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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
バンコク空港、イミグレ1時間待ちなう。
空港wifiがあるんで、時間は潰れます、、、
バンコクへ出発
久々のタイ旅行。
更新がしばらく不規則になります。
今回は初めて自動化ゲートを使用!!
順法精神ゼロのシナ人
以下、産経ネットより転載。

ネットにアニメ無断公開…中国人グループ「字幕組」自称メンバー逮捕 京都府警

日本の人気アニメをインターネット上に無断で公開したとして、京都府警は28日、著作権法違反の疑いで、いずれも中国人の会社員、王亮(オウ・リョウ)容疑者(30)=横浜市南区=と、株式会社立大学2年、楊王軼(ヨウ・オウイツ)容疑者(20)=東京都台東区=を逮捕した。
京都府警によると、2人は容疑を認めており、このうち楊容疑者は日本のアニメなどに中国語字幕をつけて無断公開する中国人グループ、通称「字幕組」の一員を自称。字幕組の逮捕は全国初という。
逮捕容疑は、王容疑者は7月、日本の人気アニメ「アルスラーン戦記 風塵乱舞」の映像を、楊容疑者は8月、「Fate/kaleid linerプリズマ☆イリヤ ドライ!!」の映像を、それぞれ不特定多数と共謀し、ファイル共有ソフトを使ってネット上に公開したとしている。
京都府警のサイバーパトロールで犯行が発覚。コンピューターのIPアドレスなどから2人を特定した。


日本の映画やアニメがアップされているのは本邦の捜査力が及ばない中韓の動画サイト。 中国語字幕が付くことも多く、専門の翻訳職人がいることはわかっておりましたな。

シナ人の場合、もっとも尊ばれる規範は、「仲間内のルール」で、わかりやすく言うと、マフィアの掟。 国の法令なんてのは守るものではなく、自分の行動を制約する権力の縛りくらいにしか考えておりません。

したがって、もし読者の皆さんにシナ人の友人がいて、そいつがあなたから見て、「いい奴」だったとしても、実は凄い犯罪や不正を平然と、悪気がまったくなく行っていることも普通にあります。

これからも在日シナ人の犯罪がなくなることはありません。




健康が一番
昨日、奇友・小山さんに会ったら、開口一番、「もう、お仕舞いだあああ、、、、」と、尋常じゃない悲観ぶり。

話を聞いて見ると、糖尿病の合併症で腎機能が通常の10分1くらいまで低下していて、

「透析を始めなければ死ぬ」と宣告されたとのこと。 もちろん、以前から、いずれ透析することになる、、、、と聞かされてはいたが、いざ、そうなってみると、やはり受け入れられないらしい。 冷静になるには少し時間が必要なんでしょう。

透析をすることになると、週3回、大抵は1日おきに病院に通い、1回4時間程度は血液ろ過のために拘束される。 これでも昔よりは時間も短くなって楽になっているらしい。
しかも、糖尿病の治療が終わったわけではなく、ひとつの合併症に対する対症療法に過ぎないということ。 

日常生活がかなり制約される上に、小山さんにとっては、海外旅行が難しくなることを意味します。 理論上は、透析を受けた日の夜にソウルに飛んで、2泊して帰国、すぐに病院に駆け込む、、、、、というスケジュールは可能ですが、それが可能なのは韓国と台湾、せいぜい、香港、上海までが限界。 そこまでして外国にこだわる意味はありません。

ここは、新しい人生の門出と割り切り、人生観を一新してやり直してもらいたいですな。











ロッテ財閥を恐喝する韓国政府
在日韓国財界人は震撼しているはず。 

ある意味、在日韓国人の出世頭ともいえる、ロッテグループの創業者一族に対して、背任などの嫌疑がかけられておりますな。 あの国で背任を厳密に摘発したら、大小関係なく、企業経営者は全員逮捕です。 それが韓国の企業文化というもの。

ご存知のように、在日韓国人は、本国では「パンチョッパリ」、つまり、半分はチョッパリという侮蔑語で呼ばれております。 ロッテ財閥が日本で勃興したことは韓国人は誰でも知ってますから、叩いても国民から反感を受けることはありません。 むしろ、「潰してしまえ」が世論というものでしょう。

いくら、民団が本国に忠誠を誓っても、こうやられるとなると、まったくもって哀れ。 利用されるだけ利用されて、都合でポイと捨てられるわけですな。

太平洋の覇権を狙う中国空軍
先に中国海軍の新空母の話がありましたが、今度は、空軍の大規模遠征訓練が発覚しました。

九州から台湾に至る列島線を、中国から見て「第一列島線」と呼んでいて、これが地理的勢力圏の区分なんですが、今回はこれを越えての攻撃訓練でした。

防衛省が公表した写真を見ると、中国爆撃機が巡航ミサイルらしき大きさのダミーを装備しているところから、ズバリ、これは米空母任務部隊を仮想敵とした攻撃訓練。 冷戦期にはソ連空軍はバックファイアーを基幹として攻撃パッケージを組んで、千島列島から南下してハワイを含む北太平洋への進出訓練を行って、米海軍を牽制しておりました。 それと同様の訓練を行っているとみて間違いないでしょう。

ところが、昔のソ連と違うのは、中国空軍が太平洋に進出する場合、必ず第一列島線を突破しなければならず、しかも、爆撃機が旧式で足が遅いので、現状では間違いなく嘉手納の米軍戦闘部隊、あるいは自衛隊の防空部隊の餌食になってしまうということ。

なので、中国空軍がこうやって訓練を重ねていっても、戦略上の欠陥が炙り出されるだけでしょう、、、、

こんな無駄な訓練を続けている理由は何か? 

大胆に推理すると、、、、、、

おそらく、現在、中国空軍と海軍では予算分捕り合戦が繰り広げられているものと思われますな。 海軍の空母といい、空軍の渡洋訓練といい、戦理上、意味がないとは知りつつも、続けなくてはいけない理由は詰まるところ、カネの問題なわけです。

こういう、意味のない軍拡は日本にとっては好都合でしょう。

アフリカ土人はパリを目指す
今、ネットで話題のビデオ。

現在では死語となってしまった「花の都・パリ」という言葉、、、、最近はこんならしいですな。





無駄ガネを注ぎ込む中国海軍
大連で建造中である、中国製攻撃型空母の写真が出回っておりますな。 

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これは、中国海軍にとって遼寧艦に続く、2番目の正規空母になる予定です。 かねてからの注目点は、米空母と同様なカタパルト式の発艦技術を盛り込むことができるかどうかでしたが、写真を見る限りは、遼寧と同じ、いわゆるスキージャンプ台方式と呼ばれるシステムを採用。

しかし、この方式には重大な制約があって、爆弾や対艦ミサイルのような重量のある兵装をすると発艦できなくなるのです。 結局、戦闘機に搭載できるのは空対空ミサイルと増加タンクだけで、防空任務にしか使用できない空母となります。

冷戦末期、ソ連は蒸気カタパルトを自力開発することができず、米軍の太平洋艦隊に同様の空母を基幹とした海上戦力で対抗する計画は頓挫しました。 そのかわりに、超音速爆撃機バックファイアーに対艦ミサイルを装備して対抗する戦略に転換せざるをえなくなったわけですな。

で、ぶっちゃけ、中国軍は、そのソ連の失敗を知ってか知らずか、繰り返そうとしております。 たんなる面子だけで空母艦隊を保有しようとしているんでしょう。 日本としては、中国海軍がこのままの路線で行ってくれるのなら、ずいぶんと助かります。






二重国籍の実態
レンホーの二重国籍が問題になっておりますが、筆者は以前、多国籍企業で国際業務を担当していた手前、来日する外国人顧客とかで二重国籍を持っているケースが結構な割合いることを承知しております。 また、二重国籍を持つ日本人とも仕事をしたことがありますな。

まずもって、二重国籍者で米国やカナダのパスポートを持っている人は、90日ビザ免除なので、たいてい、このパスポートで来日します。 イラン人やイスラエル人のような、ちょっと曰くつきの国の人は、祖国の方を隠すのが普通。 しかし、就労ビザを取る場合はどの国でも審査は同じですが、、、

