心できそうなホテルを探した。

結局、30ドル近い中級ホテルにチェックインして、荷を解いた。部屋を決める際、念入りにベッドをチェックしたが不安は拭えなかったので、近くの雑貨屋でスプレー式の殺虫剤を購入して、ベッドの接続部分の隙間などにたっぷりと噴霧して対応した。

南京虫の傷口は、かなり腫れ上がってくるものの、少しヒリヒリする程度で、痒みも思ったほど猛烈ではなかった。
少し我慢すればなんとか平静を保てるレベルである。

問題は下痢の方で、便が水のようになってきて、1時間毎に便痛が襲ってくる。
こうなってくると、ただの食あたりではなく、細菌性の下痢の疑いが強い。

カレーを食べた食堂は客も多く、食中毒の常習店であるとは思えないが、要は現地人が特定の細菌に対して「抵抗力」を持っているのだろう。
そうとでも思わないと説明がつかない。


いずれにせよ、私には食欲がまったくなく、水分補給だけを無理して続けていた。


世界ケンカ旅行(アジア編)22
大英帝国の植民地統治の手法は、対象国を直接統治せず、域内の対立構造を巧妙に利用して民心を「反英」に向かわせないようにすることが主眼であった。

インドでいうならば、英国は伝統的な「カースト制度」にはまったく手を付けず、それどころか、愚民化政策により大衆に教育を施すことはしないで、一部のエリートだけ育てるというやり方である。

大東亜戦争の緒戦、日本軍がマレー半島に進攻した際、配備されていた英国軍の陸上主力はインド人部隊で、カースト制に沿った序列で部隊編成されていたそうである。
このあたりの英国の土人民族操縦の上手さはさすがと言うべきであろう。

話を戻そう。

てくてくと歩いて、ようやくサダルストリートに到着したときは、すでに夕刻に差し掛かっていた。
バックパッカーの溜り場らしく、欧米人が集ってチャイ(甘いインド式ミルクティー)を飲んでいたり、通りを散策している。

私はガイドブックにあった格安ホテルとして、モダン・ロッジとホテル・パラゴンを訪れるも、2件とも満室ということで断られた。
そこで、少し通りから離れた安ホテルにチェックインすることにした。

さすがに疲れていたので、ドミトリーではなく、シングルルームである。
部屋は小汚く暗かったが、インドでは珍しくないどこにでもある安部屋だと思った。

シャワーを浴びて外をブラリと歩いてみる。

多少、緊張も緩んできて、腹が空いてきたようである。
やはりインドに来たからにはカレーが食べたくなったので、目に飛び込んできたカレー屋に入ってみた。

中には現地人ばかりで、旅行者は私だけである。
ノンベジ系カレー数種と野菜、主食のチャパティー、そしてラッシー(発酵飲み物)にチャレンジしてみた。

インド式カレーは香港やマレーシアで食べていたが、インドカレーはインドが一番不味いことをここで確認。
とにかく辛くてバクバクとは食えない。

ちなみに、会計は明瞭で、ベトナムのように現地人と差を付けることはなかった。

300円くらいで腹いっぱいになった後、ふと思った。
この国では、食事の選択肢がカレー以外無いのである。
正直、インドカレーは週に1回が限度で、毎日はとても食えない。

「メシ」で苦労する国は中共に続いて2つ目となりそうであった。


世界ケンカ旅行(アジア編)21
私を乗せたバスはカルカッタの中央鉄道ターミナルであるハウラー駅付近で停車した。
私はバックパックを担いで降り立った。

ハウラー駅は大英帝国の威光を反映したような荘厳な建物で、周辺の貧弱な街並みとの対比が面白い。
駅周辺は雑踏でごった返し、タクシーやオートリキシャ(バンコクのツクツクに相当)で溢れていた。
こういうのを「インドの混沌」と呼ぶのだろうと思ったが、後にそんなのはまだまだ序の口であることを思い知らされることになる。

地図で位置を確認すると、目的地であるサダルストリートまでは数キロで、私にすれば歩く距離であった。

すると、さっそく30才くらいの兄さんが声を掛けてくる。

「コンニチハ!」

彼はいかにも覚えたての日本語で挨拶をしてきた。

旅の鉄則として、インドでカタコトの日本語で声を掛けられたら、それは間違いなく悪いヤツだ、、、、というものがあるという。
空港のオッサンといい、この兄ちゃんといい、誘い方が「直球・ド真ん中」すぎて、警戒心の強い日本人旅行者からは頭から相手にされないはずである。
もっと知恵を使えよと言いたくなってくる。 
こういう輩は、少しでも話の相手をすると、それを取っ掛かりにして食い込んでくるから、最初から無視するに限る。

