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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
世界ケンカ旅行(シベリア鉄道編)9
単調で退屈な長旅を終えて、列車はモスクワに到着した。

モスクワの鉄道駅は、西ヨーロッパでいうとパリ鉄道駅の配置によく似ていて、大きな6箇所の駅が街の外環に分散していた。それぞれの駅は列車が向かう都市の名前を冠していて、どの駅がどの方面に向かうのかがすぐに判別できた。
我々の列車は、市内の北東部にあるヤロスラフスキー駅で、ここに到着したのが夜の7時過ぎ、辺りはすでに暗い。

我々コンパートメントの4人は、全員がモンキービジネスでアレンジしたゲストハウスに宿泊することになっていた。
驚いたのは、駅のプラットフォームには、10人以上の中国人が宿泊先の斡旋のため、大挙して待ち受けていたことである。昭和30年代の日本の温泉地で群がる旅館客引きを思わせる。 彼らは各自が手に手に旅社の名前と1泊の料金を表示したプラカードを持って、乗客の同胞たちを客引きしていた。この場面だけを見ていると、モスクワなのか北京なのかわからなくなってくる。

誰が率先して言うともなく、隣のコンパートメントも含めたモンキービジネス組の総勢8名は、荷物をプラットフォームに置いて不安な表情でガイドが到着するのを待っていた。このまま放置されても文句を言うべき相手もいないが、1人ではなかったので心強い。

そのうちに、中年ロシア人女性が声を掛けてきた。
彼女は名簿を見ながら、受け入れ人数を確認して、これからゲストハウスまで引率することを告げた。我々は外見が他の乗客と違って一際目立っていたから、探すのに苦労はなかったはずである。
ゲストハウスのロシア人女性に率いられて、我々8名は最寄の地下鉄駅まで歩いた。

モスクワの第一印象は、以前に東ベルリンを訪れた際の印象に近いものがあった。 
西欧では当然のように目に飛び込んでくる商業広告の類が一切ない街の風景は、どんよりとした灰色で、単調に見える。街並みは小汚く、建物の壁が全体的にくすんでいた。トロリーバスの電線が道路の上を縦横に張り巡らされている。

引率の女性は、我々にあらかじめ用意していた地下鉄の入場用トークンを配った。そして、戦時では地下壕を兼ねると言われていたプラットフォームまで長い長いトンネルをエスカレーターで下っていく。

モスクワの地下鉄構内は無駄に荘厳さが強調されていて、大きなドーム型の空間を形成していた。天井からはシャンデリアが吊り下げられて、これが唯一の光源となって、薄暗い独特の雰囲気を醸し出した。ちょっとした宮殿の内部を思わせる装飾で飾られていて、ソ連時代は社会主義の優位性を宣伝する道具のひとつとして利用されていたのは記憶に新しい。
ところが、我々が乗り込んだ地下鉄車両は、錆があちこりに浮き出た古いもので、古さを感じさせずにはいられない。

幾つかの駅を過ぎ、経由駅で乗り換えて、我々一行はゲストハウスの最寄駅に到着した。
駅を出るとそこは、古びた10数階建てアパートがいくつも並ぶ住宅街であった。戸建ての住宅は皆無で、市民は高層アパートに住んでいるようであった。計画的に配置され幾何的に綺麗に並ぶアパート群は圧巻ではあるが、人間を労働力としか見ていない社会主義の本質が表れているようで、無機質な薄ら寒いものを感じずにはいられない。

ゲストハウスは、その高層アパート群のひとつ、下層階のフロアーの一世帯分を改造したものである。しかも、玄関のドアを開けて、中に入り、初めてそこが目的のゲストハウスだということが分かるくらい、周辺からは隠されていた。
どういうことかと言うと、1階の建物入り口にも、玄関のドアにも、それらしい表示は一切ないのである。つまり、外見上はまったく宿泊施設には見えない。

おそらくは、当局に届けずに闇営業しているからだろう。しかし、このように連日、外人が出入りすれば近所には隠せまい。

チェックインの手続きと同時に、2泊分の代金である30ドルを支払った。この頃はロシアの凄まじいインフレのために、米ドルが以前にも増して重宝されていたのである。

ロシアは乱世にあったが、こうやって人々はアイデアを発揮して外貨を稼いでいるのだろう。


世界ケンカ旅行(シベリア鉄道編)8
一日中、樹林帯の中を突き進むシベリア鉄道は思ったより退屈だった。

私は北京で買った手のひらサイズのテトリスのゲーム機に興じた。 英国人高校生のデビッドは暇つぶしの準備をしてこなかったらしく、物欲しそうに私の小型ゲーム機を覗き込んでいるので、貸してやると、喜んで放そうとしない。

ドイツ人のシュルツは好奇心旺盛な男で、いつもコンパートメントを離れて列車内をグルグルと歩き回っていた。
ある時、記念品と称して列車内の備品を持ち帰って皆を驚かせたが、盗み癖があるようで油断ならない男である。 同じドイツ人のフンケは起きている時間はほとんど本を読んでいて、雑談に興じることはなかった。

途中、停車駅では例によって車内の中国人商人たちが皮コートを現地人に売り付けていたが、内陸部に入れば入るほど、列車を待つロシア人の数は増えてくる。

イルクーツクあたりになると、コンパートメントの窓に4~5人の客、ほとんどが中年の男女であるが、皆がルーブル紙幣を鷲掴みした手を伸ばして、我先とばかりに商品との交換を迫ってくる。

我々旅行者は、窓から顔を出して横からこの呆れ返るような光景を眺めていたが、衣類に群がるロシア人の群れの姿は実に滑稽であった。
よく観察していると、ロシア人たちは、サイズを確認している様子はなく、もちろん、僅か10分程度の停車時間であるから、そんな悠長に品定めしている暇はないのだが、それにしても、中国人たちが差し出した商品を特に確認するでもなく、とにかく購入できるものは何でも購入しているように見えた。