先に挙げた日本人は、米国の男性と結婚した女性で、米国と往復する場合、2冊のパスポートを携帯して、日本を出入国する際は日本パスポート、米国では米国パスポートをそれぞれ提示するのだそうです。

自動化ゲートを使えば、日本のスタンプは押されないですから、米国と日本を往復するだけなら、日本パスポートは真っ白なまま。 見かけ上、どこにも渡航していないという、変なパスポートが出来上がりますな。



嫌中嫌韓 雑感
最近は、ようやく韓国人やシナ人の民族性の実態が少しずつ世間に知られるようになって、その意味では我が意を得たりなんですが、ちょっと心配な部分がなきにしもあらず。

ぶっちゃけ、グローバル視点で語ると、アフリカの土人とか、ムスリムとか、インド人とか、中南米のラティーノとかの方が、よっぽどタチが悪い。 「シナ人や韓国人が世界最悪」と思い込んでいる一部の人々の嫌中嫌韓意識は、それはそれでかなり偏狭な見方なんですな。









これが野党第一党党首?
レンホーが民進党の役員人事で苦労しているようですな。
陣容を見ていると、もう、安倍自民党の敵ではありません。 

例の二重国籍疑惑の際の、嘘で嘘を塗り固めるような弁明の連続は、ちょっと、国政政治家としての資質に根本的に欠けるような気がしますな。 マスコミが批判しなかったので助かった感はありますが、あれはもう、リーダーとしては最悪。 

それに輪をかけるように、代表選挙では、他候補者を引き離してのぶっちぎり勝利で、党内での自浄能力もまったくなし。 まあ、新鮮味はまったくないが、前原さんが現状では、最良の選択だったと思いますが、、、、

で、極めつけは野田元総理を幹事長に据えた党内人事。 実力以上の地位に就いてしまうとこういう人事をせざるを得なくなる。

ダメだこりゃ~




韓国経済の停滞が始まった
ようやく韓進海運関連船舶の荷卸が日本でも始まりましたな。

韓国最大の海運会社が経営破綻してから3週間が経ちましたが、この件、マスコミ、特にテレビでの扱いが皆無に近いのが不気味。

我が国でいうなら日本郵船が経営破綻したようなもので、他国とはいえ、それなりの扱いはされてもいい大きなニュースのはずなのに、、、しかも、韓進海運関連のカーゴは破綻後、日本でも入港を拒否されており、荷主に莫大な損害をもたらしていることは周知の通り。 決して、韓国だけの国内ニュースではなくて、日本の物流にも多大な影響を与えているんです。

ところが、テレビはこの件に関してはダンマリを決め込んでいる様子、、、、批判を通り越して不気味。

そいういえば、韓国造船業も軒並み、受注がなくて、業界統合が余儀なくされているのは既報の通り。 

韓国経済が傾いている遠因は、過度な対中国貿易依存体質(GDP寄与度が2割)で、早い話が、中国がコケると韓国もコケるということ。 しかも、巨大な中国経済が傾くにはそれなりの時間が必要なのに対して、韓国はその調整弁みたいなもので、短期で影響が出てくる仕組み。

直接原因としては、過度なダンピング体質。 無理な価格競争で受注を増やすのはいいが、自転車操業なので、世界経済が落ち込めば影響はストレートに跳ね返りますな。

韓国の大企業は良くも悪くも財閥による寡占経営なので、最終的にはなんとかなりそうですが、韓国人気質的なイケイケドンドンの世界進出は終焉するでしょう。

「Gダイアリー」17年の歴史に幕
タイ好きの男性諸氏なら、一度は読んだことがあるバンコクのローカル日本語誌が「Gダイアリー」。

当初はバンコクの性風俗案内をメインにした情報誌の性格が強かったですが、かなり重厚な文化論や政治経済まで幅広いテーマを扱うようになり、それなりに読ませる記事もありましたな。

紆余曲折の歴史はありましたが、ふくちゃんブログによると、いよいよ本当に終わるとのことです。

思い出してみると、筆者自身、この雑誌を自分でカネを払って購入したことは一度もありませんでした。 たいてい、バンコクの日本食レストランとかで置いてあるのを読んでいただけで、しょせんはその程度の情報だったのかも知れません。 

やはり、近年の爆発的なスマホの普及と、プリペイドSIMサービス拡大というものが、紙媒体駆逐の背景にあるのでしょう。



「こち亀」40年前の黒歴史
筆者が中学生の頃に開始した漫画ですが、正直、「まだやってたんか?」というのが印象ですな。 そんな凄い作品とも思えないですよ。 これが、いつのまにか連載40年で終了ということで、今週はジャンプが売り切れ続出らしい。

登場した頃の時代背景を振り返りましょう。

1970年代前半、「フレンチ・コネクション」とか「ダーティーハリー」の大ヒットで、日本でも「警察アクションもの」がテレビドラマで乱立しました。 何と言っても大ヒットしたのは「太陽にほえろ」。 映画やテレビの世界ではすでに定番だったキャラハン刑事のような主人公の設定は、漫画では「ドーベルマン刑事」に流用され、ジャンプに登場しました。

他方、「少年警察官・こまわり君」がハチャメチャに暴れまくるギャグ漫画「がきデカ」が空前の大ブームで、警察官が主人公のギャグ漫画の先駆としてすでにありました。

作者が「がきデカ」の影響を強烈に受けていることは、当初のペンネームが「山たつひこ」だったことでわかります。

もちろん、当時における世間での認知度は「がきデカ」の方が圧倒的に上で、雲の上の存在。 そのネームバリューにあやかった、かなり姑息なペンネームだと誰もが思いました。 
実際、「こち亀」を山上たつひこの新作と間違えて単行本を買った少年は相当数いたはずですな。

この黒歴史、あまり語られませんね。





世界ケンカ旅行(東欧中東編 最終回)
カイロからアレクサンドリアまで、列車で移動した。 時速50キロくらいのゆっくりとしたスピードで風景を楽しみながらの旅である。 
ナイル川下流から地中海沿岸に広がる肥沃なデルタ地帯には緑も多く、様々な農作物も作られていた。
次に、ここから西に向かう列車に揺られながら1時間もすると、徐々に緑は少なくなり、ついには完全な砂漠地帯へと突入していく。

のんびりと走る鉄道に2時間以上揺られて、私はアレクサンドリアから100キロほど離れたエルアラメインの駅に到着した。

駅と呼ぶにしては、駅舎は小さく、まさに停車場と言うほうが相応しい粗末な施設であった。
アレクサンドリアとエルアラメインでは、列車は1日に2本しか行き来しない。 次の東方向の列車は夕方に1本あるだけであった。

プラットホームに立って四周を見渡すと、荒涼とした砂の大地が広がっていた。 半世紀昔、この砂漠の向こうで独英の精鋭部隊が激闘を繰り広げたと思うと胸が熱くなった。 当時、この駅のプラットフォームでは、アレクサンドリアからピストン輸送された連合軍の戦闘車両が下ろされ、次々と前線に移動していったはずである。

私はしばらく夢想に耽った。

地図で戦争博物館の位置を確認して、兵士にでもなったつもりで闊歩して目的地に向かう。 エルアラメイン戦争博物館の展示物は、欧米の同種のものと比べて特に目新しいものはないが、やはり、戦跡の近くに存在するということに意義があるのだと思う。
施設はお粗末で、それはカイロ博物館にも共通するものがあったが、エジプトの国家としてのレベルをそこに見ることができるとも言えるだろう。

私は見学を終えたあとも、帰りの列車を待つために、この、何もない町で6時間以上も過ごさなければならなかった。
日差しは強いが、乾燥していて汗はまったく出てこない。

結局、広がる砂漠と、一方で青々とした海が美しい地中海を臨みながら、今回の旅行の最終目的地を存分に堪能して時間を潰す以外になかった。

あちらこちらを歩いていると、アレクサンドリアに向かう乗り合いタクシーやバスがあることを知り、帰路はこれを使うことにした。

なんだかんだ考えながら、私はエルアラメインを後にした。 (未完)