私は小走りにその場を離れた。

向かっていたサダルストリートは、バックパッカーの溜り場のようなゲストハウスが集中する通りで、インド博物館の裏にある。

私はカルカッタ見物しながら歩いた。
カルカッタの中心地は、汚くも毒々しいくらいカラフルで、曼荼羅のような看板が目につく。

しばらく歩くと、歩道の向かいから老人が向かって来た。

裸足で杖をつき、ボロボロの法衣風の着物をまとってアゴ髭が胸くらいまで伸びている。
子供の頃テレビで見た、マグマ大使のお父さんである「アース」か、レインボーマンの師匠である「ダイバダッタ」が実世界にいるみたいだ。

最初はヒンズー教かなんかの行者なのかと思ったが、良く見ると乞食であった。

法衣風の着物は何年も洗ってないようで、雑巾のようになっている。裸足で歩いているせいか、足の皮膚がカサカサに硬化して何らかの皮膚病のようである。

乞食老人は、私とすれ違う直前に立ち止まり、右手を差し出してきた。

そして、何やら怒鳴るようにカネを要求してきた。
これには私もカチンと来た。

こちらではバクシーシ(喜捨)と呼ぶらしいが、私はヒンズー社会の価値観で生きているわけではない。
当然、無視して歩き去ろうとしたが、その老人は私のTシャツを引っ張ってきた。

「コラ!放せ!」
私は老人に怒鳴った。

老人はギョロリとした目で睨んできたが、修行僧に睨まれたようで妙に迫力があった。
インドでは乞食も筋金入りなのである。


到着早々、「押し売り乞食」に遭遇したわけだが、老人の「攻撃」は序章に過ぎなかった、、、、

さらに進むと、今度は男女混合、乞食の一団が10人ほど、歩道に1列に並んでいた。

これらの人々も、行者が托鉢でもしているようにしか見えないのがインドの摩訶不思議な雰囲気である。
一番の理由は、やはり、この国の乞食が自らの不幸を訴えて哀れみを乞うのではなく、バクシーシとして「喜捨を受けるのは当然」という社会通念の中で生きているからだろう。

カースト制度の社会では、出生した階級は本人の努力で乗り越えることは不可能だから、ある種の諦念のようなものもあるのかも知れない。
いずれにせよ、この国の乞食は自分の運命を受け入れているから、精神的には安定しているだろう。
先進国でも「格差社会」は問題になるが、インドに根ざしたカースト制の奥深さは計り知れない。

さらに進むと、今度は健常者でない乞食たちがいた。

両足のない爺さん、二の腕から下がないオッサン、そしてハンセン病で顔面中に疱疹が出来ているオッサン、マトモな国から来た人は正視できない光景がそこにあった。

こんな状況を許しているインドという国家に対して怒りが湧いてくるかと思いきや、そうでもないから不思議である。
もう、完全に別の宇宙に来ているような感覚であった。

いわゆる、インドに来ると「人生観が根底から変わる」というのはこういうことかと納得した。

世界ケンカ旅行(アジア編)20
カルカッタは西ベンガル州の州都で、インドでは東の玄関口のような大都市である。
(インドの都市はいつの間にか、現地語発音で呼称するようになり、現在ではコルカタと表記されるが、当旅行記では自分が親しんだ旧称で呼ぶことにする)

空港到着後、私は現地通貨であるインドルピーに両替した。
インド人というのは入国審査官や銀行員からして神経質そうで、絶えず何かを詮索しているような表情を隠さない。

ちなみに、当時のレートは1ドルが25ルピー前後。

さて、当たり前の話だが、カルカッタの空港はインド人だらけである。
大半の女性は民族衣装のサリーを着ているし、ターバンを巻いたタイガージェットシンのような男性もいる。
今までの東南アジアとは根本的に違う、異次元の世界に入り込んでしまったような感覚であった。