文字通り、飛ぶように売れまくっている様子を見ていると、ここで衣類を買っているロシア人は多分、自分や家族が使うのではなく、転売を目的にしているのだろうと考えるに至った。生産拠点から何千キロも離れ、しかも物流ルートが鉄道に限られるわけだから、慢性的物不足はソ連邦時代から続いているのだろう。
この頃はソ連崩壊の余波で凄まじいインフレがロシア全土を覆っていたが、極東ロシアでは皮コートもインフレをヘッジするための貴重な財産となるのだろう。

ある駅での話である。

喧騒に紛れてロシア人男性が中国人商人から皮コートを引ったくって持ち逃げしようと試みた。すると、プラットフォームに下りていた見張り役の中国人が空のビール瓶を振り回してたちどころに泥棒男を追いかけ、ビール瓶で数発ほど男に打撃を加えて、見事に皮コートを取り返してしまったのである。この種のひったくりが多発しているため、商人たちがマフィア的連携で見張りを立てて防いでいたと思われる。

中国人の商魂に刺激を受けたのがデビッドだった。

彼は、祖国に持ち帰って捌くはずだったシャツを中国商人のマネをして停車駅で売ろうと考えた。しかし、季節は冬を目前にして、夏用の開襟シャツは1枚も売れることはなかったのである。


停車時間中、北京で仕入れた衣類を売ろうとしている英国人高校生のデビッド
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結局のところ、嘲笑の対象でしかなかった。

世界ケンカ旅行(シベリア鉄道編)7
列車はロシア領内に入っていた。 夜のことである。

コンパートメントの扉を叩く音がしたので、入り口に近いデビッドが鍵を開けて来訪者を確かめた。我々は外部からの進入を防ぐために、常時施錠していたのである。

そこに立っていたのは、30代くらいのロシア人男性だった。 
ボサボサの髪に無精ひげ姿で、一言で表現するならショボくれた風体である。小さなボストンバッグを小脇に抱えていた。

「両替しないか? ルーブルがないといろいろと不便だぜ」男はニヤリと笑った。

男の言うとおりだった。
特に停車駅などで列車外で売られているちょっとした食べ物の購入などに小額を準備しておきたいと誰しも感じていた。

ただし、ルーブルはインフレで日々レートが変わり、外国人には相場がよくわからない。

「いくらで換える?」
シュルツが上半身をベッドからのり出して興味津々に聞いた。

「1ドル1000ルーブルでどうだ?」
ロシア人は答えるが、誰も信じる者はいない。ガイドブックで事前に知っていたレートよりかなり悪かったからである。
我々4人は顔を見合わせて、思案にくれていた。

そこで私が思いついた。
「よし、中国人に聞いてみよう。あいつらならよく知っているはずだからな」
「おお、それがいい。頼む」
シュルツが頷いた。

そのやり取りを聞いていたロシア人の表情はまったく変わらない。どうやら英語はよくわからないようであった。

私はコンパートメントを出て、隣の車両に移った。思ったとおり、そこでは酒盛りが開かれていて、赤い顔をした男たちが騒いでいた。
私は一通り、為替相場を調べて自分のコンパートメントに帰った。

コンパートメントでは、ロシア人両替屋がボストンバッグから様々な商品を出して売りつけようとしていた。

デビッドのベッドの上には、時計や勲章が10数個並べられている。シュルツは相変わらず好奇心旺盛でそれらをひとつづつ丁寧に鑑定していた。

どれも、ソ連時代の赤軍関係の時計や勲章であった。値段は一律に10ドルなのだという。 おそらく、ソ連時代のグッズが売れ筋なのだろう。

私はみんなに言った。
「1ドル1000ルーブルは相場とほとんど違いがない。この男と交換しても大丈夫だよ」

「そうかい。じゃあ、10ドル換えよう」

ロシア人の表情が笑みに染まった。

この男が偶然、正直者だったのではないだろう。
おそらく、閉ざされた列車内にあって、法外な交換レートで両替しても、あとでボッタクリがバレたら逃げようがない空間だからだと思った。

 
世界ケンカ旅行(シベリア鉄道編)6
列車は定刻通りに北京駅を発車した。 

待ち合わせなどで、時間にはそれほど厳格ではない中国の中にあって、鉄道のタイムテーブルが比較的忠実に守られていることが不思議に思っていたが、この疑問については1988年、上海郊外で発生した鉄道事故を知るに及んで納得したのである。

これは、列車の正面衝突事故であったが、不運にも、修学旅行で乗車していた日本の高校生ら100名以上が死傷するという大惨事であった。 実は、私が最初に中国を旅行した際、現地事情をよく知る日本人からは、列車の正面衝突事故はあまり珍しくないものであると聞いていた。 ただし、当時の共産中国ではそのような事故が人民日報に掲載されることはなく、外部に詳細が漏れることはなかった。 この大惨事が外部に知られることになった理由は、言うまでもなく、死傷者の大部分が日本人だったからに他ならない。

中国の鉄道路線は、この時点ではすべてが単線だった。 明治以来の日本の単線運行で使用される「タブレット」に類する、単純かつ確実な衝突防止システムはなく、信号による目視確認だったために、列車運行がタイムテーブルとずれると、大事故がすぐに起こってしまうという構造があり、必然的に時間には厳格にならざるを得ないことを知ったのである。

さて、列車が内モンゴル自治区に近づくと、やがて、農村の風景から、草原へと車窓からの眺めは変わっていく。

1日目の夜には、モンゴルとの国境を越えるが、ここで台車交換が行われた。
つまり、レールの幅の規格がロシア・モンゴルと中国では違うために、台車だけを交換するのである。
これは、乗客が乗ったままの状態で行われるが、我々はジャッキアップする際の金属摩擦音を耳にしながら国境に到着したことを知るのである。