世界ケンカ旅行(東欧中東編19)
バックパッカーにとって、訪問国の居心地がいいかどうかは、物価が安いかどうかが最重要ポイントになってくる。
しかし、ただ安ければいいというものではなく、国民性との兼ね合いや、治安・気候風土があるから話は複雑になる。

例えば、インドとネパールは物価においては同等だが、インド人に一癖あって、気候も微妙、北インドに限ればメシは日本のネコマンマ以下、という劣悪環境もあって、「インドの地獄、ネパールの天国」などと揶揄されたものであった。
ただし、これも個人の趣向に委ねられていることで、インドが大好きで仕方がない旅行者も実際に存在するからややこしい。

さて、エジプトに話を戻そう。
この国の物価は東欧と比較していい勝負。 ホテルはシングルで3ドルくらいからあるし、6ドル出せば1つ星ホテルに宿泊できた。
しかし、世俗化が進んでいるとは言え、ムスリム国の雰囲気というのは独特のものがあり、文字・数字も独特のアラビア語で、理解できないとすべてが模様にしか見えない。 
しかも、エジプト人というのは調子者、かつ、嘘つきで、わかりやすく言うと、「ゲゲゲの鬼太郎」のねずみ男に近い性格を持っていた。変にインド人と共通点の多い民族である。 まあ、モロッコ人のアクの強さに比較すると、多少は温厚な性格のようだ。

私はカイロ博物館に近いロータスホテルに宿泊していた。 シングル6ドルに朝食付きと格安の部屋であった。

到着した翌日には早速、ピラミッドとスフィンクスを見に行った。

この世界屈指の観光名所は市の郊外にあるというよりも、中心地の端に隣接していると言ったほうがわかりやすい。 ホテルからは直線距離で空港よりも近く、私は市内バスに乗って現場まで行った。
ちょうど、ピラミッドが位置する場所から西一面からは砂漠が広がっていて、それなりに緑地もあった市街地とは情景が一変していた。

さて、カイロ観光はわずか2日で終わり、私は北の港町・アレクサンドリアに向かった。
私の場合、エジプト旅行最大の目的はピラミッドや古王国の出土品を見ることではなく、第二次大戦の古戦場であるエルアラメインの地を踏むことであったが、こんな観光客も珍しかったと思う。




世界ケンカ旅行(東欧中東編18)
トルコ国内を旅行したのち、イスタンブールからエジプトの首都であるカイロに飛んだ。 
ここが今回の旅行で終点となる国となる。

空港に到着したのは夜10時頃、到着ロビーで今晩の宿はどうするか思案している時、同じくバックパッカーの2人連れが地図をフロアーに広げてあれこれ相談しているのを発見した。

国際空港というのは、市街地の中心から数十キロ程度離れた郊外に作られている場合が多い。 そこに降りた旅行者としては、公共の交通機関かタクシーを使うしかアクセスの方法はない。 しかし、都市のほぼ中心地に隣接している空港も存在する。
カイロ国際空港がそれに当たり、立地は中心地から10数キロ、歩いて3時間ほどだったから、並の体力ならそれほどの苦労なく歩いて中心地に辿り付ける距離であった。

「バスはないようだから、いっしょにタクシーをシェアしないか?」
私は男2人の白人旅行者を誘った。 大きなバックパックを背負っていて、寝袋やマットも持っている。 

彼らは床の地図から目を離して振り向いた。

「君はどこから来たのか?」
年長者らしき男が訊いてきた。 おおよそ20代後半に見える典型的バックパッカーといったところであろう。

「ああ、俺は日本人だ。安宿を調べてあるからそこに行かないか?」

「いや、俺たちはチェコから来たんだが、タクシーに乗るカネはないんだ、、、」
男は言った。

もう1人の男が続けた。
「チェコでは月収200ドルくらいしかなくてね、、、これから歩いて市内まで行くんだ」

「何キロくらいあるんだ?」
私は訊いた。

「10キロちょっとだから、3時間くらいかかるかな」

「それじゃあ、到着は深夜だな」

「ああ、そこに行くまでに適当な場所があれば、野宿しようと思っている」
2人は互いに目を合わせた。

彼らの装備を見ると、キャンプ道具一式を持っているようにも見える。 本気のようだ。
 
「じゃあ、俺も付き合うけどいいか?」
私は言った。 距離的には大したことはない。

興味も手伝って、私は歩いて深夜のカイロを歩くことにした。 夜のカイロは気温10度くらいだった。
我々3人は暗い幹線道路の舗道を横一列になって市の中心部に向かっていた。
時折、猛スピードで雲助タクシーが横を通り過ぎる。 しかし、止まってくれるタクシーは皆無であった。

1時間ほど歩いて、野宿に向いていそうなビルの軒下を見つけた。

「あそこで、寝ようか?」
チェコ人が私に勧めた。

道路からは死角になっていて、寝込みを襲われる危険もなさそうである。

「俺は寝袋もないし、このまま歩くよ」
私は断った。 
ただ、本当の理由は、このチェコ人たちが信用できなかったからである。

歩きながら話を聞いていると、旅程の半分くらいは野宿していると言い、ドロボウしながら旅行しているのかと疑わしいくらいの貧乏旅行を続けていたようだ。
辻強盗よりも、こいつらに身ぐるみ剥がされる可能性の方が高く思えた。

私は簡単に別れの挨拶を済ませて、夜陰の中をひたすら歩いた。








世界ケンカ旅行(東欧中東編17)
イスタンブールは歴史的に東西世界の交通の要衝だが、バックパッカーの世界でも同様である。
「モラ」に逗留する旅行者は、中東から北上してきた者と欧州から南下してきた者が混在して旅行談議に花を咲かせていた。

ユーラシア大陸横断ルート、つまり、インド・パキスタンからイランに入ってトルコにいたる経路を歩いた長期旅行者にとってみれば、このイスタンブールが大きな区切りとなり、さらに欧州に入る手前の休養地としての意味が大きい。
逆に、ここを起点とする一般的な南下ルートは、上記の逆方向に加えて、トルコからシリア、ヨルダンと渡り、イスラエルに入る経路である。 

私の場合は、偶然、ローカルのチケット屋でカイロまでの往復チケットを150ドル程度で購入できたので、直接エジプトに向かうことにした。 そして、出発までの1週間ほどをトルコ国内旅行に当てようというわけである。

さて、そんなある日、5人ほどの日本人が宿の共用スペースで雑談に興じていると、いつの間にか仲間に加わっていた青年がいることに気がついた。
30歳ほどの日本人男性は、端整な顔立ちでニヒルに笑う物静かな風体であった。
途中からメンバーに加わり、遠巻きに座って我々の雑談に耳を傾けていたが、話題が一段落したのを見て取り、初めて口を開いた。

「いやあ、皆さん、いろんな所を旅してこられたんですねえ、、、」
少々、上目遣いで、はにかんでいるような表情である。

「あなたはどこを回ってこられたんですか?」
場の中にいた旅行者の1人が挨拶代わりに聞いた。

「いや、」
青年は恥ずかしそうに前置きして続けた。

「もう、ここには2ヶ月くらいいるんですけど、、、」

全員の視線が集中した。 イスタンブールはエキゾチックで長期滞在しても飽きない魅力を持つが、それにしても物価はインドやタイほど安くないから、金銭的な面で長居する旅行者は珍しい。

「みなさん、お土産でカーペットなんかいかがですか?」

彼がこう唐突に話題を持っていくと、一瞬、場が白けた。 彼もその雰囲気を察知したらしく、言い訳をするように、説明した。

「いやね、近くの絨緞屋を知っているんですけど、もし、お土産とかで欲しければ紹介しますよ、、、」

「ほう、絨緞ですか? まあ、この宿で客を見つけるのは難しいでしょうね」
私は答えた。

ここでようやく青年の意図が読めてきた。

彼は絨緞屋と契約して、歩合制で収入を得ているのである。 押しなべて低姿勢なのは、倹約を美徳とするバックパッカーに何万円(モノによっては何十万円)もの高価な絨緞の購入を期待できないことがわかっていたからであって、顧客としての価値がない相手に対して商売を持ちかけているという負い目のようなものを感じているからであろう。

