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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
尊師の履歴書18
(インド 2)

その3日後であったろうか。

ある旅行者から「ボンベイの赤線にはチベット系を専門に扱っている娼家があるのだが、そこには可愛い女の子が10人ほどいて、サービスが最高なので行ってごらん」 と教えてくれたのであった。

その娼家の屋号は「007」という曰くつき。  ショートが2ドル弱なので、先日より4倍近くもするのでかなり高めであった。
建物は木造の2階建てで、店は2階にあり小さかったが、受付も遊ぶ部屋の壁もデコラ(化粧板)を用いていたのでインドの安娼家としては綺麗であった。

我々は4人連れ。

オーナーはでっぷりと肥えた中年のインド人。  出てきたのは、やはり、我々日本人と同じ顔をしているモンゴロイドのチベット系であったが、仏教徒で16歳前後の女の子ばかりが10人ほど。  それが、高級ということで粒揃いにしていて、その当時の日本のアイドル中のアイドル山口百恵(当時18歳)を思いうかべるほどのアイドル級ばかり。
それが、いつも見ているインド人の肌は黒いので、彼女らの白い肌は、余りにもまぶしく、輝いているように見えた。  それは私だけでなく、皆が同じ気持であったろう。  因みに、インドには「カースト」という身分差別があるが、チベット系は最も低い。

 
実はインドでこの「インド人(ヒンドゥー教)と・・・・・・日本人・韓国人・中国人・チベット人・タイ人などのモンゴロイドで仏教徒」 の異なりについて・・・・・・インドを長期に旅している日本人は多くを考えさせられるのであった。 そのために「不思議なるインド」にやって来たとも言えたであろう。 ビートルズが1968年にインドの聖地リシケシを訪れたのだが、それを見習って。

西洋と東洋に分けているのは地中海に面し、トルコにあるボスポラス海峡。 その東側をアジアと呼んでいるのだが・・・・・・世界中の人が集まって取り決めたのでは決してなく、古の西欧人がボスポラス海峡を渡った一部の地域「アッシリア(西アジアのチグリス川中流)」 を「アジア」と呼んでいて・・・・・・ある古い時期にボスポラス海峡を渡った以東の全てのユーラシア大陸の地域を「アジア」と呼んでいたのを・・・・・現在の世界中の人々が受け入れているに過ぎない(その内容は正確な区切りではない)。
 
中近東はヨーロッパから見た目であるが・・・・・・日本からは遠西となるので、矛盾を感じてしまう。
それは私やインドを旅行した人だけでなく、多くの日本人や東洋人が感じているであろう。

インド圏に入るバングラデシュ・・・・・・その隣国で東南アジアのビルマ(現ミャンマー) の間にはアラカン山脈があり、最高峰はサラメティ山(3826m)であるが・・・・・・アラカン山脈が東南アジアとインド圏に分けている。
そのインド圏はインド・ヨーロッパ語族(白色人種)の一派のアーリア人の一部が、前2千年紀初めに中央アジアから南に移動しはじめてインドに至り、原住民のドラビダ系と混血を繰りかえしてインド全土を支配したのであった。
つまり「アメリカは白人が作り上げた」とは絶対に言えないが、インドの人種・文化の構成はアメリカのような国であり、インドは先輩各なのだ。
そういう事も手伝って、インドを長期で旅している者の間で「東洋と西洋の境はアラカン山脈にした方が良い」という内容の話がしょっちゅう取り交わされたのであった。

チベット人がいる娼家で遊んだ3日後くらいであっただろうか。

ある日本人の若者がヨーロッパから南ルートの空路で帰国する際に、インドのボンベイに2日間ほど立ち寄ったのであった。
私はその彼から「インド人とやりたい」 ということで赤線地帯への案内を請われたのであった。

ボンベイはインド一番の商業都市であり港湾都市なので、街は西洋的に洗練され、街行く若い女性は垢抜けし、美人を多く見かけるので彼のその気持ちは痛いほどわかったが、私は「絶対に止めとけ」 とくどいほど説明したのだが、周りの者も同じ。

適切なアドバイスと思えたが、そういう事よりも、自分があの酷さを再度味わいたくないからであった。

それが「是非とも!」、と。
そこまで請われたので、安全と思える「チベット人のいる娼家へ行こう」と問いかけると・・・・・・「インドに来たのだからインド人とやらないと意味がない、話にならない」、と。

目鼻立ちが整った男前で、真面目で好奇心の強い青年であったが、そこまで言われると、その要求に折れたのであった。
その気持ちが痛いほどわかるからであった。  とにかく、街で見かける若いインド美人はもう滅茶苦茶に綺麗であるが、110円で抱けるのだ。  誰があの娼家の惨状を想像できよう。

その様相は「全ての娼婦・・・・・・それは全ての女性の気持ちを露わにしている」 とは思えないが、「少なからずの娼婦・女性の気持ちの代弁をしている」とも言えなくないであろう。  故に、それを知ることは価値があるとも取れる。  また、110円で少なくとも、ブラジャーは取らなかったが、若いインド人の全裸を観ることは出来るのだ。

この時も最初のときと同じく、鉄格子が嵌められている『檻』のような部屋にいる娼婦を2人とも選べなくて・・・・・・赤線界隈を二人はうろうろしていると、表通りに面している娼館の出入り口に10人ほど立っていた娼婦を見つけ、そこで2人は選んだのであった。

さて、彼が選んだ女の子は20歳くらいで黒い肌であったがスタイルもマスクもよく美人であったが、優しげで温厚な顔であった。

彼女は路上で客引きをしていたのだが、そこを通りかかった彼は女の色香に吸い込まれる感じで女の子に近づいてゆき、そのまま建物の奥に消えて行ってしまったのだ。  つまり、彼と一緒に歩いていた私に対して何の質問も断りもなかったので、絵に描いたような「一目惚れ!」。

私は直感で「やばい!」と感じた。

本心は「この情景を観たら彼は諦めてくれる」 と信じていたからである。  その当てが見事に外れたのであったが、彼が選んだ彼女は若くて美人であったので、それも当然と思え、こっちは仕方ないという気持ちで、お付き合いで私もその娼館で女を選び、ことに及んだのであった。

結果はバングラデシュとまったく同じで悲惨を究めたが、なんとか射精まで持ち込めたのであった。 でも、3度目であり、今となっては記憶としての性行為の内容は全く残っていない。

さて、彼の方である。

娼家の出入り口の通路に設けられていた受付で私は待っていた。
そこに、事を終えた彼は通路の奥から戻ってきたのだが、その顔は慌てふためいていた。  性行為の内容を語らなかった。  ただ、興奮して、その惨状を語ったので、その様子がある程度うかがえた。
でも、今となっては、彼がどういう内容をしゃべりまくったのかは、忘れてしまっている。

彼はハイになっていて・・・・・・(ハイとは「高揚」することだが、普通より変わったこと、それも「驚いた!」ということが生じると、脳内麻薬が放出されてハイになる)ということで・・・・・・目をランランと輝かせてしゃべりまくって饒舌(じょうぜつ)であったが・・・・・・「信じられない?」という気持ちであったろうが「この世には信じられないことがある」ということを、実感できた喜びに溢れていた。
大発見をした・・・・・・・(さて、その内容は定かでないが、女の本心を少しは理解できたのではなかろうか)・・・・・・ので感動しているのだが、個人での長期旅行の醍醐味である。

たぶん、忘れ去ろうとしても、拭い去ろうとしても、一生忘れることが出来ないであろう。


編者注: お気づきの読者の皆さんもおられると思いますが、インド・ネパール旅行に欠かせない、「ガンジャ」あるいは「神秘体験」に関する原文はカットしております。 他項目においても、ドラッグカルチャーに関する記述は一切載せておりませんので、ご了承ください。
尊師の履歴書17
(インド 1)

スリランカから船でインドに戻った。

場所はインドの南部のラーメーシュワラムであったが、後にインド亜大陸最南端のカニャークマリを見学。 それからインドの西海岸に沿って北上し、ケララ州やゴア州のアンジュナ・ビーチや宗教・学園都市プネーに立ち寄って後に、インド最大の都市ボンベイ(現ムンバイ) に辿りついたのであった。
当時での人口は800万人くらいか。

このボンベイには「世界一の遊郭」と思えるほど大きな赤線地帯がある。 
その時は地区の名前がわからなったので、2011年にインタネートでチェックすると「『カマティプラ(Kamathipura)』 と呼ばれ、アジア最大の赤線地帯となっていて、3~4階建の娼館が1500軒以上もあるらしい」 と紹介されている。

私が1978年に訪れたときは、地区の名前も娼館の数もわからなかった。
という事で、私の推測では「3~4階建の娼館が公認・闇営業を合わせて数百軒ほどあり、1軒当たりで数十人。 ざっと計算すると何千人どころか万単位の人数になる」と思えたのであった。 
理由があったのだが、娼館が「名前」として掲げている看板は数字だけで示されていたのだが「007」という風に3桁で示されていたので、最低でも100軒、多くても1000軒と思えたからである。

タイのバンコクやインド国内にいる旅行者の間で「インドの安娼家の業者の娼婦への扱いも、娼婦の客へのサービスも最悪」 として知られていた。
1977年12月にカルカッタを初めて訪れたときに、チャイナ・タウンにある赤線地帯を1人で訪れて、値段を聞くと、ショートが4ルピーであったので約50セントで120円という安さであったが、遊ぶことが出来なかった。

その時点では、バングラデシュを訪れていなかったので、インドで初めて娼家を訪れたことになる。
そのカルカッタの赤線の景観は「酷い」ということで(でも現在では、その景観は忘れてしまっている) ビビッてしまって入れなかったのであった。 そして、その後にバングラデシュにある娼家を訪れたのだが、それと、カルカッタの娼家と比べると、たぶん、似たり寄ったりであったろう。

人には「怖いもの見たさ」 というものがある。

ボンベイの世界中のバックパッカーの溜り場となっているサルベーション・アーミーに泊まっていると、日本人旅行者からボンベイに大きな赤線地帯があることを教えてもらったのであった。  そうではあったが、その宿には日本人男性が15人ほど泊まっていたが「赤線で遊んだ」 と語る人は無かった。

聞いた、また、実際のショートの値段は4ルピーであった。  その話を聞いていたのは4人ほどで、私と他に1人が「では、明日、一緒に出掛けよう」 と話が決まり、その翌日の夕方前に2人はバスで出かけたのであった。

赤線地帯(遊郭で売春が公認されている地区) に着いたのは夕方前で周りはまだ明るかったが、周囲の感じは「遊郭」という「特別地区」ではなく、一般の街路に設けられていた・・・・・・そのために、片道一車線で車やバスや歩行者が往来する街路の両側に、普通の平屋の2階建ての民家や4階ほどの普通のビルディングが立ち並んでいる区域に「娼家」が点在していた。
それも、娼家のほとんどは3~4階建であったので「娼館」という趣であった。  それと判別できるのは、建物に「娼家」の看板として「007」「123」と3桁のナンバーが記されている、大きさが60×40センチくらいのプラスチック製の看板が掲げられていたからである。

その娼館の1階の街路に面している(「6畳」くらいの)部屋の窓枠には不釣り合いと思える「太くて丸い頑丈な鉄格子」が嵌められていた。  その様相はまるで動物園にある『檻』という趣であったので、不思議に思って表通りから中を覗き込んだのであった。

部屋の中は6畳ほどの広さのコンクリの床であったが、そこには色あせた古いサリーを着た真っ黒の肌の娼婦が立っていた。

それも数十人ほどであったので、立錐の余地もないほどのすし詰め状態であったが・・・・・・皆は表通りに顔を向けていて、窓の近くに立っている者は・・・・・・鉄格子から外を覗き込むようにして、表通りをとおりかかる男に必死に手を振って客引きをしていた。

そんなの初めてみる光景であったが、そのおぞましさに身の毛がよだちはしなかったが、やる気が失せてしまったのであった(見ないと、その心境は分からない)。  その一つの理由は、バングラデシュでの「想像がつかないほど酷かった!」出来事を思い出したからであった。

通りには何軒もの看板を掲げている娼館が点在して並んでいるのが見渡せる。
2人はそれを眺めながら歩いていると目が慣れてきて、若くて美人の子が結構いることがわかってきた。

ある娼館の前を通りかかると、娼婦は部屋の中に居るのではなく、通りに面している建物の出入り口に10人ほどの娼婦が客引きをしていたので、自然に足の動きが止まり、立ち止まって様子を見ていた・・・・・・そうすれば、相手は客を欲しがっている娼婦であり客と目が絡み合う・・・・・・2人は意を決めて、私は「清水の舞台から飛び降りるよう」な心境で挑戦。

女の年も容姿も忘れてしまっているが、「お互いに見つめ合っていた」ので「こっちは気にいっていた」ということになり、20歳前後で、容姿も人並み以上であったろう。

その結果はバングラデシュの娼婦と全く同じ。 娼婦は最初からチップ攻めであり悲惨を究めた。
尊師の履歴書16
(スリランカ)

バングラデシュからインドのカルカッタ(現コルタカ) に戻ってから1978年の正月を迎えた。

それからスリランカに向かうために広大なインド亜大陸の東海岸に沿って列車やバスを使って南下し・・・・・途中でプリー、マドラス(現チェンナイ)、マデュライなどに立ち寄り・・・・・・ラーメーシュワラムから船でスリランカ島のタライマンナールに渡ってスリランカに入国。