入国手続きは車内で行われた。 
一度、全員のパスポートを集めて持ち帰り、スタンプを押した後に審査官が返却にくる。

翌日の停車駅はモンゴル領内であるが、面白い光景を目撃した。

列車は中国人がほとんどだが、彼らは列車が停車するなり、窓から皮コートなどの冬物衣料を外に見えるように掲げて、商品として売っていた。
つまり、彼らが車内に持ち込んだ大量の荷物というのは、こういった輸出用の衣料品で、ロシアに持ち込むためのものだったのだ。
さながら、移動マーケットと化した列車には、モンゴル人が寄ってきて品定めをし、現地通貨で購入した。 商品と代金の受け渡しは窓の隙間を通じて行う。

わずかながらの停車時間が終わると、移動マーケットは終了して、列車は動いて次の停車駅に向かう。 
中国商人たちは売り上げ金を数えて、商品の数をチェックする。そして、次の停車駅までの準備を整えておくのである。
シベリア鉄道はこういった担ぎ屋で溢れていたのである。



世界ケンカ旅行(シベリア鉄道編)5
「じゃあ、お元気で」
今宮さんは眠い表情で、あくびを堪えながら挨拶した。
私と彼はしっかりと握手で結ばれた。モスクワまでの8000キロの旅への門出であった。

すでに朝夕は冷える9月の北京、早朝の出発にもかかわらず、彼は私の出発を見送りに、北京駅まで同行してくれたのだ。

駅の候車場(待合室)では大きな荷物を幾つも抱えた現地人が所狭しと数百人規模で待っていた。座席が埋まっていたので、コンクリートの剥き出しになった床に荷物を椅子代わりにして座っている人々も多い。

出発の30分ほど前になり、モスクワ・ウランバートル行きと書かれた表示板が掲げられ、乗車が始まったことを知らせた。すでに長蛇の列だった人民が一斉に動き出す。 係員が入り口で1人づつ切符をチェックし、終えた乗客は脱兎の如く走って目的の車両の待つプラットフォームに向かった。ほとんどが指定席なのに、我先を争って走る中国人恒例の風景である。

今宮さんとはこれでお別れとなるが、感傷に浸る間もなく怒涛のような人民の流れに吸い込まれた。

列車は見慣れた中国製ではなく、ロシア製だった。

私は自分の車両が何号車なのかを確認しながら、客車の横をひたすら歩いた。10両以上あろうかと思われる客車では、今まで見たこともないような乗客の行動を目にした。

それはまるで、戦禍から逃れる為に脱出している難民と形容されても違和感のない光景で、1人が客車のコンパートメントに入り、窓の外から段ボール箱の荷物をリレー式で搬入しているのである。 しかも、特定のグループだけではなく、ほとんどの乗客が同様にして、なんらかの大きな荷物を窓から放り込んでいた。その荷物の数は平均して1人当たり3個くらい、たちまち車内のコンパートメントは荷物でいっぱいになり、天井に接触しようかというくらい積まれている。つわものは、大きな台車に1人で5個くらいのダンボール箱を載せて、窓から搬入している者もいた。 中国人の担ぎ屋が鉄道を使うのは普通のことだが、それにしても荷が多すぎる。

私は自分のコンパートメントに辿りついて乗り込んだ。これで一安心である。 

4人用コンパートメントは2段ベッドが窓を挟んで左右に配置されていた。中国式でいう「軟臥」、旅行社からは「デラックスシート」と教えられていたが、料金分の価値はありそうだった。 私は窓に向かって左側の上のベッドであった。

5日分の食料となる、インスタントラーメンや菓子類を手提げビニールバッグから取り出してベッドの上に並べてみる。とりあえず、10食分程度は自分で確保しておいて、あとは社内販売とか食堂車で調達するつもりだったが、どうなるのかまったく予想はできなかった。

長期間の列車旅行ということで、生活用品をバックパックから取り出して支度をしていると、コンパートメントの乗客が次々と入ってきた。

私の下にはイギリス人のデビッド、向い側のバンクは上下ともドイツ人で上はシュルツ、下はフンケと言う。全員が男性であった。

イギリス人のデビッドはなんと現役の高校生。まだあどけない顔をしていて、大きい荷物を持っていた。ビニールバッグに詰め込まれていたのは、中国で買った開襟シャツで、サイズは各種揃っていて、何のために買ったのかというと、学校で皆に売るという。商売の資質溢れる少年であった。

ドイツ人のシュルツは、顎鬚を蓄えたヒッピー風情の格好で、一見して近づきがたい雰囲気を持っていた。これに対して、フンケの方は、生真面目タイプで、バンクで横になるなり、ペーパーバックの小説を読み耽っていた。2人とも年齢は30代半ばといったところだが、好対照である。同じドイツ人なのに、ほとんど会話をしないのも不思議で、性格的に不一致なのが格好でわかっていたに違いない。

シュルツは、独り言のように誰にも話しかけるでもなく、なにやらブツブツ言っていたが、これを理解できるのは、フンケだけである。

「まったく、モンキービジネスはぼったくりだぜ!中国旅行社で直接買えば、200ドルだと、、、、」
シュルツが私に向かって言った。英語話者とドイツ語話者が2対2だったが、フンケが会話に入ってこないので、自然とコンパートメントの共通言語は英語となった。

「それは2等車両の価格だろう?バラで買ったら、間違いなく、中国人と同室になる。1週間近くもあの連中と同じ部屋にいたら気がおかしくなるさ」
私は答えた。

よく観察すると、モンキービジネスでチケットを買ったと思われる一団は、1等車両の隅の二部屋分にまとめて入れられているようであった。隣のコンパートメントもヨーロッパの白人だったので、これはなんとなく安心するものである。

