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ぼやき大爆発
世捨て旅行者の雑記帳
尊師の履歴書33
(さらばアフリカ、次はアメリカだ!)

1979年7月に入る前後に、2度目の観光ビザの延長の滞在期限の1カ月を使い切ったので、私はやむを得ずアフリカの大地ケニアの首都ナイロビから飛行機で飛び立ち、空路でパキスタン・インドを経由してタイのバンコクに向かった。

それはタンザニアのモシからナイロビに戻ってから連続して7カ月も滞在していたことになるが、やむを得ない気持ちであったのは「持ち金が4千ドルちかく」 もあったので、もっと滞在したかったのだ、黒人女ともっと遊びたかったからである。

送ってくれる者も、同行者もいなかったが、空港を飛び立つときに「いつかアフリカの大地に戻ってくる」 と誓っていた。
黒人女に未練があったのではなく、アフリカを一周できなかった事、キリマンジャロ登頂に失敗したので、それを何としても果たしたかったのだ。

4千ドル(約80万円) ものお金がありながら帰国するのには理由があった。

次の旅行地は南北アメリカと決めていた。
それが、アメリカのニューヨークにある日本レストランで働いて旅費を稼ぎ、ナイロビにやって来た日本人旅行者から・・・・・・「ニューヨークにある日本レストランで仕事をすれば日本の2~3倍は稼げる。  あなたはすし職人なので、直ぐに仕事が探せ、それも高給が取れること間違いなし」  と教えてくれたのであった。

私は31歳になっていて、確かにすし職人であったが・・・・・・≪中学生のときに「人生これ暇つぶし」と不貞腐れ「どうせ暇をつぶすなら面白い外国の方が良さそう」と決め・・・・・・高校を卒業したときに「いずれ、世界一周を自転車で10年ほど掛けて行う」 と決めていたのだが・・・・・・その為には「サラリーマンになるより、手に職を付けておいた方が好い」 ということで「すし職人の見習い」 になったのであった≫・・・・・・そういう私にとって「すし職人として生きていく」 という気持ちはさらさらなく、「ニューヨークで旅費を稼ぐ」 ということは「打って付け」であり「渡りに船」 であった。

ニューヨークで働くためにはアメリカに渡る必要があったが、そのためにはアメリカのビザが必要であった。 それで、ナイロビにあるアメリカ大使館に赴いてビザの申請をすると、面接で係官に断られ「あなたは日本人なので、日本で取りなさい」 と言われてしまったのであった。
因みに、その当時では、日本人は国内でも、国外でもアメリカのビザの取得するのは、色々な理由があって非常に厳しく、難しかった。  そのために、凄く遠回りする感じで、アメリカのビザの取得だけのためにわざわざ帰国する必要があったのだ。

先に記せば、ナイロビに7カ月滞在していたのだが、その時に何十人もの日本人バックパッカーと巡り合い、友達になった。
その中で「アメリカに渡ってニューヨークで働いた」 という者は、私を含めて少なくとも7人いた。  また、ニューヨークで実際に働くと、前述した日本より2~3倍稼げ、預金額なら数倍に達していたであろう。

そのように2倍以上も稼げた主な理由は「為替のマジック」 と言えた。
1980年の為替レートは1ドル250円前後であったが、物価の感覚では1ドル100円・・・・・・月収は約1600ドルで約40万円・・・・・・日本での私のすし職人の月給は約18万円であったからである。 つまり、アメリカ物価は日本の約2.5倍であったが、給料も2.5倍であったのだ。
そういう理由で私は日本への帰国の途に就いたのであった。

その胸中の頭の中では地球儀が回っていて、次の旅先地南北アメリカが明るく照らし出されていた。

そこには中南米のラテンの一糸纏わぬ女の群れが乱舞し、旅の目的はそれを腹一杯に満たすことが中心になってしまっていた。 それを満たすには、ニューヨークで旅費を稼ぐ必要があったのだ。