ガイドブックによると、中心部に行くには路線バスとタクシーの選択肢があり、当然ながらバスに乗るつもりだった。

ロビーの雑踏でバス乗り場を探していると、前方に立っている背の高いオッサンと偶然に目が合った。

「ウエルカム・トウ・インディア!」

50絡みの浅黒いインド人は、目が合った途端、私に話しかけてきた。
右手を差し出し、私に握手を求めてくる。

「ジャパニ(日本人)か?」

インド人は英語を自在に操るが、発音に癖があって、しかも早口で、かなり聞き取りにくい。

「ああ、そうですよ」

私も反射的に右手を差し出して握手した。

「重要な話なんだ。こっちに来てくれ!さ、早く早く!」

オッサンは私を急かす。

私が躊躇していると、オッサンは大きく手を振って私を呼び込んだ。

「重要な話なんだよ!」

オッサンの真剣な表情に促されて、私はオッサンの行く方向についつい足を運んだ。


トントン拍子で何が何かわからないまま、これはのっぴきならない事態に違いないと思って、誘導に従ってロビーの外に出てみた。
するとオッサンは自分の車を指差して、

「ジャパニ!さあ、乗れ乗れ!」
と言う。

何のことはない、そのオッサンはタクシーの運転手で、私はうっかりと客引きにホイホイと付いていったのである。

しかしながら、ある種の盲点というか、心理の裏を衝いたというか、人に思考させる時間的余裕を与えずに条件反射を上手に利用した、私が未だかつて経験したことのない客引きの手法である。

ただし、このやり方だと、タクシーまで連れて行くのはいいが、相手がタクシーの客引きだと状況を理解した瞬間に信頼関係は崩れてしまうから、結果的には確率は高いとは言えないだろう。

当然ながら私もオッサンを無視して、その場をそそくさと立ち去った。

オッサンは何かを叫びながら私の後を追いかけてくるが、走って振り切る。

気がつくと周辺にはタクシーの運転手が取り巻いて、表面上はフレンドリーに誘ってくるが、下手な作り笑顔。
皆がとても胡散臭い。

「これはえらい所に来たな、、、」
私は思った。

まさにインド恐るべしである。

世界ケンカ旅行(アジア編)19
ハノイから到着後、例によってバンコク中華街のジュライホテルに投宿した。
旅行全般を通して、バンコクそのものは旅の経由地と言うよりは帰休地としての存在となっていた。

今回の旅も前半の山場であるベトナムが終わり、方向的には次はラオスかビルマかという段階ではあったが、以下の都合により、両国とも次のチャンスに残しておくことになった。

ラオスという国は、情報を拾い集めてみると「タイの田舎」とほとんど同じで、見るべきものはほとんどなく、重い腰を上げて周遊するならタイ北部・イサーン見物のついでに入るのが合理的と考えた(実際にラオスに入ったのは後の95年である)。
ビルマに関しては、88年の軍事クーデターによる統制強化の一環で自由旅行はできない状態にあり、バンコクの旅行代理店で1000ドル近いボッタクリツアーを申し込む他はなかった。
当然、私としては今回の訪問地としては却下である。

余談ではあるが、この頃を境に、ビルマ政権は国名をミャンマーに、首都のラングーンをヤンゴンに名称変更する。(後の93年には個人旅行者にビザが発給されるようになったが、なぜかこの国を訪れたことは今だかつてない)

ということで、次はいよいよインド・ネパールへ出発である。

何はともあれ、入国するためにはビザを取得しなければならないが、インドのビザは当然ながら当地バンコクで、ネパールのはデリーで申請することにした。

ガイドブックを読み込んで、一通り確認した後、私はバンコクのインド大使館に向かう。
領事セクションにはビザ申し込みのために50人くらいの外人が列を成して並んでいたが、1時間以上待って30日の観光ビザを申請した。

入国方法はガイドブックの指南を参考にして、ビーマンエアラインのカルカッタ行きを片道購入することにした。
このチケットは200ドル程度の安さの上、ダッカで乗り継ぎのために市内で一泊することができるのだという。
もちろん、ホテル送迎付きである。

すべての手配を終えた私は、満を持してインドに向けて飛び立った。


ここで、わずか1泊だけであったが、ダッカでの乗り換えの様子を記しておこう。

ダッカ空港といえば、私の記憶にはあの「超法規措置」のダッカ事件が強く印象に残っていたが、ベトナムの空港よりは遥かに近代的で、一応は国際水準をクリアーしていた。

バンコク発の便にはカルカッタ以外にもカトマンズに行くバックパッカーも多く搭乗していたが、全員が同じホテルに宿泊。
パスポートは空港で預けて、ホテルのバウチャーのような引き換え用の書類を受け取る。