列車内を移動して、中国人ばかりの2等車両を歩いてみると、通路が人で溢れていた。
すでにコンパートメントの中は荷物に埋もれていて、足を踏み込む隙もないくらいである。彼らも5日分の食料をすべて持ち込んでいたが、ビール瓶が並んでいたり、乾物のつまみ類が山と並んでいたり、なんとも食料雑貨店のような雰囲気であった。おそらく連日の宴会が行われるはずである。

やはり、2等に乗らなくてよかったと確信した。


世界ケンカ旅行(シベリア鉄道編)4
北京・天安門の北西には、中国の一流大学が集中している学生街のような地区が存在していた。
文系の雄である北京大学、理系の最高峰である清華大学、そして外国語の専科だった語言学院の敷地は互いに近い場所にあったのである。

私と今宮さんは、トロリーバスを乗り継いで、最寄の大通りまで到着、学生寄宿舎までの1キロくらいを2人で歩いた。

すでに留学の許可が下りている今宮さんは、その生活の場としての学生宿舎を確保するために何度も足を運んでいたのである。

当時の中国私費留学の一般的な方法としては、仲介する団体とか教育機関などが手続きを代行するのが普通であったが、かなりの代行費用が必要であった。
今宮さんは、すべての手続きを自分だけでするという徹底ぶりであったが、国際郵便による書類のやりとりだけでは細部まで詰めることができなかったので、実際に手続きを現地で確認しながら進めていたのである。これはなかなかできることではない。

語言学院は中国最大級と言われるだけに、その敷地は広く、幾つもの棟が並んでいる。その中で、留学生宿舎だけでも3棟もあり、さすがに千人以上の外国人を引き受けているだけあると感心させられた。

手続きを終えた今宮さんは、宿舎の事務室から出てきた。私は少し肌寒い外で待っていた。

「いやあ、やっと部屋が決まったよ。何度も来た甲斐があったね」
彼は笑った。

「で、賄賂は結局のところ、どうなった?」

「そんなもん払うわけねえよ。ふざけやがって」履き捨てるように言う。

今宮さんが何度も足を運んでいるのは、中国の官僚主義だけではなく、賄賂の有無が大きな手続きのスピードの差になっていたのだ。 むしろ、インドのように、あからさまに賄賂を要求してくれた方がわかりやすいが、中国ではそのようなことはなかったから、こちらが役人の気持ちを忖度してやる必要があった。

「ちょっと、部屋を見に行かないか?」

「お、いいねえ」

我々は4階建て宿舎の3階に階段で上がった。建物自体は古く色褪せているが、中国では平均的で、特に環境が悪いというわけではない。

今宮さんが生活するのは、2人部屋で、一応、勉強用の机や本棚も完備され、彼が寝るであろうベッドが空いたままとなっていた。そして、もう一つのベッドには日本人が横たわって本を読んでいる。 

聞くと、短期課程を修了しており、来週にも帰国するのだという。まさに滞在を終えようとしている日本人の話は興味深い。

その日本人によると、宿舎内の風紀はかなり乱れており、授業にも出ないでマリファナをやっている連中もいるのだそうだ。特に酷いのが、アフリカからの国費留学生だそうで、全然勉強もしないで帰国していくという。途上国では、この種の国費留学というのは、有力者の子弟の特権になりがちだから、おそらくは、遊びに来る感覚なのだろう。ただし、先進国ならともかく、この中国では夜遊びする場所もないから、部屋でマリファナをするしかやることがないということか。 
ちなみに、学内でマリファナを調達することはさほど難しいことではないらしい。ウイグル人マフィアがその手のネットワークを握っているそうだ。

私は所詮のところ通りかかりの旅行者だったから、それほど気にも留めなかったが、今宮さんの落胆ぶりは表情に出ていた。察するにかなりの衝撃だったようだ。 どうやら、北京大学あたりの超エリート中国人のガリ勉ぶりを想像していたらしい。
何といっても、彼は正規留学で、文字通り人生を賭けて中国語を身につけようという、やる気に満ちていただけに、気勢をそがれたような形となってしまった。

その日本人、真面目に授業に出たのは最初の一週間だけで、以後は適当に時間を潰しているだけだという。

我々は、日が沈むまで歓談を続け、その後は留学生日本人を加えた3人で焼肉を食べた。
世界ケンカ旅行(シベリア鉄道編)3
ビザ申請手続きの期間も含めて、私は1週間程度、この僑園飯店に滞在しなければなかったが、時間を潰すのに苦労した。
一日のうちの大半の時間を部屋で過ごして、ガイドブックを読んで今後の計画を自分なりに作り上げていく作業を行っていたのである。
今宮さんとは、北京到着初日以来、同じ部屋で起居を共にしていたので、夕食は必ずいっしょに出かけて食べる仲になっていた。

すでにロシア通過ビザとシベリア鉄道の乗車券を入手し、後は乗車当日までを待つだけとなっていたある日、いつものように部屋で読書に耽っている時、外出から今宮さんが帰ってきた。 

「あの野郎、ほとぼりが冷めたと思って、また立ってやがる。どうしようもない奴だ」
部屋のドアを開けるなり、開口一番、憤りをあらわにした。

窓際を背にした、ちょうど、今宮さんの隣のベッドで横になってた私は、すぐに暴力闇両替屋のことだと分かった。 催涙スプレー噴霧事件のあと、さすがに警察への通報を危惧したのか、旅行者を騙し続けてきた男は、しばらく姿を見せていなかったのである。

「あまり関わらないほうがいいよ。また催涙スプレーでやられるぞ」
私は告げた。

「俺がすぐにいなくなると思ったんだろうね。睨んでやったけど、無視しやがったよ」

今宮さんは、当初は警察に通報するかどうか迷ったものの、これから留学する身で、不要なトラブルは避けておきたいという判断から、当局には知らせていなかった。
もちろん、催涙スプレーの後遺症がなかったということも大きい。 彼は、そのかわり、暴力両替屋の存在を広くホテルの宿泊者に知らしめようと、注意書きをレセプション近くの掲示板に貼り付けて鬱憤を晴らしたのである。