スリランカの面積は66000平方メートルで九州の約2倍で、人口はその当時で1700万人ほどか。 島国の仏教国で、住民の74パーセントが上座部(小乗)仏教徒であるからであろうが、ヒンドゥー教のインドから比べると、人々は温厚で、また、女性も外国人男性に気軽に声をかけてくる。
後者の、そのような女性の振る舞いは、インドでは決してなかったので驚いてしまったのであった。 それは私だけでなく、その当時の旅行者の殆どが感じたであろう。

1978年に訪れたのだが、その当時のスリランカの治安は良好であった。 そのように記す必要があるのだが、それは、1983年から・・・・・・インド南部のタミル人がスリランカに移住してきたタミル人が分離独立のために、原住民のシンハラ人との間で民族対立が起こって、全土にわたって暴動が繰り返され・・・・・・2009年までスリランカは内戦状態で、治安が悪かったからである。

ノービザで入国したのだが滞在期限は1カ月・・・・・・・予定通りそれを使い切って島内の一周を果たしたのであった。

このスリランカで2人の娼婦を買ったのだが、その当時の旅行者では珍しかったであろう。 
というのも、30人ほどの日本人男性に出会い、語り合ったのだが、それを実践した者に合わなかったし、その話を聞いたこともなかったからである。

1人は首都コロンボにある安娼家。 

日本人に場所を教えてもらったのであったが、彼はそこで遊んでいなかった。 普通の平屋の民家を使っている娼家・・・・・・ショートで約1ドル(約240円) であったが、紹介された女は1人だけ、たぶん、置いている女は彼女だけであったろう。 
安いので値切らなかったのだが、普通なら50セントほどか。 因みに、一般労働者の日給は40セントほどか。

女は24歳くらいで、娼婦としては若くなく、少し大柄で、それなりに肉付きが良く(グラマー)、肌の色はスリランカ人であり、褐色というより、黒色。 肝心のマスクは並より少し上。 それが、客として案内されたのは土間であったが、やる場所は、その土間にむしろを敷いただけ。 信じられない気持であったが、本当の話。

環境は劣悪。
豊満な女であったが、キスもさせず、これと言って愛撫がないというか・・・・・・手でペニスを起たせようとする作業は一切なし。 それが、サービスが悪いというのではなく、女は「愛撫の方法がわからない」というより・・・・・・・この娼家では、もしかして、スリランカの多くの娼家ではそういう習慣がなかったのかもしれない。

そういう彼女であったが、裸で抱き合っていると、温厚で従順さを感じた。タイの16歳前後の女の子は初心が売り物あるが、その多くは、前技で男に対して、これといった愛撫を施さず、男に身を任せているだけ。 いわゆる、正真正銘の冷凍マグロ。

そういうことよりも、約1カ月前のバングラデシュのイスラム教(でも、ヒンドゥー教の慣習が強く残っている) の娼婦との酷い情事を思い出し・・・・・・それに対し、スリランカの彼女は仏教徒であるから、温厚であり、事が上手く運んだと思えた。
先に記せば、それほどインドの安娼家の女のサービスは酷いのだ。


もう1人はスリランカ北端にあるジャフナにある安宿に住み込んでいた娼婦。 

宿の従業員に紹介されたのであった。
18歳くらいで若い女の子。インド美人は有名であるがその理由の一つは、ヨーロッパ系の目鼻立ちが整っている「アーリア系(白人)」 とインドの原住民の肌の黒い「ドラビタ系」 の血が混血化されているからであろう。

15~18歳くらいの年頃の娘は、手足が長いので目を奪われるほどスタイルが良いが、マスクも目鼻立ちが整っているので素晴らしい。 彼女はまさにそれであったが、やや小柄で、オッパイは釣鐘型で大きくて張り切り、肌は真っ黒に近かった。 スリランカの北端にあるジャフナという場所柄、スリランカの原住民であるシンハラ人でなく、インドから渡ってきたインドの原住民であるドラビタ系の血が濃いタミル人であったろう。

オールナイトであったが、米ドルに換算して10ドルであったが、先払い。 物価からすると、高過ぎたが、それよりも先払いが気になった。 それだと、トラブル恐れがあるからである。 

でも、女に悩殺されているので、断ることも、値切ることも出来ない。 付け加えれば、自分の部屋で若くて美人の女を抱いて一夜明かせ、寝起きに一発できるのだ。 それは、独り者の最大の憧れであろう。
付け加えておけば、オールナイトで先払いであったが、一発目が終わった後に、女は部屋を立ち去ってしまったのであった。 
斡旋した宿の従業員に文句をいうと、笑っているだけ。

自分のミスであるので苦笑いで済ますしかない。 
お金の方は別にして、明け方に「上玉と寝起きの一発!」 が出来なかったことに対しての悔しさが残った。 

そうとも思えたが、あれほどの素晴らしい女に巡り合えたことに、ニンマリとして感謝しまくったのであった。
尊師の履歴書15
(バングラデッシュ 2)

首都ダッカからインドへの帰り道でこういうことがあったのだ。

インドからバングラデシュに入国した後に、バスを使って首都ダッカに向かい、そこから、更に東端のコックスバザールまで行き、その後にダッカにもどり、インドのカルカッタにもどることにしたのであった。 
その帰り道に往路と同じ経路を辿るのは芸がないと、ダッカから船を利用してインドの国境から数十キロほど離れているクルナに向かったのだが、夕方に到着。それから安宿を探して、一人で夕食を取るために街に出たのであった。

夕食を済ませた後に、宿に戻るために細くて暗い路地を一人で歩いると・・・・・・現地人相手の公設の娼家で20歳前後であったが、絵に描いたような「ブスに加えて性悪女」 の娼婦に・・・・・・こっちの耳を片手で引っ掴まれ、もう片方の手でシャツを引っ掴まれて、無理やり狭くて汚い部屋の中に引き込まれて、強チンされたのであった。

女にとっては、生き抜くための金欲しさであったが、1ドルという安さ(現地人も同じ)。 バンコクでもインド国内でも、日本人旅行者から「インドの安娼家での娼婦のサービスも、セックスの内容も最悪」 と耳にタコができるほど聞かされていたのであったが、そのとおりであった。

女は全裸にならず、インドの女性の服そうであるブラジャーのような衣類を取らなかった。 因みに、後に知ったのだが、インドの安娼家ではそれが普通。
ブスであったが、それでは、こっちはやる気が起こらないので、取り外すことを求めるとチップを要求してきたので、即、諦めた。 

それが、前技の際でも、性行為中も、性行為後も何らかの形でチップを要求してくる。 それが分ったのは、その最中のことで、その以前は知らなかったのであった。 それはインドでも同じだが、それを知ったのはインドにもどった後のことであった。

二人はベッドに横になるや、女は直ぐに、手で男の萎んでいるペニスを扱いて勃起させようとする・・・・・・・その様にされれば痛いのだが10日間ほど手で出していなかったので、また、女が20歳という若い女に扱いてもらっているので・・・・・・でも、愛撫が余りに酷かったので、半立ちにしかならなかったが、その状態で、なんとか挿入。

性行為中に女は「チップ」の要求を連呼。 こっちは「この野郎!」という気持ちになり・・・・・・また、溜まっていたために「何としても出すぞ!」と意地が働き・・・・・・女の「チップ」の声を、こっちにとっては鞭を入れられているようなもの、声援を送られているようなもので、また、そのように解釈し、リズムを取れたので、最後まで頑張り通せたのであった。

因みに「この野郎!」 の気持ちが働かなかったなら中折れは必須であったろう。 それを思えば、女が、そのように「チップ」の連呼の声を張り上げたから、射精できたようなものである。

最悪の場合と最高の場合は「特別」ということでは同じなので、脳裏に深く刻み込まれるものである。 


インド圏に入って初めて娼婦を買ったのであった。 それまでに、数多くの旅行者から「インドの娼婦は世界で最低」と言われていたが、それを我が身で確認できた形になったのであった。
もう一つは、1970年の大阪万博のインド館を訪れたときに超がつくほどのインド美人に悩殺されてしまい「何としてもインドで娼婦を抱く」 という夢を抱いたのだが、それを叶えることが出来たのであった。

私の旅行とは、自分の頭の中に生じた「欲望」という穴を埋めるため・・・・・・それは、捨て去ってゆく旅でもあった・・・・・・言い換えれば、自分を納得させる為でもあった・・・・・・また、物思いに耽るため・・・・・・それは、思考・妄想・瞑想するためのネタの収穫の旅でもあった。

この年の10月にネパールに入国した時点で、そこに滞在している旅行者の皆と同じく、お釈迦様の国・インドに入って仏道を学んでいたのを感じ取っていたのだが・・・・・・バングラデシュで女とのそのような出来事で、それを再確認した自分であった。
尊師の履歴書14
(バングラデッシュ 1)

ネパールのお釈迦さんの生誕地「ルンビニー」 を訪れた後に、「スノウリ」 に入って隣国インドに入国できたのは1977年12月初句。

当時のバックパッカーは「インドを3カ月旅行できた者は、世界のどこでも旅行できる」 と交わされていた。 別にインドの旅行が厳しいからではない・・・・・・それどころか、物価が安くて、治安が良く、英語が通じ、外国人用の旅行のインフラが整っているので旅慣れた人にとっては、また、女性にとっては「安全」 ということで、最も旅行し易い国の一つである。

バックパッカーに「インドを3カ月間旅行できた者は、世界のどこでも旅行できる」 と言われ由縁は「現地人とのやり取り」 「旅行の方法」 の基本を覚えるからであるが・・・・・・そういうことよりも、「インドはお釈迦様」 の国なので、その教である・・・・・・「執着しないので、何事も上手くかわせて、やりすごせ・・・・・・全ての物事に対して、美味しくいただけるので有難味を感じて、自然に手を合してしまう」 とまではいかなくても、その方法が自然に身に付いてゆく。
それが身に付けば、殆どの国を旅できるであろう。

また、インドでそれが出来ないと・・・・・・糞暑くて、不衛生で、連日の安飯屋のカレーはまずく・・・・・・街を歩いていると現地人、それも乞食は外国人旅行者にしつこくまとわりついて話しかけ、物乞いをしてくるので、インドを3カ月以上も旅行をできないであろう。

好奇心が強い人は、インドの旅はそれを満たしてくれるので面白い国となる。 対して、バックパッカーがインド旅行で「快適さ、現地人からのおもてなし」 を望む人は「最悪の旅」 となるであろう。 
アフリカの陸路での横断・縦断の旅行は過酷を究めるが「諦めさせてくれる」 「己なるものを少しは分らせてくれる」 つまり「悟らせてくれる」 となって「物事の考え方・見方が一変してしまう」 ということで「最高の旅」 となる。

別に「インドを3カ月間旅行できた者・・・・・・云々」 を気にしていなかったが、アフガニスタンの「11月初句~5月初句までの山岳地区は積雪のために移動が厳しい」 という気候の都合で、インド以西の中近東に陸路で向かう予定は1978年の5月と決めていた。そして、計画通りに向かったのでインド圏には5カ月間滞在していたことになる。

ネパールからインドに入国した地点はスノウリであったが、その後に北部のブッダガヤやサルナートにある仏跡やヒンドゥー教の聖地ベナレスを巡って後に、カルカッタ(現コルタカ)を経由して、隣国バングラデシュを訪れたのであったが、ノービザで10日間の滞在が得られたのだが、それを使い切ったのであった。

バングラデシュの国教はイスラム教で、人種はベンガル人。 
人口は日本とほぼ同じで、当時は1億1千万人ほどで、シンガポールなどの都市国家をのぞけば世界でもっとも人口密度が高い国。 1971年にパキスタンから分離独立してから7年経過していた。 けれど、独立する際の内戦で国が疲弊してしまって、それがまだ復旧していなくて、世界で最も貧しい国の一つとされていた。

そのためか、インドでは多くの外国人旅行者を見かけたのだが、バングラデシュで10日間の滞在中に全く見かけなかった。
確かに、内戦の終結後の復興期で、悲惨な面もあったが、そのような光景は首都ダッカなどの都市の一部で物乞いしている乞食の群れくらいのものであった。

バングラデシュの国土は、ガンジス川とプラマトラ川が形成した世界最大のデルタ地帯の大半を占め、広さは日本の38パーセントしか過ぎないのに、日本と同じ人口を擁している。
その意味は、洪水に見舞われはするが、南国なので太陽と水に恵まれ、土地は肥沃なので豊かな風土を示している。 また、風土が豊かなので人口が多く、大半が農民で、機械化がされていないので質素な生活をしているのだが・・・・・・先進国の人たちから見ると、機械化がされていないので生産効率が悪いので貧しい生活を強いられているので「貧しい人」となってしまう。 それは、その当時のインドでも、中国でも同じである。 

さて、そのバングラデシュは貧しい国なのであろうか、豊かな国なのであろうか。

地方の広大なデルタ地帯の農村部のほとんどは電気も水道もなく、日本の終戦直後の質素というか、貧しい生活をしている。 それは確かだが、一般の人々は明るく、活力旺盛なので、嫉妬してしまった私であった。 