マイクロバスに分乗して夜間にホテルに向かうが、空港の敷地を出るとき、鉄製フェンスにずらりと人影が並んでいるのを目撃した。

見ると、小学生くらいの子供たちで、マイクロバスが入場ゲートから出ると、10数人が一斉に手を差し出して金品を要求してきた。
身なりから、乞食や浮浪者ではなさそうで、空港近辺の子供たちが小遣い稼ぎでもしているのだろうが、夜陰に手を出して集まってくる子供たちがゾンビの集団に見えた。
私の乗ったバスでは窓を開けて金品を渡す者はいなかったが、食べ残しのチョコレートの類を配る者などは相当数いるのだろう。

実質上、ホテルには缶詰で、市内を歩く時間はない。

翌朝、送迎バスの車窓から街の風景を眺めるだけであったが、なんとなく、これから行くインドの想像を掻き立ててくれる。

このように慌しい中、カルカッタ行きの便に搭乗して、ダッカでの滞在はあっけなく終わった。



世界ケンカ旅行(アジア編)18
私は古都であるフエを経由した後、ベトナムの首都であるハノイでバンコクへ帰るまでの数日を過ごしていた。

ハノイの人々は警戒心がことさら強く、やはりベトナムの政治の中心地として、共産党の独裁下で耐え忍んできただけはあろう。
しかし、同じ拝金主義でも、やはりサイゴンの犯罪的な銭ゲバぶりと比較するとハノイは概して大人しい。

もちろん、ベトナム語の発音も北と南では異なり、子音がやわらかい濃音になるサイゴン発音に比べて、ハノイは子音を強く発音する。聞いた印象ではドイツ語とフランス語ぐらい破裂音に差がある。

人々の服装で最大の違いは、ハノイの男性はバイクもシクロの運転手も、ベトナム独特の軍用ヘルメットを被っていることであろう。
戦時下の名残かも知れないが、ただ単に、選択肢がないものと思われる。

観光として見るべきものはほとんどないが、モスクワのレーニン廟を真似たホーチミン廟くらいだろうか。
92年の時点では、旧市街も観光客相手の物産店などなく、人々の生活の場でしか過ぎない。


さて、これで私のベトナム旅行記は終わりであるが、この行程では、ベトナム人に対する見方ががらりと変わった。

全般を通して、しぶとく、したたかで強情な民族性に圧倒された思いである。

最後に、ベトナム人というのは、その民族性のためか、周辺国の人々からは滅法嫌われていることを付け加えておきたい。




世界ケンカ旅行(アジア編)17
1週間ほどサイゴンに滞在したが、いよいよこの街を離れる時が来た。

私はサイゴン駅までドンコイのカフェから歩いて行った。

チケットは事前に代理店で購入済みであり、これが現地人価格の5倍もすることは前述の通り。
このサイゴン駅であるが、ボロボロのタンソンニャット空港から想像していた通り、駅というよりは物流会社の集積センターのような建物であった。
しかも、駅に辿る着くまでに、下町のような貧民街を通過しなくてはならず、途中、何人もの路上生活者と遭遇する。
時は夕刻で日も沈みかけていたから、不気味このうえない。

地図を何度も確認しながら本当に駅が存在するのかと疑念を抱きながら到着してみると、今度は駅の構内にびっしりと路上生活者がいるので驚いた。

いや、よく観察すると彼らはホームレスではない。
列車を待つ乗客だった。

2~3個の大きな荷物を床面にどっしりと置き、さも生活しているように落ち着き払っている。

「そういえば広州駅前もこんな感じだったかな」
私は中共の旅を思い出したが、中共との決定的な違いは、駅特有の華のある賑やかさが皆無であったことだ。
ベトナムでは人民の移動がそれほど頻繁ではないようで、人々は皆、じっと我慢するように列車を待っていた。
最初に路上生活者と間違えたのは、とてもこれから旅立つ人々に見えなかったからである。

私も彼らといっしょに出発時刻まで待つ。

出発の30分前ぐらいになり、改札口が開いて、群集はプラットフォームに歩いて行った。
中共のシナ人たちとは違って、客車に殺到するようなことはない。

ベトナム統一鉄道の車両は古く、1等車と言えども小汚い。ひとつのコンパートメントに寝台が4人分あるという以外は何の特徴もない車両であった。

私は荷を解いて下段のベッドに落ち着いた。
ほどなくして、ビジネスマン風の中年おじさんと若夫婦が入り込んできた。

列車はほぼ定刻通りにサイゴン駅を出発した。
すでに日は沈んでいた。
ゆっくりとしたペースで列車は走る。

サイゴンを離れてしばらくすると、外は漆黒の闇が続く。
これには少々驚いた。
ベトナムは都市部を除いて、電気が通っていないようである。

途中、駅で停車はするが、電灯はない。
駅員は懐中電灯で必要最小限の光源を確保しているだけである。

それにも関わらず、経済活動は活発で、駅の物売りは、ロウソクを灯して食べ物や水を売り歩いていた。
不気味な光景である。

まさか、統一ベトナムでゲリラは存在しないだろうが、列車強盗に襲われても不思議ではないような雰囲気である。



世界ケンカ旅行(アジア編)16
最近のベトナム関連ウエブサイトをいくつか閲覧してみると、ベトナムへの投資を促すための紹介として、以下のような内容の解説が好んで掲載されている。

