FC2ブログ
ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
世界ケンカ旅行(東アフリカ編)4
午前と午後で集団スリと路上首絞め強盗に遭うという散々な1日であったが、理由はいろいろ考えられる。

事前に入手した情報が少なすぎたということが大きい。 私が使用していたロンリープラネットのガイドには「夜間には強盗が多発」との記述はあったが、昼間の治安については触れていなかった。 欧米の旅行ガイドブックだけではなく、世界中のマスコミ全般に言えることではあるが、アフリカの記述がネガティブ情報に関しては及び腰になる印象は否めない。 
これは、日本でいうなら、中国や朝鮮半島に対する過去の歴史に起因する贖罪意識が強烈であるがゆえに、中国人や朝鮮人の悪い面を正当に評価できないマスコミに良く似ている。 つまり、欧米列強がアフリカを植民地として分割したり、奴隷の供給地であった歴史が存在するが故に、贖罪意識からネガティブ情報を伝えようとしない一面がある。
実態のブラックアフリカはまさに暗黒大陸、土人の大地そのものである。 アフリカ人は、文明国家の人々とまったく違う。 こういう一面が正確に伝わっていないから、誤解が生じるのであろう。

その日の夜、会う旅行者に対しては自らの経験を話して、必ず注意を促した。
驚いたことに、当日ドミトリーにいた日本人のうち、1人が同様の首絞め強盗の被害に遭っているという。 しかも、ダウンタウンではなくて、閑静な官庁街の大通りで首絞め強盗に襲われたというから、この街の治安は狂っていた。
彼の話によると、日本大使館もあるケニヤッタ・アベニューという大通りを歩いていると、広い舗道をゆっくりと歩いていた現地人の男たちを追い越した途端、その5人が突然後ろから襲ってきたのだという。 彼は走って逃げて難を逃れた。

話を総合すると、ナイロビの強盗はナイフ・拳銃のような武器をちらつかせて脅すのではなく、集団で不意を衝いて後方から羽交い絞めにし、カバンを引ったくるか、財布などの携帯品を物色するのが手口のようだ。
真昼間でそんな状況なのだから夜間は推して知るべしで、ダウンタウンのディスコなどに遊びに行く際は、必ずタクシーを使うという。

ただ、確かに犯行自体は凶悪だが、同じ路上強盗でも中南米のホールドアップとは一味違って、犯行グループの間抜けさも感じられる。 多人数で一斉に襲い掛かるわりには、詰めが甘く周到さもない。

ここに黒人の資質があるのかも知れない。
世界ケンカ旅行(東アフリカ編)3
ナイロビの中心部は概ね1キロ四方に収まるコンパクトな都市設計となっていた。
この1キロ四方のエリア内には、各種政府機関や行政機関、各国の大使館、そして一流ホテル、銀行、航空会社を含む商業施設が集中しており、これらのどこにも気軽に歩いて行けるという便利さである。 中心部の概ね東半分がダウンタウン、西半分が官庁ビジネス地区になっているが、雰囲気はまったく違う。 
官庁街で両替を済ませて、その足でダウンタウンへ入ると情景の変化に少し戸惑う。

ナイロビは東アフリカの代表的都市ということで、もちろん、日本人宿もある。 ダウンタウンの真ん中にあるイクバルホテルがそうで、ドミトリーが4ドル程度であった。
私は一路、このホテルを目指して歩いた。

イクバルホテルは人通りの激しい交通の要衝にあった。
チェックインして広いドミトリーに入ると、昼間なのに部屋の住人の半数以上が雑談していた。 私のように、これから旅行を開始する者、そして、すでに旅行を終えて帰りのフライトを待つだけの人、それぞれの旅行者が情報交換やバカ話に興じていた。 私は挨拶もほどほどに食事のためにすぐに外出してしまったので、集団スリの話をする機会はまだなかった。

ホテルを出て所用を済ませたあと、ダウンタウンを歩いて適当なレストランを見つけて中に入った。
カランガと呼ばれる、じゃがいもとニンジン、そして牛肉の角煮をケチャップをベースに煮込んだ料理が日本人の口に合う。 これとライスをセットにして食べるのが以後、習慣になるほど気に入った。

食事が終わり、ホテルに戻るために雑踏のダウンタウンを歩いていた。
昼下がりの繁華街ということで、舗道には老若男女がひしめき合って歩いていた。

その時、突然、喉に圧迫を感じた。

何者かが後ろから私を羽交い絞めにしているのである。 
それとほぼ同時に、私の両腕を左右から掴む黒い手が見えた。

私は真昼間の雑踏の中にいるということで、首絞め強盗にはまったく無警戒、その瞬間は何が起こったのかまったくわからなかった。

人間というものは、予期せず発生したことに対しては一瞬、体が硬直してしまうものである。思考が追いついて、実際の行動に移行するまでには、少なくとも数秒はかかる。
ただ、私の場合、この2年前に米国に滞在していた頃に傭兵学校で徒手格闘の訓練を行ったことがあった。その中で、背後からの首絞めを前提とした組み手を重点的に繰り返した経験が役に立った。 危機に際して、私の身体は思考より先に、反射神経のレベルで動いてくれたのだ。

「ドリャアアアアアアアアア」
気合一発、無意識に大声を発した。 周辺の通行人が一斉にこちらを振り向いた。

ところが、この気合が思わぬ効果を発揮してくれたらしく、私を捕らえた強盗たちは一瞬気後れしたのか、動きが止まったように感じた。

私は体を左右に振って、後ろに密着して首を絞めている奴の脇腹に肘打ちを5、6発ほど連打した。 相手は肘打ちを避けるために、私の背中から少し距離を置く。 この姿勢からの肘打ちはそれ自体には効果はないが、相手を嫌がらせるには充分であった。

私は姿勢を屈めて相手の懐に入る格好となった。 その瞬間、ちょうど柔道の一本背負いに近い態勢のまま、巻き投げを打った。

2人は同時に宙に浮いた。 直後、相手は地面に肩から背中の部分を強く打ちつけた。 その衝撃は、相手の体を通じて間接的に私にも伝わってきた。

地面はコンクリートの舗道だったから、後頭部を強く打てば、2人分の体重が載っているだけに死亡することもあり得る危険な技である。 しかし、そんなことを考えて手加減する余裕などなかった。 私は持ちうるパワーを全力で使い、相手を地面に叩きつけた。

首を絞めていた腕が緩くなり、私は抜け出した。 相手は私よりも一回り大柄な現地人の男であった。 一瞬、奴の歪んだ表情が視界に入った。 
男を投げた際、私のメガネは地面に落ちたももの、レンズは割れていなかった。 すぐさまメガネを掛け直して、私は周辺を見渡した。
首を絞めていた男以外にも、他に最低2人は仲間がいるはずだが、周辺には通行人しかいない。 逃げていった形跡もないので、おそらく、通行人に混じって素知らぬ顔をして近くにいるはずである。

私はその場から全力で走って逃げた。 地面に倒れた男がその後どうなったかは知らないが、激しく体を打ちつけているはずである。
驚くべきは、そのような路上強盗が起こったにも関わらず、雑踏を行き来する人々は無関心で、中にはニヤニヤと嘲笑している男女もいたのである。
世界ケンカ旅行(東アフリカ編)2
空港を出発した大型バスは、途中、停留所で客を拾いながら市内に向かって進んでいた。
粗末なバラック小屋が並ぶ貧民街のような風景を横目に,バスはさらに進む。 近代的な空港とのギャップが印象付けられる。
市内に近づくにつれて、バスは乗客で溢れていった。 市内中心部の近代的なビルが見えてきた頃には、車内はすし詰め状態であった。

いよいよ、目的地近くに差し掛かる。
私の席が後方に位置していたため、バスが停留所に停まった時点で直ぐに降車できるように前方の出入り口付近に予め移動しておく必要がある。 私は座席から立ち上がった。