とりあえず、営業を持ちかけたものの、予想通り絨緞を買いたい旅行者がいないことがわかると、青年はそれ以上、勧誘するのはやめて、商売の話を始めた。

「で、 絨緞のセールスの仕事でもしているの?」
私は聞いた。

「いや、まあ、そんなところかな、、、観光客を紹介して、、、ね」

「へー、いい歩合もらってるんだろうね?」

「まあね、、20パー取ってます」
彼は笑みを見せた。

「20パーて、売り上げの20パーセント?」

「ええ。あれって、実はかなり安く仕入れているんですよ。例えば、30万円の絨緞なら、3万円で仕入れているわけ」

「そんな企業秘密バラしてもいいの?」

「ツアー客が相手ですから、まあ、皆さんとは関係ないということで、、、」

「ほほう」
みんなが興味深く耳を立てた。 彼は続けた。

「まあ、定価30万円を2割引いて、24万円で売ったとしますね? 客は交渉して安くなったと喜びますが、それでも粗利は21万あるわけですよ。 俺が歩合の6万を貰っても、店は15万儲かります」

彼は常に歩合を計算しているのか、なかなか頭の回転が速い。

「月にどれぐらい売るの?」
私は聞いた。

「そうですね、、、平均して150は売りますね、、多いときは300くらいかな」

「なに、え? じゃあ、月収30万は最低ラインてこと?」

「ですね、、、多い月は60くらいありました、、、」
彼は自信たっぷりに話した。

彼は続けた。
「俺って、安い絨緞は売らないんですよ。だいたい、狙い目は30から50の商品、で月に3枚くらい捌くわけです。客に代わって、交渉するフリをする。最初から2割引きが限度と決めているんですが、引く金額も大きいから客からは感謝されますよ」

私は彼が予想以上に稼いでいることに驚いたが、それ以上に、そういう手の内を曝け出していることに彼の優しい人柄を感じた。
彼は以後も、共用スペースで旅行者の雑談に参加していたのである。



世界ケンカ旅行(東欧中東編16)
我々はブカレストからソフィアを経由してイスタンブールに南下していた。

中央駅近くにある「モラ」というゲストハウスを基点に、2人は別行動で観光していた。

イスタンブールは東欧とは全然違ったアラブ的情緒に包まれており、特にグランバザールの中を歩いていると、不思議な気分になってくる。 東欧に比べると物価は高いものの、物資に溢れており、やっと現代社会に戻ったような気がした。

数日経って、一通りの観光を終えた頃である。

イスタンブールの観光名所である、アヤソフィアから歩いて数分の場所に古風なトルコ風カフェがあった。

ここは、私が泊まっていた日本人宿からも近く、雰囲気が良かったので1日のうちのいずれかの時間帯は必ずここに来て紅茶を飲んでいた。

このカフェは椅子に座る形式ではなく、客は靴を脱いでカーペットの上に座って、ちゃぶ台に置かれたカップをちびちびとすするのである。 背もたれがフカフカなので気持ちよい姿勢で長時間座っていられるのでありがたい。
店内は非常に狭く、6人も座れば満席となる。 四角い部屋の壁にもたれるような座席配置となっているために、正面に別の客が陣取れば、否応なく目が合ってしまうのが欠点ではあった。

この日、私がカフェを訪れたとき、客は私のほかに、中年の男女が2人いた。 入り口から入ると、目がちらりと合ってしまい、少し気まずくなる。
ここ数日の常連客であった私は、マスターに軽く目配せすると、彼は部屋の隅の座布団に案内した。

室内は、オスマン帝国時代を思わせるような古式の調度品で飾られていて、スルタンにでもなった気分になる。 
お茶が運ばれてきて、文庫本をパラパラとめくった頃、しばらく押し黙っていたカップルが会話を始めた。

2人のうち、どちらかが外国人であることは、会話が訛りの強い英語で行われていたことですぐにわかった。
最初は私を気にしてか、小声でのヒソヒソ話だったが、私が東洋人の観光客らしいということで、次第に声が大きくなっていった。

私は文庫本に集中しようとしたが、話の内容がだいたいわかるので、どうしても聞き耳を立ててしまう。
一通り、話を聞いて判明したのは、双方とも、40歳くらいだが、女はドイツ人。 観光旅行でトルコに来ているようだ。 男は現地人で、なぜかスーツにネクタイ姿で、浅黒い美男子である。

男は話が進むにつれて、女の肩になれなれしく手を回した。 彼女は取り立てて美人というわけではなく、肥満体で子供がいるような外見である。 どこかで見たような光景だと思ったら、昭和40年代のホストクラブのイメージがこんな感じなのだろう。 プレーボーイ風の男は、甘い言葉を耳元で囁くのだが、往年のアランドロンを思わせる。

女もまんざらではなさそうで、男が服の上からベタベタと触り始めても拒絶するでもなく、ニタニタしながら受け入れている。

しばらくすると、男が女の手の甲にキスし始めた。

2人とも、最初は私の存在を気に留めているようであったが、日本からの観光客であることは一目瞭然なので、どうでもよくなっていたのであろう。
ちなみに、トルコを旅行する東洋人と言えば、この頃は日本人か香港人のどちらかで、数は圧倒的に日本人の方が多かった。

気になっていたのは私の方で、読書がまったく手に付かない。

すると、男がだんだん大胆になってきて、抱擁を始めたと思ったら、2人は熱いキスを交わし始めた。
男は興奮してきたのか、女の服を脱がしにかかった。 大胆な行動である。

周辺を見渡すと、カフェのマスターも横から覗いていた。 彼の目が真剣なので思わず笑ってしまう。 

私の前面で繰り広げられる光景が、アメリカの3流ポルノ映画を観ているようで、性的興奮というよりは、笑いを誘う。 女優がデブのおばさんでは仕方がない。

結局のところ、最終的にはセックスに至るその手前で情事は終了した。

身なりを整えて、2人はカフェを後にするが、その時、トルコ人ホスト男と私の視線が合った。 

心なしか、男の表情は誇らしげであった。
世界ケンカ旅行(東欧中東編15)
その夜、我々はブカレストでも一流と思われるレストランでフルコースディナーを堪能した。
前菜からデザート・コーヒーまで付いて、総額は1人当たり3ドル程度。 

チャウシェスク大統領が処刑されて、社会が大混乱となっている最中である。 ある意味、ドサクサの状況ではあるが、外貨の価値が実態以上に強いのは旅行者にとってはいいことずくめには違いない。 しかも、インフレは隣のユーゴに比べれば無いに等しく、レートを日々気にかける必要もない。

食事を終えた我々は、ホテルへの帰路を急いだ。
表通りから裏通りに入り、少し薄暗くなった。 私は周囲を警戒して、暴漢が潜んでいないか確かめながら歩いた。

ホテルの前の通りは、夜陰の中にも街娼の数が昼間よりも増えていることが分かった。 およそ100メートルの通りに20~30名の女性が手持ちぶさたに佇んでいる。
しかし、一見すれば市内バスを待っているOLのように見えるほど商売っ気がまるでない。 いわゆる、「寄ってらっしゃい、オニイサン」的な勧誘は一切しないのも不思議である。 官憲を警戒してのことか? ただ、接近すると視線を合わせるだけであった。

木村さんが冷やかし程度に20代後半くらいの街娼に交渉を持ちかけた。

すると、ショートで10ドルという返答である。 

「へえ、安いなあ、、、」
私は言った。

ホテルのシングルルームが6ドル、フルコースディナーが3ドルという物価から推定すると、ショートで10ドルは相場と言える値段である。
ここに立っている女性たちは、ロシア人のように色白の美人とはいかないまでも、白人である。 しかも、娼婦特有のケバケバした化粧が無い分、素人っぽくて好感が持てた。