私は昭和24年の戦後生まれに加えて、田舎育ちなので、日本の敗戦後の様子はわからない。 ただ、バングラデシュのそのような様子を見て、あの当時の日本人は生きるのに精一杯であったろうが、故に活力旺盛で、希望に燃えていたので「楽しかった」 と思えたのであった。  それを示しているのが、戦後のベビーブームであるが、私はその団塊の世代である。

人間以外の動物は我が子が死んだなら、次の子供を産むことに全力を尽くすことになる。 グダグダ言わないのだ、そんな暇がないのだ。
男女とも、セックスで逝きそうになると周りのことなんて気に掛けないどころか、わからなくなるが・・・・・・・男は出すために必死で励むが、女は無我の心境で快感を貪るものである。
それらを思えば、日本やバングラデシュの戦後の人々の多くは「生きるために精一杯になれたので、活力旺盛になった」 ということになって「幸せであった」 とも取れなくはないであろう。 

私はそのように取る方である。

尊師の履歴書13
(ネパール)

ラングーンからカルカッタ経由でカトマンドゥに向かう機中のガラスの窓越しから遥か遠くであったが小さなエヴェレストを遠望できた。

まさか、それで私が満足することはなかった。

カトマンドゥに着くと、直ぐに日本人旅行者の溜り場『ストゥン・ハウス・ロッジ』 に向かい、そこに投宿。 
ほぼ満員で、日本人ばかりの男女が泊まっていたのだが、50人くらいか。  私はカトマンドゥに着くと直ぐにエヴェレスト・コース(ソウル・クーンブ・コース) のトレッキングに向かう用意をし、4日目に1人で向かった。

因みに、泊まっている連中で、誰一人としてソウル・クーンブ・コースのトレッキングをした者も、予定している者もいなかった。 時期はベストであったが、通常の時期としては早かったからかもしれない・・・・・・・ただ、私の感じとして、その当時では、日本人がそのコースを行く人が少なかったからであろうと思えた。 というのも、先に記せば往復で23日間の行程であったが、その際に日本人女性に一人だけあったからである。

私の旅行の基本は陸路なので、カトマンドゥからエヴェレストのトレッキングの基地で飛行場があるルクラまでの空路は全く使わなかった。 当時のトレッキングの出発点は、今現在の「ジリ」でなく、その70キロほど手前のラムサング。 カトマンドゥからラムサングまでバスで行き「山道」 に等しいエヴェレスト街道を一人で歩きはじめたのであった。

トレッキングとしては、エヴェレストが最も間近に見えるので、最高のポイントの一つカラパタール(5545m)。 それは丘で、その下にはゴラクシェプ(5150m)がある。 そこに辿りついたのは13日目か。 
高山病が出たので、その翌日の14日目、もしくは、15日目の・・・・・・午後3時過ぎに、一人でカラパタールに向かったのだが、予定どおり夕方前に辿りつくと、周りは誰もいなくて、私一人だけ。

そこからエヴェレスト(8848m)は10キロほど離れている・・・・・・エヴェレストを遠望できても、その前方に雪を頂いている山が立ちはだかって、前方を遮っているので、肝心のエヴェレストは小さく見えてしまう・・・・・・山肌は黒かったが、しばらくすると夕陽が当たりはじめ、時が経過するにしたがってエヴェレストは金色に輝きはじめる・・・・・・丘にある石に腰をかけてその様子を一人で、周りが暗くなるまで眺め、カメラで撮り、この旅行の一つのハイライト迎える。 翌朝、二人の白人に「ベースキャンプに行かないか?」と誘われたので、同行させてもらったのであった。

帰り道も、歩いてラムサングまで戻ったのだが、往復で23日間の行程であったが、普通なら1カ月の行程なので、歩くのが速い方であったろう。 この後にジョムソン・コースで「ポカラからムクティナート」までの往復を、9日間トレッキングしたのであったが、これもは相当に速い方であった。

因みに、この時は1977年11月で、ヒマラヤのトレッキングはベストシーズンであったが、カラカパタール(丘)やそこへの上り口のゴラクシェップを訪れる人は日に15人止まりというわずかな人であった。 
それは、多くの世界的に有名な遺跡などの観光地もおなじであった。 例えば、ヨルダンのペトラ・・・・・・エジプトのルクソールの王家の谷は「ツタンカーメンの墓が発見された」ということで有名だが、そこも、カルナック神殿も、観光客は私だけ。 1981年に訪れた、南米のアルゼンチンのカラファテ氷河でも、私と観光バスでの1グループが来ているだけ。 
その為に、それらには入場口がないので料金は無料。 

故に、手付かずの遺跡が見られたのである。
尊師の履歴書12
(ビルマ、現ミャンマー)

ネパールの「世界の屋根」 ヒマラヤに聳えるエヴェレスト(8848m)を観るベストシーズンは乾季である秋の10月中旬から11月末までと言われている。  因みに、12月も見晴らしが良いのだが、5000メートルを超える地域では雪が1メートルほど積もって、トレッキングが困難になる恐れがあるらしい。

タイのバンコクに滞在していたのだが9月末であっただろうか。  後ろ髪を引かれる思いで、バンコクからタイより以西のインドや中近東へ向かうことにした。 

私にとって、ここより以西は未知の世界であり、また、中学・高校生から憧れ続けてきた「南ルートのシルクロード・歴史のあるアジアの地域」 なので、「これから世界一周への旅がやっとはじまる」 という心境でもあった。
 
当初の計画どおり、バンコクから飛行機でネパールのカトマンドゥに向かう際に、ビルマのラングーン(現ヤンゴン)にストップオーバーした。 
観光ビザの滞在期限は1週間だけであったが、それを使い切った。 
首都ラングーンで娼家を探しても見つけることが出来なかった。 後に、列車で古都マンダレーにむかって、そこで1人だけであったが女遊びを果たして後に、ネパールのカトマンドゥに飛んだのであった。

ビルマ人は仏教徒で肌は小麦色であるが、街角や公設市場では目鼻立ちが整っている美人を多く見かける。 付け加えるなら、隣国のタイも美人が多いけれど、どちらかというと「鼻ぺちゃ」気味の女の子が少なくないので、ビルマ人の「目鼻立ち整っている」のが際立つ。 
でも、インド美人のように目鼻立ちが近寄りがたいほどに整っているのではなく・・・・・・ふっくらとした丸みがかった東洋的な輪郭の顔なので、とてもチャーミング。  それも、第2次世界大戦がはじまる以前では、東南アジアの中で、フィリピンと同じく、ビルマは最も教育が進んでいて教養が高く、加えて「世界一の米の輸出国」という豊かな土地柄なので、その当時でも、現在でも豊かな国民性なので・・・・・・目鼻立ちが整った美人は丸顔でふくよかで・・・・・・ビルマの民族衣装である「ロンジー(腰巻)」と呼ばれている薄手の生地のロング巻きスカートで歩く姿はおっとりとしていて、知性的なので気品がある。

付け加えるなら、1977年の当時は鎖国されていたので、外国人にとっては街路を走る車の全ては「戦前のものなのでクラシック・カー」に等しかったのだが・・・・・・故に、外国人にとっては、ビルマ人は「近代文明に汚染されていない」となって「女性のおっとりとしていて、知性的で気品がある」というのに磨きがかかって映るのである。 ビルマ人女性の美人を、その様に感じるのは私だけでなく、ビルマを訪れた旅行者の全てに近いほど・・・・・・それも1990年代に訪れた多くの日本人でも、その様に褒め称えるのであった。日本人が元旦に初詣で大きな神社を訪れたときに「うら若き巫女」を見ると、そのように感じるものであるが、それである。

そのように、ビルマは第2次世界大戦以前の姿がそのまま残されていたので、我々外国人旅行者にとって、戦前にタイムスリップしたような感覚になる。 
首都ラングーンの街角を歩いていると、また、公設市場の花屋さんを通りかかると、年頃のビルマ人女性が「ロンジー」で歩く姿をおおく見かけるのだが・・・・・・全体の物腰がゆったりとしているので、とても優雅。 日本人女性の着物姿で歩くさまは「速く歩けないので、自ずと優雅」となる・・・・・・秋田美人は有名であるが、思い浮かべるのは着物姿・・・・・・ビルマ美人もそれと同じなのだが、女性に気品があるので際立つのだ。

そのために、こっちは下半身が疼きっぱなし。 それだけで納まることなんてありえず、やりたくて仕方ない。 それで、ラングーンで娼家を探しまくったのだが、見つけることが出来なった。 社会主義国であったが、たぶん、その当時のラングーンには娼家がなかったのであろう。

その後に列車で古都マンダレーを訪れたのであったが、夕方前にリキシャ(自転車タクシー)のおっさんに頼んで、町外れにある娼家を案内してもらったのであった。

部屋の内容は「掘立小屋」に等しく、2畳に満たない部屋が一部屋あるだけ。 
板敷きにゴザが敷いてあるだけで、出入り口にはドアがなく、シーツのような薄手の布のカーテンがあるだけなので、部屋の中からは(人影が見当たらなかったが)昼間の路地がうっすらと見える・・・・・・そのような粗末な部屋であったが・・・・・・でも、出入り口のカーテンは別にして・・・・・・部屋の造りは東南アジアの一般の男性が利用している安娼家の部屋とそれほど変わりはしないので、遊ぶことにしたのであった。

それは、それまでにタイのチェンマイで何度も遊んだ私のことであって・・・・・・実際のところは「極悪の環境」であったので、一般の日本人であったなら99%はその気に成らない、成れないであろう。
チェンマイの娼家と異なっていたのは、やり手婆やその類の者もいなくて、女が1人でいるだけ。  隣に娼家がもう1軒あったが女は不在であった。 値段はショートで闇ドルに換算して1ドル(約260円)であった。 これまでで最安値であったが、物価の安いビルマとしては安くないと思えたが、言い値で納得。  一般の人の3~5日分ほどの稼ぎか。 客は日に1人くらいのものであろう。

女の子は20歳くらいか。 ビルマはイギリスの旧植民地なので、一般の多くの人は英語を話せたが、彼女は話せなかったので、貧乏育ちであったろう。  中肉中背でスタイルが良く、マスクはすご美人で、優しさも、気品も天下一品。
尊師の履歴書11
(タイ)

最初に訪れたのは韓国。 この後に予定通り香港を訪れ1週間滞在したが、安く女遊びをできる場所を探すことが出来なかったので、女と遊べなかった。 

台湾に2週間立ち寄って一周をしたのであったが、その際に3度女遊びをした。
人数が少ないのだが、値段が高かったからであった。 一人は台北から南東に40キロほど離れた太平洋岸に位置する「礁渓温泉」の小さな温泉宿を訪れたときに巡り合った女の子。  18歳くらいか、小柄で、キュートで表情も明るく、実にかわいい子。
泊まった宿の客は私だけであったが、その宿の娼婦で、上品な女将さんから勧められたのだ。

台湾を訪れた後に、タイのバンコクへ飛んだのであった。

タイの観光ビザの滞在期限は1カ月であったが、それをすべて使い切った。  このタイでの1カ月は、私にとって前回の旅行の帰国後1年8カ月も働いたので、その休暇であった。

そういう私は、バンコクやチェンマイで泊まっていた旅社で連夜女を買い漁っていたので20人くらい遊んだであろうか。

バンコクで、バンコクからインド・中近東を経由してヨーロッパやアフリカへ向かおうとしている日本人旅行者・・・・・・・その多くはバンコクのバックパッカーの溜り場タイソングリートに泊まっていた。

この中で「インド・中近東・ヨーロッパを周るためにバンコクにやって来たものの、娼婦に夢うつつとなってバンコクにずるずると滞在している中に旅費を使い果たしてしまって、帰国せざるを得なかった。 中には、帰国して親にお金を借りて直ぐにバンコクに戻ってきた・・・・・・」 という幸せ者がわずかにいた。 
それは、前回の旅行でバンコクに滞在しているときも、同じであった。

私はタイソングリートに泊まらず、近くのチャイナ・タウンにあって常宿となっていた三合吉旅社に泊まっていた。

前回にバンコクに訪れたときと同じく、連日タイソングリートの1階にある食堂に通って日本人旅行者と話をしていた。 2度目のバンコクなので、娼婦に夢うつつになることはなかった。 
尊師の履歴書10
(韓国)

1977年7月の吉日、下関から関釜フェリーで韓国の釜山に向けて出発。

当時の韓国の観光ビザの滞在期間の限度は2週間(10日間であったかも) であったが、それをすべて使い切ったのであった。  その間に、慶州市・ソウル・東海市で7人くらいの娼婦と肌を合わせたのであった。 
最安値の宿泊施設のヨインスク(民宿)やヨーグワン(安宿)であったが、宿のお上さんに娼婦を紹介されるなり、宿が娼家を兼業していたので女にあり付けたのであった。 全てがオールナイトで、チップを含めて3千円。

さて、肝心のお味の方である。

韓国ではまだ封建性が根強く残っていて、女性は男性に対して献身的であった。  夏であったが、板張りの床にシングルの煎餅布団。 慶州市の民宿では蚊帳が釣ってあったので情緒深さは格別であった。

前回の旅行でのセックスは全てベッドであったが、韓国の慶州でのそれは板張りに布団を敷くという日本ではオーソドックスなセックスは初めて・・・・・・加えて蚊帳が釣ってあるので、こっちはそれだけで催してくる。
慶州以外では蚊帳が釣られていなかったが、同じような状態・・・・・・夏のことで掛布団はなく、薄明りの中で男女が素っ裸に抱き合っての前技・・・・・・でも、女によるこれといった特別なサービスはなく、ただ抱き合ってキスをしているだけで情緒深いものを感じさせたが、前技で全員に対してギン起ち。