この一件で、私が持っていた北京の治安に関する思い込みは一変していた。
地方都市の治安は悪かったが、政治の街であり、天安門事件の余波でピリピリしていた北京の治安に関しては正直、楽観していた。しかし、旅行者が犯罪に巻き込まれる可能性も想定しておかねばならないと考えを変えるに至った。

「まあ、あまり気にしなさんな、、、ところで、今晩のメシはどうする?」私は言った。

「おお、午後から語言学院に手続きに行くんだが、いっしょに来ないか? メシはその帰りに、焼肉でもどうだい?」

「焼肉?そんなのあるのか?」

「学校の近くに見つけたんだが、鉄板で焼く本格的なものだぜ」

「いいね。行ってみるか」

我々はさっそく支度をしてホテルを出た。
世界ケンカ旅行(シベリア鉄道編)2
今回、北京まで来たのはシベリア鉄道に乗車するためであった。

きっかけは、前回、同じ僑園飯店でヨーロッパからやってきた旅行者と接触したことである。
彼らは北京滞在後に香港か日本に抜けて、そこから空路帰国するルートを取る者が多かった。 その際、往復乗車券のうち、残りの半券、つまり北京から東欧に向かう分が不要になるために、これからシベリア鉄道に乗ろうとする旅行者に売っていたのである。
彼らが持っていたのは、ハンガリーで購入したものが多く、片道わずか200ドルちょっとの値段であった。

それから6年経った。
上海や北京では改革開放政策の影響で、外国人の起業家が流入していた。調べたところによると、外国人が経営している「モンキービジネス」という旅行会社がバックパッカーの間でシベリア鉄道専門旅行社として知られていることがわかった。

この旅行会社は僑園飯店の7階の1室を借りて事務所としていたので、さっそく訪れてみた。
僑園飯店という辺鄙な場所に店舗を据えた理由は明らかで、シベリア鉄道のチケットを購入しようとする貧乏旅行者が自然に集中するのがここだからである。

その点では私にとっては好都合で、効率よく手続きを進めることができた。
モンキービジネスのオフィースには担当係の男性が一人で座っていたが、現地の中国人ではなく、オーナーらしい中年白人であった。
私は担当者からパンフレットを見せられながら簡単な説明を受けた。

モスクワ行き列車のルートは二つあって、ひとつは東北地方のハルピンを経由する満州ルート、もうひとつはモンゴルを縦断するルートである。料金はモンゴルルートの方が高かったが、どうせならモンゴルを通ってみたいということで、ウランバートル経由を選んだ。
片道465ドルで、ロシアとモンゴルの通貨ビザは実費だけで旅行社が代行申請してくれるという。

結局、私が準備するのはロシアビザ取得に必要な隣接する国の入国ビザ(私の場合ポーランドの観光ビザ)だけで、あとはすべて任せることにした。

だいたいの行程は次のようになっていた。

北京駅から水曜日の朝7時40分発の列車に乗り、その日の夜にはモンゴルに入る。モスクワ到着は翌週月曜日の朝で、車中に5泊することになり、総距離は8000キロ程度に及ぶ長距離の旅であった。

ロシアが発給する通貨ビザは9日間有効で、実際にロシア国境を越えてモスクワ着までは4日間なので、モスクワからポーランドのワルシャワに抜けるのに余裕を持って2日間を見ておくとすれば、モスクワに3泊することが可能である。

入国関連手続きとしては、まず、自分でポーランド大使館に出向き、ビザの申請をして、そのスタンプがあるパスポートをこの旅行社に預けて、ロシアとモンゴルの通過ビザを取得するという手順となる。


(短期集中掲載)世界ケンカ旅行(シベリア鉄道編)1
(1993年9月 北京)

「大丈夫か!」
私は今宮さんを抱き起こした。

今宮さんは唸り声を上げて顔面を右手で押さえながら地面にうずくまった。

「催涙スプレーだ! すぐに水で洗い流そう」
私は彼を抱きかかえた。 
催涙ガスを放った闇両替屋の中国人は両手をポケットに入れて悠々とどこかに消えていく。 
周辺には土産物屋や他の闇両替屋でごったがえしていたが、無関心を装っていた、、、

「酷い奴だ!もう、ここでは両替せんぞ」
我々は口々に恨みの言葉を吐いた、、、


私が久しぶりに北京にやってきて、僑園飯店に泊まってからは災難続きであった。
1987年に初めて中国旅行をした際は、まだ田舎然とした北京の中にあって、外国人バックパッカーの溜り場的存在だった僑園飯店。北京南駅から徒歩10分ほどにあるこの7階建てホテルの周辺は何もなくて、牛車が荷を引っ張っていた頃が遠い昔のようであった。

1993年、僑園飯店周辺は様変わりしていた。

フォルクスワーゲンのサンタナがタクシーとして道路を走り、ホテルの客を当て込んだ土産物屋やレストランが周辺に開業していた。 そして、ホテルの入り口から最寄バス亭までの間には外国人の外貨を目当てに闇両替屋が蠢いていた。その数は10人前後はいたはずである。

ところが、この両替屋が曲者で、交換の際、客に渡す紙幣を抜くことで悪名高いことを後で知った。

残念ながら、私も連中の手品にひっかかってしまったのである。手口はこうだ。

こちらが外貨券100元を見せると、両替屋は束の人民元10元紙幣を一枚づつめくりながら数える。外貨券と人民元の交換比率を100対180としよう。 外貨券を手渡して、交換に彼が提示した180元分の人民元を受け取って数えると、100元分、つまり10元札が10枚しか手元にないことに気がつく。
ここで、両替屋は手品を使って、巧妙に10元札8枚を抜き取るのである(あるいは、最初から10枚しかないものを18枚あるように重複してカウントしていたのだろう)。 いずれにせよ、テーブルマジックに引っかかる旅行者が後を絶たなかった。