「いやあ、もう我慢できないっす、、、」
木村さんは腹を固めたようである。

我々は通りを行き来して、それぞれの娼婦の容姿を確認した。
しばらくして、木村さんが好みの女性をピックアップしてホテルに連れて行った。

部屋に帰ったあと、私は木村さんを案じながら身支度していると、木村さんがバックパックを脇に抱えて部屋に入ってきた。

「女が帰るまで、荷物預かってもらえませんか?」
娼婦が金品を盗むのを避けるため、私に託そうということである。

「今、部屋にいるの?」

「今、シャワー浴びさせてます」
2人は顔を見合わせて笑った。













世界ケンカ旅行(東欧中東編14)
我々はブカレストの中心地に位置していた、ホテル・カルパチにチェックインした。
トイレシャワーは共同で、部屋にはシングルベッドと机がひとつ置いてあるだけの殺風景な狭い部屋ではあった。 
一泊6ドルという値段だったが、東欧の1つ星クラスのホテルは総じて10ドル以下のようである。 

3階の窓からはホテルの正面を横切る通りに立っている娼婦たちが上から見下ろせた。 
昼間だというのに、この窓からでも10人以上は立っているのがわかる。

彼女たちは、地味な普段着姿で、ホテル入り口に来るまでに何人かとすれ違うまで、娼婦であるかどうかを判別できなかった。
ただ、娼婦独特の目線というのがあって、一度男と目が合うと、じっと視線を外さないで追い続けるのであるが、この点で素人女性との区別は案外簡単につく。

「昼間から凄い人数ですね」

「ああ、多分、この辺りは立ちんぼの巣窟なんだろう、、」
私は少し、夜の治安が気になった。

事実、駅から歩いてホテルに辿りつくまでに見たブカレストの風景は、ワルシャワやブダペストが美しい街並みを維持しているのに比べて、荒んでいるように見える。
どんな荒廃ぶりなのかを説明するのは難しい。
その荒み具合というのは、スプレーによる落書きだらけのベルリンとも全然違うし、内戦による疲弊感漂うベオグラードとも違っていた。

敢えて言うなら、中央駅近辺とか、繁華街で見かける浮浪者の数が東欧としては異常に多いレベルであった。
駅周辺では、既述のホームレス少年グループ、ジプシー、そして高齢者の乞食と、福祉の保護から外れた人々が挙って集まっているような印象である。
そして、裏通りに入れば、奢侈品が不足しているのか、化粧もまったくしていない街娼が普段着姿で立っているのである。 おそらく、そこいらの主婦が食い詰めての窮余の手段だと思われる。 
若い女は最後の最後で自分の体で勝負できるだけマシというもので、いつの時代も男は潰しがまったく利かないから救いがない。

我々は日が暮れるまでそれぞれの部屋で休息を取り、満を持して夕食のために外出することになった。

世界ケンカ旅行(東欧中東編13)
我々はベオグラードで3日滞在したのち、、鉄路でルーマニアに入った。
国境を越えてすぐ、トランシルバニア地方の有力都市であるティミショアラで1泊、その後、首都のブカレストに到着した。

ユーゴと同様、ルーマニアも基本はド田舎という印象である。
東欧諸国は、ほぼ同時期に社会主義のくびきから外れて、自由主義経済の仲間入りをしたわけであるが、ここより北にあるポーランドやチェコ、ハンガリーとは雰囲気がまるで違う。 ユーゴのような内戦状態でないだけ幸福ではあったが、酷く発展が遅れていたように見える。
人々が着ている服装もしゃれたものは少なく、隣国ハンガリーと比較しても、みすぼらしい。

私と木村さんは駅の外に出て、目的のホテルにどうやって行くか思案していたが、周辺を総数10人ほどの浮浪児が群れて歩き回っていた。 派閥があるようで、いくつかに分かれている。
油断をしていると荷物を持っていかれそうである。 治安の面ではベオグラードよりも格段に悪そうであった。 さすが、ジプシー発祥の地だけはある。

「ちょっと荷物を見ててくれないか?」
私は木村さんに周囲の警戒を頼んだ。

ガイドブックを取り出して、目的のホテルを探してみると、駅からわずか2キロしか離れていないので、風景を見ながら歩くことにした。
こういう場合、2人以上で移動する際は体力に差があると困るが、その点は木村さんも自分も歩くことが好きなので遠慮する必要がないのが嬉しい。

「30分くらい歩くけどいい?」
一応、聞いてみる。

木村さんは頷くと、駅の出入り口を指し示して、
「あの子供を見てください」
と視線を向けた。

年齢にして6歳から10歳くらいだろうか。5~6人で現地女性にまとわりついている。全員が少年であった。
中年女性は手荷物をしっかりと両手で保持して、ひったくりを警戒していた。
私もローマでジプシーの子供たちに囲まれた経験があったので、次にどうなるかは想像できた。

「ああやって、両手で荷物を押さえてるだろう? 取り囲んで、動けなくなったら、ポケットに手を入れるから、、、」
私は少年たちの行動を予想した。

「あ、本当だ!」
木村さんは思わず声を上げた。

少年たちは女性の周辺を取り囲んで、女性のコートの上から触り始めた。 財布などが入ってないか探っているのである。そのうち、ポケットに手を入れて露骨に物色を始めた。

耐えるだけだった女性は、さすがに堪忍袋の緒が切れたらしく、バッグを振り回して少年の頭を殴り飛ばした。 まるで食べ物にまとわりついている蝿を追い払うようである。
少年たちは、その迫力に圧倒されて四散してしまった。 ところが、悪びれる様子など微塵も感じさせずに、遠巻きに女性を見つめながら次のカモを探す行動に移るのである。

東欧で最も治安の悪い中央駅、、、チャウシェスク大統領の政策の失敗は、こんなところにも顕在化していたようであった。

我々はバックパックを背負うと、目的のホテルに向かった。






世界ケンカ旅行(東欧中東編12)
「メシ食えそうな店って全然ないですねえ」
木村さんは言った。

「おかしいな、、カフェーくらいあるはずなんだけど」
私は周辺を見回した。

腹をすかした我々はベオグラード中心部の繁華街を歩いていたが、それらしいレストランが見当たらない。
いくら経済が破綻していても、誰も外食をしないはずはない。 そんな国は見たことがない。

結局、繁華街を歩き回ってやっと見つけた場末の大衆食堂で食事をとる事にした。
通りに面したガラスからは、食堂の中が見える。客がそこそこ入っていて、白い割烹着のようなものを着た給仕の女性は、私が記憶している昔の小学校の給食おばさんのようだった。 ポーランドの「ミルクバー」と同様、公営の配給所みたいな場所か?

「ここにするか?」
私は木村さんを促した。

「腹も減ってるし仕方ないですね」
彼が窓から中を覗き込むと、客や従業員が一斉にこちらに振り向いた。
我々がよほど珍しいと見えるが、こんな反応はモスクワやポーランドなど、これまで歩いてきた東欧では見られなかったものである。率直に言って、あのロシア人よりも文化レベルが低そうな人々であった。キオスクに公然と並んでいた下劣系ポルノ雑誌が平気でいられるメンタリティーである。

我々は重い扉を開けてレストランに入った。

店内は4人掛けのテーブルが10個程度並んでいた。中年女性のウエイトレスが我々を指差して、現地語で何やら言いながら、奥のテーブルに座るように促した。嫌味な百姓のババアを彷彿とさせる憎憎しい表情である。

ロシア東欧で、こういう差別的な視線を受けたことは一度もなかっただけに、少しばかりショックを受けた。
1人なら、何も言わずに店を出ただろうが、木村さんがいたので、我慢してそこで食べることにした。

テーブルに座ってあたりを見渡すと、壁にメニューが書いてあり、その右側に価格が別紙に書かれて張ってあった。もちろん、価格は手書きのもので、外貨両替のように1日に複数回ということはないかも知れないが、多分、毎日書き換えられるのだろう。