実は、私は海外で千人斬りを果たしたのだが、一つの国で10人以上遊んだ場合で、外れが無かったどころか、全てが大当たりであったのはフィリピンと韓国だけであったので、私としては特記すべき内容であった。
そういう事は極めて珍しかったからで、特に、韓国人娘には「情緒」を感じたので素晴らしかったのだ。
その印象は私だけでなく、韓国で韓国娘を抱いた者にとって共通であろう。  故に、その当時の日本人の多くが韓国での「妓生パーティー」に現を抜かしていたのだ。

それが、1980年代初期で、私がニューヨークに滞在していたときに「コーリャン・ハウス」と呼ばれたマッサージ・パーラーがアメリカ人の間でも、ニューヨークに在住の日本人の間でも好評を得ていた・・・・・・・もちろん、内容はそのものズバリ・・・・・・娼家と同じであったが、ニューヨークでは、安い娼家は、10ダラー・ハウスと呼ばれて、10ドル(2500円前後=ニューヨークで働いている日本人の感覚は1000円)で遊べた・・・・・・対して「コーリャン・ハウス」は70ドルと高額であったが、見る見る件数が増えていったのだ。

それほど韓国娘は素晴らしいということである。
尊師の履歴書9
(第2回旅行の準備)

1975年11月から働きはじめると、予想していたより高給であったので月に14万円と、予想より2倍も預金ができ、それがコンスタントに預金通帳に打ち込まれてゆくことになる。

1年が過ぎ去った1977年の正月を迎えたころには170万円を超えていたであろうか。
前回の旅行中で、次の旅行の旅費は少なくとも5千ドル、理想は1万ドルと決めていた。 その5千ドルをクリアしていたので今年中に、それも、ベストと予定していた夏には旅立てる目途が立ったのであった。 少なくとも2~3年は覚悟をしていたので、頬が緩んだのも当然であった。

10月にエヴェレストを仰ぎ見るためには日本を8月までに旅立つ必要がある。 2カ月もあるのだが・・・・・・・韓国・香港・台湾・タイ・ビルマ(現ミャンマー)を経由する計画を立てていて、それらの国や地域の全てで、女遊びをする予定でいたからであった。正直なところ、別に必要がなかったが・・・・・・高校生の頃に、そして、前回の旅から帰国した際に「訪れた国の全てで、娼婦でも良いから女と必ず肌を合わせて、情を交わすこと」 と決意していたので、それを果たすためであった。 高校生の頃には、その面でもっと多くのことを考えていたのだが、述べると長くので止めておこう。  
内容は別にして「少年よ大志を抱け」というクラーク博士の名言があるじゃないですか。

1977年3月に広島の店を辞め、大阪に戻ったのであった。

理由は、次の旅行の情報を集めるのと、旅行の装備を整えるためには広島より大阪の方が好いと判断したからで・・・・・・すし調理師会に顔を出すと、紹介されたのは大阪市内でなく、奈良の桜井市にあるすし店であった。
ここでも、前述した面で都合が好くないということで、4月末に店を辞め大阪にあるすし店で働きはじめたのである。

この身勝手な行動に対して自分のことながら呆れ果ててしまったのであった。
その意味の中に、その当時ではバックパッカーが少数のために『地球の歩き方』のようなバックパッカー用のガイドブックが一冊も発行されていなかったので・・・・・・・地方都市では旅の情報の収集も、長期の旅行用として気にいったリュック・寝袋などの装備を買い求めるのが難しかったのだ。
それで、大阪に戻ったのだが、装備を整えることは出来たが、旅の情報を集めることは全く出来なかったのに等しかった。

予定通り7月のある日に、大阪にある店を辞めてから旅支度を始めたのであった。

2度目の海外旅行であったが、最初は仕事であったのと、後の4カ月半の東南アジアの旅行は「視察」であったので、2度目の今回が、私としては初めての「世界一周」への旅立ちであった。

前回は仕事であったので、カメラもバックパッカーの必需品であるリュック・寝袋も持参しなかった。  でも、今回はネパールのヒマラヤを訪れるのでそれらを買い求めた。
カメラはエヴェレストを撮影したかったのでペンタックスの一眼レフと、 200 ミリの望遠と広角の2本の交換レンズを買い求めたので装備を揃えるのに15万円ほどかかったであろうか。  荷物の総重量は覚えていないが8キロ弱か。

出国時は1ドル265円で9000ドル弱。  円に換算して240万円弱ほど。
5千ドルのトラベラーズ・チェックと・・・・・・闇ドル用として4千ドル弱のドル・キャッシュ(もしかして、合計で1万ドル弱であったかもしれない)。
たぶんであるが、当時のバックパッカーの中では最も多い金額の部類であっただろう。  それがわかったのは旅立ってからのことで、2年と4カ月の期間中に5千ドル以上を持った日本人旅行者に1人も出あわなかったからである。

編者注: 闇ドル、あるいは闇両替とは、銀行などの公的機関で両替するのではなく、私設の非公認両替所や個人間で現地通貨に両替すること。 陸路の国境に到着した場合など、事実上、闇でしか現地通貨が入手できないことが大半であり、需要があるので必ず両替屋がいる。 隣接する国の通貨か米ドルの現金で行われるのがほとんどで、高インフレの国では公定レートよりも割増しになるのが普通で、社会主義的通貨政策をとり、公定レートと実勢の乖離が極端な国などは数倍もの金額になった。 
尊師の履歴書 (8)
(貯金に明け暮れる生活)

さて、1975年でバンコクに滞在しているときに、帰国してから、次の旅行の旅先地を、

「夏ごろに下関から船で韓国にわたる・・・・・・後は、飛行機で香港・台湾を経由してタイのバンコクに飛ぶ・・・・・・エヴェレストをこの目で見るために、10月ごろにタイをスタート・・・・・・ネパールを始めとして陸路でインド圏、中近東を経由し、そこから船でアフリカに渡り、それを陸路で一周・・・・・・後は計画が立てられないので、野となれ、山となれ」

と決めたのですが、「さて、それを周るには、どれくらいの期間がかかるであろう・・・・・・旅費は、どれくらい必要であろうか」 と考えたのは、当然でした。

期間の方ですが、ある年の夏に日本を発ち、アフリカの北端にあるエジプトに辿りつける時期や期間は見当が付いていて・・・・・・10月にタイを出たなら、翌年の7月頃になる予定でした。 でも、その後のアフリカ一周に要する期間は、見当さえも付きませんでした。 というのも、バンコクでアフリカを旅行した人に巡り合った者の全てが「エジプトからエチオピアを経由してナイロビに抜けた」 という人ばかりだったので、他のルートのことは全くわからなかったからです。

他方、旅費は多ければ、多いほど良いのがわかっても、貯めるには時間を必要とします。

1ドル300円前後でしたが・・・・・・それで大雑把に旅費を計算するしか術がなかったのですが「少なくとも5千ドル、理想としては1万ドル(3百万円)」 としたのです。
その根拠なんて、これと言ってなかったのですが・・・・・・あるとすれば、バンコクなどの色町に留まっているときには女代が嵩むけれど「インドや中近東の旅行中は物価が安いので月当たりにして100~200ドルで納まりそう」 くらいのものであり・・・・・・故に「旅費は多ければ、多いほど好い」となってしまうのです。
ズバリ、帰国後で、思いどおりに稼げなかったなら「外国での女遊びを控える」 だけのことなのです。 それほど「女代が掛かる!」・・・・・・例として、バンコクでは「生活費が5ドル、女代も5ドルなので半々になる」 だったので、それを経験して実感したのです。 因みに、その割合はナイロビやサンパウロなどの色町で共通でした。
それで、1975年でバンコクにいるころ、それだけの旅費を貯めるのには「少なくとも2年は掛かる」 と思っていましたが、3年は覚悟していました。

先に述べましたが、1975年11月に帰国して、直ぐにあり付けた仕事先は、広島にあるすし店でしたが・・・・・・働きはじめると月に14万円ほどをコンスタントに預金ができて、バンコクや、帰国した際の計画の2倍になりました。
思いもかけなかった額にビックリして、つい、微笑んでしまうのですが・・・・・・それだけの狂乱物価であっても、以前とおなじ1ドルが300円前後で維持していて、円安にならなかったのです。
私のように海外旅行を目指す者にとっては、オイルショック後の狂乱物価は追風となって都合が良かったのです。

広島で働きはじめてからの日々の楽しみ事は、月ごとに預金通帳に書き込まれていく無機質な数字を眺めるだけ。 もちろん、数字を眺めているだけでなく、いつの間にか前回の東南アジアで遊んだ娼婦の裸像が頭の中に忍び込んできてそれが乱舞する姿を、呆けて夢心地の世界をさまよいながら、観ているだけ・・・・・・次の旅に出られるまでの月日を指折り数えて、その日の到来を夢心地に浸りながら、ひたすら待ち焦がれるのです。
働きはじめた当初から守銭奴でしたが、そのことによって磨きが掛かることになるのです。
先に記しましたが、喫茶店に2回足を運ぶ代金で若い女を抱けることがわかるので、万事でブレーキが掛かってしまって使えないのです。 もちろん、現地で女を買わない人でも、東南アジア・インド圏・アフリカに行けば10~20倍分も使えるのが分っているので、同じ状況でしょう。

という具合で、それは私だけでなく、再度外国旅行に出かけようとしているバックパッカーの習性であり続けたのです。 それは、バブル経済がはじけた後の1990年代初期まで、人によって、2000年まで、2005年まで、中にはその後も続いているのです。

ただ、そういう人の数は1990年代初期にピークに達した後では、減少を辿る一方でした。 理由は、1990年代初期にバブルがはじけて・・・・・・長期のバックパッカーは定職を持っていないのが当たり前なので「フリーター」の典型でしたが・・・・・・バブル以前では「猫の手も借りたい!」ということで高給が取れて効率よく稼げたのですが・・・・・・バブルが崩壊した後では稼ぎが一気に悪くなったのと、現地の物価が上がり、駄目押しという感じで世界中に広まったエイズ問題が大きく影響したからです。

良いことは長続きしないのが常です。
尊師の履歴書 (7)
(帰国して再就職)

1975年11月に東南アジアの旅行から帰国した私ですが、世界一周を果たすためには、海外で娼婦とやりまくりたいのなら、先立つものはお金・・・・・・ということで、資産家の御曹司でないので働くことになります・・・・・・また、欲があるので「働くな!」と言われても働きます。

すし職人であったので、大阪にあるすし調理師会に出向くと、当日に、住込みの仕事にありつけました。 この辺りが職人の良いところで、仕事先は広島で給料は手取りで15万円。
1年半前に日本を出る時の給料は8万円弱であったので2倍に跳ね上がったのです。

確かな理由がありました。
1973年にオイルショックが起こって、74年の日本では24%もの狂乱物価に見舞われ、それに従って給料も跳ね上がり、加えて、働く場所が大阪近辺でなく広島なので2割ほど割増しになったのです。 当時の30歳前後の一般労働者の給料は13万円ほどでしたが、すし職人よりボーナスが多く、退職金などを考慮すると、同じ程度であったのはないでしょうか。

15万円の手取りでしたが、1年後に計算すれば、月に14万円ほど銀行に入れたことになります。 
職人ということで、住込み、食事付き、それに、私は酒・タバコを嗜まないので出費を抑えられ、加えて、休日出勤の手当てが付いたから、それほどの割合で預金できたのですが、 そういう事よりも、東南アジアより10~20倍も物価の高い日本では、無駄遣いをするのが馬鹿らしかった。 というより、タイの安娼家に行けば、18歳前後の女の子を500円前後で抱けると思うと、お金を使えなくなってしまったのです。 
という訳で、出費は、すし職人ということで毎日の銭湯代は必要でしたが、週に1度の休みの日の2度の食事代に加えて、石鹸・洗剤・歯磨き粉などの雑費くらいで、娯楽・遊行費の類はゼロに等しかったのです。 それは私だけでなく、個人で長期の海外旅行で、私のように美味しい目をした者で、再度外国旅行を目指した者の大半が、私と同じように仕向けていたので、宿命であったのです。
 
前回の東南アジアの4カ月半ほどの旅行の経験では「金銭的に余裕がある」 ということで、また、外国なので、回る国の事情を調べることも、計画を立てることも出来なかったのです・・・・・・でも、途中で、白人や日本人のバックパッカーに巡り合って、旅行はそれなりにスムーズに運んだので、その必要性を感じなかったのです。

それもありましたが、私の経験でも、バックパッカーの返答でも、外国・・・・・・それも東アジア・東南アジア・ヨーロッパ・北米以外のインド圏・中近東・アフリカなどでは思い通りに事が運ばないので、情報を集めてもそれほど意味がないのです。
実は、4度訪れたアフリカの旅の全てで、それを思い知らされたのでした。

付け加えるなら、アフリカの陸路で縦断・横断をした者にとっての情報は「地図一枚」 があれば十分なのです。それは、世界中の旅先地に「旅行者の溜り場」が存在しているからです。
たとえそれが無くとも、つまり、全く情報が入らなくても「なんとかなるもの」 なのです・・・・・・また、「ならなくとも」よいのです。どうせ、暇つぶしなのだから。
アフリカはそういうことを教えてくるところなのです。