連中が巧妙なのは、闇両替が違法であることを強調して、客を人目のつかない場所に誘って、周辺をキョロキョロ見ながら当局を気にするフリをする。これは演技である。
この雰囲気を察知した客は、札束の枚数確認を受け取ってすぐにすることなく、大抵はホテルに帰ってから確認して、抜かれていることに気がつくのである。
もうひとつ、公定の交換レートは外貨券と人民元は1対1であることから、厳密には外貨券100に対して返ってきたのが人民元100、、、つまり、闇両替屋としては正当な率で両替をしてやったのであると主張できるという言い訳もあるのだろう。


こんな悪徳両替屋は前回に来たときはいなかった。
しかも、上海では「ウイグルマジック」と呼ばれているほど、こういったトリックを使うのはウイグル人だけだったが、ここで観光客を騙しているのは、漢民族であった。


冒頭に登場した人、催涙スプレー攻撃を受けた今宮さんは私が4人部屋ドミトリーにチェックインした際に、先客として窓際のベッドで横になって本を読んでいた。

彼は北京語言学院に入校するために手続きをしに来ていた。職業は獣医師であるが趣味の中国語に磨きをかける目的で仕事を休業してまで学業に専念するのである。

私が両替で誤魔化されたことを悔やむように言うと、「いや、実は俺もやられたんだ、、、」と打ち明けられた。

僑園飯店に2週間ほど滞在している今宮さんによると、バックパッカーは大抵やられていると言う。
意気投合した我々2人は、勢い余って、悪徳両替屋に文句を言うことにした。

意気揚々ホテルを出て、つい今しがた私を騙した両替屋の男を発見して、2人で詰め寄った瞬間に先制攻撃を受けたのが冒頭の状況なのである。

男はポケットから手を出すと、握っていた催涙スプレーを近くにいた今宮さん目がけて噴霧したわけだが、まさか、不意打ちで先制攻撃してくるとは想像もしていなかったから、2人とも狼狽した。 
とりわけ、今宮さんは水で洗って視力が元に戻るまでは興奮が収まらなかったのである。
今、震災が起きたらどうしようか?
さすがに、阪神淡路・東日本、そして今般の熊本地震を経験して、「まあ、俺んちでは地震は起こんネエさ、、」などと他人事に思っている日本在住者はいないでしょう。 そんな人は、かなりの楽観主義者かバカでしょうから、ある意味、羨ましい、、、、

とりあえず、第一撃の大きい地震を生き抜けば、まあ、あとはなんとかなりそう、、、、でも、その後の人生は、もう、投げやりと言うか、「どうにでもなれ!」の心境で、そのまま避難所→仮設住宅→生活保護、、、の余生になるんだろうなと思います。

筆者の知人に、タバコの不始末で火事を起こして家屋と趣味の物凄いコレクションを喪失してしまい、もう、その後は投げやり自暴自棄を絵に描いたような生活、現在では廃人となってしまい、後見人制度の適用を受けるに至ってしましました。

そうなりたくはありませんが、、、、





地震への備えの県民格差
いろいろな話を総合すると、どうやら九州全般の市民感情として、「大地震は来んけん大丈夫やろ」というのが率直な地震に対する心構えだったらしいですな、、、つまり、現在生きている人々の記憶に、大地震を経験した記憶がないので、比較的楽観論が根底にあったというのです。 

これに関して言うと、筆者の住む三重県の県民感情は正反対。 戦時中に発生したのであまり知られていませんが、昭和19年と昭和20年に、死傷者1000人規模の大地震が2回も発生しており、県民の記憶に深く刻まれております。 私に関して言うと、すでに小学校くらいから、東海地震・東南海地震があるあると言われてきて、「いつ大地震が起こるかも知れない」と深層心理に刻まれてきたというのが実情。

ところが、皮肉にも、昭和後期から平成にかけての大地震は、静岡・愛知・三重の「絶対起こると予想されてきた」地域以外ばかり、、、、、東海地震に備えて何十年も準備してきた静岡県なんか、拍子抜けじゃないでしょうか?









韓国人の考え方
筆者は、主として「みずきの女子知韓宣言」とか「カイカイ反応通信」を毎日チェックしておりますが、このような海外の掲示板を翻訳しているサイトが充実してきましたな。

上掲のサイトでは、韓国人がどのような考えを持っているのかよくわかるんですが、今般の熊本地震では、概ね、韓国人が日本人に対して「ざまあ見ろ!」とか「悪行の罰だ!」などと、むしろ日本の不幸を歓迎しているような意見が大半であることがよくわかります。

異文化を理解するということは、このような韓国人の物事の考え方を理解するということですが、「恨み」が生きていくための原動力となる朝鮮民族のサガというものは日本人の価値観とは対極に位置するので、なかなかわかりにくいですな。





じゃあ、ベトナムはどうよ? 外人観光客数あれこれ
タイについて調べたついでと言ってはナンですが、ベトナムの外人観光客動向について。

これまたチャートを転載します。

betonamu.png

南沙諸島領有権問題で中国人観光客は減っているんですが、それでもダントツの数字。

第二位に付けているのは韓国で、第三位の日本をブッちぎりで引き離しておりますな。

意外だったのはロシアの位置。 タイにあれだけ来ているロシア人ですが、ベトナムでは第七位に甘んじております。 ベトナムとロシアと言えば、対米戦争以来の盟友で、90年代初頭まではカムラン湾にロシア軍の基地があったくらいですから、もっと観光客は多いと思ってました。
ベトナムの現エリート層というのは、ソ連との蜜月時代には東欧も含めて留学や労働研修で渡航している人々が多いです。 筆者の知人にも、学生時代にロシア語を専攻してモスクワに留学経験がある方がおります。