手持ちのディナール紙幣を数えて目算してみると、5品くらい注文しても、1人2ドルくらいにしかならない。 やはり、物価はかなり安い。
メニューはロシア語と同じキュリル文字で書かれていて、何が何やらわからない。ということで、他の客が食べている美味しそうな皿を指差して、試しに注文した。

すると、隣で食事をしていた中年のオッサンがこちらを見て、自分の食べているポテトチップスを薦めてきた。 表情豊かに何やらしゃべっている。
我々はそのオッサンがおもしろかったので声を出して笑ってしまった。なぜなら、たかだかポテトチップスを薦めるにしては大袈裟だったからだ。

これまでの反応からして、セルビア人というのは、明らかに以北の国の人々とは違う。 良く言えば、彼らはフレンドリーで人懐こいが、悪く言えば、アクが強く、田舎者であった。 田舎者で行動に品がないという点ではロシア人と通じるものがあるが、ロシア人が無愛想無関心を装うのに対して、セルビア人は喜怒哀楽がすぐに表情に出る。

「こいつら、イタリア人みたいな奴らですね」
木村さんが言った。

「そうだな。イタリアの南の方の人。ナポリあたりの百姓とか、、、ギリシャ人もこんな感じだぜ」
私は続ける。

我々は他の客の視線を感じながら質素な料理を食べた。
異常な経済状況の中、人々がちょっとアレだったので、ボッタくられはしないかと会計では念を入れて計算したが、メニュー通りの支払いで済んだ。

基本的に人は悪くないようである。







世界ケンカ旅行(東欧中東編11)
ロシア、ポーランド、そして、チェコ、ハンガリーと社会主義体制が崩壊して資本主義に移行する途上の国々を旅行して実感するのは、やはりドルの現地通貨に対する強さであり、相対的物価の低さである。
しかも、ロシアを除いて、インフレはそれほど急激ではなく、社会は落ち着いているように見えた。

ところが、次の目的地であるユーゴスラビアは、物価の安定どころか国家がすでに分裂の危機という非常事態の最中にあり、東欧の中ではこの時点で最も混乱していたと言える。
ただし、ボスニア・ヘルツエゴビナ地方はすでに内戦状態にあったが、セルビア地方は戦火とは表向き無縁であった。

トルコが最終目的地ということで、私と木村青年とはいっしょに移動することになった。 我々が向かったのは、セルビアにあって一応の首都でもあったベオグラードである。 ここは国際列車も乗り入れており、治安という意味では平静を保っていた。 
問題はユーゴスラビアが統一国家として事実上、崩壊していたために、通貨の信用度がゼロに等しくなり、極端なハイパーインフレの真っ最中だったことである。

二人は、ハンガリー・ユーゴ国境近くにあるセゲドという街からローカル列車を乗り継いでユーゴに入国し、ベオグラードまでやってきた。 入国以前でのビザ事前取得が普通だった東欧の中にあって、ユーゴに関しては観光ビザは必要ない。
ここは冷戦最中においても西側からの観光旅行が比較的自由だった国柄である。

昼過ぎ頃に我々はベオグラード中央駅に到着した。

やはり、平和なハンガリーとは違った、人々の暗い表情がベオグラードの第一印象だが、そもそも、ハンガリーとセルビアでは民度が随分と違うと感じた。 というのも、ベオグラード駅の構内にあるキオスクでは、堂々とポルノ雑誌が販売されていて、刺激的な写真が公共の場で晒されていたからである。
もちろん、西欧でもポルノ雑誌は売られているが、特殊なアダルトショップが中心で、公共の場で人々の目に触れるような場所に置かれてはいない。 ポーランドやハンガリー、チェコでの状況はわからないが、少なくとも旅行者の視線に触れるようなキオスクに置かれているようなことはなかった。
ところが、ベオグラード中央駅では、往来する人々の中に混じって、ハードコアの三流エロ雑誌が堂々と売られていたのである。
なんとも、ここの人々のモラルの低さを表していた。 これは単に内戦下の荒んだ心情の具現というのではなく、民族としての文化レベルが低俗なんだということを思い知らされる。

我々は駅を出ると、そこから歩いて20分ほどにある、タスホテルに向かった。
そこはテレサハウスの情報ノートに記されていたホテルで、個室でも割安で泊まれるという。

タスホテルは3階建ての建物で旧市街の端の込み入った一角にあった。
狭い1階のレセプションでは、中年の男がチェックインを受け付けていた。

壁には時々の米ドル・独マルクと現地通貨ディナールとの為替レートが記されていた。黒板にチョークで殴り書きされているようにも見える為替レートは、1日のうち、午前と午後で合わせて2回、最新レートに書き換えられるということである。 

一応、部屋を見せてもらってから、3泊分の宿代である、9ドルを支払った。
シャワートイレは共同だったが、個室ベッド付きで1泊3ドルという破格の安さである。ホテルは米10ドル紙幣で受け取って、つり銭はディナール紙幣で返ってきた。

返ってきた現地紙幣を見て驚いたのは、その圧倒的桁の多さであった。わずか1ドル分が、10億ディナール紙幣数枚分になって返ってきたのである。

レセプションに掲示してある数字との桁数の違いを男性に指摘すると、ゼロの数が多すぎるので、末尾6桁を省略して交換レートを表示するのが慣例らしい。

話を聞いてさらに驚いたのは、交換レートが変動する毎に、だいたい、ディナールが1.5倍増えていくという。 ということは、1日に2回変動するならば、翌日の朝には前日の朝の2.2倍以上になるということである。

つまり、この街では朝に交換したディナールは午前中に使いきり、午後に再び小額ドルを交換して夜までに使い切る、、、そんな工夫をしないと、手持ち外貨の価値を最大限有効に消費することはできない。

「どうする?ここで両替するか?」
私は木村さんに聞いた。 もちろん、外の両替屋で交換することを促す意味である。

「確か、駅の近くに両替屋がありましたね。そこで替えましょう」
彼はすぐさま同意した。ホテルより、専門の両替屋の方がレートがいいのが普通である。

我々はホテルを出て、駅まで歩いたが、繁華街に両替屋を見つけてそこに入った。

専門の両替屋でも、表示は米ドルと独マルクの2種類しか扱っていないようである。
隣国であるハンガリーやルーマニアの通貨は表面上は扱っていないようだ。 頻繁にレートが変わるということを事前に聞いていたので、店頭に張ってあった、紙の切れ端のようなものにボールペンで書かれた交換レート表も不思議に思えない。
やはり、ここでも数字の末尾6桁が省略されていたから、ある種の慣例になっているのだろう。

「とりあえず、俺が10ドル換えてみようか」
私は他の東欧の物価から考えて、レストランで食事をしても1回5ドルで釣銭がくる程度だろうと想像した。
試しに10ドルだけ交換しようというわけである。 私の提案に、木村さんは同意した。

「そうしますか。じゃあ、次は自分が10ドル換えます」

私が10ドル紙幣を差し出すと、係りの女性は、赤い紙幣を数十枚ほど数えて手渡した。 
小額紙幣の札束ではなくて、ある程度まとまった額面の紙幣で受け取れるようなので内心ホッとした。

「じゃあ、メシでもいくかい?」
我々は両替屋を出た。









世界ケンカ旅行(東欧中東編10)
「じゃあ、あそこが空いてますから、どうぞ、、」
ワラビさんは私に寝るスペースを指図した。

彼は、小柄で20代前半、本名は別にあるが、埼玉県の蕨市から来ているのでテレサがそう呼んでいるだけだという。
彼も長期旅行の最中だが、宿泊料とメシ代をタダにしてもらうのと引き換えにドミトリー内の雑務をやっていた。
宿泊者は彼のことを「番頭さん」と呼んでいた。 前任者がいて、彼は二代目の番頭だそうである。

テレサハウスは、10名程度が雑魚寝できる大部屋と、ベッドが1つだけ置いてある個室が1つ、合わせて2部屋しかない。大部屋には、床に直接マットが敷いてあり、各自が毛布を被って寝るだけの質素なものであった。