要は「御足」である旅費を少しでも多く貯めることです。
それも、私にとっては娼婦と少しでも数多く遊ぶために。 それだけのことです。

因みに、日本人旅行者は「貧乏旅行者!」 と見栄(?)を張って恰好を付けても、それなりの旅費を持っているのが普通です。
対して、インド近辺にいるフランス人やイタリア人旅行者の多くは・・・・・・日本人にとって「呆れるほど持ち金が少ない」 というのが実情です。 両者が異なる理由は「日本人は島国なので、帰国する際にそれなりのお金が必要」 なのに対して・・・・・・「ヨーロッパ人にとってのインドは『陸続きのため歩いて帰れるので、何とかなる』」 ということになるらしいのです。 ヨーロッパ人は遊牧民族の文化・気質がまだ、色濃く残っているのでしょう。
つけ加えれば、片言の英語の会話力を身に着ける必要がありますが、旅先で覚えてゆくものです。 私はシンガポールで1年間働いていたので、旅の情報を仕入れるくらいの会話力が育っていました。 でも、白人と日常会話を交わす会話力はありませんでした。
尊師の履歴書 (6)
(安宿 タイソングリート)

バンコク中央駅(ホアランポーン駅) の近くにあるタイソングリートは世界中のバックパッカーの溜り場。

泊まり客の中心は欧米人、その中に日本人が混じっている感じで、総勢は50人ほどか。 日本人は常時10人ほど泊まっていて、宿なので出入りがあり、月当たりにすると数十人というところか。

野郎ばかりで、ほぼ全員が娼婦と遊んでいたでしょう。 長期に滞在している者の多くは月単位・・・・・・中には、観光ビザの滞在期限が1カ月なので、タイのビザを取るために「陸路でタイとラオスを行き来する」 ということをして、2~3カ月ほど滞在していたでしょうか。 私もその一人で2カ月半ほど滞在していたので、その辺りの様子を知っています。

宿泊している日本人の殆どが、ヨーロッパやアフリカからの帰路で、中近東やインド圏を周った人・・・・・・タイからインドに渡って、陸路で中近東を抜けてヨーロッパに向かおうとしている者もいたのですが、わずか・・・・・・オーストラリアを旅行してタイに戻ってきた人に合ったのは一人だけ・・・・・・私のように東南アジアだけを周っている者はほんのわずか。

そういう私は「新米」 ということで、バンコクに2カ月半ほど滞在していたのに、兵ぞろいに恐れて4日間しか泊まりませんでした。

タイソングリートのシングルの部屋は、私の泊まっていた三合吉旅社やジュライ・ホテルとほぼ同じ・・・・・・5畳ほどの部屋で、クーラーはなく、天井に大きな扇風機が付いていて、ダブル・ベッドや粗末な箪笥と机と椅子が備えられ、部屋の中に2畳ほどの水のシャワーとトイレが付いているシャワー室が付いていて、値段は40バーツ(2ドルで600円)でした。

1階は中華の安食堂になっていて、そこで3食とも済ませる者が多かったでしょう。 内容は、焼き飯なり、豚入りのおかゆなり、ラーメン(バーミー・ナム)や米で出来たウドン(クイテオ)だけという質素なもので、値段は3~5バーツほど。 でも、インドでの安食堂での連日で3度の食事の30円弱のカレーから比べると、雲泥の差があったのでしょう。

昼でも夜でも、タイソングリートの2階の受付には18~30歳過ぎの「夜の蝶」が何十人も集まって来ていて、ショートなら40バーツ、オールナイトなら150バーツ・・・・・・彼女らは外人慣れしているので、鼻の下を長く伸ばしている日本人旅行者に媚を売る・・・・・それだけでなく、そこにいる中国系の宿の従業員が、旅行者の部屋を訪れて女を勧めにくるのです・・・・・・それも従業員には斡旋料として3割の手数料が入るので、執拗を究めていました。
さて、日本人は常時10人ほど泊まっていましたが、どれほどの割合で娼婦を買っていたのでしょうか。
私は、タイソングリートに4日間しか泊まらなかったので、その辺りは定かでありませんが、たぶん、私のように連日で買っていた者が結構いたでしょう。

タイソングリートは旅行者の溜り場の宿なので、白人や日本人のバックパッカーの出入りは激しかったのですが、少なくとも数日は泊まっていたでしょう。 というのも、バンコクはエアー・チケットが安いので、帰国するなり、次の旅先地に向かう場合に、殆どの人がバンコクでエアー・チケットやビザを取るので、その期間が必要だったのです。
もちろん、娼婦と遊びまくりたい為に1カ月、それ以上滞在している者も、それなりの人数になっていたでしょう。
 
ヨーロッパやアフリカを旅行してきた彼らのほぼ全員が、タイソングリートに屯している娼婦と遊んでいて、1日10ドル前後で済ますのが普通で、ケチを貫いていました。 でも、バックパッカーならそれが当たり前、少しでもタイに長く留まって女と遊びたい気持ちがあったからです。

私は「持っているお金を全て使い切る」 と決めていたので、また、旅慣れていないこともあって(後々に気づく、現地でのお金の価値観がわからないので) 「すべてが安い」 ということになり・・・・・・1カ月500ドルほど(15万円で日本での1カ月強の給料) 使っていたのですが、バンコクでどういう暮らし振りであったのか、想像できるでしょう。
一般の日本人どころか、全ての日本にとって「日本ではありえない」ことが起こるのです。

当時のタイの観光ビザでの滞在期限は1カ月、タイに3度入国したので、タイに3カ月滞在、バンコクには合計で2カ月半ほど滞在、その間に一人で寝たことはなかったはず。
食事も、夕食のときは、日本人は私が一人だけで、それなりに贅沢をしていたのですが、決して高級料理店に入ることはせず「食堂」ばかり。 シンガポールを旅立つ時に75万円持って7月に旅立ち、11月末に帰国したので4か月半ほどの旅行・・・・・・実家に戻ったときは3千円を切っていました。

話が横道にそれますが、と断って。
バンコクの中央駅の近くにあるバックパッカーの溜り場タイソングリートについて、少し述べましたが、 その当時のバックパッカーの溜り場は『タイソングリート』だけでなく、他にもありました。

中央駅の近くある『南洋旅社』『明星(ペプシ)旅社』もそうであり・・・・・・他の地域にあるマレーシア・ホテルを中心として、その周辺にはバックパッカーを相手にしているゲストハウスが多く集まり、それを顧客にしている旅行会社が4軒ほど集まっていました。

現在のバンコクのバックパッカーの溜り場はカオサン通りになっています。 でも、1970年代では、「外国人のための観光区域」としては、全く開発されていませんでした。

バンコクの日本人旅行者の溜り場として、中央駅の西側に広がっているチャイナ・タウンにある『楽宮旅社』と『ジュライ・ホテル』は有名です。 1975年や1977年でも存在していたのは確かですが、でも、「日本人旅行者の溜り場」 として開発されていなかったでしょう。
というのも、私がその当時バンコクに滞在しているときに、その名前を聞いたことがなかったからです。 

その両方の宿は、現在でも建物は存在していますが、両方とも閉館になっています。
尊師の履歴書 (5)
(当時の物価)

さて、気になるのは物価。

1USドルが300円前後・・・・・・1タイ・バーツが15円。 

物価でなら、使える価値が日本と比べて、シンガポールでは約7倍、タイでは10~20倍ほどあったでしょうか。

その当時の具体的な例ですが・・・・・・タイのバンコクなら安宿(旅社)のシングルルームの宿泊費は40バーツ(600円)で、部屋の造りは5畳くらい、天井に扇風機が付いていて、ダブル・ベッドがあり、粗末な箪笥や机や椅子が備えられ、部屋の中に水しか出ないシャワーやトイレが付いている2畳ほどのシャワー室が付いていました。

肝心の女代はタイのバンコクの安宿でなら・・・・・・15~22歳くらいの女の子がショートで40バーツ、オールナイトで100バーツ(5ドル≒1500円)・・・・・・フィリピンのマニラの安宿でのオールナイトはタイの1.5倍・・・・・・韓国の安宿でのオールナイトならタイの2倍で3000円。

因みに、韓国の宿で「置屋」から斡旋してもらう女の料金は・・・・・・宿の料金と比例しているので、高級ホテルだと同じ女でも10000円となってしまうらしい・・・・・・実は、その半分が、斡旋料として宿の取り分となる(韓国の女代の「3000円」はバンコクで聞いたもの・・・・・・後半の宿の値段と比例する部分は、1977年に私が韓国を訪れて、安宿で女と遊んだ際に女将さんから聞いた話)。
韓国の場合ではそういう仕組みになっていましたが、それは東南アジアのホテルも同じような仕組みになっていたでしょう。 
ということで、日本からツアーなどでそれなりのホテルに泊まって、そこで女を斡旋してもらうと、現地人が遊んでいる料金の3~10倍ほど払っていたことになりますが、日本から比べると半額以下なので安く感じるでしょう。

タイの北部にある古都チェンマイで、現地人の若者が利用している安娼家のショートなら・・・・・・16歳前後の女の子は400円ほどで、何十人もいる中で選り取り見取りで選べたのです・・・・・・日本でなら喫茶店2回分の値段。
娼家の部屋は2畳にも満たない狭くて、汚いものでしたが、気にすることはありませんでした。 安いからでしょうが、全ては慣れ。因みに、その当時ではバンコクにある『冷気茶室』を日本人は利用していなかった。 そこでのショートの値段は500円ほどであったでしょう。

当時の日本のトルコ風呂(現ソープランド)での遊び代金がいくらであったのは覚えていませんが、数千円、もしかして1万円くらいであったかも・・・・・・それを思うと、ただ同然。

バンコクでバックパッカーが利用しているタイソングリートのシングルの部屋(約7畳・扇風機付き・水のシャワーとトイレ付)は40バーツ(600円)・・・・・・そこに屯している娼婦のオールナイトの代金は150バーツ(2250円)・・・・・・安食堂の焼き飯なら3~4バーツなので、1日の食費を切りつめれば1ドルで納まります。 
という訳で、泊まっている宿でオールナイトで女を買っても、ケチれば1日10ドル(3000円)以下で済んでしまうのです。

そういうことで日本人旅行者の目安は日に10ドルでした。
因みに、タイ人の一般労働者の日当は1ドル強、シンガポールでは2ドル前後、日本では15~20ドルか(日当の数字はすべて大凡)。

ヨーロッパを周る日本人やアメリカ人のバックパッカーの旅費も1日10ドルが目安であり、普通でした。

日本男性の実情は次のようなものであったらしい。
ユーレイルパス(外国人用のヨーロッパ鉄道周遊券で、各国で乗り放題)で夜行便に乗ってホテル代を浮かす・・・・・・泊まるところは最も安いユースホステル・・・・・・食事は質素を通りこして貧相・・・・・・スーパーでパン・ハム・トマトなどを買い求めて食べるのが常、10ドルではそうするしか術がない。

尊師の履歴書 (4)
(第1回旅行)

1975年7月末に初めてタイを訪れた時の出来事でした。

タイ南部、マレー半島の西側にある世界的に有名なビーチ・リゾート、プーケット島にある「ヒッピー・ビーチ」 と呼ばれていたビーチを訪れると、そこにある雑貨屋で10人ほどの白人バックパッカーが寝泊りをしていました。

雑貨屋の目の前は幅が100メートルほどの小さくて綺麗なビーチでしたが、周りにはホテルもロッジも民家も無く、有るのは海沿いにある林の中に現地人を顧客にしている雑貨屋があるだけ。 
バックパッカーはその雑貨屋で、夜になると店内のコンクリの床にある食事用の数個ほどのテーブルを隅に片付け、出来た空間に雑魚寝する感じで寝泊まりしていたのですが、料金は無料。

雑貨屋は白人客のために、焼き飯・焼うどん・ラーメンなどの軽食やコーヒー・ソフトドリンク・フルーツサラダなどを出していたので、その気になればその小さいビーチから一歩も出る必要もなく、また、経費が日に1~2ドルで済むので1週間でも1カ月でも留まることが出来たのです。 
もし、何かを必要とするなり、急用ができなら、近くの国道を往来している「ソンティオ」と呼ばれているピックアップの公共バスで10キロほど離れている町に出かければ良いようになっていました。

私もその雑貨屋のコンクリの床で寝泊まりをさせてもらうことにしたのですが10日間ほどバックパッカーと共に寝食を繰りかえしていました。

そういう私は「自転車で世界一周」を望んでいても「海外旅行の方法」を知らない。 
対して、白人バッカーは「世界を股に掛けて旅している」 連中なので、情報を集めたいということで、下手な英語で、連日彼らに話しかけたのです。

すると、ある女の子が、
「バンコクの中央駅の近くにあるタイソングリートに行きなさい。 そこには、日本人旅行者が数多くいて、旅行の仕方の全てがわかる」 と言われてしまったのです。

彼ら・彼女らにとっては、私の下手な英語に対し、答えるのが疎ましかったので、その様に返事をされたのがわかり、その後は、問いかけることはしませんでした。

それだけの出来事でしたが、後々に振り返れば、「あの時点で、私は世界一周のためのレールの上に乗ることが出来た」 ということが分ったので・・・・・・彼らの返答は適切であったのでした。