第四位の米国人ですが、これはベトナム戦争後に渡米したベトナム系米国人の里帰りのようなものも多く含まれると思われますな。 私が最初にベトナムに行った92年には、飛行機の中の半数くらいが、米パスポートを持ったベトナム人でしたから、、、



実のところ、タイへの外人観光客はどうなっているのか?
先日のエントリーで、パタヤで見るのはロシア人やシナ人ばかり、、、などと率直な印象を述べましたが、その印象が正しいものかどうか、一応の統計を調べてみました。
少し古いデータですが、ネットで拾ったものが次のチャートです。

TouristArrivalsbyCountry2014.gif

思った通り、堂々の第一位は中国人で圧倒的に多い。 第二位は隣国のマレーシア人ですが、華僑も含まれるし、人種的にタイ人と見分けがつきにくいですな。

第三位はロシア人で、それを追って、日本・韓国・インドがほぼ横並びと言ったところでしょうか。

最新の情報によると、中国人の入国者数は2016年は1千万人を越える見込みだそうです。

タイへの観光客の総数は、この10年で3倍以上になっており、今年はなんと3千万人だって!!


頻発地震に緊張続く
いつもと違う、、、、というのが今回の地震の印象ですな。
震源地の違う大地震が活断層に沿って発生しているわけで、沈静化するまでしばらくかかりそう。

しかし、東北の大震災が桁違いだったんで、不思議と今回は心理的には冷静でいられるような気がします。
軍都・熊本の危機管理に隙なし
マスコミではまったく報道されてませんが、熊本市には陸上自衛隊の駐屯地が3箇所、しかも、九州防衛の最上級組織である西部方面総監部、第8師団司令部など、中枢となる部隊が駐屯しております。まあ、言ってみれば、そんな旧軍以来の軍都を襲った大地震なんですな。

当然ながら、2千人近い隊員が災害派遣に出動していて、その数は警察消防を凌駕しております。
しかしながら、例によってテレビカメラは自衛隊を避けるようなアングルでの報道ぶり、、、、

そんなに自衛隊が活躍している情景を見せたくないの?





被災者の皆様に謹んでお見舞い申し上げます
筆者の自宅も活断層の直上にあるんで、もうね、本当に他人事とは思えません、、、、、
今後の天候が心配ですな、、、
声優の大平透 死去
昭和の子供向けテレビ番組の歴史をリアルタイムで知っている筆者からすると、放映当時と現代の評価の違いに驚く場合がありますな。

例えば、ウルトラマンシリーズ。 この特撮シリーズはもはや昭和日本を代表する永遠のヒーローに育った感もあります。 ところが、初回放映時は、幾多のヒーロードラマのひとつに過ぎませんでした。

放映時、「ウルトラマン」と「マグマ大使」は人気を二分するほどで、当時はウルトラマン派とマグマ大使派に分かれておりました。 現在におけるマグマ大使の評価は、単なるひとつの特撮ドラマとしての扱いになっています。

次に、「帰ってきたウルトラマン」ですが、実は、放映当時は、「スペクトルマン」と人気を二分していて、どちらも子供のハートをがっちり掴んだ特撮ドラマだったんですな。 スペクトルマンに関しては、当時の爆発的人気を考えると、現代での知名度があまりにも低すぎる。 

前置きが長くなりましたが、逝去した大平透氏は、マグマ大使ではゴアの声、スペクトルマンでは役者として公害Gメンの室長を演じておりましたな。 

一般的に、氏は声優としてのキャリアが有名ですが、なにせ、私にしてみれば、スペクトルマンでの役者のイメージが最初に定着していたので、あの顔が思い浮かびます。

タックス・ヘブンではなくてタックス・ヘイブンな件
パナマ文書でにわかに税金退避地を意味するタックス・ヘイブンという言葉が出てきますな。

ある言論人が不意にも「ヘイブン」を「天国」の脈絡で話しておりました。 カタカナに直すとよく似てますが、これって、heavenとhavenで綴り字も違う別の単語。

いわゆるカタカナ英語というやつは、こういう誤解を招き易いんで要注意。

あなたが学生時代、周辺にこんな人いなかったか?
喫茶店で、大学生くらいのお兄ちゃん2人連れが、隣で会話しているんで、自然と耳がそっちに向いてしまう。

そのお兄ちゃんは、プロ野球ファンらしく、今期ペナントレースの行方なんかを熱心に語っているんですが、それが、オタクのなんの、もの凄く選手の個人データに詳しいんですな。

正直、選手の名前なんぞ聞いても誰が誰やらわからないんですが、前期の打率がいくつで、本塁打が何本で、、、、とか、打順はこうすべきだ、、、なんて、もう完全に監督視点で評論家レベルの話をしております。 ところが、本人たちは、見た目はスポーツマンタイプではなくて、医学部の学生っぽいガリ勉タイプ。

「そういえば、そんな野球マニア、高校時代にいたなア、、、」と思わずニヤリ。 

あなたが学生時代にいませんでしたか? 本人は運動はまったくダメで、帰宅部のくせに、プロ野球(というか、プロ野球事情)にメチャクチャ詳しい奴、、、、、

日本には寒波が来ていた
バンコクから帰国したら寒いのなんの、、、たまりませんなあ、、、

断言しよう。 日本人にとっての「海外旅行黄金時代」は1986年から1995年までの10年であると、、、
まあ、これに関しては異論もあろうかと思いますな。

しかし、次の理由で筆者は確信するのです。

1 プラザ合意で以後の円高基調がトレンドとなる。

2 冷戦崩壊の以前と以後の世界を経験できる。

3 韓国人、シナ人、インド人、ロシア人などの悪徳国中流層が海外旅行できる経済力をつける以前で、海外における居心地の良さを実感できた。とりわけ、現在ではどこに行っても遭遇するシナ人グループに辟易しないで済んだというだけで大きい。


どうですか?