バス前方に向かおうと一歩進んだ時、異変が起こった。

私の座席周辺で立っていた乗客たち、数にして5~6人の現地人が一斉に私を取り囲んできたのである。 
私はバックパックを左手に持ち、右手で進行方向を探りながら前に進もうとするが、前方に立っている3人ほどが、体重をかけて私を押し返してくる。
最初は、車内が混雑して身動きが取れないのかと考えたが、現地人との押し合いを続けるうち、自分の周りに密着している乗客は意図的に私を取り囲んで動けないように妨害しているような気がしてきた。

そうこうするうち、後ろから、横から、黒い手が4~5本、スッと伸びてきて、私のズボンや上着のポケットをまさぐり始めた。

「スリだ!」
瞬間そう思った。
知らない間に、集団スリグループに取り囲まれていたのである。

「ウォリャアアアアア」
私は自分の恐怖心を紛らわす意味も含めて、複式呼吸で気合を入れた。 

同時に、肘を左右に振って進路を開け、摺り足で一歩ずつ前に進んだ。
周囲から伸びてきた手は私のポケットに指を突っ込んで中にあるものを掴み出そうとしているのが感覚でわかる。
私はそれに構わず、タックルの要領で体を左右に振りながら、ようやくの思いで出口正面まで辿りついた。

ほどなくバスは停車して、私は逃げるように降りた。
被害を確認するために、衣服を手で触って調べてみた。 幸いにも、ナイフとかで切られてはいなかったが、ポケットに入れていたものは、すべて無くなっていた。

空港で両替した現地通貨であるケニアシリングも盗られた。

バスを降りて冷静になったところであらためて考えた。

最低でも確実に6人はいたはずである。
彼らは一般乗客のフリをしてバスに乗り込み、私をマークして周辺に立っていたのである。 集団スリとしては単純で荒っぽい手口であるが、ナイフでバックパックやズボンを切られなかったのが救いだった。

入国ほどなくして、ナイロビという街の洗礼を受けた一件であった。












世界ケンカ旅行(東アフリカ編)1
1994年 2月 ナイロビ

貧乏旅行を是とするバックパッカーのスタイルは以下に分類することができるだろう。 

まず、ひとつのエリア、例えば東南アジアを徹底的に周遊するとか、インドをくまなく歩き回るとか、地域を限定するタイプ。 そして、その対極にあるのが、とにかく片っ端から独立国を訪問して、100カ国踏破を目指すとか、地球上の独立国すべてを訪問するとか、国の数を追及していくタイプである。 ただし、後者の場合は、趣味として旅行を楽しむというよりは、人生が旅行を軸に展開していくということになる。

私の場合は、旅行自体が好きと言うのではなく、何らかのテーマを見つけて旅行の口実にするタイプだったので、もとより、プラックアフリカを旅する動機というものがない。 しかし、とりあえず若い間に行っておかないと生涯訪れることはないとわかっていたので、重い腰を上げることにした。

航空券はバンコクのカオサン通りにあるチケット屋で購入。 最も安いエジプト航空は、3ヶ月オープンで7万円程度。
エジプト航空のバンコク発カイロ経由便は、乗り換え時にカイロでのホテル1泊付で、外出も可能だったが、ホテルには日が沈んでからの到着だったので、観光に出ることはなかった。 
翌日、カイロを出発。 ナイロビへの空路は所要時間5時間程度で、バンコク・カイロ間に比してそれほど長くは感じなかった。

丸1日をかけて、私はナイロビに到着する。

ケニアの首都であるナイロビは、東アフリカの玄関口とも言える都市で、日本からのアフリカ観光と言えば、まず最初に訪問するのがここである。
ナイロビは海抜1700メートルの高地にあり、年中温暖である。着陸後、タラップを降りると心地よい風が気持ちいい。 初代大統領の名を冠したジョモ・ケニヤッタ空港は、市内から17キロ東南にある。 空港は小さいながらも想像したより近代的で、地域の発展を象徴するような設備であった。

行列に並んでビザを空港で取って入国、次に現地通貨を入手しなければならないが、ここでの両替は市内への交通費に充当する10ドル分だけである。 
空港での銀行レートが市中レートより悪いのはこういう国では普通だからだ。

私は空港を出ると、すぐ近くにあるバス発着場に向かった。
ほどなくして、市内に向かうバスが到着、料金を払って出発を待つ。

始発の時点での乗客は私を含めて数人であった。

(予告)世界ケンカ旅行 アフリカ編 スタート
短期集中連載が再開します。
いよいよケンカ旅行シリーズもクライマックスへ!
中共の軍門に下ったフィリピン
ある財界重鎮が、中国の露骨な「ハニートラップ」の実態を手記で暴いておりましたな。 それによると、氏がかつて、訪中の間に当局から当てがわれた女性通訳は、モデル級の美人で、通訳の際、耳元で甘く呟き、時には耳たぶを舐めてくる、、、、な~んていう露骨な色仕掛けで誘惑してくるそうです。 挙句の果てには、ホテルの部屋まで付いてくるので、さすがにそれは断ったとのこと。 

「カネと女と脅迫」は中共の三大懐柔策ですが、フィリピンのデュテルテ大統領は、おそらく、カネで篭絡されたんでしょう。

中共による2兆円を越える経済援助は表向きで、デュテルテ大統領本人や家族の銀行口座には、その中の数百億円規模の現金が振り込まれるようなスキームが背後にあることは間違いありませんな。

こういう手法は、アメリカや日本のようなマトモな先進国は取れませんから、まさに蛇の道は蛇というか、類は友を呼ぶというか、土人国家同士、相性はバッチリなのでしょう。

4流バカ国家フィリピンとしては、こうやって大国を両天秤に量って、カネを出させるだけ出させて、、、、、と考えるのは自然なのでしょう。 











世界ケンカ旅行(中南米編)最終回
私は最寄の警察署を探して飛び込んだ。 一階のフロアーには5~6人の制服を着た警官が詰めていた。
珍しい東洋人が入ってくるなり、何やら深刻に話しているということで、皆が一斉に注目してきた。

私は兎にも角にも、カネを盗まれたので電話を使わせてくれと懇願した。 
盗難事件がかなりあるので対応に慣れているのだろうか、以心伝心で話は伝わって、すぐに電話の受話器を渡された。
TCとは別に携帯していた緊急連絡先の番号を確かめて、コレクトコールで北米にあるセンターに連絡を入れる。 ほどなく連絡は繋がった。

再発行の手続きはあっけなかった。
私はサンチャゴ市内のバンカメ提携銀行を紹介され、そこにパーチェス・アグリーメントを持ち込めば、即日、再発行されるとの説明を受けた。
警察からの盗難証明書のようなものは一切、不要だという。

私は警察署を出て、その足で再びバス停車場に戻った。
近くの両替屋で当面に必要なペソを仕入れたあと、その日の夕刻にサンチャゴ行きの夜行バスに乗り込んだ。

風光明媚な港町であるプエルモント滞在はわずか12時間であった。


サンチャゴに戻った翌日、その日のうちに、ビジネス街に赴いた。
電話で指定された銀行に入って、為替のセクションで尋ねると、応対した中年女性の係は私の顔を見るなり、笑顔になった。 
私は経緯を簡潔に話した。

「すでに連絡を受けてますので、すぐに再発行できます」
女性は、英語で話した。
私は再発行のための書類を受け取り、必要な情報を書き込んでいった。

思った以上に手続きがスムーズなので内心驚いた。 正直、中南米でこの種の手続きは時間が無駄にかかり、非効率の典型例のような展開になると覚悟していたのである。 しかも、対応した女性は顧客の対応に慣れている。
逆に穿った見方をすると、そういう盗難があまりにも多いので、単に手馴れているだけ、、、、とも言える。