教えられたとおりに、バンコクの中央駅(ホアランポーン駅)の近くにあるタイソングリートを訪れると、そこはバンコクの世界中のバックパッカーの溜り場。 それだけでなく、プーケットで訪れたヒッピー・ビーチにある雑貨屋と同じで、世界を股にかけて旅をしているバックパッカーにとって「世界的に有名」 な溜り場でもあったのです。

タイソングリートは1978年前後に閉館になって現存していないので、収容人員は忘れましたが、常時、ほぼ満員で、白人が主でそこを間借りする感じで、10人前後の日本人旅行者が泊まっていました。
その約7割が世界を股にかけて旅する猛者でしたが、彼らから多くの情報を得たのです。 インド・中近東・ヨーロッパ・アフリカの旅行の仕方を。 でも、南北アメリカを旅した人には出会いませんでした。

私は、この時に、バンコクに合計で2カ月半ほど滞在していたのですが、でも、タイソングリートに泊まったのは4日ほどで、そこから250メートルほど離れていて、チャイナ・タウンにある三合吉旅社に泊まっていました。 そういう私は旅行の情報と友達を見つけるため、連日でタイソングリートの1階にある食堂に通っていました。

彼らが、教えてくれた旅行の方法は簡単でした。

バンコクという場所柄・・・・・・主なルートはインドやネパール経由で、陸路で中近東からヨーロッパに抜けるコースでしたが・・・・・・これまで白人旅行者が営々として築き上げたルート・・・・・・それはプーケットで出会った白人の中で、ヨーロッパから陸路でインドまで来て、そこから空路でタイまでやって来たルートと同じ・・・・・・つまり、レールが敷かれた上を旅してゆけば良いだけのことです。

世界各地の旅先地にあるバンコクのタイソングリートのような旅行者の溜り場(安宿)で生の情報を聞けば良いのです。 また、その様にするしか、術がなかったのです。
当時では、日本でも、外国でも、・・・・・・まだ『地球の歩き方』などのバックパッカー用のガイドブックが全く売られていなかったので、ましてや、インターネットもなく、白人にとっても、日本人にとっても、本などで調べたくても、調べようがなかったのです。
因みに、その当時の日本では「バックパッカー」という言葉は使われておらず、「個人の長期旅行者」と呼ばれていました。
尊師の履歴書 (3)
(転機)

1974年で25歳。

大阪にあるすし店を辞めると、ある人から「シンガポールで、すし職人として働かないか?」 と声がかかったのです。

謳い文句は「シンガポールは物価が安く、女代も安いので面白い」。 契約期間は1年。 給料は日本の5割増しでボーナス無し、手取りで12万円。 パスポート代・往復の飛行機代・寮費・食費代・医療費は店側が全て負担。

その誘いに「渡りに船」と何の躊躇もなく二つ返事。

1年の契約が切れた後に東南アジアを旅行することに決めていました。 それで、シンガポールで働き、女遊びをしながらも、せっせと旅費を貯めたのです。

一時は100万円近くに達したものの、仕事仲間らと安ナイトクラブで遊びはじめて支出が一気に増えたので、店を辞めた時点では75万円ほど、1ドル300円だったので約2500ドル。 日本を旅立つときに、シンガポールで貯めたお金は、その後の東南アジア旅行で全部使い切ることに決めていました。

ところが、契約が切れた1975年・・・・・・その年にヴェトナム戦争は終結し、ヴェトナムとカンボジアの国境は閉鎖されて、両国を訪れることが、出来なくなってしまったのです。
ラオスは開いていたので訪れることが出来たのに、年末に閉ざされました。
そのように、世の中は激動の時代であったのです。

結局、シンガポールを7月に陸路でスタート→マレーシア(約10日間)→タイ(1カ月)→ラオス(約10日間)→マレーシア(1日)→シンガポール(2日間)→マレーシア(1日)→タイ(1カ月)・・・・・・これからは空路でフィリピン(21日間)→11月に日本に帰国・・・・・・という経路を約4カ月半で回りました。
尊師の履歴書 (2)
(就職)

私は1949年生まれで団塊の世代。

中学・高校生のころ、1960年代に世界一周を夢見ました。 その心境は「人生、これ暇つぶし。そういう私は家庭を持つ気もなく、どうせ暇をつぶすなら、窮屈な日本より外国の方は好いであろう。世界一の高峰エヴェレストも見たいし、アフリカで黒人女を抱きたい。周りの大人のように死ぬまで働きつづけるなんて、まっぴらごめん!」 と。
 
期間は、自転車での一周であったので10年間ほどと見積もっていました。 1968年で高校3年生のときは、世界一周を決意したのですが・・・・・それまでの高校生では、一般の人の月給は1万5千円前後と安く、1ドル360円の時代なので、世界地図や世界的に有名な遺跡の写真入りの歴史書などを見て夢見ることは出来ても・・・・・・現実味が乏しく、おまけに外国のことで旅行事情が全く分らなかったので、細かい計画を立てることもなく、また、出来なかったのです。

1968年3月に高校を卒業しても旅費がある訳がなく、給料も2万円前後では「何としても自転車で世界一周をする」と決意していても、どうすることも出来ません。 そういうことより、食べるためには就職するしか道がありません。 ということで、高校3年生で夏休みに入る前に、学校の斡旋で就職先が決まっていた愛知県にある会社に3月23日から勤めはじめたのです。

 実は、その半年ほど前に「25歳に外国旅行に出て、10年後に戻った際、つまり、将来のことを思えば手に職をつけておくのが得策」ということで「サラリーマンよりすし職人になる方がまし」 と決意・・・・・・でも、三重県の田舎で、おまけに在学中のことで、その方面に関しての事情がわからず、仕事先であるすし店は決めていず、漠然としたものでした。
因みに、現在ではすしが世界中で好まれていて、外国ですし職人として多くの人が働いています。 でも、当時ではそのようなことは無く、それで「すし職人」として外国で働くという気持ちは全くありませんでした。

高校を卒業して会社の寮に入って、勤めはじめて4日目くらいに・・・・・・新入社員の仕事仲間らと共に名古屋市の地下街にある「十円すし屋」を訪れた際に、その店の職人さんに事情を語ると、大阪にあるすし店(実際では「すし調理師会」、、職人をすし店に斡旋する会、、)を紹介してもらったので・・・・・・3月31日に会社を辞めて三重県の実家に戻って母に実情を語り、一夜明けた4月1日に大阪に出ました。

すし店と思っていたのが「すし調理師会」で、そこを昼前に訪れると・・・・・・大阪の北区の梅田の地下街にあるすし店を紹介してもらって、入店し、その日から働きはじめ、店の寮に入って、その道に入ったのです。

海外旅行が一般の人に解禁されたのは1964年。
つまり、それまでは一般の人が海外旅行を許されていなかったのを、同年の10月に東京オリンピックが開催されるのを機会に、そうしたのです。

当時の高卒の初任給は2万円ほどで、為替は固定相場制で1ドル360円、持ち出せる外貨には制限が設けられていました。 その額は覚えていませんが、その額では「個人で世界を股にかけて旅行する」というには少なすぎました。 当時の日本には「闇ドル」があり400円強であったそうですが、そこでドルを買い求められる人は一部の人だけで「バックパーカーでは無理」であったでしょう。
また、飛行機代が高いので、バックパッカーにとっては「新潟港から船でソ連のナホトカに渡り、シベリア鉄道でヨーロッパに抜け、北欧諸国のレストランで皿洗いなどのアルバイトをして旅行資金を貯め、それから海外旅行をする」というのが一般でした。

五木寛之著『さらば、モスクワ愚連隊』(1966)は、彼が60年代にソ連や北欧を旅行した経験を元にして書かれたものです。 当時の海外旅行を夢見る者にとって、小田実著『なんでも見てやろう』(1961)と同じくバイブル的存在であったでしょう。
私は高校を卒業して社会に入ってから・・・・・・『なんでも見てやろう』は読みませんでしたが『さらば、モスクワ愚連隊』などの『海外旅行記』の類の本を何冊か買い求めて読みました。 それらの本を読むと、自分でも海外旅行が出来そうな気がしました。 でも、ルートは「自転車での世界一周」といっても「一先ず、船なり飛行機で東南アジア、もしくは、インドに渡って、そこから陸路でインド圏や中近東を自転車で走破してヨーロッパに抜け、そこを一周」 だったので・・・・・・金銭的にも、旅行の仕方についても全くわからなかったので、どうすることも出来なかったのです。 
もちろん、それで諦めることは無かったのですが「何事をするのも、先立つものはお金」 ということを熟知していたので、旅費を貯め込んでいたのですが・・・・・・卒業後はコツコツと預金、23歳からは株を買っていたのです。 というのも、一般の高卒の初任給は2万円前後であったのに、私は「調理師見習い」ということで1万5千円、それもボーナスは微々たるもの。 ただ、職人なので住み込みで食事付きなので、半分ほど残せたでしょうか。 でも「世界一周の旅費」としては微々たるものなので「株」というバクチをする必要があったのです。

現実は、ただ、働くだけ。
尊師の履歴書 (1)
(まえがき)

私が初めて海外旅行をしたのは1974年で25歳の時でした。

海外旅行をしなくなったのは2001年で52歳でしたが、カンボジアの首都プノンペンに滞在している時に体調を崩してしまって、その治療に帰国せざるを得なかったことから、終止符が打たれたのです。

26年間に及んでいたのですが、「出来る限り、陸路での旅行」を心がけていたので、「世界を股に掛ける」という具合に世界一周を果たしました。 アジア・アフリカ・オセアニア・ポリネシア・南北アメリカ・ヨーロッパを主に陸路で回りました。 訪れた国は67カ国と香港、ニューカレドニア、タヒチの3地域なので、100カ国以上も訪れた人から比べると意外に少ないです。

訪れた国の少ない理由の一つは、国の数が多いヨーロッパは物価が高いので避けていたのと、私にとっては「娼婦代が高く、また、遊んでも面白くない」ということで興味が乏しく・・・・・・大好きなアフリカに向かうなり、戻ってくるために立ち寄ったギリシア、イタリア、スペイン、フランスの4カ国しか訪れませんでした。 それも、ギリシアのアテネ以外の全ては単に「通過」するだけで、観光はしませんでした。

アフリカは広大であり、国の数が多く、陸路での旅は過酷なので・・・・・・1度目で一周を果たす予定が、結局のところ4度訪れて一周を果たしたのですが、訪れた国の数は多くありませんでした。
理由は、アフリカ諸国では、各国に日本大使館がある訳でもなく・・・・・・加えて、日本大使館のある国と国とが離れていて・・・・・・おまけに「陸路の移動」となると、道路の事情が悪いのと、交通機関事情が「非常に少なくて悪い」ので、次の日本大使館のある国に辿りつくために、何日、時に1カ月以上もかかり・・・・・・そのような事情ではパスポートの余白が無くなったので、作り変えるということが容易でなく・・・・・・パスポートの余白のページのことを思うと「次から次に隣の国を訪れていく」というのをしたくても、避けざるを得なかったのです。

もう一つの理由はビザ代が50~100ドル前後と高い国が多いので・・・・・・それも、西アフリカには多くの国があるのですが、それらの多くは小国に加えて観るべきものがこれといって無く、陸路で1~2日で通り過ぎてしまうだけなのに、ビザ代が何十ドルもかかるという状態ではどうしても避けてしまうのです・・・・・・加えて、アフリカでは入国や出国の際のイミグレの事情は色々な理由(一つは闇ドルを使っているので、それをうまく処理する必要)があって神経をすり減らしてしまうのが一番きつい・・・・・・因みに、食料事情が極悪・陸路の移動が極悪・連日のテントでの野宿などの「きつさ!」なんて「慣れっこ・覚悟」が出来ているために知れていて・・・・・・「アフリカの陸路での横断なり縦断の際の国境を超えるきつさ」の方が、ずっと、ずっときつい!・・・・・・などの理由があって、無理をしてまで多くの国を回る気が起こらなかったからです。

加えて、1990年以後では、タイに5年半、カンボジアに4年も滞在して女遊びに耽りつづけていたので旅行らしいことを全くせず、増えた国はカンボジアだけだったからです。

そもそも、100カ国以上を回ろうとして、国の数を稼ごうという気が全くなかった。 それを顕著に示しているのが、アフリカに向かうなり、戻ってきた際にヨーロッパに4度立ち寄っても、全く回らなかったことです。

そういう経歴の持ち主の私ですが、大型書店の旅行部門の棚に並んでいる旅行記を出版している殆どの著者に対して、「旅行していた年数と、回った範囲」なら引けを取らないと自負し自惚れています。

旅行に難度の云々はありませんが、それなりのハードな旅行をしたこともありました。

それが言えるのは「アフリカの中のアフリカ」と言われているスーダンの南部を1978年に陸路で1度、ザイール(現コンゴ共和国)を1984年と1988年に陸路で旅行したからで、スーダンの南部の旅行は過酷そのものでした。 

冒険旅行を除いて、その2国の陸路での横断なり一周は、たぶん、世界で最も過酷な旅行の一つと言ってもよいでしょう。

新連載の紹介 「尊師の履歴書」
今回、新連載を始めるにあたっての趣旨説明をいたします。

筆者の知人で、Kという方がおられるのですが、彼は80年代、バンコク・ジュライホテルの住人として、旅行者仲間では名物男でした。
ジュライホテルが閉鎖されてからは、居所をパタヤに移した後、ほどなくして1997年、クーデター事件の直後にカンボジアのプノンペンにやって来ます。