宿泊料は、ドミが5ドル程度、個室が10ドル程度である。
居心地がいいのか、ほとんどの宿泊者は1週間程度滞在するという。 テレサ自身は別のアパートに住んでいて、必要に応じてドミトリーに顔を出すだけで、番頭が雑務のすべてを仕切っている。
テレサ以外には、小学生の息子がよく遊びに来て、日本人相手に習いたての空手の型を披露していた。

テレサハウスは情報ノートが充実していて、古いものから順に保存されていた。 日本人番頭が管理しているようである。
私が泊まった時点でも10冊程度の情報ノートが回し読みされていて、それを読破するだけでも半日は必要であった。 特に、東欧と言えば、激変の最中で、市販のガイドブックに書かれている内容が違っていたりすることも多いから、ここの情報ノートは重宝した。

テレサハウスでの滞在が3日目くらいになった頃である。

すでに市内観光は済ませて、独特の居心地の良さから、いわゆる「沈没」の心境に入りつつあった。 
朝食は同室の日本人と適当に連れ合って、歩いてすぐのマクドナルドに行き、昼食は少し離れた中華料理屋で取る。 夕食はスーパーで買ってきた食材で自炊するというパターンであった。

その日、すでに夕食も終わって、日本人同士の雑談タイムに差し掛かろうかという頃であった。

だいたい、毎日、午前中には誰かが次の目的地に旅立ち、午後から夕方にかけて、ニューカマーがドミに入ってくる。
夜の7時を過ぎた頃、ドアを開けて入ってきたのは、これまた強烈な個性を持った旅行者であった。

木村さんを初めて見た瞬間、男か女かよくわからなかった。
年齢は20代半ばといったところ、胸まで伸ばしたロングヘアに、耳と鼻にピアスを付けている。 黒のスパッツ姿からは華奢な下半身の輪郭がはっきりとわかる。60年代のヒッピーのようなスタイルとは少し違って、ストレートのロングヘアはちゃんと手入れされていて、光沢を放っていた。 一見して女性に見えるが、身長が175センチくらいあって、肩幅の広さは男性のそれである。

第一声を発して、野太い声を聞いてから男性であることがようやくわかった。

日本人宿のドミトリーの流儀としては、このようなニューカマーはすぐさま仲間に入れるので、旅行話は尽きることはない。
木村さんは、フィンランドのヘルシンキから旅行を開始して、そのまま南下するルートを取ってブダペストに到着したという。

「いやあ~、ポーランドではレイプされそうになったけど、なんとか貞操は守りました~」
木村さんは取って置きの経験談を披露した。
彼はいつもニコニコと笑顔を絶やさない話し方をして、好感を持てるが、他方で無責任な学生気分のようなものを感じる。

「ほう、どこで?」
4~5人の日本人が興味津々の視線を彼に向けた。

「長距離トラックでヒッチハイクしていたんだけど、車を脇に停めらて、いきなりキスしてきたんですよ~」
彼は言った。

「日本人から見ても、男か女かわかりにくいのに、こっちの白人から見たら絶対に女だよな」
誰かが呟く。

「で、押し倒されてレイプされそうになったんで、チンポを見せて、俺は男だ!と言ったら、大人しくなりましたよ」

「両刀使いじゃなくてよかったよな」
みんな頷いた。

私は変な奴だと、思ったが、まさかこの男と後の約1ヶ月ほど、トルコまでいっしょに旅行することになるなど、この時点では思いもよらなかったのである。








世界ケンカ旅行(東欧中東編9)
ベルリンから、チェコのプラハを経て、ハンガリーの首都であるブダペストに慌しく移動した。 

ケレティ駅のプラットフォームに列車から降りると、現地人が次々と声を掛けてくる。 終着駅で国際列車を待ち受けて客引きをしていたのである。 目的は宿泊施設の斡旋とでも言おうか、自分の家の一室を客室に当てて、旅行者を泊めていた。 

冷やかしで少し話を聞いてみると、やはり1泊10ドルが相場のようで、チェコでもこの値段が一番多かった。

私は客引きを振り切って、目的だったユースに向かった。

ブダペストの中心部には、バックパッカーには有名だった日本人宿が2件あった。
通称ヘレナハウスとテレサハウスである。どちらも非公式の宿泊施設で、普通のアパートの一世帯をドミトリーとして提供していた。 テレサもヘレナも経営している女性の名前が由来となっている。

どちらに行くか迷ったが、各国の情報ノートに記されていたのはテレサハウスの方が多く、こちらの方が有名だったことから、テレサハウスに行くことにした。

ケレティ駅から歩いて30分もしない場所にテレサハウスはあった。
市内観光には申し分のないロケーションである。

アパートの四周を囲む外塀入り口のインターホンから呼ぶと、主であるテレサらしき中年女性の声で門から入るように指示がある。 門から中に入ると、彼女自身がアパートの窓から手を振って所在する部屋を指し示していた。

私は階段を上がって3階のフロアーにたどり着いた。もちろん、テレサハウスを示す表札のようなものは一切ない。
テレサは私をドミトリー部屋まで導いた。

すると、日本人の青年が中にいて、テレサが「この人はワラビさんです」と紹介した。
世界ケンカ旅行(東欧中東編8)
クラクフからの夜行列車はベルリンの中心部にある動物園駅に到着した。

物価も安く、居心地の良かったポーランドからベルリンに来るのは気が引けたが、やはり、ここまで来たのであれば壁崩壊後の統合された大ベルリンというのを見てみたいというのがここに寄った理由である。

東西に分かれていた頃のベルリンのイメージは、あまり良くなかった。 
西ベルリンはパリのようなコスモポリタン都市で、退廃した雰囲気は至る所にあった落書きから感じとれた。
東ベルリンは大衆車トラバントの排気ガスに覆われた暗い街並みであった。 おそらく、統合したあとの東ベルリンは西ベルリンに経済的に侵食されているに違いない。

ここでは特別に観光したい場所はなかったが、やはり、絶対にやってみたいことが一つあった。 それは、ティアガルテン(ベルリン中心地にある公園)から歩いてウンターデンリンデンまでの幅広い一本道を堂々と歩いてみるということである。

どういうことかというと、壁があった頃は、ちょうどブランデンブルク門の後ろあたりが東西の境界となっていて、西ベルリン側から眺めると、落書きで埋め尽くされた壁に遮られるように大通りが行き止まりになっていた。 
私が初めてここに来た際は、東西両側から立ってブランデンブルク門を臨んだが、今回はこのプロムナードを闊歩して、門を横目にウンターデンリンデンに出てみることで、壁の崩壊を実感したかったわけである。

もうひとつ、ベルリンでの所用は、これから入る東欧のビザを取得することであった。
チェコ、ハンガリー、ルーマニア、そしてブルガリアの四カ国のビザをここでまとめて取得しようというのである。
ちなみに、内戦中のユーゴスラビアに関しては、セルビアのベオグラードに寄るつもりだったが、ここのビザは不要であった。

駅で3日分の滞在費を独マルクに両替して、徒歩で15分ほどのユースホステルに居を確保。 以前と同様、昼はロックアウトで仮眠も取れないので、 荷物を預けて、さっそくスタート地点となるティアガルテンの戦勝記念塔に向かった。

散歩コースとして市民に親しまれている緑豊かな公園を歩き、ウンターデンリンデン通りまで直線で通じている並木道に出る。

戦勝記念塔を背に、東にひたすら歩くと遠くにブランデンブルグ門が見えてくる。
やがて、それは大きくなり、左手に旧帝国議会が現れてきた(まだ連邦議会が移る前で博物館だった)。

当然ながら、かつては存在した「壁」はない。

私はそのまま歩いて旧東ベルリン側に出た。

なんとも感慨深い瞬間であった。


世界ケンカ旅行(東欧中東編7)
アウシュビッツから歩いて30分ほど、少し離れた広大な敷地に、ビルケナウ収容所跡があった。
ここは、アウシュビッツとセットになって公開されていた。

アウシュビッツは旧ポーランド軍駐屯地を接収して使用しており、建物がしっかりしたものになっていた。 収容人員1万人規模ながらも正規刑務所のような施設を維持していた。
これに対して、ビルケナウは10万人規模の収容者数に対応するために応急的に造成した施設であって、粗製バラックの集合体のような印象は否めない。