ほどなく手続きは終了して、私は再発行されたTC3千ドル分を懐に収めた。

「これからどこに行かれるのですか?」
帰り際に女性は私に訊いた。

「すぐにアルゼンチンに向かいます。おかげで助かりました」
私は再発行が済んだという安堵の気持ちから、思わず笑顔になった。

「日本人の方はブラジルに行かれることが多いですよ」
女性は続けた。

やはり、盗難でTC再発行のために駆け込む日本人は結構な数に上るのだろう。 彼女の言い方から類推できる。

「そうです。 私も最終的にはブラジルまで足を伸ばしてから帰国するつもりですよ」
私は言った。

中南米の旅はサンチャゴで折り返し地点に到達した。

その後、南米の旅は3週間ほど続くことになるが、最後の訪問地となるブラジルのリオから帰国の途につくまでの間、今回の事件を教訓に緊張を緩めることはなかったのである。

私は銀行から出て、サンチャゴのビジネス街を闊歩した。

(中南米編 完)
世界ケンカ旅行(中南米編)11
私はチリ南部にあるプエルトモント行きの夜行バスに乗っていた。 

朝、目を覚ますと、正面にバスの運転手が立っていて、私に何やら話しかけていた。 周辺を見渡すと、大型バスには私しか乗っていなかった。

朦朧とした意識の中、自分に何が起こったかを振り返ってみる。 夜行バスなので、深夜のいつのまにか眠りついて、終点であるプエルトモントのバス停車場で運転手に起こされたのである。 状況がやっと認識できた。

私が飛び起きてバスから降りる準備をしようとしたとき、身体の異変に気がついた。

穿いていたジーパンのベルトが外れていて、外から見えないように隠していたマネーベルトが外に露出していた。 いったい何が起こったかわからないまま、そのマネーベルトを整えようとしたとき、中に自分のパスポートしか入っていなかったのである。

これは変だと思った。
なぜなら、私はパスポートはすぐに取り出せるようにシャツのポケットに入れていたからである。マネーベルトにパスポートがあるはずがなかった。

意識がはっきりとするにつれて、マネーベルトに隠していた米ドルのキャッシュとTCがごっそり消えていることに気がついた。

「やられた!」
ここで、初めて盗難に遭ったことを認識するのである。

次に、私は足元に置いていたバックパックを持ち上げて調べた。 幸い、こちらは手が付けられていないようである。
運転手に急かされてバスから降りると、あまりのショックでしばし呆然としてしまった。

まず最初に被害の全体を確認しておく必要がある。 気を落ち着かせて、ゆっくりできるカフェかレストランが近くにないか探した。
バス停車場なので、周囲を見渡すとそれはほどなく見つかった。
幸運にも、胸ポケットに入れていた食事程度は可能な小額ペソは盗られていない。 私はバックパックを背負って半分ほど放心状態で近くのレストランに入った。

私はマネーベルトを二つ身に着けていたが、二つとも物色されていて、中身は全部盗られていた。 現金は米ドルキャッシュが500ドルくらい、TCが3千ドル。
バックパックは無傷で、米ドルやTCは盗られていない。中米の大半の国ではドルのキャッシュしか使用しなかったので、当初よりも所持金額がかなり減っていた。そのせいで、キャッシュの被害額はそれほどでもない。
犯人がパスポートに手を付けなかったので、旅行自体の継続にはあまり影響がなさそうである。

さて、犯人が誰かは明白であった。

バスで隣に座っていた50代くらいの中年の紳士がくれたジュースに仕込まれた睡眠薬によって、私は熟睡してしまった。 その間に物色されたのである。

こういう旅行中に、知らない現地人から勧められた飲料や食べ物に睡眠薬が仕込んであることはバックパッカーの常識として知ってはいた。 おそらく、チリに入る以前であれば、かなり警戒していたはずである。 ところが、チリの治安がいいことにすっかり油断してしまい、つい受け入れてしまった。
もうひとつ、犯人の手口が巧妙であったことも挙げられる。 
犯人はいきなりジュースを勧めてきたのではなく、休憩時のドライブインで食事を奢ってくれたりするなど、私との信頼感を醸成させる努力を事前に充分に行ったうえで、自然に睡眠薬入りジュースを勧めてきたのだ。

いずれにせよ、盗られた現金に関しては諦める他はないが、TCの再発行手続きは早速始める必要があった。
(緊急掲載) 宇都宮爆破事件の犯人は詳細な記録をネット上に残していた!
要約:
犯人(元陸上自衛隊2佐)の三女が統合失調症を発病→ 妻がカルト(樹門幸宰(じゅもんこうさい)が主催する「魂ゆら占い」)に騙されて退職金を含む資産の大部分を浪費→ 家庭崩壊が加速して、自暴自棄となり犯行に至る

注意:この犯人が残した文章も誤字脱字だらけで、理路不明瞭な部分多岐に渡る。当人自身も統合失調症だった可能性も濃厚


以下にリンクを張っておきますのでご参考まで、、、、
ココをクリックするとウエブサイトに飛びます
世界ケンカ旅行(中南米編)10
パラールはチリを南北に貫くパン・アメリカンハイウエイ沿いにある、2キロ四方くらいの小さな町で、サンチャゴから距離にして350キロ南方、長距離バスで6時間ほどであった。
サンチャゴからだと、直接この町に停まるバスは出ていない。 私はパラールの北にあるリナレスという町でローカルバスに乗り換えてようやく辿りついた。

田舎町というのがぴったりの風情で、3階建て以上の家屋がまったく見当たらない。 本当に寂しくて、気分が滅入る町であった。
ローカルバスは町の中心部にある停車場に到着したが、とりあえず、宿を取らなければならないにもかかわらず、近隣にホテルがまったくない。
商店が連なる繁華街を探してしばらく歩いていくと、ホテル・ブレシアという、北米の田舎で見かけるモーテルのような平屋のホテルを発見して入ってみた。 1泊20ドルくらいで、サンチャゴに比べると高いが、選択肢が他にないので仕方なくチェックインした。

パラールに到着して宿を取った頃はすでに夕刻で、実際の行動は翌日となった。 さっそく、ホテルの従業員から情報収集である。
私はシュミットからもらった新聞記事のコピーをレセプションの中年男性に見せて尋ねてみた。

「ドイツ人の住んでいるコロニアに行ってみたいんだけど、ここの近くにあるのか?」

すると、彼は急に表情を固くした。

「ああ、あんたもヴィヤ(村)に行きたいのかね? ここに来る日本人はみんな行くけど、なんにもないよ」
訝しげな顔で私を見た。

やはり、書籍の影響で、ここに来る日本人は結構いるらしい。 ホテルのオヤジは、日本人の扱いに慣れている様子で、すぐに電話をかけてタクシー会社に連絡してくれた。

「で、明日の何時がいい?」

トントン拍子に話が進むので少したじろぐが、少し考えて返答した。
「じゃあ、朝の9時でお願いします」



翌日、黄色いキャブがホテルの正面に到着した。 まず、私は値段を確認した。
無精ひげを生やした若いドライバーはドア越しに指を3本立てた。

「トレス・ミル?(3000)」
私は確認した。 この時点のレートで、3千ペソは約10米ドルであるから、相場の範囲内である。 すると、ドライバーは首を横に振った。

「ノーノー! トレンタ・ミル!」

このドライバーは3万ペソ、だいたい100米ドルを要求していたのである。これは法外な値段であった。

私は、手振りであっちへ行けと指図して、ホテルに入ろうとした。すると、ドライバーは急に値段を下げて、50ドルでどうかと言い値を変えてきた。
こういうタクシーの値段交渉は万国共通である。 私は相場よりプラス10ドルくらいを上限にして30ドルで再オファーした。 こちらにも選択肢がないので、あまり強気には出ることができない。
ドライバーは私に乗るように促した。 私は、値段を念のためにメモ紙に書いてドライバーに手渡した。
彼はそれを見て頷いた。