パタヤでワシも考えた。
パタヤに来てますが、もう、何年振りか記憶にないくらい久々。 確か最後に来たのは90年代の終わり頃だったか?

昔の薄れた記憶をたどってみても、この風景の様変わりは凄い。

もうね、街を闊歩しているのは、ロシア人かインド人かシナ人、、、、、、新興のチャイナタウンやコリアタウンまであって、日本人には無性に居心地が悪くなってますな。

望月三起也ファンはこのサイトを見るべし
さて、筆者に多大な影響を与えたワイルド7ですが、きっかけはテレビドラマでした。 原作をリアルタイムで読み始めたのは「地獄の神話」からで、ファンなら誰もが認める名場面であろう、航空ショーから抜け出したB17爆撃機の戦闘が、最初の望月ワールドとの出会いでした。ただ、ワイルド以外はあまり知らない者として、「月刊 望月三起也」という公認ファンサイトはお勧め。故人を偲んで覗いてみよう!

じじいパワーに脱帽
バンコクに来てます。
しかし、昔と比べて、70才前後に見える爺さん世代の旅行者が増えましたな。

リピーターがほとんどでしょうが、友人グループ2、3人位がよく目立つ。

健康面なんかが気になるはずですが、これから益々この傾向は強まっていくんでしょう。
アクション漫画の巨匠・ 望月三起也 死去
ケネディー騎士団、秘密探偵JA、そしてなんといっても、漫画史不朽の名作「ワイルド7」の作者である望月三起也氏が逝去しました。

個人的には、手塚治虫や石森章太郎が亡くなった際よりも感慨深いものがありますな。 というのも、筆者が小学生の頃にモデルガンの収集を始めたきっかけの一つが、氏の代表作「ワイルド7」だったからですな。

今でこそ、10年を越える長期連載の少年漫画は珍しくもありませんが、1970年代で連載10年というのは、ほとんどなかった時代でした。しかも、掲載していた当時の「週刊少年キング」は少年漫画誌では最も部数が少なく、商売を考えれば、ワイルド7は数年で打ち切られていた作品のはずです。 というのは、ワイルドの場合、最初から単行本化を前提に書き上げられていて、週刊ベースで読んでいくと、ストーリーを追うのが難しい長編ばかり。 
当時の状況をリアルタイムで知っている者としていうと、マガジンとサンデーの次の3番手だったキングが、後発誌であるチャンピオンとジャンプに追い抜かされていった時期がワイルド7の連載期間と重なりますな。
ジャンプがパワフルな作品群、そして、チャンピオンが「がきデカ」「ドカベン」「ブラックジャック」で驚異的に部数を伸ばしていた頃、キングにはこれといったインパクトのある作品は皆無で、よくぞワイルド7を打ち切らなかった。

望月作品の特徴、というか、ワイルド7の特徴は、絵でいうと、なんと言ってもド迫力のカット割と構図のすばらしさ。 あと、スクリーントーンを使わない書き込みの緻密さでしょう。バイクや銃器の書き込みがかっこよくてシビレましたわ。 アシスタントは大変でしたな。
ストーリーが冗長すぎる嫌いはありましたが、セリフ回しがハリウッド映画を思わせる軽妙さで、今、読み返すと、作者が無類の映画ファンであることが想像できます。

当時買った、漫画誌も単行本もモデルガンも捨ててしまいましたが、ちょっと残念。

なぜ中韓のバカはエレベーターのドアを蹴破り、そして転落するのか?
中国や韓国では日本では考えられないような事故が発生しますな。

以下のビデオを見ていると、昔の人気番組だった「ゲバゲバ90分」のコントを思い出しました。

ということで、今回は少し趣向を盛り込んで、まず、あのゲバゲバ90分のテーマソングをBGMにして、ビデオを同時再生して楽しみましょう。






やっと燃油サーチャージがなくなったぞ!
4月に入って、東南アジアとかは軒並み値下がりしておりますな、、、、格安航空券の話です。

バンコク往復が総額2万円代というのも出てきましたな。 ちょっとアレな中国系キャリアですが、もちろん、LCCではありません。

逆にLCCの方は、客寄せ周知期間が終わったのか、セールの回数が少なくなっているような気もします。 

来週は今年2回目のバンコクに飛ぶんですが、チケット5万円したぞ! タイミング悪かった、、、、

2030年までに、外国人観光客6000万人だと!??
政府がとんでもない政策目標を掲げましたな。

現在の目標である年間2000万人が達成できそうなので、次の目標を策定したとのことですが、外国人観光客を増やす有力な手段としては、入国資格の緩和が最初に来ます。

まさか、政府は中国人にも90日有効の短期滞在資格を認めるんじゃないでしょうね??

これって、ほぼすべての先進国や韓国台湾には認められているノービザ措置なんですが、事実上、不法入国には目をつぶるのと同義とみて間違いありません。

事実、韓国人なんかは、航空運賃が安いので、90日に一回、帰国と出国を繰り返して日本で資格外労働している輩は何千人もいるはず。 

というか、筆者もかつての職場では当事者自身で、韓国人の同僚に正規のビザが取得できるまでの間、帰国と出国を繰り返させていたことがあります。 これって、そういう意味では便利な制度。 

このニュースが報道された際、テレビなんかではあざとく浅草にやってくる白人観光客にインタビューしてましたが、観光客6000万人を目指す場合には、母数が圧倒的に多い中国人来訪者を増やす以外に現実的方策はありません。

日本での不法就労や犯罪者が桁違いに増大すること、あるいは、国際テロメンバーが侵入するケースに対して、入国管理体制や国内治安機関の増強なしに対応するとなれば、日本は急激な治安の悪化、法治存立の危機に直面することになる。

なんか、日本がぶっ壊れていく過程を見ているようで恐ろしいですわ。



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