「ベトナム人は勤勉で、手先が器用、日本人に気質が良く似ている、、、」と。

笑止千万である。

「勤勉」という、ただ一点において日本人との類似性を強調されても困る。
もちろん、アフリカや中東諸国の人々と比較すれば、比較的、より日本人に近いのは間違いないが、、、

冷静に分析してみると、ベトナム人の気質は「シナ人の良いところ」と「朝鮮人の悪いところ」を混ぜたようなもので、大中華の周辺国という意味でも韓国・朝鮮人と相似する部分が特に多い。
いずれにせよ、日本人とは全く異なる気質であることに注目したい。

言語としてのベトナム語はローマ字表記を採用しているものの、ほとんどは漢語起源の言語で、朝鮮が漢語をハングル文字で書き換えたのによく似ている。

例えば、ベトナム女性の名前でよくある「ゴック」は漢字で書くと「玉」となり宝石を意味する。これは華人の女性にもよく使われる。
(余談だが、「機動戦士ガンダム」には、ベトナム語発音からインスパイアされたと思われる地名や人名が頻出しているのが面白い)

その意味で言語文化的にも隣国のラオスやカンボジアとは一線を画すのがベトナムである。

さて、当ベトナム旅行記、ここまでベトナム人の気質については結局のところボロクソに書いているが、これは偏見ではない。
それを証明するひとつのデータを紹介しよう。

筆記の時点での警察庁発表の犯罪統計資料によると、日本在留外国人による犯罪で、総件数に対する4割が中国籍による犯行である。

ところが、国籍人口別発生率になるとベトナム籍がダントツのトップで、各国籍人口に対する発生の割合は、日本人1に対して中国籍が約4、そしてベトナム籍が約9に上るのである。
つまり、ベトナム人は日本人の9倍も犯罪を起こしていることになる。
(窃盗が最も多く、大半が「万引き」と思われる)

要するに、在留ベトナム人の数自体が少ないために、総数としては(中国と比べて)あまり目立たないだけの話で、ベトナム人が「手癖の悪い」民族であることは客観的データからも傍証可能なのだ。

ただし、ベトナムの治安が欧米都市部並みに悪いかというと、そんなことはない。

社会主義国というのは良くも悪くも、国民の動向を確実に掌握していて、ベトナムも例外ではなく、日本でいう交番にあたるような警察の出先は至る所に事務所を構えて市民に睨みを利かせている。したがって、欧米では頻繁に起こりうる凶悪犯罪(強盗・殺人)に関しては特に警戒する必要はない。

まあ、ボッタクリ以外にはスリや引ったくり、盗難に注意するだけで旅行者には足りるはずである。


サイゴンでは、ベトナム人に騙され続けて腹立たしいことが続いたが、不思議なもので、一見して似たような中共に比べて、居心地はいい。

前述したように、食事がすこぶる美味いということが大きいが、中共のシナ人は基本的に他人に無関心で、外人相手でも動じることはない。
ある意味、殺伐とした人間関係が支配する社会であり、その殺伐さを旅行者も敏感に感じるのである。

ところが、ここサイゴンでは、現地人は良くも悪くも我々外人に対して意識して接してくれる。

とある場末のカフェーでコーヒーを飲んでいたとき、店のおばさんが若い女の子2人を私の前に突然連れてきて、

「私の娘のどちらかを嫁にもらってくれないだろうか?」
と勝手に紹介して私に懇願した。

おばさんはニタニタしながら言っているから半ば冗談なのだろうと、もちろん断ったが、似たような経験を数回体験するに及んで、これは冗談ではなく、サイゴン市民の一般感情として、外国人と結婚すれば金持ちになれると思い込んでいるらしいと確信した。

また、こういった縁談を割りと気軽に持ちかけてくるベトナム人の拝金主義からくる積極性も面白い。

総じて、ベトナム人は顔見知りになると外人として(持っているカネに対する)尊敬の念で接してくれるから、こちらとしても嫌な気はしないのである。
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