私を乗せたキャブは、パラールを出て、国道を少し南下し、山手の農道に通じる脇道に左折した。
潅木が茂るくねくねした農道を20分ほど入ると、地元民が「バイエルン村」と呼んでいるドイツ人共同体の入り口に到着した。

そこからは何の変哲もない農場が前面に広がっているだけであった。 もちろん、UFOの秘密基地を思わせるような施設は何ひとつ存在しない。

「どれくらい待っていたらいいんだ? 」
しばらく考えていると、ドライバーが促してきた。

私は、
「そうだな、、このままパラールに帰ってくれ」
と返答した。 
車から降りて見るものなどない。

多少の期待と不安が入り混じったナチス秘密基地「エスタンジア」の正体は、普通の農場だった。

世界ケンカ旅行(中南米編)9
二日後、ガイドを約束した日、同じレストランで再度シュミットに会った。
彼は小脇にカバンを抱えて、少し遅れて姿を現した。 私の向かいの席に座ると、資料を次々と取り出してテーブルに並べた。

「あんたが言っていた、エスタンシアってのは、コロニアのことじゃないか?」
彼は私に切り出した。

「コロニア」などという単語は落合信彦の本には一度も出てこない。

「コロニア? 英語で言うとコロニー(植民地)か?」
私は質問した。

「そうそう。 友達や教授たちに聞いて回ったら、あんたの言っていたパラールのナチス残党コミューン(共同生活体)に当たる場所は確かにあるらしい」

「本当か?」

「ただし、ナチスの再興とかじゃなくて、別の意味で問題になっている」

「ほう?」
私は首を傾げた。

シュミットは続けた。
「ピノチェト軍事政権での反体制派弾圧のことは知ってるか?」

「あまり知らないなあ、、コロニアと関係あるのか?」

「関係あるらしい。 軍事政権時代に逮捕した反体制派をコロニアに幽閉して拷問したとする、政府の調査報告が最近あったんだよ」
シュミットはそれらしき書類や新聞コピーのいくつかを私に見せてくれた。 該当する部分には赤い下線が引いてあった。
私はそれを手に取って目を通したが、スペイン語なので細部はよくわからない。

彼の話によると、概容はこうだ。

1973年に軍事クーデターで政権を奪取したピノチェト大統領の下、政府は反体制派を非合法に拘束した。 彼らは、国内にいくつかあった極秘収容所に分散されて自白を強要され、一説では数万人レベルの国民がそのまま処刑されたという。
その中のひとつが、「コロニア・ディグニダド(尊厳ある植民地の意)」と呼ばれた集団農場で、このドイツ系移民による排他的共同体を隠れ蓑にして、独裁体制維持のための非合法活動が組織的に行われていたというのである。

ソ連崩壊によりチリの赤化に現実味がなくなると、民主化は急速に進んだ。 1990年、ピノチェト大統領は辞任して、国軍最高司令官の地位に退く。 しかし、それでも隠然たる権力は保持したままで、当時に至るのである。

「つまり、ピノチェトがまだ権力にいる限り、かつての反体制左派に対する大粛清は問題にならないということだね?」
私は書類を置いて言った。

「ピノチェトが法廷で裁かれるようなことは今のところないだろうが、国際社会では問題になっているな」
彼は言った。

私はしばらく考えた。 そして彼に告げた。
「いや、本当に助かったよ。 今日、君と調べようと思っていたことを、全部やってもらった」

現役の大学生と出会って幸運であった。 彼の探究心には頭が下がる。

私は続けた。
「もう、帰ってもらってもいいよ。 約束の20ドル、プラス、調査費として別途30ドル支払おう」

「ありがとう。 ところで、本当に行くつもりなのか? ちょっと微妙な場所だぜ?」
シュミットは訝しげな視線を投げかけてくる。

「まあな、どうせ南の地方を旅行して回るし、、、とりあえず、現地を外から眺めるだけでもね」
こうお茶を濁すと、彼は興味津々の表情である。

「俺も興味があるから、いっしょに行ってもいいかい?  交通費だけ払ってくれればいいよ」
彼は言った。

コロニアが、そういういわく付きの施設だとすれば、むしろ、ナチスの秘密基地よりも危険な匂いがする。
会ったばかりの学生を信用して、思わぬトバッチリを受ける可能性を考えると、現地には1人で赴いた方が身動きが取りやすいと思った。

「そうだな、、、、物見遊山で現地に行くだけだから、通訳はいらないよ」

「そうか、、」
彼は少し不満そうだった。

私は資料と引き換えに報酬の50ドルを手渡して、シュミットと別れた。
世界ケンカ旅行(中南米編)8
チリ大学のキャンパスは、広い敷地に各学部が点在しているのではなく、市街地に建てられた校舎にすべての施設が集約されているので、手狭な感じを受ける。 
どんな大学なのか様子を見るために正面入り口から入ろうとしたら、警備員に止められて用件を聞かれた。 説明しようと思ったが面倒なので、そこから入るのは諦めた。

結局、大学前にあった地下鉄駅の入り口周辺をうろうろして、英語を話せる学生を探すことにした。

サンチャゴの旅行地図をわざとらしく広げて、いかにも旅行者然とした振る舞いで、「アブラス イングレス?(英語できる?)」と人の良さそうな学生に聞いて回る。
なかなか込み入った話ができるほどの英語力の持ち主はいなかったが、5人目くらいに流暢な英語の使い手に遭遇した。

「君、英語うまいね?」
私は言った。

「ああ、俺はアメリカ人だから当然だよ。ここで勉強しているんだ」
学生はニヤリと笑った。

「スペイン語は達者かい?」

「問題ないよ」

「俺は日本から来た旅行者なんだけど、いろいろと助けてくれないか? もちろん、少ないがガイド料は払うよ」

彼は快く引き受けてくれた。 私は打ち合わせを別の日に約束して、一旦は彼と別れた。

私と大学生は翌日、大学近くの古風なレストランで会った。

にわかガイドとして手伝ってくれることになった米国人、名前をシュミットと言う。 
名前からわかる通り、ドイツ系だが、チリ大学で南米史を研究しているそうだ。 聞いてみると、米国では珍しい言語マニアで、スペイン語の他に、ポルトガル語、フランス語、イタリア語が話せるという。 つまり、ラテン系の言語が得意らしい。 ちなみに、ドイツ語はよくわからないとのことであった。

「俺は貧乏旅行者でね、、ガイド料はあまり出せないんだ、、」
私はこう切り出すと続けた。
「仕事は簡単な通訳。 時間は12時から18時、昼飯と交通費はこちらが出す。 これで20ドルでどうだ?」

「おいおい、最低100ドルは欲しいね」
シュミットは馬鹿にするなという表情で笑った。

「残念だなあ、、予算がないんだ。まあ、ここのコーヒー代は俺が出すけど、君とはこれで最後だな、、」

私の表情に交渉する意思がないことを見て取ったシュミットはあわてて前言を引っ込めた。

「わかったよ、まあ、通訳としては安いが、おもしろそうだ。協力しよう」

私は右手を差し出して握手を求めた。 彼も一瞬遅れて握手に応じた。

「で、あんたはどこに行きたいんだ? サンチャゴなんて観光するところなんかないぜ?」

「いや、観光というより、調べたいことがあるんでね、、、図書館とか旅行会社についてきてほしい」

「調べる?」

「君は、エスタンジアという言葉を聞いたことあるか?」
私は訊いてみた。

「エスタンジア? エスタンシアだな。 スペイン入植者の牧場のことだ」

「さすが、歴史専攻だな。 ところで、これにナチス残党の共同体の意味はあるのか?」

「そんなの聞いたことはないな、、、」
シュミットは首を捻って考えた。

彼は続けた。

「というか、チリはドイツ系移民が固まって住んでいるところが多いんだよ。 そんな牧場じゃないのか?」

「いやね、サンチャゴの南にパラールと言う小さな町があるんだが、その近くにナチス残党の秘密基地があって、UFOとかの秘密兵器を製造してるなんて聞いたことあるか?」
私はチリの地図をテーブル全面に広げて、パラールの町を指差した。