旅行スタイルはバックパッカーであり、加えて、旅先地は「後進国」 と呼ばれている物価の安い国ばかりなので移動費・宿泊費・食費などの旅費の額は知れている。
その額は国や時期によって異なるが、月当りにすると1979年当時では・・・・・・インドは物価が安かったので100ドル(2万円)もあれば十分であったが、タイなどの東南アジアなら150ドルもあれば十分であった。

けれど、旅先での娼婦を買い求める金額が半端ではない。  バンコク・ナイロビ・中南米なら半分以上に達していたであろう。 私は中南米を陸路で1981年7月から1年間かけて回ったのだが、準備した旅費は1万3千ドルで約340万円。使った金額は、ブラジルのサンパウロからニューヨーク経由でタイのバンコクまでの1千ドルのチケットを含めて、1万ドル(260万円)であった。  その中で女代(ホテル代・バー代を含む)のために5千ドルほど消えていったであろう。  殆どがオールナイトであったが、娼婦を買った回数なんて覚えていないが200回ほどか。

単にニューヨークを起点として、中南米を陸路でくまなく回るだけなら4~6カ月もあれば十分で、費用はその当時で2500ドルもあれば事足りたであろう。  それが、女遊びをしていたので1年間を必要し、使ったお金も9千ドルになっていた。

そうではあったが、ニューヨークでの約1年間での稼ぎでなく、預金高は2万ドルであったので、別にこれといったこともなかった。
まさに、バブルであり成金趣味であった。

もし、中南米をバックパッカーとして陸路でくまなく回る観光だけであったなら、正直なところ「つまらない旅」 となってしまうであろう。

実際に、日本から直接に中南米にやって来た男性のバックパッカーは、ニューヨーク組と比べて旅費が少ないので・・・・・・それは日本を旅立つ際に、念頭に「娼婦と遊びまくる」)というのがなかったので、旅先地で娼婦と遊びたくても遊べない・・・・・・加えて、旅先地ではニューヨーク組が連日の如く女遊びをしているので「指をくえているだけ」となって惨めさを味わうことになってしまうので・・・・・・どうしても「つまらない旅」 となってしまう者が少なくなかった。
そういう人の中で「リベンジ(雪辱戦)とニューヨークに行き、そこにある日本レストランで旅費を稼いだ後に、中南米に旅立ち、そこで女遊びに耽る」 という者が少なからず居たのだ。

そのように、バンコク・ナイロビ・中南米に長く滞在していると、旅費というより、女代が高くついてしまうが故に・・・・・・私は娼婦を買えないなり、女を買っても面白くないインド・ヒマラヤ・中国・アフリカの僻地などの物価の安い諸国を陸路で旅行するようにしていたのだ。

打ち出の小槌を持っているなり、お金が腐るほどあり、ビザの滞在期限が無かったなら、色町であるタイのバンコクやブラジルのサンパウロやケニアのナイロビや韓国やカンボジアのプノンペンに飽きるまで居つづけるであろう。
でも、それはあくまでも希望であって、多くの人にとっては「したくても出来ない」 というのが実情であろう・・・・・・飽きるなり、心身が持たないのだ。

多くの著書に「人は価値観を見つけ出す動物」「存在価値を見出さないと不安になる動物」「物語を必要とする動物」 などと記述されているが・・・・・・要は孤独に弱く、さびしがり屋なので、人に認めてもらいたいのだ・・・・・・「何カ月も、何年も同じところに留まって、仕事もせずに連日の如く娼家や女が屯しているバーに出向いて、女を買いセックスをする」 ということに、価値観を見つけるのは極めて難しいであろう。

そのように実践している日本人旅行者の「娼婦遊び」の目的は・・・・・好奇心を満たすなり、人生なり、旅先地での一時の暇つぶしであり、日本・社会・仕事からの逃避行であり、娯楽であり、いやしであり、話題作りであり、記念であったが・・・・・・殆どの者は「苦行」とは口にしなかったが「お勤め(読経なので義務)」 と本音を吐いていたのだ。
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