もうひとつ、アウシュビッツが管理された博物館として、公開に相応しい最低レベルを維持していたのに対して、ビルケナウの管理はいまひとつ行き届いていなかった。 特に、元のガス室とされる施設は、破壊されたままの瓦礫の山になっていて、公開するには手抜きが酷い。 
ロシアにも共通して言えることだが、敵国ドイツに関する展示は概して手抜きされており、それは国民感情のようなものが作用しているはずである。

私は1時間ほどで、このビルケナウ収容所をぐるりと見学した。 

最も印象に残るのは、ガス室で殺した遺体を処理する焼却場跡であった。 このビルケナウ収容所だけで百万人以上のユダヤ人が殺されたと宣伝されていたが、施設を見る限り、その数字は戦後に捏造された、誇大なものであろうことが想像できる。

少し、試算してみよう。

ビルケナウ収容所の焼却炉には、死体の出し入れ口が仮に10個あったとする(実際はもっと少ない)。 死体を灰になるまで焼くのに1時間を必要するとして、1日に処理できる死体数は、240体(24時間フル稼働として)。
1年では、(240×365で)87600体となる。
ビルケナウが開設されたのが、独ソ戦勃発後の1941年暮頃なので、便宜上、1942年から1945年敗戦までの、3年半を稼動期間としてみると、(87600×3.5)306600体と計算できる。 

前提となる基本データを甘くして、死体の完全焼却にかかる時間を30分として試算してみても、出てくる数字は、613200体。 
私が、犠牲者数を恣意的に増やそうとしても、この数字が限界である。

私が特に優れた研究者とかいうのではなく、常識的に試算すれば、ビルケナウ収容所における犠牲者は、少なく見積もって10万人程度、盛りに盛って、恣意的に多く見積もっても60万人程度であると簡単に推定できるのである。 

とてもじゃないが、100万人以上なんていうのは、物理的にあり得ない数字であることは誰でもわかる。

問題は、こういった合理的試算が、ことナチスに関する事象に対してはタブーとされるような、歪んだ学術言論空間が世界を覆っていることなのだ。

私は複雑な心境でビルケナウを後にして、クラクフのユースに戻った。 

次の目的地は統合したばかりのドイツである。
世界ケンカ旅行(東欧中東編6)
ナチスドイツのユダヤ人迫害と大量虐殺の象徴として知られる「アウシュビッツ収容所」跡は、ポーランドの古都であるクラクフの郊外、オシフィエンチム市に博物館として一般公開されていた。

この博物館は負の遺産として、現在ではポーランドで最も有名な観光地の一つとして位置付けされているが、冷戦崩壊直後においても、ここを訪れる外国人は多かった。 とは言っても、バスが次々と乗り付けて観光客で溢れているような状況ではない。

私がローカルバスでここまで来る際には、乗客は3~4人、観光客は自分1人で、寂しくバスから降車した。

ヨーロッパの行楽シーズンはとうに過ぎていたので当たり前だが、晩秋のアウシュビッツを寂しく見学する身にしてみれば、妙に人恋しい感傷的な気分にさせられる。 

しばらく歩いて、博物館にいよいよ入る時が来た。 収容所の建物が見えてくる。

正門の上方に、「ARBEIT MACHT FREI」(労働は自由にする)のスローガンが躍るの眺めていると、なぜか映画「エクソシスト」のテーマ、「チューブラーベルズ」の旋律が脳裏をかすめる。
悪魔祓いに臨むマックス・フォン・シドー演じるメリン神父になった心境である。 私には霊能力などというものはないが、背中がゾクゾクしてくるから不思議だ。 

入場料はタダであった。建物に入って、展示物を見るが、視界の中に他の入場者がいないというのは、ここでは不気味である。

博物館そのものが、かつての収容施設だったこともあり、使用時の雰囲気がストレートに伝わってくる。
展示物は、文書の類と、収容者の所有物や衣服類が中心であったが、未整理も含めて、かなり雑然と置いてあるような印象であった。 博物館としての完成度はかなり低い。

おそらく、ここで見学者の心を揺さぶる展示物は、かつての収容者とされる人々の当局管理用の顔写真であろう。
収容者は3枚の写真、すなわち、正面・横顔・斜め向きの3方向からの写真が撮られた。そして、これらの写真が壁一面に数百人分程度が展示目的で張られていた。
で、これが実に鮮明に保存されていて、つい昨日に撮られた写真かと錯覚するほど生き生きとしている。

衝撃を受けたのは、これらの収容者写真の中に、少年少女も混じっていたことであった。 あらためて写真で見ると、生々しいものであった。

ドイツ人の几帳面さを現すのは、このような収容者の細部に及ぶ記録を写真や文書で細かく管理していたことである。

世界ケンカ旅行(東欧中東編5)
私が古都クラクフにやってきたのは、もちろん、アウシュビッツ絶滅収容所跡を見学するためである。

列車から降りて駅を出ると、旧市街の古い町並みが全面に広がっていた。 
観光都市としては、むしろワルシャワよりも魅力に溢れていたのが、このクラクフである。 綺麗に整備された駅前の街並みを抜けて、街外れにあったユースホステルまで歩いた。

30分ほど西に歩くと、少し分かりにくい所にユースはあった。 かなり大規模で、100人は収容できそうである。

チェックインを済ませて割り当てられた4人部屋に入ってみると、すでに2台のベッドは埋まっており、先客はこれまた日本人のようであった。 同部屋の住人は外出していたが、ベッド上に散乱していた生活用品に混じって、日本語の文庫本が無造作に混じっていたのである。

ヨーロッパのユースでは日本人旅行者と相部屋することが多かったが、これは偶然ではなく、やはり、意図的に同室にされていたんだろうと思う。
大別すると、同じ日本人旅行者でも、敢えて日本人を避けている旅行者と、逆に日本人同士で意気投合する傾向の旅行者に分かれていた。 私の場合は日本人とつるんで食事をしたりするのが楽しみだったので、こういう配慮(あるいは差別)は歓迎であった。

このユースには、レセプション近くの図書コーナーに誰が置いたか日本語の情報ノートがあった。
パラパラめくると、やはりアウシュビッツへの交通などが詳しく書いてあった。これをメモ帳に転写して検討してみる。
アウシュビッツへは、ほぼ直通のバスが駅前から出ていた。

さっそく翌日に行くことにした。

世界ケンカ旅行(東欧中東編4)
オルスチンからワルシャワに戻り、ユースホステルに逗留した。
旧市街近くにあるユースは便利な場所にあるが、3連泊が限度で、じっくりと腰を落ち着いてワルシャワ観光するには物足りない。

とりあえず、旧市街を歩いてみた。

ワルシャワは独ソ戦の最終段階で、市民が武装蜂起して、ドイツの占領軍に抵抗を試みた。しかし、期待していたソ連軍の支援は遂に得られず、あっさりと鎮圧されてしまったのである。
実際は、蜂起を煽ったソ連に支援する気はまったくなく、ワルシャワ市街地が目視で観測できる位置で進撃を停止させていた。
再占領後の抵抗分子処置の手間を省くために、ドイツ軍による鎮圧完了を待っていたのである。
アンジェイ・ワイダ監督の代表作「地下水道」では、この武装闘争で死んでいく蜂起部隊の惨めな敗北が描かれていたのがよく知られている。
このワルシャワ蜂起に激怒したヒトラーは報復として蜂起に対する焦土作戦を許可し、旧市街地は瓦礫と化した。したがって、この地区にある建物はすべて戦後に作られたものである。
ワルシャワ市民の闘争の記録は、軍事博物館の主要な展示項目となっていて、無謀とも言える蜂起の細部が再現されていた。

旧市街以外はどうかと言うと、例えば中央駅周辺の一帯は、ソ連風の集合アパートが密集している情景で、歴史ある街としての趣があまり感じられない。

私はワルシャワ観光を早々に切り上げて、次の目的地であるクラクフに向かった。
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