「よくわからんが、それを調べたいのか?」
彼は呆れたような表情で言った。

「調べて、実際に行ってみたいんだよ」
私は答えた。
世界ケンカ旅行(中南米編)7
コロンビアのボゴタに空路到着して以降、エクアドルのキト、ペルーのリマにそれぞれ3泊ずつ滞在、陸路でさらに南下した。
踏破の末、私はチリの首都であるサンチャゴまで辿り着いた。 日本のほぼ裏側まで来たわけだ。

チリは今回の旅のハイライトとなる国である。
細長い独特の国土をしたこの国は、明らかにこれまで通過してきた中南米の国々とは趣が違っていた。 それまでは支配者であるスペインの影響が色濃く残る中で、土着民文化との融合が見て取れた。 ところが、チリに入った途端、欧州の田舎のような雰囲気が突然強くなる。 見かける人々のほとんどが白人系で、混血や原住民の割合は極端に低い。 家屋もどことなく欧州のものに似ている。 それと同時に、これまでの中南米では必然的に強いられた緊張感が薄れていくのが肌で感じられたのである。

この頃、すでにピノチェト政権から民主政権に移行していたが、良くも悪くも強力な軍事独裁政権が永らく続いていたせいで、良好な治安が維持されていた。 この地域では左翼ゲリラ・反政府勢力などが徹底的に押さえ込まれてきたことにより、地方でも安心して生活できたのである。 これが、ともすれば政治的に不安定な他の中南米諸国と違うところであろう。

サンチャゴ市内の要所には、軍事政権時代の名残か、第二次大戦中のドイツ軍のようなヘルメットを被る衛兵が配置されていた。これは旅行者にかなりの安心感をもたらした。 
ここは500万人規模の大都会であるが、観光名所は中心地の2キロ四方以内に集中している。 一見して、スペインのどこかの地方都市じゃないかと思うくらいで、ビジネス街を闊歩する通行人は白人系ばかり。 インデオ、黒人など、マイノリティーはほとんど見かけない。 ペルー以北で普通だった、「チーノ!チーノ!」と侮蔑の言葉を向けられることもなく、むしろ、東洋人には無関心にさえ見えた。

私はレジデンシャル・ロンドレスという安ホテルに滞在していた。
トイレシャワー共同で1泊5ドル、6畳ほどの部屋にはベッドが1つ置いてあるだけの質素なものであった。 しかし、チリ市内を動くには最高の場所で、宿の近くに地下鉄駅があり、官庁街、ビジネス街にも歩いて行く事ができた。 チリ大学が数ブロック先にあったことは、その後、現地人と知り合う大きなきっかけとなった。

ここにはブラックマーケットがあるようで、公園なんかを歩いていると、両替屋が近づいてきて、「チェンジマネー?」と声を掛けてくる。 聞いて見ると、公定レートよりもせいぜい、10%くらい多いだけで、長期滞在ならともかく、短期滞在ではあまり差も出ないので話に応じたことはない。 ちなみに、ここでは銀行でTCを米ドルに変えてから、そこらの両替屋で現地通貨ペソに交換するのが便利であった。

このような環境の中、私はチリ国内のある場所に関する情報を収集していた。
私がチリにやってきた目的は観光以外にも別にあったわけだが、それについては旅行記を離れて、別途説明しなければならない。

ここに一冊の書籍がある。

落合信彦著「20世紀最後の真実」と題されたハードカバーで、1980年に発行された。 私は高校時代、落合信彦氏の大ファンで発売された著作はすべて購読していた。
この本の内容は、一言でいうと、ナチス残党が南米に脱出して再興の目的を秘めつつ、秘密裏に共同体を形成している、、、というもの。
物語は作者一行が実際に南米チリに取材に赴いた場面から始まる。 「エスタンジア」と呼ばれていたドイツ人移民の共同体を訪問したところ、現地警察に妨害されてあえなく取材は中止となった、、、、、と、緊迫した書き出しで本編が進んでいく構成となっている。

私はかねてより、実際にこのナチス残党の共同体である「エスタンジア」に行ってみたいと思っていた。 そして、こうやって実際にチリの首都であるサンチャゴまでたどり着いたのである。
最初は、地元の旅行会社に行って情報収集を試みたが、これは失敗した。 英語が話せる人がまったくいないのである。 簡単な旅行英語ならなんとかなりそうだが、込み入った話は無理だった。

コミュニケーションが成立しないのでは話にならない。
次に、偶然にもチリ大学近辺のホテルに宿泊していたので、ある程度、英語ができる学生と知り合いになって、協力してもらおうと考えた。
世界ケンカ旅行(中南米編)6
私はボゴタ旧市街の中心部、ボリバルプラザ近くのユースホステルに滞在していた。

直前までいたコスタリカのサンホゼ市の中心部では、北米からの観光客で賑わっていたが、この街ではそんなリラックスした観光客は1人も見かけない。 雑踏は人で溢れていたが、やはり市街地にはのんびりした雰囲気はなく、人々が忙しく歩いていた。 標高2千メートル以上の高地にあるために気候は過ごしやすく、歩いていても気分はいいが、治安問題のために気を抜ける余裕はまったくなかった。

中南米というのはスペインの殖民政策の影響で碁盤の舛目状に規則正しく設計された都市が多いが、私が道を歩いている際は、きっちりと1ブロック毎に後ろを振り向いて尾行されていないか確認していた。 これはメキシコに入って以来の癖になっていた。
服装にも気を使っていて、アジアを旅行する際は、身軽なスリッパで横丁を闊歩するのがバックパッカー共通のスタイルだが、ここでは常に全力疾走ができるように、しっかりしたシューズを履いていたのである。 ポケットには常に10ドル分程度の現地通貨を小額紙幣で束にして準備しておき、強盗に襲われた際にはそれを献上して逃れようと思っていた。

ここでは、街角で東洋人が歩いていること自体が珍しいことで、中南米で共通しているのは、暇な現地人から頻繁にちょっかいを受けることである。 しかも、現地人が私のことを最初から日本人と認識していることはなく、原則として東洋人は一律にシナ人と認知されてしまう。
日本のことはスペイン語でハポン、日本人(男)はハポネスであるが、中米でそのように呼ばれたことは皆無で、必ずチーノ(シナ人)と呼ばれた。 しかし、路地裏で遊ぶ子供たちが指を私に向けて「チーノ!チーノ!」と叫ぶ様子は、侮蔑の象徴にしか聞こえない。 

ある時、私がボゴタの繁華街を歩いていると、商店の店先で番をしていた中年女性が私を見つけるや、「チーノ!」 と叫んで私を呼び止めた。
女は手招きして私を呼びつけると、左手の人差し指をこめ髪に突き立てて何やら叫んでいる。 言葉がよくわからないが、どうやら、拳銃を頭に突きつけているポーズをして、「強盗に気をつけろ」 と注意喚起してくれているらしい。
私は「グラシアス!」と礼を言って、その場を立ち去ったが、もしかしたら、単にバカにされていたのかも知れない。 一般的に中南米の教育レベルは低く、いい年をした大人でも子供みたいな素振りで「チーノ!チーノ!」とからかうオッサンやオバサンはどこにでもいたのである。

ボゴタは治安に問題がある以外、これと言った不満はなく、特に食事はすばらしかった。 日本人の口に合う味で、メキシコ以南では初めて満足のいくものであった。 それでも、特に見るものがないのですぐに飽きてしまう。