そこで、先住者の私と知り合ったわけですが、プノンペンでのK氏は、いつしか「尊師」と影で呼ばれるようになりました。 もちろん、彼が旅行者仲間から尊敬されていたという訳ではなく、オウムの麻原然とした独善的な振る舞い、人に高説を押し付ける、、、、そんな尊大な態度から名付けられた、皮肉を込めたニックネームです。 

私はK氏が日本に帰国してからも付き合いがあり、彼が書き溜めた「自叙伝」を入手するに至りました。 

その「自叙伝」を入手して6年が経過するのですが、本人は無謀にも、その駄文を出版化する夢を捨てきれず現在に至ります。 

ただし、その内容、特定の趣向の者(80年代から90年代にかけて貧乏旅行をしていた人々など)にとっては珠玉の如き素材であり、このまま埋もれさせておくのは惜しい短編です。

そこで、勝手ながら、作者本人の許可を得ないまま、私が大幅に修正加筆をした上で、当ブログの読者にのみ公開することにしました。 もちろん、無許可掲載なので、クレームがあれば即座に削除いたします。

次回から連載スタート。
日航機墜落事故にまつわる陰謀論がネット界隈をまだ跋扈している件
1985年の今日、日航機墜落事故が起こりましたな。 事故の概要についてはあらためて触れませんが、ネットには事故原因について、、、、

「自衛隊機が撃墜した、、、」

「地対空ミサイルで誤って撃った、、、(空自バージョンと海自バージョンあり)」

「自衛隊のドローンと衝突した」

「米軍が撃墜した、、、」


などなど、、、かなり無理筋な陰謀論を唱える人々がまだ存在しているんですな。 恐れ入りますわ、、、、

筆者は、事故の数年後に航空自衛隊に入りましたが、事故直後の部内の混乱ぶりに関しては当事者からいろいろと話しを聞いております。 それはそれで「勇猛果敢・支離滅裂」らしい空自のエピソードなんですが、現在では省庁間の協力体制、自衛隊の統合運用が進んでいるし、GPSなど各種技術・装備品の進歩で救助体制は格段に良くなっていると思います。 

しかし、まあ、列挙したような荒唐無稽な陰謀論は機会ある度に明確に否定しておかなくてはなりませんな。

でも、こういう与太話を信じる人はいつの時代も一定数はいるんだろうねえ、、
日本でサマータイム導入? 無理無理
報道によると、2019年と20年の2年に限り、時差2時間のサマータイムを導入することで検討を始めるとか、、、、

目的は東京五輪で熱い時間帯を少しでも避けるように工夫することだそうですが、それなら、競技開始を2時間早めればいいだけの話で、なんで日本社会全体がそれに合わせる必要があるかということ。

しかも、2019年で得た教訓を活かして20年で改善していく、、、って、すでに2019年で不備が出てくることを織り込み済みとか、トンデモな結果になる予感。

これって、日本国内で大混乱が起きるだけではなく、欧米各国との整合性もないから、もう、わけわからない人が続出するのは間違いないですな。 せめて、時差を1時間にして、諸外国に合わせる必要があります。

まあ、おそらく、サマータイム導入は反対意見が噴出して案自体が潰れるとは思いますが、まかりまちがって、実施されたら、日本中が異常事態になるでしょう。
コネ社会あれこれ
筆者のタイの知人からメールがあって、彼の甥っ子が晴れて空軍士官になることが決まったと書いてありました。

ご存知の通り、タイにおける軍部の地位は非常に高く、間違いなく社会の支配層に位置しております。 しかも、清貧を美徳とした戦前の日本の軍部と違って、高級幹部が私利私欲に走るのがタイ流で、凄い豪邸に住んでいたりします。 タイでゴルフをする人はよく知っていると思いますが、軍経営ゴルフ場も多く、保養施設を全国で運営しておりますな。 

つまり、あの国で国軍士官になるということは、社会的に名誉なことであり、中流階級としての一生が保証されるようなもの。

しかし、その知人は、「高級幹部のコネで入った」ことを隠そうとしませんでした。 むしろ、軍部の上層部にコネがあることを自慢しているようにも受け取れる、、、、、、

いずれにせよ、下層階級が絶対に中流以上に上がれないタイ社会の実像をまたひとつ知った思いですな。
(訃報) 津川雅彦 死去
津川氏といえば、役者としてのキャリアもさることながら、保守派タレントとして有名でしたな。

芸能人として、政治的立場を明らかにするというのは、リベラルにしても保守にしてもなかなか大変なことで、人気に直結するだけに難しいこと。 氏の場合は、役者としての実績や評価がほぼ不動のものとなった60代以降になってから、政治的発言、活動が増えていったように思います。

左翼一派からすると、津川氏の発言や活動はいちいち気に障っていたわけで、訃報の後、ツイッターなどでは「地獄に落ちろ」など、心無い反応が散見されます。

さて、保守派の有名人としては、作曲家すぎやまこういち氏がまだまだ健在ですが、なんとか、アッと驚く有名人がカミングアウトして、保守運動を盛り上げてほしいですな。
在日タブーが酷い
日本ボクシング連盟の山根会長がある意味凄いのは、マスコミに自分の出自や暴力団との交際を全く隠していないことですな。 良くも悪くも男気がある人だと思います。 夕刊フジのインタビューでは出自についての部分も赤裸々に語っておりました。

ところが、戦後、韓国から密航して、日本人に帰化したことは、暴力団との交際につながるポイントとなる経歴にもかかわらず、少なくともテレビやメジャー新聞はひたすらタブーとして触れていません。

ちなみに、ネットではすでに山根氏の帰化が許可された際の官報の写しが出回っていて、彼が元韓国人だったことは事実であることがわかっております。 

暴力団に在日韓国系が非常に多いことと、山根氏が元韓国人だったことは接点につながる事実としては重要で、この背景がよくわかっていると、バックグラウンドはすべて見えてきます。

そういえば、立憲民主党の福山幹事長が元韓国人だったことも、官報の記載で世間に知れ渡っておりますな。 ネットでは「陳さん」と呼ばれておりますが、政治家であれば、そういう出自は堂々と公にすべきだと思います。

もうそろそろ、そういった「在日のタブー」は終わりにしてほしいですな。


自衛官の年齢制限を32歳までにするだと?
昔は任期制の隊員は25歳未満だったんですが、それが28歳未満にまで上がり、いよいよ32歳が上限となる見込み。

少子化で隊員募集が思うようにいかないというのが理由とのことですな。

しかし、制度は作ってもなかなか難しい問題が現場では起こってくると思います。

まず、率直に、体力が衰えてくる年齢で訓練についていけるかという問題。 18歳の高卒と混じって訓練を受けるのは厳しいのではないでしょうか? したがって、年齢でグループ分けするような配慮は必要かと思います。

あと、部隊配属になってから、人間関係が上手くいくのか?

32歳と言えば、普通で3曹あるいは早ければ2曹という階級で、現場の仕事をバリバリやっている年齢。 幹部なら1尉として幕僚なんかをやっている頃。

自衛隊はバリバリの体育会系ですから、職種にもよりますが、新兵には雑用しかありません。 職場でのコーヒー給仕とか掃除とか、今では普通の会社なら女の子にもさせないような雑用までさせます。 まあ、高校運動部の1年生みたいなもの。 

三十路の新兵が部隊配属でやってきたら、本人も当惑するが、受け入れた部隊もやり辛いでしょう。 職種や配置でかなり配慮が必要です。
万引きと言えば、〇〇〇〇人!
以下、産経ニュースより転載。

2018.8.6 13:16

万引品保管でベトナム人男3人逮捕 自宅に1700点、母国発送の“配送センター”か 石川県警
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 ベトナム人グループが万引した商品を自宅に保管していたなどとして、石川県警は6日までに、盗品等保管などの疑いで埼玉県川口市の無職ファム・チョン・ハ容疑者(26)ら同国籍の男3人を逮捕した。
 石川県警によると、ハ容疑者の自宅からは医薬品や化粧品など計約300品目、計約1700点が見つかった。いずれもベトナム人の複数のグループが万引したものとみられる。
 県警は、ハ容疑者宅が、母国に発送する前の一時的な保管場所で、配送センターのような役割を果たしていたとみて調べている。

 ハ容疑者らの逮捕容疑は5月13日、金沢市内のドラッグストアで2日前に万引された化粧品などを同容疑者宅で保管するなどした疑い。ハ容疑者は「(保管していた商品は)盗まれた物かもしれないと思っていた」と一部容疑を認めている。 県警が5月に窃盗容疑で逮捕した別のベトナム人の男の供述などからハ容疑者らが浮上した。


しかし、金沢で盗まれた品が埼玉のアジトに集積されるって、こういうネットワーク構築能力は侮れない。 そういえば、少し前に、ベトナム航空の客室乗務員が運び屋だったという事例がありましたな。

ベトナム人を甘く見てはいけない。 連中は本当にズル賢いですよ。

いや、根本的に、

無職の外人なんか国外退去ですよ、国外退去!
原爆の教訓を無視しようとする態度に辟易
この時節になると、毎年、同じような内容を投稿しているような気がしますが大事なことなので何度でも書きますよ、、

結論から言うと、核兵器に対しては地下の退避シェルターが非常に有効で、3日間で地上の残留放射能は大部分が減退することから、国民全員が収容できるシェルターを長期計画に基づいて整備すべき。

例えば、広島で被爆時、ほぼ爆心地にいた人が地下室に降りていたために助かったケースがありました。 これを、「奇跡」とか呼んでおりますが、奇跡でもなんでもない。 そりゃ、助かって当然ですよ。 

当時、もし、広島市民が全員、防空壕に入っていたら、少なくとも爆風と熱線で即死した人はいなかったと思われます。 こういう教訓は誰しもわかっているはずが、誰も公に口にしません。 異常な言論空間があります。

皮肉にも、この教訓をいち早く取り入れたのは、欧米各国。 スイスなど、国民全員が収容できるシェルターがあるとか、、、
DV夫の妻の心理みたいだ
昨日、モロッコのことをボロクソに書いてはみたものの、筆者がモロッコを旅行したのはもう、25年も昔のこと、、、ひょっとすると、今のかの国は随分と様相が変わっているかも知れないと思い、旅行ブログをいくつか読んでみました、、、が、

ぜ~んぜん変わってません。

まあ、国民性なんていうのは数十年ではそうそう変わらないもんですわな。

しかし、あんなクソのような国でも、一生懸命に擁護しようと頑張っているブロガーが多いのなんの。

つまり、「確かに観光地にはウザい人が多いけど、そういう人は一部であって、いい人もたくさんいる、、、そういう人々に触れてこの国の良さをわかってほしいなあ、、、」 みたいな考え方。 長期滞在者に擁護派は多い。

私はそういう日本人の優しさ・美徳は大好きです。 印象は悪くても、いいところを何とか見つけて褒めるのは大事。 確かに、モロッコは人はウザいけど、道を歩いてホールドアップに遭うような切迫した治安の悪さはない。 田舎道で盗賊に遭遇する可能性も低い。 そういう意味では、サンパウロとか、米国の都市部とか、ヨハネスブルグ、、悪名高い犯罪都市よりはまだまだ安全な国。

でも、「悪いのは一部だけ」理論って、

例えば、DV夫の暴力に顔中アザだらけの妻が、相談員に対して、

「でも、あの人も優しいところもあるんです、、、私を殴った後はすまなかったと謝ってくれて、、、」


と、夫を庇う心理によく似ている。 

夫をすべて否定することは、そんな夫と結婚した自分も否定されるような感覚になり、何とか夫のいいところを一点でも見つけ出して自分の決断を肯定したいという心理によく似てます。
あなたはこの記事を読んでどう思うだろうか?(与太記事紹介)
少し長くなりますが、記事の全文を引用します。

以下、プレジデントオンラインから。

年金でもリッチに暮らせる移住先ベスト6
タイなら10万で30万円分の暮らし

PRESIDENT 2017年11月13日号

「物価の安いアジアや中南米なら、月10万円で日本の30万円レベルの生活ができる」。そう語るのは、海外移住に詳しい旅行ジャーナリストの安田修氏。そこで、生活費が安く、かつ滞在ビザが取りやすい“年金でもリッチに暮らせる国”を6つ挙げてもらった――。