私は3泊しただけでエクアドルに南下することにした。

郊外のバスターミナルからは、国境の街であるイピアレスまでの長距離便が出ていたのでこれに乗るが、所用時間は20時間ほどかかり、車中泊となる。
ボゴタのバスターミナルは予想以上に近代的で、車両も比較的新しく、快適な道中が期待できそうであった。 料金は1等バスで20ドルくらい、非常に安い。

夕方ボゴタを経って、山岳地帯の峠道をクネクネと進むうちに日が暮れていった。
少し眠気を催したとき、大型バスのボディーがガツンと大きな音を立てた。
異常な音に眠気は覚めたが、鈍い音が連続して起こり、大きなフロントガラスが突然割れて、正面の5分の1くらいのガラスがひび割れてしまったのである。
一瞬、木の枝がボディーを引っ掻いたのだと思ったが、窓から覗き込むと、道路の両脇から男たちが石を投げつけているのがわかった。
ドライバーはフロントガラスが割れると、アクセルを踏み込んで脱出を図った。

なぜバスが攻撃されたのか理由はわからないが、悪質な嫌がらせか、あるいは山賊が強盗を企てていたのかも知れない。
いずれにせよ、ドライバーの機転によって、乗客は難を逃れたのであるが、フロントガラスが割れたまま、終着である国境の町イピアレスまで車両を点検することはなかった。
世界ケンカ旅行(中南米編)5
メキシコを出国したあと、グアテマラを通過, エルサルバドル・ホンジュラス・ニカラグアといった中米諸国を観光一切抜きで1週間で駆け抜けて、コスタリカに入った。

コスタリカでは、強行軍の休養が主たる目的となり、1週間ほどの滞在期間となった。
首都であるサンホゼは中米では比較的近代化した街並みで、見るからに治安がよさそうである。 北米からの観光客も大手を振って通りを歩いている。 こういう観光都市らしい光景を見たのはティファナ以来、中米では初めてのことであった。 ここでは久々に夜間に外出してホテルの周辺を歩く余裕もあった。

この時、心中はすでに南米にあった。 本来なら、このまま南下してパナマを通過し、そのまま陸路コロンビアまで突き抜けたいところだったが、、、、
まず、最大の問題は、陸路でコロンビアに抜けるのが通常の旅行者レベルでは不可能だったことである。
ガイドブックを見ても、一応の踏破ルートは書いてあるが、定期バスのようなものは皆無で、車両が通行できるのは国境近辺まで。 あとは徒歩しかないが、コロンビアとパナマの間は、熱帯雨林のジャングルが広がっていて、国立公園に指定されている。 ここまでくると探検レベルの難易度であるから、陸路によるコロンビア行きはすぐに断念した。

そこで、パナマからコロンビアに空路で移動する方法を考えてみるが、このパナマ、田舎はともかく、必ず訪れるであろう首都のパナマシティーやコロンなど、都市部の治安がすこぶる悪い、と、ガイドブックに書かれてある。 パナマに関しては、頻繁に盗難・強盗への注意喚起が繰り返されているのだ。
私はサンホゼからコロンビアの首都ボゴタに空路入ることにした。

ところが、ガイドブックによれば、ボゴタの空港では帰路のチケットを入国審査で要求するらしい。 その対応策も書かれてあって、コロンビアの航空会社であるSAMのノーマルチケットを往復で購入して、帰路用の半券はボゴタ市内のオフィースで払い戻すのだという。
その手段でコロンビアに渡ることにしたが、地元のSAMオフィースに航空券を買いに行くと、往復で400ドルだった。 私は高いなと思いつつ、仕方なくボゴタまでの往復チケットを購入した。


さて、SAM航空の中型機はサンアンドレス島を経由してコロンビアの首都であるボゴタに無事到着したが、入国の際は帰りのチケットを係員に提示することもなく、あっけなくゲートを通った。 往復で購入する必要はなかったようである。

いよいよ南米における第一歩を踏んだのであるが、よく考えてみると、LAに着いてからまだ1ヶ月も経っていない。 しかし、もう、何ヶ月も前のような気がした。
これまで、最も長く滞在したのが、サンディエゴで、それ以後、メキシコ以南の中米諸国を駆け抜けたが、概して治安が悪い地域ばかりで、常に細心の注意を強いられる旅である。 しかし、その甲斐あって今のところ盗難や強盗には遭っていなかった。

ボコタの玄関口はエル・ドラド国際空港などという、名前だけは夢のある空港であったが、私にしてみれば皮肉もいいところで、とても「黄金郷」に足を踏み入れる心境とは程遠かった。
この頃のコロンビアは、他の中米諸国と同様に左翼ゲリラの跋扈を許していたのに加え、コカインの密造カルテルの鎮圧に苦慮していた。 北米に密輸されているコカインのほとんどが、このコロンビアで作られていると言われ、その莫大な利益は政府・軍・警察の要人への賄賂に使われ、効果的な取締りはまったく進んでいなかった。 しかも、軍隊並の武器を装備した密造カルテルは都市部でのテロ攻撃や誘拐を繰り返して、社会不安を蔓延させていた。
結果として、コロンビアにおける殺人や誘拐の発生件数は人口比率で南米最多となっていたのである。

私はそんな街に繰り出さなければならず、憂鬱な気分であった。
世界ケンカ旅行(中南米編)4
メキシコシティーは南北に長い国土の真ん中からやや南辺りに位置し、2千万の人口を有する巨大な首都である。 標高2千メートル以上にある高原なので、熱帯域に近い位置にもかかわらず気候は温暖、真夏でも30度を越えることはない。
空路で到着すると軽い高山病で頭痛がすることもあるそうだが、バスで上っていったのでターミナルに到着しても特に身体の変調を意識することはなかった。

宿は中心部のホテルを選んだが、1泊10ドルくらいでティファナの半値くらいだった。 ティファナが異常に物価が高かっただけと知り、ほっと胸を撫で下ろした。
長距離バスの疲れよりも、むしろ食あたりによる下痢が悩ましい。 率直に言って、メキシコの食事は日本人にまったく合わない。 隠し味的に唐辛子が多様されていたり、刺激の強い野菜や香辛料は当たり前なので、慣れていないとかなりきつい。 ただし、北米のタコベルで出すような、カリカリのトルティーヤで包んだタコスよりは、本場のやわらかいタコスの方が少しはマシであった。
そういう理由から、私は現地料理を拒絶して、ホテルの近くにあったデニーズか、場末の中華料理屋で食事を取っていた。

街を歩いていて目立つのは緑色のフォルクスワーゲン・ビートルで、タクシーは皆これを使っているらしい。 なんとなく、排気ガスが街を覆っていて、空気はかなり悪い。
私は市内観光を早々に切り上げて、グアテマラに向かった。


1990年代の前半はソ連の崩壊という歴史的大変革を経て、世界規模において新たな秩序が模索される途上にあった時代だと言える。 旅行者の立場からすると、中南米周遊がより安全になったことに端的に表れていた。
つまり、ソ連崩壊により社会主義圏という大勢力が地球上から消え去り、これまで対米戦略上、第3世界の社会主義国や革命勢力に対して行われてきた軍事・経済援助が突然、打ち切られることになったのである。
中南米では、第2のキューバ革命を目標にして各国で跋扈していた左翼ゲリラに対する援助がストップした。 とりわけ、ソ連の援助が打ち切られたキューバの疲弊は凄まじく、地域の革命勢力を支援できなくなったのである。
同時に、総本家であるソ連邦喪失によって、革命勢力を支える精神的支柱も崩壊し、もはや反政府ゲリラ活動に対する支持も地域住民から得られなくなっていった過程が90年代前半だったと言える。

グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグアにおいては、80年代まで続いていた内戦や反政府運動がとりあえず終息しており、通常の観光旅行が可能なレベルまで治安は回復していた。 とは言っても、カリブ海側の森林地帯には国家権力は及ばず、ゲリラ勢力が跋扈していたために国境は曖昧である。
世界ケンカ旅行(中南米編)3
翌日、特に観光することもなく、ティファナを発つことにした。
生活レベルやインフラが格段に落ちる割には、すべての物価がサンディエゴ以上という、これまた摩訶不思議なローカル経済である。 このような街に長居する理由はない。

私は荷物をまとめて、長距離バスのターミナルに向かった。

自分の旅行スタイルとして、本当に困った場合以外は通りがかりの人々に道を尋ねることはしないが、メキシコで試してみたかったことが、「人に道を尋ねる」という行為である。
一般でも知られていたが、メキシコ人は一見フレンドリーでニコニコしているが、その実はいい加減で、道を尋ねても喜んで教えてくれるものの、適当に方角を示すだけ、、、というものである。 

実際に試してみた。
中心部のどこかにあるはずのバスターミナルの位置を聞いてみる、、、ちなみに、「ドンデ・エスタ~(目的地)?」が場所を聞く常套句だ。
すると、本当にフレンドリーに教えてくれるが、その通り歩いても目的地にはたどり着けない。 結局、自力で探し当てたが、数人に聞いた結果、はやり、噂は本当だった。
結局、メキシコ人は人から道を尋ねられても深く考えないようだ。 考えてみるという手順を省略するから、結果的にデタラメな道を教えてしまうのである。 とにかく信用できない民族性だということはわかった。

さて、ティファナからメキシコシティーまでは、優に2000キロを超える長距離で、バスでの移動となると、40時間を越える長旅である。
それまで、車中泊が2夜に及ぶようなドライブは経験したことがない。 少し躊躇はしたものの、そこは齢30を少し越えた頃の自分だったので、気力体力共に充実していたから、勢いで決心した。

バスの運賃は約50ドルで、もちろん飛行機よりは格段に安い。 予想外だったのは、私の乗車した1等バスは座席の幅も前後間隔も通常より一回り大きく、比較的ゆったりと座っていられたことである。 しかも、始発から終点まで隣は空席で、就寝時はもちろん、いつでも2座席を占有してリラックスした姿勢を取ることができた。

荷物は盗難を避けるためにバスの専用スペースに置くことはしないで、座席の足元に大きなバックパックを横にして置いた。 問題は貴重品の隠し場所である。

メキシコでは特に南部において、ナイトバスを狙った強盗がよく起こっていた。
この国の銃器普及率は米国と同様、非常に高いので複数犯による銃器強盗を想定しなければならない。 路上強盗ならこちらから避ける方法はあるが、ことバス強盗になると、これはもう、乗ってしまったらこちらから防ぐ方法はない。 そこで、被害をどれだけ最小に抑えるかをいろいろと考えた。

まず、もっとも重要なTCであるが、これは3箇所に分けて、3分の1をバックパックの内側に仕込んで、荷物を全部吐き出さないと取り出せないような位置に隠した。 次の3分の1は、自分の座席の裏側にガムテープで貼り付けて固定した。 そして、残りはマネーベルトに入れて常時携帯した。 TCは再発行できるので、最悪、盗難に遭っても構わない。
パスポートは官憲の車内チェックがあった際にすぐに取り出せるように胸ポケットに入れた。
現金は、4分割して隠した。 現地メキシコペソは、胸ポケットのすぐに取り出せるところに普通に入れた。 日常で使用するし、強盗に遭った際、これはある意味の「見せガネ」として使用するつもりだった。 米ドルのキャッシュは1、5、10ドルの各紙幣をバランスよく混ぜて3個の札束を作り、1個は見せガネ用として、手元の小バッグに入れておき、いざとなれば、盗賊に差し出すつもりであった。 あと1個はバックパックの中にTCと別の位置に隠した。 そして、残りの1個はTCとは別のマネーベルトに隠して携帯した。

とにかく、治安が悪いのを覚悟しての中南米旅行だったので、安全に対する過剰とも言える準備が気負いとなっていたのである。



世界ケンカ旅行(中南米編)2
ティファナ(現地ではティワナと発音する。以後、地名等のスペイン語発音と日本でのカタカナ通称とは特に区別しないで記する)はサンディエゴに隣接するメキシコ側国境の街である。
この二つの都会を分ける国境は独特で、元来は大きな1つの街を、人為的に南北に分割して国境線を引いたような形に落ち着いている。
意外と日本人には知られていないが、米国とメキシコは19世紀の半ばに戦争した。 その際、米国の勝利に伴って、現在の米国西海岸からテキサスあたりまでがごっそりとメキシコから割譲されたことを知っていれば理解は深まるだろう。
もうひとつ、この国境の特徴は、米側からの入国は事実上、フリーパスであるが、メキシコ側からの通行のみ入国審査があるという、国力差の現状を反映したような扱いとなっていることである。

私は国境近いトロリー電車の終点まで行き、そこからゲートまで歩いた。

誰のチェックも受けずに国境を越えるのは西欧の鉄道旅行以来であったが、それでは入国した証拠が何も残らない。 再び、ここから出国するなら問題はないが、グアテマラに出る際にはトラブルの元である。

私は審査官の詰め所に顔を出して、ツーリストカードを貰い、スタンプを押すように求めた。
すると、審査官は手を左右に振って、あっちへ行けとばかりに出口を指差す。
米国西海岸では役人も概してのんびりしていて、テキパキと業務をこなすというイメージはまったくなかったが、国境を越えた瞬間に、すでに役人は米国を凌ぐ「だらけモード」、、、無能メキシカンスタイルに変貌していた。

私は覚悟を決めて、
「ポルファボール、セニョール!」
とスペイン語で懇願すると、嫌な顔をしてスタンプを押してくれた。

「これは先が思いやられるな、、、」
私は呟いた。

ティファナの中心部までは歩いて30分ほどであるが、綺麗なサンディエゴとは変わって、明らかに遅れた途上国の街並みが続く。
セントロ(英語のセンター)と呼ばれた街の中心部を歩くと、フルーツや魚類の行商人が舗道に簡易商店を構えていたり、土産物を担いで歩き回っているおばさん、革製品の専門店など、一気に途上国に足を踏み入れた感覚であった。

国境の街として、申し訳程度にでも英語表示を併記してもよさそうだが、そこはスペイン語だけの世界で、気の利いたことをする余裕はまったく感じさせない。
もちろん、メキシコ以南の中南米では英語がまったく通じない世界であるということは知っていたので、日本にいた頃から旅行スペイン語程度は勉強していたが、、、ちなみに、日本人にとってスペイン語は発音し易い言語で、他言語のように初級者が発音で苦労することはスペイン語に限ってはない。

私は大通りを歩いて、現地通貨ペソを手に入れるために、銀行(Banco)に入った。
一応、TCを両替する場合は銀行、ドルキャッシュを替える場合は「Cambio」あるいは「Casa de Cambio」と表示がある両替屋を使うと決めていた。
入国審査官の態度で予想はしていたが、銀行の係員も仕事はダラダラ、客が溢れているのに自分のペースで事務作業をしていたので、TC100ドルを両替するのに、小1時間も費やす結果となった。

メキシコの通貨はペソである。 私が入国した頃はデノミの直後で、ヌオボ(新)・ペソと呼称されていて、一般的には「N$」と表示して米ドルと区別されていた。 旧紙幣も流通していたが、3桁も違うので、識別は容易である。

さて、私はガイドブックに載っていた安ホテルに泊まったが、トイレシャワー無しで20ドルも取られてしまった(実際は現地通貨ペソでの支払いであるが、以後は物価の相場観を理解しやすくするために、米ドル基準で記述することが多くなることをご了承いただきたい)。