タイなら10万円で実質30万円分の暮らし

まずはタイ。微笑みの国は海外移住者にもやさしく、50歳以上、80万バーツ(約240万円)以上の現金預金維持か、年金受給を条件にリタイアメントビザ(年金受給者などの退職者を対象にした「長期滞在査証」)を取得できる。日本の生活をそのまま再現できる国だといい、「日本食スーパーがあり、日本食レストランは石を投げれば当たるほどある」そう。海外初心者にはうってつけだ。
とはいえ、東南アジアは暑さがネック。そんな人はインドネシアのバンドンへ。高地にあり年間通して涼しいうえ、オランダ植民者がいたことから西洋化されており、暮らしやすいという。
また、ヨーロッパには、居住権付きの投資ビザ「ゴールデン・レジデンス・プログラム」を発行している国がある。外国人による投資促進を目的とし、一定額以上の不動産や国債を購入すると居住権が手に入るというもので、懐に少し余裕があるならこちらを検討するのもいいだろう。なかでもギリシャは条件がゆるく、25万ユーロ以上(約3300万円)の不動産購入者が対象。「EUは1つの国のようなもの。ギリシャに住みながらヨーロッパ中を旅して遊ぶ、というライフスタイルも可能です」。
3300万円も用意できないという人は、北アフリカのモロッコだ。モロッコはスペインの対岸、船で渡るのもたやすい。有り難いのは外国人による土地所有が認められていること。アジア並みの物価の安さも嬉しい。
日本人の移住先で不動の人気を誇るのはハワイとオーストラリア。しかし、シドニーなど大都市は75万豪ドル(約6600万円)以上の資産提示および債権投資に加え、6万5000豪ドル(約570万円)以上の年間所得証明が必要など、現実的ではない。そこでオススメなのが“天国に1番近い島”ニューカレドニアや日本人が多いサイパン。どちらも移住条件が比較的緩い。
「いずれにせよ、移住する前に“プチ移住”をしてみることが大事」と安田氏は言う。3カ月も暮らせば、その土地が肌に合うか、大体わかってくる。「3カ月いて、現地で親しい人ができれば暮らしていけるだろうし、友だちが1人もできなければやめたほうがいい」。慣れない海外で独り、孤立して家に閉じこもっているようでは、どの国でも長続きはしないだろう。
「あまり考えず、パッと遊びに行くのもいいと思います。ビザが取りやすい国を探すより、住みたい国を見つけてビザの取り方を研究したほうがいい。どうしても移住したいという気持ちがあるなら、何とかなるものですよ」


※1ドル=112円、1ユーロ=133円、1豪ドル=88円、1バーツ=3円で換算

▼年金生活でもリッチに暮らせる国ベスト6

インドネシア(バンドン)
――温暖な気候で快適な暮らしができる

ジャワ島西部の都市バンドンは平均標高700mの高地にあり、年間を通して涼しく、平均気温は22~24度。暑いのが悩みの東南アジアでも涼しく暮らしたい人向けだ。3時間も電車に乗れば、高層ビルが立ち並ぶ首都ジャカルタに出られる利便性もある。食事も日本人の口に合う。月10万円ほどでリッチな生活が可能。
●居住条件
リタイアメントビザは55歳以上、年金などで月1500ドル以上の不労収入が条件になる。加えて、インドネシア人の家政婦を雇用すること、指定された観光地で3万5000ドル以上の住居を購入するか、月500ドル以上の賃貸物件を借りて居住する、という条件があるため、タイよりは高くつく。

モロッコ(カサブランカ)
――老後資金が少なくとも国際的な暮らし

名画『カサブランカ』で知られるモロッコは、年金も貯金も少ないがヨーロッパ風の都会的な生活をしたい人向け。スペインの対岸にあり、1~2時間ごとにフェリーが出ているため、ヨーロッパ旅行も容易。物価が安く、アジア並み。首都ラバトでは安いアパートの家賃は100ドル(約1万円)。月500ドルあれば1カ月暮らせる。ただし観光客相手の悪質な客引きやぼったくりもアジア並み。モロッコ最大の商業都市カサブランカは1カ月の生活費が月1000ドル程度と少し高くなるものの、西洋化されており、馴染みやすい。
●居住条件
リタイアメントビザは年金受給者用と金利生活者用で、金額に規定はない。外国人が土地を買える国でもある。

タイ(バンコク)
――月収15万円でもリッチに暮らせる

1万円もあれば普通のアパートが借りられ、月15万円あれば裕福に暮らせるという生活費の安さもさることながら「日本と同じように暮らせる」点で海外生活初心者向け。仏教国であることも親近感が湧く。治安もよく、日本人のコミュニティが発達している。「バンコクの町は日本食レストランだらけ。伊勢丹など日系のデパートもあります」。もっとタイらしい暮らしをという人には北部のチェンマイが人気。都心から離れるほど生活費はさらに安くなる。
●居住条件
50歳以上、80万バーツ(約240万円)以上の現金預金維持か、6万5000バーツ(約20万円)以上の年金受給などを条件にリタイアメントビザを取得できる。

サイパン
――何もしない島時間でのんびり

ハワイ大好き、海が好きでマリンスポーツが好き、でもハワイで暮らすには資金が足りないという人向け。ニューカレドニアと同様に物価が安いとはいえず、月最低でも15万円ほどの生活費が必要だが、「働かないのが当たり前、暑いときはお昼寝」という、絵に描いたような南国の暮らしは魅力だ。「逆にいうと、のんびりできるけれども、のんびりする以外何もすることがない。マリンスポーツなど何か生きがいを現地で見つけないと、長く暮らすのは厳しいかも」。
●居住条件
リタイアメントビザは、55歳以上で10万ドル以上の現地投資(コンドミニアムの購入、土地のリースや家屋建築など)を行う人が対象。

ギリシャ(アテネ)
――低予算でヨーロッパの文化を味わえる

一般的に「お金持ち向け」なヨーロッパ諸国のなかでも、少ないお金でビザが取得でき、月20万円程度でリッチに暮らせる。ギリシャに拠点を置きながらヨーロッパ中を旅するというライフスタイルは憧れのまと。
●居住条件
居住権付きの投資ビザが、25万ユーロ(約3300万円)以上の不動産購入者に発行される。複数の不動産でもよく、合算で25万ユーロ以上あれば対象になる。高額な出費のようだが、同じヨーロッパでもマルタは政府系開発ファンドに65万ユーロ以上を投資、あわせて35万ユーロ以上の不動産購入または1万6000ユーロ以上の月額家賃、15万ユーロ以上の国債購入が条件。ギリシャは安い部類なのだ。

ニューカレドニア
――おしゃれな街で自然と都会を満喫できる

「天国に1番近い島」ニューカレドニアは大自然と都会の両方楽しみたい人向け。エメラルドグリーンに輝くオセアニアの海に、洗練されたリゾート地の高級感、そして南太平洋のローカルな文化が揃う。ただし物価は高めで、日本の倍はする。「節約しても月の生活費は20万円超かかる」と安田氏。30万~40万円はないと、ニューカレドニアを満喫できないかもしれない。フランス海外領であるため、公用語はフランス語。観光客もフランス人中心。外国人観光客の約8割が日本人で、残りがオーストラリア人など。
●居住条件
フランスのリタイアメントビザを取得する。年金や金利などで生活できる不労収入が条件で、金額に規定なし。

ジャーナリスト 安田 修
2000年にサイト「海外移住情報」を開設。著書に『日本を脱出する本』(ダイヤモンド社)、『日本脱出マニュアル』(羊土社)、『アジアで起業!読本』(情報センター出版局)など。


失礼ながら、筆者はこの記事の寄稿者の見識を疑いますな。
おそらく、タイくらいは実際に行っているかも知れないが、本当にモロッコとかギリシャで現地取材したとは到底思えません。 というのも、現地事情を知っているならモロッコとかギリシャなんかを「ベスト6」に挙げるはずはない。

この与太記事を真に受けて、「おう、そうか、いっちょモロッコに行ってみるか」な~んて行動に移す読者がいるかも知れないと思うと、非常に罪な記事です。

むしろ、モロッコなんていうのは、日本人が絶対に移住してはならない「ワースト国」の部類。 まずもって、日本人はムスリムの国とは絶対的に相性が合わない。 しかも、モロッコはフランス語圏。 英語が達者なのは、悪人だけ。 観光で訪れたなら、ストーカーのような客引きに付きまとわれ、いいことなんかひとつもない。 嘘つきばかり。 泥棒ばかり。 最悪の国民性ですよ、、、

ネットにはこんな与太記事がゴロゴロありますから、我々は本当に注意しなければなりません。
おいおい、土人国家で人の命の重さは軽いぞ
ラオスのダム決壊事故ですが、ネットでは「韓国の損害賠償は数兆円だ!ざまあ」などと、とんでもない保証金額になると思っている人々が多いですな。

そりゃ、先進国で同様の損害を与えれば被害総額は天文学的数字になり得るかも知れませんが、よく考えてみれば、経済成長著しいとは言え、ラオスのGDPは2兆円を切ります(日本の250分の1以下)。 田舎の部落が10や20水没したところで、ラオス経済に与える影響は多く見積もっても20億円を超えることはない。

しかも、以前に試算してみたように、基本的にラオス人の命の値段はせいぜい数百万円ですから、直接保障しても韓国の財閥なら難しい数字ではありません。

問題は、ラオス当局とSK建設側が談合して、事故の被害をウヤムヤにするのではないかという懸念の方が大きい。

このあたりの感覚は日本人には到底理解し難いものですが、土人国家というものは、私腹を肥やすためなら、自国民がどうなろうが知ったこっちゃない、、、、というのが基本。
ラオス高官は、人民の保護はそっちのけで数億円規模の賄賂を要求するはず。 韓国側もこういう体質に付け込んで、保障金額を大幅に値引きさせるように誘導するはず。 

今後の推移が見ものですな。
バックパッカーの旅行ブログを読んで、優越感に浸る、、、
やっぱり、バックパッカーの黄金時代は、80年代後半から90年代後半あたりまで、、、、最近の旅行ブログをいろいろ読んでいると確信しますな。
そういえば、プロ野球って、最近は、球団の名前もよくわからないよなあ、、
スポーツ観戦の趣味も多様化していて、地上波で巨人戦を放送しても、視聴率は5%くらいしかないんだそうですな。

コアなファンは、スカパーで観ていて、CM抜きの完全中継を楽しんでいるとか、、、、しかも、観客動員に関しては、それほど落ち込んでなくて、実はまだまだプロスポーツの王道みたいです。

ともあれ、あなたは、プロ野球球団の名前を全部言えますか? もう、わけわからない、、、しかも、交流戦とか、敗者復活のプレイオフみたいな制度があって、ややこしい。

昔のプロ野球の人気と権威たるや、凄かったのも今は昔。

筆者がよく話題に出すのが、「巨人の星」に出てきた、速水というキャラ。

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彼は、オリンピック陸上短距離の候補で日本のホープでした。 しかも、生まれつきのスポーツ万能タイプで、体操の選手にもなれそうなほどの身のこなし、、、、まったく野球の経験がないにもかかわらず、ジャイアンツのプロテストを星飛雄馬といっしょに受けて、なんと、合格してしまうのです。 しかも、代走専門とは言え、一軍に上がって公式戦に出場する、、、、これだけで凄いことですよ。

「オリンピックに行くよりも、プロ野球のほうが稼げる」というのが速水の動機ですが、おわかりの通り、現在なら、オリンピックでメダルを取れば、褒賞はもちろん、CM出演やら、タレントへの転向やら、食いっぱぐれはまったくない。 速水ほどの口達者でイケメンなら、芸能界が放っておかないでしょう。

まあ、かなりトンチンカンな設定でしたが、荒唐無稽なりに、一応は当時の子供たちには説得力があったのかと思うと、まさにプロ野球の人気の凄さがわかりますな。
過剰な平等主義はストレスを生むだけと心得よ
筆者はアフリカ人を土人だとか、東南アジアの人々をバカだとか、散々こき下ろして、さぞかし強烈な差別主義者なのだろうと読者の皆さんは想像すると思いますな。 もちろん、極めて限られた言論空間の中であるからこそ、本音で事実をありのままにお伝えしているだけ。

まあ、「差別主義者」とか「排外主義者」の定義が曖昧なまま語られることが多いので不本意なんですが、私が観察する限り、やたらと「差別はイカン!」などという博愛主義みたいな思想の持主ほど、実際に国際交流などの場に放り込まれると、どうやって外人と付き合っていいかわからず、妙によそよそしくなったり、必要以上に気を使いすぎたりしてしまう傾向にあります。 そういう、思想だけは立派な人々に比べれば、私のように、事実を事実として認識したほうが外人とはうまく自然体でやっていけます。 そういうのは欧米人は自然体で上手い。

さて、外人と単なるトモダチとして付き合っていれば、軋轢はあまりありませんが、仕事のパートナーとして、あるいは部下として使うとなると頭を抱えるようなシチュエーションがいろいろと出てきますな。 

ここでは、日本企業でよくありそうなケースとして、東南アジアに進出してローカルを採用した場合。 

とにかく、現地人の能力が極めて低い。 単に仕事上のスキルが低いというだけではなく、約束を守らないとか、プライドが高くて嘘をつくとか、すぐに辞めるとか、会社の備品を盗むとか、もう、マトモな日本人なら気が狂いそうなほど程度が悪いのが普通です。

私は工科大学院卒レベルのフィリピン人やインドネシア人と仕事をしていましたが、それでも日本人の、良くて5割、だいたい3割程度のパーフォーマンスと認識していました。 その道20年のベテランだったフィリピン人エンジニアは、入社5年目の日本人社員とほぼ同等のポジションで活躍しておりましたな。 

現地ローカルを使うにあたって、失敗する典型例は、日本人に近いパーフォーマンスを期待する、あるいは、鍛え上げようとする場合です。

そんなの無理。

所詮、日本人の10分の1の賃金で使っているんだから、パーフォーマンスも10分の1で当たり前、日本人の3割程度で御の字、、くらいに考えていた方が精神衛生によろしい。 

「どうせ、こいつらはバカだから、日本人と同じ仕事させてもできね~よな」くらいに考えていた方が上手くいきます。
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