宿代だけではない。
観光地だけあって、物価はかなり高いようである。
(短期集中連載) 世界ケンカ旅行・中南米編1
1993年春 米国サンディエゴ

LAから入国して、グレーハウンドバスでおよそ2時間半、西海岸を南下してサンディエゴに到着した。 

メキシコ国境の街であり、港湾の街として有名な当地にやってきたのは、ここを起点として中南米の旅を開始するためであった。

私はダウンタウンに1週間も長居してしまったが、とにかく宿泊したホテルの居心地がいい。

米国貧乏旅行のバイブル、「Lets go USA」に載っていたゴールデン・ウエスト・ホテルは、この米国にして1泊15ドルという格安ホテルで、中心部に位置し、歩いていけるところにモールやファストフードレストランが山ほどあった。
米国において、車なしで生活が完結できるということは大きい。

しかも、治安が良くて、さすがに夜間は歩いたことはないが、あまり警戒しないで周辺をブラブラ散歩できた。
違法越境してきたメキシカンや中南米の連中は、まっすぐLAを目指すらしく、意外とも言える、不法移民の真空地帯となっている。

もちろん、ホテルが安いのには理由があって、トイレシャワーは共同で、宿泊者の大半が月払いの年金生活者、つまり老人しか泊まっていない。 米国基準でいうなら、かなり狭い部屋で、部屋の大きさは8畳程度しかない。ここの住人は下層階級と看做されているが、日本人からの視点だと、それほど貧困には見えない。
ちなみに、ここは白人ホテルで、黒人やヒスパニックは1人も見かけなかった。

私は、ここで中南米旅行の計画を練った。

ガイドブックは、いつものロンリープラネットではなく、「South American Handbook」と「Central American Handbook」の93年版2冊。 それぞれ、1000ページを越える大著で、情報量はロンプラを遥かに凌駕していた。ただし、それぞれ40ドルとそれなりの値段である。

旅行準備としては、この他、途上国巡りでは欠かせない小額ドル紙幣の入手、すなわち、1ドル、5ドル、10ドルの各紙幣を合計千6百ドル分ほど揃えた。つまり、各紙幣を100枚、合計300枚である。貨幣価値としては大したことはないが、相当な量になるのでどのように持ち運ぶか工夫に明け暮れる毎日であった。
この他、虎の子のTC5000ドル分を合わせた合計が私の全財産となる。帰路のチケットはブラジルのサンパウロかリオでLAまでの片道航空券を購入、LAからは往復で買った大韓航空便の残りの半券を使用するつもりであった。

さて、いよいよ旅に出る決心を固めるに至り、私は洒落たトロリー電車に乗って、メキシコ側のティファナに面する国境まで向かった。

(速報)タイ国王崩御
いよいよ、この日がやってきました。 
タイ国民は当面の間、凄い衝撃を受けると思います。 

例のバカ王子が即位することになれば、タイ王室が崩壊し共和制になる日も近いか?

(予告) 世界ケンカ旅行・中南米編、開始!
いよいよ筆者は、謎のエスタンジアを求めて中南米の旅に出発。 ナチスドイツの秘密基地に辿りつくことができるのか?

乞うご期待。
プーケットのキチガイ祭り詳報
タイの祭りというのは、参加者の悪ノリが過ぎる嫌いがあって、例えば、近年のソンクランなんぞは、高性能水鉄砲を装備したサバイバルゲームの感さえありますな。

「キチガイ祭り」と命名したのは筆者で、世間では「ベジテリアン・フェスティバル」として広く知られている、プーケットとその周辺で行われる恒例の奇祭です。

で、どういう祭りかというと、画像検索してみるとトンデモ写真がいくつも出てきますので、各自で調べてみてください、、、、昔はほっぺたに串刺しする程度だったようですが、近年はこれまたエスカレートして、お笑い万国びっくり大会に変質しているようで。


DSC_0028.jpg
期間中は、白装束の市民で溢れる

DSC_0063.jpg
このような若い女性も串刺しで行進する。
写真ではわからないが、自虐参加者は、小刻みに体を震わせて軽いトランス状態で苦痛を克服している。 往年の悪役レスラーだったブルート・バーナードの挙動を思い出した


DSC_0061.jpg
一応、1人の自虐参加者には4~5人のサポーターが同行して止血消毒をしながら行進する。筆者はごく基本的な人々しか遭遇しなかったが、画像検索では思わず笑ってしまうような自虐の民がたくさん参加している
プノンペンの怪人・井上さんが死んだらしい
とりあえず、クーロン黒沢氏のシックスサマナブログで明らかにされたところによると、先月26日にプノンペン市内の病院で亡くなったとのこと。




バンコク最後の日
以前にはあったタイ旅行独特の開放感、、、ワクワク感、、が今回はまったく感じられなかった、、、、、、

理由を考えてみれば、今回の旅は、自分史上、プライベートなものとしては初めて宿泊と長距離移動のすべてを事前予約して臨んだ旅で、道中がスケジュールを単に辿っているような感覚に囚われたような気がしましたな。

とは言え、中級以上のホテルでは各種サイトでの事前予約がウォークイン価格よりも1割程度引いてあるのが普通なので、これを利用しない手はないし、、、、、

ちなみに、今回は日本バンコク往復がベトナム航空で2万6千円くらい、バンコクプーケット往復がノックエアーで4千円強でした。 足で安く上げた分、プーケットで泊まったホテルは2千バーツクラス。これって、日本のリゾートホテルなら軽く2万円越えレベル。コストパフォーマンスではまだまだタイはいいですな。
日本へのタイ人観光客が増えている理由
バンコクの中心部で日本当局によるキャンペーン広告ばかり、、、、、無用な予算。
誰もいないミズキッチン
もう、敢えて行く日本人は昔の思い出に浸る以外に価値を見いだせない店。飾ってある歴代総理の色紙が虚しい、、、、
タイにおけるセックスツーリズムの終焉?
とにかく、プーケット周辺のビーチリゾート開発が凄まじい。この分野でのポテンシャルは大きい。

タイも本格的な観光立国を目指して、外国人向けセックス産業を抑制するのも必然となりそう。
キチガイ祭り(注:筆者が勝手に命名)
写真を撮ったので、帰国後に公開します。
あっちもミャンマー、こっちもミャンマー
現地人と行動していると、別に聞いてもいないのに「あれもミャンマー人だぜ、ほら」などと指を指して教えてくれる、、、、

工事現場の労働者とレストランの若いウエイトレスのほぼ全員が該当。
どこも苦労している不法就労
地元の人によると、プーケットのダーティーワークはミャンマー人がほとんどやっているとか、、、
事実上、野放しらしい。
プーケットのキチガイ祭り
あちこちで爆竹が炸裂しているぞ
飛んでプーケット
ここもシナ人だらけ、、、
日本人はシナ人のココを見習え!
我がもの顔で街を闊歩するその姿。

誰が何と言おうと唯我独尊傍若無人の態度。

日本人はシナ人の爪のアカを煎じて飲むくらいが丁度いい。

バンコクで我想う。
行列、行列、行列、、、トホホのバンコク空港
どうやら、最も混雑する時間帯にかち合ったようで、既報の通り、イミグレでは1時間待ち、そこを出て、SIM売り場では20分待ち(スマホにSIMを挿して設定するまで係がやるので一人当たりに時間がかかる)、で、エアポートリンクの横にあるスーパーリッチでの両替も20分待ち、、、、ここのスーパーリッチの存在はあまり知られてませんでしたが、もはや情報はかなり拡散している模様。

なんか、バンコクは観光客で溢れているような印象ですわ。
copyright © 2005 ぼやき大爆発 all rights reserved.
Powered by FC2ブログ.
★付属掲示板へはココをクリック★